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「二つの距離」(2011/08/10 (水) 00:04:46) の最新版変更点
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瞳に焼きついたのは――。
流れ行く人の波。街頭の四角い窓から流れる流行のメロディ。
誰の心を映したのか――空は蒼く。今にも降り出しそうな雨は誰のモノなのか――。
俺は探していた。朝も夜ともつかない曖昧な世界で、ただその姿を。
見えない線に導かれる様に、その姿を雑踏の中に見つける。
揺れるトレードマークのリボン。笑顔の彼女と――
知らない男の笑顔。
二つ並んで、消えて行く――。
呼吸が止まる。視界が壊れて、その破片が体を刺したのか、斬りつけられた様に体が痛む。
痛む――悲鳴を出し、泣き出しそうなくらい痛いのに、どうしてか、何処が痛むのか分からない。
それで楽になる訳でも無いが、俺は膝と手を地べたについた。
麻痺、というより消失。感覚が無い。粒が濡らし濃くなった地面の点で、自分が泣いている事を知る。
内から広がる空の渦が、悪い夢だと憑き物を洗い落とすように存在を無に染める。
「これは……なんなんだ……」
天を仰ぐ。すると、隣に誰かが立っていて、自分を見ている事に気付く。こんなに近い距離なのに、その気配をまったく感じられなかった。
涙で曲線だらけの視界でも、それははっきりと在って、美の輝きを放っていた。確認の必要も無く、それは今をときめくトップアイドル、星井美希だった。
情けない姿を見られた。しかし、恥よりも強く安堵。
サングラスをして何故か全身をハードボイルドにコーディネートした美希は、表情を見せずにこう言った。
「プロデューサーさん……これは“恋”なの――」
「うわはぁッ!?」
ロケットのように覚醒した意識が初めに見せたのは、見慣れた部屋の無機質な白い壁。
左胸の鼓動が速い。手にはじんわりと汗。レースのカーテンからはやわらかな日差しと小鳥の歌う声。
ベッドの横に置いた牛乳パックを模したアナログの時計を見ると、朝の五時。
昨日は就寝時間が遅かったというのに――目覚ましより早く起きるなんて久方ぶりだ。
「ひどい夢を見た……」
上半身だけを飛び起こして起床だなんて、自分は漫画かドラマの登場人物か、と声に出さず吐き捨てる。
そのままややブラックなメンタルの勢いでベッドから離脱する。こんな時は、うんと苦い珈琲が飲みたい。
仕事に行きたくない――そう思う事は幾度もあった。今日の自分もそうだ。
けれど過去、その理由は大概自分の精神的甘さ、未熟さから来る欲動で、今の自分とはちょっと違う。
こんなケースは未体験で、その原因を探ってみると――。
「くそ……やっぱり昨日のアレだ……。そして、夢の中の……ああ!」
さっきまで見てた夢を鮮明に覚えている。夢なんていつでも、透明で形が無い。そして知らずうちに忘れる――だから夢――なのに、なんでだろう。
まぁどうでもいいやと、答え探しを止めて洗面をする。
迷走する思考を止める刺激が欲しい。昨日の記憶も一緒に消え落ちればいいのにと、蛇口から出る冷たい水に虚しい願いをちょっぴりかけて。
そして、どうしてそんな事ばかり思うのかって考えて、その答え探しも止めて――。
「おはよう諸君! 今日の流行は――」
恒例の社長の挨拶。どこかの組の事務所のようだったおんぼろビルの時も、都心に社を構えた今も、変わる事の無い社長のありがたいお言葉。
それを右から左に聞き流し、俺は自分のデスクでお茶を飲む。もう何杯目だろうか、仕事なんて手につかず、体を動かしたいためだけに、お茶を飲み干しては用も無くトイレへ行く。
「おはようプロデューサーさぁ~ん……あふぅ」
また寝不足なのか、ふらふらとおぼつかない足取りも舞踊に見える天賦の才を披露しながら美希がやってくる。
春香より先に来るなんて珍しい。いつもは一緒か、遅れてくるのが常のおやすみ姫が――これは何かの予兆か。
腕時計を見ると、時刻は彼女達の出勤時間より十分ほど進んでいた。何の事は無い。やっぱり美希は遅刻じゃないか。
が、同時にもう一つの事実。遅刻の美希が居て、春香が居ない――つまり、春香も遅刻。
「連絡は無いよな……渋滞か、バスに乗り遅れたのかな」
「ゆうべはおたのしみでした……かもしれないの」
美希の時代を感じさせるジョーク。いや、まるで笑えない。今の俺は。
「君は、いったいどこでそんな事を覚えてくるんだね……っ?」
「ふにゅぅ。いにゃいよぉ~ッ!」
お仕置きに、美希の両頬を軽く引っ張る。担当アイドルの顔に悪戯なんて、他のプロデューサーは絶対にしないだろう。
「……プロデューサー、明らかにどうよう、してるの。だから美希にいじわるするの。もっとしっかりして欲しいの……!」
「ぬぅ……」
指を離してやると、艶やかな金の髪をふりふりさせて、美希は俺の抱える悩み、急所を付いて来た。
「悪かったよ……。で、昨日も聞いたとけどさ、美希はどう思ってるんだ?」
「相手の人、演技も上手くて同性からの人気も高いし、ぴっかぴかで、マイナスなイメージにはならなうと思うの」
ぴっかぴかってのは美希の感性、固有の言い回しか。
美希のプロデューサーであるし、それなりに付き合いもあるから、以心伝心、なんとなく美希の言いたい事は分かる。
「じゃぁつまり、美希的にはOK……て事?」
「うん。今後の活動に大きな支障は無いと思うな」
予兆は見られた。
それは傾向となって意識に刻まれた。
そして昨日、現実となって俺の前に現れる。
全ては、仕事をこなす事に忙殺され彼女を見ていなかった俺の責任。
けれど――それを知るのが後でも前でも、俺はどうしただろうか。どうすればいいのか。
この不思議な感情はただの戸惑い――そてとも驚愕か。
「そうてんのへきれき……」
「なんだ突然。数少ない知識を披露したくなったのか? 難しい言葉なんて使って」
「むぅ。美希の事は褒めてくれないの」と、口をすぼめる美希。そんな仕草が可愛くて好きだからわざどそう接してたりするんだが、分かってくれてんのかな。
まぁ確かに美希の言うとおり、今俺はプロデューサー業始めて以来の試練――的な物にぶち当たってる。
「……あのさ、事務所――ていうか俺が二人を引き裂いたら、美希は俺の事、どう思う……?」
星井美希と天海春香。
この二人をユニットとしてプロデュースし、彼女達の才能と弛まぬ努力によって、彼女達はアイドルとして、俺はプロデューサーとして、周囲に認められた。
全ては順風満帆だった。すくなくとも俺は、そういう風にしか見えていなかった。大局的に見れば、今だってその風の中なのかもしれない。
相手は人気絶頂の若手実力派俳優。スキャンダルも無い“ぴっかぴか”で社長や同僚に相談しても、否定的な意見はまず出ないだろう。
「プロデューサーは今試されてる……気がするの。美希が選んで欲しい方は、ちょっぴり切なくて、選んで欲しく無い方は、本当は嬉しい……だから、複雑、かな」
「あ? なんだ、よく分からないぞ。もちっとはっきりとだな――」
どんがらがっしゃーん。
「きゃぁ!? ご、ごめんなさいごめんなさい!! 私ったらそそっかしくて――」
事務所の入り口の方から、騒々しい物音と、何べんも聞いた台詞がセットで耳に入る。
春香――。
昨日、春香の誕生日を祝うという主旨で、美希も含め、三人で食事に行く約束をしていた。
だが当日、時間になって、春香からまさかのドタキャンを喰らう。後入れで入った“友達”との約束をどうしても断りきれない、と。
予約もしてしまったし、俺は仕方なく美希と二人で店で食事をした。
その帰り道、無粋な神様が俺に見せてくれた光景は、今朝の夢と重なる――。
因果応報。つまづかないで走って来た俺は、彼女達を自分の言う事を聞く商売道具と心の隅で思い始めていたのかも知れない。
それは違う。思いあがり。寒気がする傲慢だと、悪戯な神が教えてくれたのだ。分かってたはずのそんな単純な事も、浴びるライトの眩しさで見失ったのか。
自分の愚かさを映す鏡として春香は選ばれてしまった。そんな気がして、自分を責め立てる。美化し過ぎた自意識。
今日の俺は変だ。理由らしい理由なら用意出来る。けどそれだけか――
また、答え探し――。
よっぽどその問題を解くのが俺は嫌なのか、今日一日、俺は逃げ続けた。何事も無く振舞って、全てから。明日はオフ。俺は、とんだチキンだ――。
そんな俺を見る、美希の初めて見る表情に宿した二つの瞳の意味だけを考えて過ごした。
元々つかみどころの無い――あるにはあるけれど、つるつる滑る――性格の、彼女のあどけない顔が不安定に揺れて、枝から落ちる果実のようで――まぶたの裏に、強く記憶されている。
身を溶かすほど熱いシャワーを浴びて部屋に戻ると、携帯が着信を知らせて青く光っていた。
ほんの一秒でも外の世界と自分を隔てたい気分の俺は携帯を手に取るのを躊躇うも、社会人生活数年で培われた大人としての最低限の責任か、観念してディスプレイを開く。
『メール着信 星井美希』
電話でなくメール――相手は予想外の人物だったが、それはそれで読むのが怖かった。
何しろ、仕事の関係上登録はしているが、春香と違って、メールを送って来るなんて事が今まで一度も無かった奴だ。
それが突然。
そして、今日の俺のカッコワルイ姿。自分でも分かってる。だからメールの内容はおおよそ察しがつく。
自分は一体何にこれほど怯えているのか。
面倒な事になりそうだから? 汚れ役が回って来たから?
考えて、またやめる。このメールも、見るのは明日の夜でいい。
明日はバッティングセンターでも行こうか。友と飲み明かすのもいい。
――が。美希の眼に、今日の俺はどう映ったのだろうか――。
頭から離れない二つの瞳。それにはどんな感情が秘められているのか。この事を乗り切れば、教えてくれるだろうか。
安っぽい手遅れのプライドが、俺を動かしてくれた。はぁとかふぅとかため息を吐きながら、俺は美希からの初めてのメールを読んだ。
次の朝、俺は先ず、昨日の自分を後悔する事から始めた。次に部屋の掃除、整理整頓、仕事も無いのに髪型も決めて“プロデューサー”っぽくオシャレに。
そうです。アイドルだけじゃなく、僕達にもイメージ戦略はあるんです。アイドル達のイメージを傷つけない程度に。
そうして簡単な朝食をすまし、リビングに座布団を二人分敷く。ニュースを見ながらそわそわして過ごすと、時刻はもうじき朝の十時。そろそろ彼女が来る時間。
それにしても、担当アイドル――それも年頃の女の子――を男の一人住まいに呼び出すなんて、ひどい。俺は馬鹿か。
部屋に貼り付けた時計が時を知らせるメロディを奏でるのと同時に、家のチャイムが鳴る。
「ぃ……やあ。お、おはよう」
「お、おはようございます。プロデューサー」
ぎこちない挨拶を交わして――
春香が家にやってきた。
「わ、悪いね、休みの日に呼び出したりして」
何処で春香と話をしたらいいか思案した後、どうやら昨日の俺は自宅がベストだと判断したらしい。今日の俺は、異議異論あれどそれに従うのみ。
「いえいえ! わたしも、プロデューサーさんとこうしてゆっくりお話したいな、ってずっと思ってましたし……あ、わたし、御昼ご飯作って来たんです。よかったら一緒に、って……」
「そ、そう言ってくれると助かる。春香の手料理、久しぶりだし……め、めちゃくちゃ嬉しいぞ」
おかしい――。
何かがおかしい。
昨日の俺のシュミレーションだと、ここは、例えるなら、子供の悪い点数のテストを見つけた親が説教をする、という感じなのだが。
春香は変に構えた――男性の家に上がるという部分ではあるが――様子も無く、いつも以上にハツラツとしている。ホントに楽しそうだ。それとも、そうして触れられたくない話をそらす作戦なのか。
いや、春香はそんな打算計算をするコじゃ――ああ、俺は何を信じればいい。
自分の珈琲と春香にミルクティーを淹れて、テーブル越しに座して春香と正面から向き合う。
「えぇ~~……と……あの、今日呼んだのはさ……春香、何か悩み……といいますか、俺に言う事――チガウ、そ、相談とか……ありませんか……?」
どっちが子供だかわからないほどハッキリしない言い方で、話を切り出す。緊張で、無意味に敬語になる。
春香は二つの大きな瞳をぱちぱち見開きした後、
「ど――どうして分かるんですか!?」
やはり――か。
しかし、相変わらず予想の斜め上を行く反応をする春香に俺は戸惑う。これじゃ、悪いテストを見つけられて喜んでる子供だ。
それでも言うべき事を言い、昨日から描いたシナリオ通りに事を運ぶ。
「いいんだ春香。俺は、春香の気持ちを尊重する――責任は、全部俺が持つ。他の誰を敵に回しても、俺は春香の味方だ。だから、本当の事を話してくれ」
「あ、はい……。実は、半年前に共演した映画の主演の男優さんから、その、しつこくアプローチされてまして……あはは。わたしなんかのどこがいいんですかね?
――でも、とても熱心で良い方だし、デ、デートの誘いとかも、断り難くて、困ってるんです。一昨日の件も、本当にすみませんでした!!」
あれ。
百八十度回る世界。
崩壊するシナリオ。
だが、まだ早い。もしかしてもしかしたら、これは春香渾身の芝居かもしれない。なにせ、春香は女優経験者。演技のスキルだって――。
「その話……本当?」
「はい。何度かプロデューサーさんに相談しようと思ったんですけど、余計な心配増やしちゃいけないと思って……美希には相談したんですけど」
訪れる虚脱感。全てが大げさな独り相撲。Pバカかもだけど、こんな健気な春香が、顔色一つ変えず嘘をつけるコな訳がないのだ。パラレル世界ではあるかもしれないけど。
春香に一人で悩みを抱えさせてしまうほど自分は頼りないプロデューサーで、信頼と理解の足りなさが、間抜けな俺までプロデュースして。
この数日で、いったいどれほど自分の事を情けないと思ったか。今日の事態を招いたのは、己の無力。そして“はやとちり”か。
どうして春香の事を勘違いして、はやとちりに陥ったのか――今ならハッキリと解る。答えは昨日気付いた。気付かせてもらった。
ふと、申し訳無さそうに、捨てられた子犬のようにしょ気る春香に、果ての無い愛しさが込み上げて来る。
「あのさ、春香。このタイミングで言うのもなんだけど……俺さ、たぶん春香の事、特別に思ってる。言っちゃいけない事だと思うけど、今……抑えられそうにないんだ。今日呼んだのはさ、それも伝えたくて……俺、春香が――」
すんでまで出かけて、脳の記憶装置が先ほどから何かをリピートして訴えている事に気付く。
何を――
『美希には相談したんですけど』
『美希には相談したんですけど』
『美希には相談したんですけど』
「――美希に相談した!?」
「へ、えぇ!?」
顔を赤く染めながら、何かを期待する目で俺を見ていた春香も、いきなりのキラーパスに拍子抜けの声をあげる。
「お邪魔しますなの~」
と、ある意味神の意表を突く完璧なタイミングで登場する美希。玄関の鍵、閉め忘れたのだろうか。
「おおお、美希! 何しに来たとか、どうやって入ったとか、そんなのはどうでもいい。お前、知ってたな……!?」
「あふぅ。朝からうるさいの。メールの返事が無いから、無視されたと思って直接乗り込んで来たんだけど……美希、お邪魔?」
人差し指を頬にツンと当てて、状況を見渡す美希。流石のぷりちーさだが、今はそれに騙されてやらない。
「俺の質問に答えろぉぉ!!」
「クンクン……おにぎりの匂いがするの」
「あ、わたし色々作って来たんだけど、美希も一緒に食べる? 人数が多い方が楽しいですし、一昨日はわたし、参加出来なかったから、その分も含めて――いいですよね、プロデューサー?」
さっきまで乙女の顔だった春香も、いつの間にかいつもの“明るく元気な春香”に戻っていた。さっきのは幻?
「なんだこの展開……そ、ソウテイガイです。……因果律が……乱れた!?」
「……可哀想なプロデューサーはほっといて、お昼にするの!」
リビングの中央で所在無く立ち呆ける俺をよそに、アイドル二人は食卓の花を咲かせる。しばらくそれを見守って、俺もそれに加わる。色々と不完全燃焼だけど、今はこれでいい――
これがいい。
メールの返事は来なかった。
もともと期待してなかったけど。
きっと二人はうまく行く。
羨みとか、悔やみは不思議と感じない。
きっと、この感情がそれほど育ってなかったから。
でも、胸がきゅんと痛い。
人の恋をアシストして終わった初恋。
ちょっとかっこいいかも、なんて笑顔になってみる。
勇気を出して送ったメールはずっととっておく。
ちくちくと切なくなっても、忘れたくない、等身大の私がここに居るから。
素敵なものではないけれど、甘酸っぱい大切な思い出。
素直じゃないその文面。
ストレートなのに、変化球。
彼はいつか分かってくれるのかな。
この恋は、それだけで満足。
だから、涙も流さない。
失恋さえも無難にこなす自分の器用さが今はちょっとキライかな。
一人になった帰り道、それを空に放ってみた。
『好きだって気持ちに気付いて』
澄み渡っていた空は、夜、私の代わりに泣いてくれた。