メイプル・フレーバー

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 事務所の給茶室、安いテーブルの上に置かれた細長い瓶。持ち主の 気持ちを無視できるのなら、このような場所には瓶も中身も似つかわしくない、 危険なものだとはっきり言える。  だが俺は、そんな第一印象と無縁の賞賛を口にした。 「へえ、これは綺麗だ。初めて見ましたよ」 「日本では販売代理店も少ないそうなんです。最近は通販もありますけど」 「これでウイスキーですか。瓶の形だけ見ていたら、メイプルシロップか蜂蜜 だと思い込みそうだ」 「私も時々そう思います」  そう、これは酒だ。  テーブルの向こう側でそう微笑む彼女、高垣楓はこの酒の持ち主であり、 俺の担当タレントの一人である。  同世代でありながら俺よりはるかに大人びて見える彼女に、俺は初対面の 時からずっと敬語で接していた。 「しかし、いいんですか。楓さんにとっても貴重ものなのでは?」 「いいんです。今日は特別ですから」  90cm角のテーブルの向こう側で、楓さんは楽しそうに微笑んだ。 「まあ、いいバトルだった……と言ったら頑張ってくれたみんなに悪いですが、 正直そう思いました」 「まさにこの瓶は、いいバトルだった記念のボトルというわけです」 「さほどかかってません、楓さん」  親交の深い事務所とライブバトルを行なった。営業的にも双方に満足のいく 成果だったし、我が事務所にとっては勝利を収めたことがさらに喜びを重ねて くれる。  さっきまでのライバルたちと意気投合し、カラオケで打ち上げだとはしゃぐ 年少組を現地解散させて、一人で事務所に戻ろうとしたところで彼女に呼び止め られた。こっそり祝勝会、しませんか?と。 「特別と言うのは、今日という記念日に勝てたからですか?」  そうたずねてみると、おやという表情をする。 「誕生日ですよね。おめでとうございます」 「あら。プロデューサーって、なんでもお見通しなんですね」 「いやいや、アイドルのプロフィールくらいは押さえてますよ、いくらなんでも」  まだまだ駆け出しのプロデューサーとしては大したこともできず、精一杯奮発 したスカーフを差し出した。ラッピングを開け、笑顔をほころばせながら食器棚へ 向かい、ショットグラス代わりにと小ぶりのコップを二つ取り出す。 「ありがとうございます。でもこの年齢だともうあまり嬉しくないです」 「いくつになっても記念日は記念日ですよ」 「このウイスキーもいちばん初めは、二十歳の誕生日にいただいたんです。『カエデ』 つながりだ、って」  カナダで作られているというメイプルウイスキー。よく見るダルマ型ではなく 細身のストレート瓶で、中の琥珀色もかなり淡い。 「今年が5本目ですか?」 「お上手ですね」  封を切り、グラスに細く注ぎ入れる様はまさに蜂蜜のようだ。二つのグラスに 酒を満たし、その片方をこちらへ滑らせる。どちらからともなく杯を持ち上げ、 かちりと鳴らした。 「……甘い」 「おいしいでしょう?」  この酒は、日本の法律では厳密にはウイスキーには当たらない。フレーバーで 味付けされているため、カクテルの色味づけや製菓材料と同列なのだ。まあ なるほど、女性好みの飲み口であると言えよう。 「牛乳で割ってもいいんですよ」 「カルーアみたいなもんですか。しかしこの口当たりは危険だな、飲みすぎて しまいそうだ」 「普通のウイスキーほどではないですけど、30度ありますからね」 「……まるで、楓さんのようですね」 「?」  小首をかしげてこちらを見つめる瞳に、幾分減ったボトルを掲げた。 「透き通るようなおもかげに、甘くすべらかな口当たり。しかして深く味わえば、 夜明けとともに大いなる悔やみを抱いて目を覚ます」  まるで口説いているようだ、と自分でも思ったが、徹夜がちの脳味噌に糖分 多めのアルコールが悪さをしたに違いない。何を言い始めたか、という表情で こちらを見つめていた顔が、不意に真っ赤になった。 「……え」 「ああ、しまった」  長風呂でものぼせない、と豪語していた白い肌に朱を注した失策を悔いた。 これは、ちょっとやりすぎだろう。 「いけない、久しぶりのいい酒で舌が回りすぎました」 「ぷ、プロデューサー……」 「気に障りましたか?ですよね、すみません。まったく、俺ときたらつい 調子に――」 「あの」 「――はい?」 「あの」  彼女はテーブルの向こう側で、小さなグラスを抱きしめるようにしてこちらを 上目遣いで見つめている。その赤い唇が動くのが判ったが、声が小さくて よくわからない。 「どうしました」 「い、今の、って」 「今の?」 「私を」  そこまで聞き取り、埒が明かないと判断した。テーブルを回って近づき、 あらためて謝罪しようと顔を近づけた、……その時。 「んっ」 「んむ?」  両肩に手を回された。力をかけられ、彼女の体がぐっと伸び上がるのを感じた。  次の瞬間、キス、されていた。 「か!楓さんっ?」  慌てて顔を引き、問いただそうとする。が、彼女の顔が俺に追いすがる。首を 強くかき抱かれ、たまらず腰を屈めた。 「楓さん?な、何を」 「我慢、できないです。そんなこと、言われたら」 「が……我慢?」 「言うまいと、決めていたのに」  胸元に顔をうずめた彼女は、か細い声でそう呟いた。甘いメイプルのフレーバー に混じって、彼女の香りが鼻腔をくすぐった。 「プロデューサーは……プロデューサーですから、私たちみんなのプロデューサー なのですから、私がこんな……っ」 「か……」 「こんなこと、思ってはいけないのに」  嗚咽をこらえてか、途切れ途切れになされる打ち明けは、確かに。  確かに、プロデューサーとタレントの関係では決して許されるべきでない ものだった。  それでも、彼女はそれを……言ってはならない一言を口にしようとしている。  それがわかった時、俺はそれを止めねばならないのだと思った。 「プロデューサー……私は、あなたのことを」 「楓……さん」 「好――」 「いや、か、楓ッ!」 「――っ」  宙をかいていた両手を彼女の胴に回し、力いっぱい抱き締める。小さく吐息を 漏らし戸惑う表情を俺に向ける。その唇を……俺から、キスで塞いだ。 「ん……ん、んんっ」 「っむ……っ、う、ん」  彼女の可憐な桜花、ふたひらの唇をむさぼるように覆い、強く吸った。彼女が 言おうとした言葉を俺の肺に閉じ込められるものなら、そう念じながら彼女の 口を、舌を、息を封じ続けた。  そんな激情の中ぼんやりと、このままでは彼女が呼吸できないことに思い 当たり、そっと唇を離す。 「ん……は、ぁ、っ……はあ、っ、プ」 「楓」 「プロ……デューサー」  荒く吐息をつきながら、すこし潤んだ目を上げて、彼女が俺に問いかける。 「今、の」 「楓……俺は、楓が、好きだ」  女性から、タレントから、アイドルの身分で、彼女が誰かに恋を打ち明ける ことは許されない。  しかし一介の芸能プロデューサーであれば。 「いつの間にだったか、楓のことをタレントとして見ていられなくなっていた。 ファンに笑顔や、握手をふるまう姿に嫉妬していた」  バラエティ番組や写真集での水着姿。スポーツイベントで弾ける肌の汗。仕事 とは言え、いや、仕事であってさえファン全員に本心からの感謝をささげる彼女を、 俺はいつの間にか独り占めしたい欲求に駆られていた。 「今まで、必死でそれを押し殺して仕事をしていたが……もう耐えられなかった」 「プロデューサー」 「すまない。俺はプロデューサー失格だ」  こんな場面ですら俺がしているのは自己弁護だ。彼女の不適切な言動を押し とどめながら、それでも自分の保身をも図らずにはおれない。  彼女とともにいたい、そのためだけに。 「プロデューサー。プロデューサー」  俺に呼び掛ける声で我に返った。 「それでは、こうしましょう」 「え……」  す、と腕の中から身を抜いて、俺の手を両手でとって見つめてくる。長身の彼女と あまり背の高くない俺、至近で並ぶとなんとか体裁が保てる程度の差しかない。 「私の言葉を遮ったのは、私がアイドルだからですか?」 「え?ええ、そうです」 「ありがとうございます。誰も見ていない場所でも心構えを忘れてはならない ということですね」 「俺と違って、状況にかかわらず大勢に見つめられる立場です。安心できる場所で あればなおさら、用心するチャンスですから」 「よくわかりました。明日から肝に命じますね」 「……明日」  明日から、と彼女が言い、見えなかった会話の着地点が見えた。 「ですから今日のうちだけは、私の想いを……いえ、あなたの想いを、遂げては いただけませんか」 「楓……さん」 「プロデューサー」  とん、とその身を再び俺の胸に預け、目を閉じる。 「もう、呼び捨ててはくれないのですか?」 「……楓っ!」  俺はその細身の体を、力一杯抱き締めた。  たとえ翌朝消えてなくなる夢であっても、今このひとときだけは逃すまい、と。  ****  翌日は別の事務所とのライブバトルを予定していた。現地集合となった会場前で、 昨日と同じスーツ姿の俺を皆がからかった。 「すみませんプロデューサー」  それをかばったのが、彼女だ。 「私を励ましてくれて、プロデューサーだけ終電を逃しちゃったんですよね。 だから、みんなも笑わないであげて?」 「い、いやまあ、そのまま仕事してたもんで。ちゃんと中は変えてるから大丈夫 ですよ、楓さん」 「あっ、昨日の約束!」  どきっ、とする。 「私のことオバサン扱いしないって約束しましたよね?プロデューサー」  なにごとなのだと興味津々の少女たちに、立て板に水で説明する。 「みんなのことは呼び捨てなのに、私だけさん付けなのはプロデューサーにも 遠慮があるからだ、って言ったじゃありませんか」  ……と、いう約束をしたのだ。今日からまたアイドルとプロデューサーに戻る について、彼女からのひとつだけのおねだりだった。 「あ、ああ、そうでした」 「ほらまた!みんなと同じように私にも敬語は禁止です。ちゃんとリーダーシップを とってくれないと」  ゆっくり俺に指を差し、片目をつぶった。 「めっ、ですよ」 「……わ、わかったよ……か、楓」  きゃあっ、とアイドルたちのはしゃぎ声が大きくなる中、思った。翌朝俺に もたらされたものが後悔でこそなかったが、……。  あのメイプルの香りは、やはり危険なものだったのだ、と。 おわり

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