Anytime Anywhere

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ところどころクラックの入った壁に手をつきながら電灯の切れた中月明かりだけを頼りに階段を上る。 突き当たりの耳障りな音を立てる立て付けの悪い金属性のドアを開いて屋上へ出る。 緩やかな夜の風が頬を撫でる。 遠くから街の雑踏が聞こえてくる。 周りに同じ様な高さの建物が建ち並ぶ雑居ビルの屋上からの風景を見おろす。 街の生きている気配をフィルタ一枚隔てて感じられるようなこの距離が好きだった。 フェンスに体重を預け胸ポケットから煙草とライターと携帯灰皿を取り出す。 火をつけて紫煙を深く肺の中に行き渡らせる。 たかだか煙草一本吸うためにわざわざここまで出てこなければならないが、未成年の集団であるアイドル達に気を使うのは当然の事だから別段苦にはならない。 むしろ一人だけの時間、静かな時間、何も考えない時間、そういった物は何かと賑やかな日常の中では貴重でもある。 最早屋上への移動も含めて気分転換のための儀式にもなりかけていた。 (ありえない話だが)仮に事務所に喫煙コーナーが出来たとしても自分はここへ来る事を選択するだろう。 頭の中を空にして何をするでもなく夜空を見上げる。 揺らめいて消えて行く煙の行方を見つめる。 徐々に短くなっていく煙草のチリチリと焼ける音を聞く。 タールとニコチンが僅かずつ舌を麻痺させていく。 さほど遠くない所から聞こえるヘリの音で意識が現実に引き戻される。 無駄とは知りつつも試しに探してみるが当然ヘリの姿は見えない。 そういえば今日はこの近くで人気グループの生中継をしているんだったか。 恐らくはそのために駆り出されたであろうヘリのローター音を聞きながらそんな事を思い出す。 軋んだ音を立てて背後のドアが開く。 誰かと確認するよりも早く不機嫌である事を隠そうともしない声が耳を打つ。 「ここに居たのね」 振り向くと声の主である黒川千秋が想像通り不機嫌そうな顔をして立っていた。 元々つり目で人によっては少々キツめの印象を与える顔立ちだが今は一段と目つきが険しくなっている。風になびく長い黒髪と相まって中々の迫力だ。 こちらが何をしているのか一目瞭然のようで、 「またそんな物吸ってる」 と咎めるように言ってくるがこちらとしても毎度の事なのでさして気にする事もなく、 「あんまりホタル族を苛めてくれるなよ。一日に一本程度なんだから多めに見てくれても良いじゃないか」 と返す。 世間では何故か煙草を吸っている=ヘビィスモーカのイメージが強いが自分は今言ったように一日一本で十分だし、毎日必ず吸うわけでもないから大体一月で一箱程度が大体の消費量だった。 それにマナーは守っているし少なくとも他人の居る場所で吸った事は無いのだから咎められるいわれは無いと思うのだが。 「今日の仕事はどうだった?」 ともあれあまり続けたい話でもないので話題を切り替えることにする。 今日の彼女の仕事はPVの撮影だったはずだ。 尤も彼女の曲ではなく別のアーティストの物だったし、少し流し見た程度だが企画書に書かれていた衣装は中々に扇情的な格好だったはずでそのあたりが少し気になっていた。 「あまり長い間着ていたい衣装でもなかったから一発で終わらせてやったわ」 「さよですか」 なんとも頼もしい台詞である。 このやりとりでわかるように自分は黒川千秋の担当プロデューサーではない。 ただ同じ事務所である以上それなりに挨拶ぐらいはする訳で、そんなこんなを繰り返していたらこんな感じに軽口を叩き合う程度の仲にはなっていた。 ふと、ちょっとした悪戯心が働いた。指に挟んだ煙草を軽く持ち上げて聞いてみる。 「吸ってみるか?」 「正気?」 本気を通り越して正気ときたか。 「いや、おまえさんも二十歳なんだし法律上は何も問題無いぞ」 「遠慮しておくわ。体の害にしかならない物をわざわざ摂りたくないもの」 「年とってからハマると後々抜け出すのが大変だぞ。どんなに酷い物か実際に知っておいても損は無いと思うがね」 「未来永劫そんな予定は無いから無用な心遣いよ」 「いやいや、反動かは知らんが経験上吸わないって頑なに言ってた奴ほど後々危ないんだよ。お前さんもそうならない保障はどこにも無いだろう?」 「……そんなに言うならさっさと寄越しなさい」 自分から持ちかけた話でこんな事を考えるのはかなりアレであるという自覚はあるのだがどうしても言わせて欲しい。 プライドが高いのは結構だが少しそのあたりを突いただけでこうも簡単に乗せられてしまうのはいささか問題ではなかろうか。 くすんだワインレッドのパッケージから真っ白の煙草を一本取り出して千秋に渡す。 個人的には昔のグラデーションが綺麗だった頃の方が好きだったが、それはまあ関係無い事だろう。 「フィルタの方、そう、そっちを咥えて」 火をつけるためにライターを取りだそうとして止める。 代わりに短くなった自分の煙草を近づける。 「息を吸って。空気を通さないと火がつかない」 先端同士を触れ合わせる。 相手の息づかいを感じる。 すぐ近くにお互いの顔がある。 一筋の髪が落ちて目にかかる。 千秋は真っ直ぐにこちらを見据えたまま瞬きもせず目を逸らさない。 端から見ればまるでキスをしているようにも見えるだろうか。 今この瞬間を上空のヘリが撮ってくれないだろうかと一瞬だけ考える。 どうでもいいことだ。 火が灯る。 同時にこちらの火が消える。 「いきなり肺に入れるとむせる。最初は口の中に含む程度でいい」 煙草の先端の小さな明かりが呼吸に合わせて明滅する。 一呼吸置いて紫煙を吐き出す。 そんな姿でも品を感じるのは育ちの良さ故か。こちらの勝手な思いこみか。 千秋は己の吐き出した紫煙が消える様を見届けてから僅かに眉をしかめて、 「酷い味ね。返すわ」 一息吸っただけで長く残った煙草をこちらに手渡す。 「確かに貴方の言う通り何事も経験ね。少なくともこれからの人生で二度と吸う事は無いと確信出来たもの」 「そう言って貰えるならまあまあかな」 「まあまあ、ね」 胡散臭い物を見るような視線が突き刺さってくる。 しかしこの残った煙草をどうしたものか。 火を付けたばかりで捨ててしまうのはいささか勿体無いような気もする。 しばし黙考した後に、たまには余分に吸うのも悪くは無いだろうと再び口に咥える。 それを見た千秋の目が凶悪と言っていいレベルに細められる。 慣れていない者ならこの視線だけで腰を抜かすかもしれないとかそういう次元の話だ。 思わず寒気を感じて背筋がゾクゾクしてくる。 てっきりダース単位の文句ぐらいは言われるかと身構えていたが、こちらの予想に反して何も言わずに踵を返して走り去っていった。 凄まじい音を立てて閉まる扉と、階段を駆け下りる乱暴な靴音が暫く耳に残り消えていく。 静寂の戻った屋上で一人煙草をふかす。 夜空を見上げる。 ヘリの赤い確認灯が視界の端に写る。 眼を閉じる。 瞼の裏の暗闇に黒川千秋の残像が残って、消えた。

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