Cryin'

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春香が765プロに来なくなってもう数日になる。 最初の1日目は無断欠勤だったが、次の日に御両親からしばらく休むと連絡があったそうだ。 大きなライブを終えたばかりで他に大きな仕事も無く、仕事に穴を空ける事が無かったのは不幸中の幸いと言っていいだろう。 とは言っても、765プロの皆は私も含めて誰もがその原因を知っていた。 一言で言えば失恋したのだ。 日頃の態度を見ていれば彼女が自分の担当プロデューサーにどんな感情を持っているかは容易に想像がついたし、 周囲もいつ気持ちを伝えるのかと微笑ましく見守っているような側面さえあった。 春香もドームでのライブという大きなイベントを成功させた後は最高のタイミングだと思ったのだろう。 そうして告白をして、その想いが受け入れられる事は無かった。 ただ、それだけの話。 春香が来なくなってもプロデューサーは何事も無いかのように自分の業務を続けている。 これはあの2人だけの問題で、他人が口を挟める事ではない。 告白を断ったからといって誰も彼を責める事は出来ない。 プロデューサーの方はそれでもいいが、春香の方は流石に何日も音沙汰が無いと心配になって来る。 そんな事を話していたら、何故か、私が春香の家に向かう事になった。 そもそも会ったとして何を話せばいいのだろう。 電車に長い時間揺られて、駅から更に春香の家までの道のりを徒歩で進む。 彼女の家には既に連絡を入れてある。 最初は携帯にかけたが半ば予想していた通りに春香は出なかったから、 家の方に電話をして彼女の母親にこれから行く旨を伝えた。 春香はこの道をいつも自転車で通っているらしいが私の手元に自転車は無い。 必然的に歩く事になるけれど、かえってその時間が今の私には丁度よかった。 春香の足跡を辿りながら考える。 いつも春香はどんな気持ちでこの道を通っているのだろう。 自分の想いが受け入れられなかったあの日、何を思いながらこの道を通ったのだろう。 結論の出ない考え事をしながら足を動かしているうちにいつの間にか春香の家へと着いてしまった。 ごく普通の郊外の一軒家。 インターホンを鳴らすと春香の母親が出迎えてくれた。 どこかの顔のパーツが似ているというよりも、全体的に纏う雰囲気のようなものが似ている。 やはり親子なんだな。そんなどうでもいい事を考えながら後を付いて行く。 事情は察しているのか言葉少なに春香の部屋へと案内された後、ドアをノックをして呼びかけると、ノソノソと人の動く気配がして春香が部屋から出てきた。 泣いた後なのか眼は赤く髪もボサボサで、照れ隠しなのか曖昧な笑顔を浮かべていたけれどそれ以外はいつもの春香だったので少し安心した。 部屋の中に入ると薦められるままに私は椅子に座り、春香はベッドの縁に腰掛ける。 「千早ちゃんがここに来たのってやっぱり……」 「そうね。様子を見てきてと頼まれたから」 失恋のショックは大きいでしょうしと声には出さずに胸の中で呟く。 そんな事には気づかずに申し訳無さそうにこちらを覗き込みながら更に尋ねてくる。 「皆心配してた?……よね」 「無断欠勤なんて初めての事だったでしょう? 皆気にしてたわよ」 そんな風にして最初のうちは傷を避けるように、触れないようにぎこちなく他愛の無い話をした。 しばらく経った頃、春香は意を決したように大きく深呼吸をして語り始める。 「んーと……私ね、プロデューサーさんの事が好きだった」 「春香……凄く言いづらいんだけど、それは皆知ってたわ」 え? とこちらを見つめる目に話の腰を折ってしまったかと少しだけ罪悪感が浮かんでくるが、言ってしまった事はどうしようもない。 「じゃあ私が休んでる理由も」 「プロデューサーは何も言わないけど、皆大体察しているわね」 「そっか……皆知ってたんだ……」 ははは……と力なく笑ってベッドに倒れこむ。枕に顔を埋めたまま言葉を吐き出していく。 「私ね、告白してフラれた時もう全部どうでもいいやってなっちゃって、家に帰ってきてからずーっと眠り続けてこのまま何もせずに死んじゃってもいいやって思ったの」 その言葉に私は身を固くする。けれどその後に続いた言葉は、 「でも、やっぱりダメだった」 そういって自嘲気味に笑う。 「お腹は空くし、トイレには行かなきゃならないし、お風呂にも入ってないから髪もベタベタだし、 続きが気になるマンガだってあるし、いつも買ってる雑誌の今月号買って無いし、 そんな事考えたらやっぱり死ぬなんて出来ないなって思った」 特別なんて何も無いあまりにも普通の理由。 けれどその普通の積み重ねで人は生きている。 春香も、見知らぬ誰かも、私も。 言いたい事は言い切ったのか、春香は口を閉じて部屋の中には沈黙が横たわる。 どんな言葉をかければいいのかわからない。こんな時はもう少し口が回ればいいのにといつも後悔する。 何も言わないままの私達を夕日が紅く染めている。 少しだけ続いた無言の後、重くなってきた空気を散らすように少しだけわざとらしい声音で 「千早ちゃん、一つお願いしていい?」 と聞いてきたので、 「私に出来る事ならね」 と返す。その言葉を聞いた春香はにへら、と相好を崩して、 「一緒にお風呂入ろ。そして私の髪洗って?」 私は大きな溜息を1つついて数秒前の自分を呪いながら、その要求を渋々ながら受け入れる事にした。 いつもであれば即座に跳ね除けるような願い事でも聞いてしまったのは、 やはり心の何処かに傷ついているのだろうから優しくしようという心理が働いていたのだろう。 2人で入ってもまだ少し余裕があるお風呂場に感心しながら春香の頭にお湯をかけていく。 積もった数日分の汚れは一度洗う程度で落ちきるはずも無く、 シャンプー3回にトリートメント2回、更にドライヤーを当てながら椿油を吹いてようやく春香の髪は普段の調子を取り戻した……と思う。 他人の髪を洗うなんて始めての事だったから上手く出来たかはわからない。 それでも、髪を乾かしている時は随分とさっぱりした顔をしていたのだからそれなりに良く出来たと言ってもいいだろう。 その後、お風呂に入ったんだしせっかくだからと勧められるまま食事も御馳走になり、 気がつけば電車の時刻も過ぎ去ってしまった事に気づいたが後の祭りで、結局そのまま泊まることになってしまった。 寝巻きであったり、布団であったり、翌朝の用意であったり、私が泊まるための準備を進める春香と彼女の母親。 互いに気遣いながらも遠慮の無いその姿は絵に描いたように暖かい家族そのもので、思わず自分の境遇に重ねてしまい少しだけ胸が痛んだが、それは今思うべき事では無いとその痛みに気づかないふりをした。 目覚ましをセットして、春香は自分のベッドに、私は床にしかれた布団に横になる。 明かりは消したが、隣ではまだ起きている気配がする。 一日中何もせずに家の中でゴロゴロしていたから当然といえば当然だけど。 「千早ちゃん」 「何?」 「有難う」 何かお礼を言われるような事をしただろうか。心当たりが無いのでそれを素直に口にする。 「私は何もしてないわよ」 「ううん。私の話を聞いてくれた」 「それだけじゃない」 「違うよ。聞いてくれる、受け止めてくれる人がいるっていうのは大事な事だもん」 視線を交わす事なく、私達の言葉だけが暗闇と月明かりの混じる部屋の中に響く。 「正直、やっぱりまだ悲しいしプロデューサーさんとどんな顔をして会えばいいのかもわからないけど、 でももう大丈夫だから。いっぱい泣いたらまた笑えるようになるから。だから、ありがとう」 ああ、きっともう私達の前ではこの事で春香が泣く事は無いだろう。 そんな確信があったから、安心して私の意識は眠りに落ちていった。 翌朝、仕事や電車の時間の都合もあるからと早くに春香の家を出る。 見送りに玄関まで出てきた春香に眠たげな様子は見えなかったのを少々意外に思ったが、 考えてみれば今から私が乗る電車にいつも乗っているのだから当たり前の事だった。 「次は事務所で会いましょう」 「うん」 そんな約束を交わして歩き出そうと背を向けた私の背中に、なんでもないように春香が声をかけてくる。 「そういえば、千早ちゃんは自分のプロデューサーさんとはそういうのは無いの?」 昨日色々と吐き出したからだろうか、随分と立ち直りが早いなと少し呆れながら自分の担当プロデューサーの顔を思い浮かべる。 そうして、 「少なくとも恋愛感情は無いわね」 と切り捨てた。けれど春香はまだ納得出来なさそうな顔をしていたのでもう少しだけ言葉を探して、 「うまくは言えないけど、私達の関係に名前をつけるのならそれは戦友とか相棒とか、そんな言葉が相応しいのだとと思う」 とだけ言って私は駅に向かって歩き出した。 来る時は何を話せばいいのか迷っていた道のりも、今は足取りが軽い。 朝靄の中、まだ人通りの少ない道を歩きながら想う。 きっと、私の姿が見えなくなったらまた春香は泣くのだろう。 そうやって泣いて、そして次に私達の前に現れる時はまたあの能天気な笑顔を見せてくれる。 その時が来るのはそう遠くない。そんな予感がある。 深く息を吸う。朝の清冽な空気が肺を通過して体の中を循環する。 周囲の迷惑にならない程度の控えめな音量で、いつしか私の声はハミングを奏でていた。 いつか、私もあんな風に誰かを強く想う時が来るのだろうか。 まだその時を心待ちに出来るほどではないけれど、いつかは私にもその時が来るのだと、その事実を認められる程度には自分も変わってきているのだろう。 765の皆と出会う前ならばそんなことはありえないと拒絶していたであろう事を素直に受け入れられる程度には。 どんな人間であっても、どんな形であっても人は変わっていく。 願わくば、その変化が良いものでありますように。 願わくば、その変化を良いものにする事が出来ますように。 ほんの少しだけ、ハミングを奏でる私の声が大きくなった。

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