ホーム・メイド

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「春香ちゃん、それじゃあわたし、失礼するわね」  給茶室のドアを開けて、小鳥さんが声をかけてくれた。 「あっはい、お疲れさまでしたっ」 「ごめんなさいね、なにかお手伝いしてあげたいんだけど」 「いえっ、いいんですよ。プロデューサーさんたちが帰ってくるまでの時間つぶし ですし……あ、そんな言い方しちゃダメですよね、すみません」  定時どころか6時も回ってるのに、なぜか私が謝られてしまう。一方私も正当な 理由があって残ってるとは言い切れないので、なんだか不思議なゴメンナサイ大会 になってしまった。それでも手の方は動きっぱなしで、ボウルの中身をぐるぐる 混ぜている。  バターが15グラム、お砂糖が30グラム、お塩は隠し味にひとつまみ。  ふるっておいた茶色い粉は薄力粉100グラムに、ベーキングパウダーとシナモンが 小さじ半分、ナツメグとクローブは香りづけ。  練って溶かして粉を入れて、ショウガの絞り汁が大さじ1杯。  ほんとはあまり混ぜ過ぎてはいけないんだけど、ついつい力が入ってしまう。 「……いい匂い。春香ちゃんが作ると、どうしてこんなにおいしそうになるの かしら」 「ありがとうございます小鳥さん。いっぱい焼いておきますから、明日にでも 食べてくださいね」 「楽しみにしておくわ。だけど気なんか使わなくていいわよ?プロデューサーさんは たぶん、夜食代わりに食べると思うし」 「食べてくれるのは嬉しいですけど、ご飯はご飯でちゃんととって欲しいなあ」 「本人に言うことね、春香ちゃん」 「ですよねー。たはは」  部屋を出て行く小鳥さんに、ドアを開けておいて下さいってお願いした。 電話はこの部屋でも鳴るけど、締め切ってしまうと入り口のドアが開く音は 聞こえないから。 「お客さんは来ないでしょうけど、千早ちゃんとプロデューサーさんはインターホン 鳴らさないと思いますから」 「それもそうね」 「千早ちゃんってね、おっかしいんですよ。ショウガ、あまり得意じゃないのに このクッキー大好きなんです」 「ほんと?」 「顔しかめながら食べるんですよ、匂いをかいだだけでくしゃみするし。 はじめは私が焼くの失敗したんじゃないかって焦ったくらい!」 「ふふっ、見たかったな、その顔」 「じゃ、あとでこっそり写メっちゃいましょうか?」 「あらだめよ、『氷の歌姫』の変顔なんか流出したら大変だわ」  バカなお話でまたまた盛り上がる。小鳥さんは帰りづらいのだろうけど、今日は 用事があるって聞いた。 「小鳥さん、約束あったんじゃないですか?」 「え?わ、いけない、時間」 「頑張ってくださいねっ!」 「なにをよー!」 「だってさっき、初恋の人と会うとか」 「違いますー!同窓会です、ただの!」 「あれ?」  なんて言って、とうとうさようならになった。 「じゃあ春香ちゃん、あんまり遅くならないでね。戸締まりはプロデューサーさんに まかせて、なるべく早く帰ること」 「はい、大丈夫です。千早ちゃんが戻ったら一緒に帰るつもりですから」 「春香ちゃん」 「はい?」  小鳥さんが、最後に一言。 「よろしくお願い、ね」  その視線に、私も精一杯の力で応える。 「はいっ!」  今日は千早ちゃんのオーディションの日だった。  混ぜ終わった生地を麺棒で薄く延ばして、クッキー型を用意する。冷蔵庫で 1時間くらい寝かせてから焼くとサクサクの軽いクッキーができるけれど、今日は こねたらすぐ焼いてしっとり水分の残る歯ごたえを目指すことにした。型も 大ぶりの人形型、童話に出てくるジンジャーマン。  オーブンも150℃の低めでじっくり。赤く火照るのぞき窓から中を見つめて 20分……もう少しかな。  自分用に淹れておいた紅茶のカップを両手で抱えて、椅子に腰かけた。 千早ちゃん、あんまりヘコんでなきゃいいけど。  ……オーディション、ダメだったって、小鳥さんから聞いてた。 プロデューサーさんが、帰る前に連絡をくれていたのだ。 『春香の焼いたお菓子を食べているとね』  千早ちゃんの言葉が思い出される。 『なんだか、小さなことがどうでも良くなるの。レッスンの出来が満足できない とか、学校のテストが上手くいかなかったとか』 『ほんと?えへへ、なら嬉しいな』 『こういうのが家庭の味わい、みたいなことなのかしら』  その時は二人で笑いあって終わったけれど、後になってあれって思った。 千早ちゃんの家では、なかったのかなって。  テーブルの上の携帯、今の待ち受けは、この間プロデューサーさんに撮って もらった千早ちゃんとのツーショット。  家に帰ってお母さんに見せたら、まるで仲のいい姉妹みたいねって言って くれて、嬉しかった……千早ちゃんのほうがお姉さんに見えるって言われたのは ちょっとショックだったけど。  あんまり詳しく聞けない、千早ちゃんの家のこと。でも、そのことは実は関係なくて。  私が、千早ちゃんと仲良くしたくて。  私が、千早ちゃんを元気づけたくて。  私が、千早ちゃんに笑顔になって欲しいから、私は今日もこうやって事務所で お留守番してる。  お節介って思われるかな。『人が落ち込んでるっていうのに春香、あなたは まるでわかってないわ』とか言われたりして。  でも、それでもいいかなって。千早ちゃんにだったら、言われてもいいやって思う。  私はそういうのけっこう平気だし、それに……なんとなく千早ちゃんはそういう 文句も、思う通りに言えてないんじゃって思ったことがあったから。  不満でも不安でも、それから愚痴でもくしゃみでも、千早ちゃんの吐き出せる ものはなんでも受け止めて、そうしていつか千早ちゃんの心に隙間ができる日が 来たら。  その時そこに、私がいられたらな、って。  ……ピ、ピ、ピ。  タイマーが0になって、クッキーが焼きあがった。オーブンの扉を開けてみると 事務所中に、お砂糖とショウガの合わさった甘くてスパイシーな香りが立ち込める。 うん、うまくできたみたい。 「ただい……くちゅんっ」  まるで狙い済ましたかのような可愛らしいくしゃみが、到着の合図。  できたてのクッキーをお皿に移して、私は、 「おかえり、千早ちゃん!」  おっきな笑顔を作って、待ち人を出迎えに行った。 おわり

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