俺的千早

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「こういうイベント、懐かしいですね。如何でしたかプロデューサー。私、あのデパートでの  仕事の時より、上手く笑えていましたか?」 「はは、そうだな」  肩越しに、見上げるように視線を投げよこす千早の表情をみて、俺は言葉を選ぶ。帰り支度 を終えて、ドラムバッグに詰めこまれたステージの余韻が、千早の肩とストラップの間から漏 れ出していた。その自信ありげな空気を嗅いで、俺は、ちょっとからかってみたくなった。 「うん、まるでダメだった」 「ええっ。ど、どうダメだったのでしょう?」  俺の言葉面とはまったく逆の笑顔をみて、千早は目を白黒させている。意表を突かれた、と いう顔に俺は安心した。良かった。テンションは完全に復調したな。次のオーディションは万 全の状態で臨めそうだ。 「上手いか下手かの評価で、だよ。今日の千早は、心から笑っていたからな。笑顔を作る技術  については零点。仕事の評価なら満点だ。聴く人を元気にする、最高の笑顔だったよ」 「も、もう! 紛らわしい言い方しないでください。でも、ありがとうございます。ふふっ、  確かに今日は楽しく歌えました。アニメの主題歌も悪くないですね。あの子達にとっては、  私の歌も大好きなアニメの一部であり、切り離せないもので……とにかく、大好きなんだっ  て気持ちが、ひしひしと伝わってきました」 「そうだな。聴く人があっての歌だ……おや? あれは……」  夕焼け空を見上げ、涙目で鼻をすする男の子と、しゃがんでそれを宥める母親らしき女性。 視線を追った先には、茜色の雲の間を往く空色の丸いものがひとつ。さっきの風船だ。 「……手を離しちゃったんだな」  男の子には見覚えがあった。歌の時に、一番前の列ではしゃぎすぎて、帽子が飛んじゃった 子だ。ちょうど2番サビを歌いきった千早が、ステージに落ちたそれを拾ってスタッフに渡し、 男の子に手を振ると、真っ赤になって手を振り返してしたのが印象に残っている。 「あの、プロデューサー。風船の予備は、ないのでしょうか」 「あるはずだけど……。機材はもう、あらかた撤収が終わってる。今からは流石に」 「そうですか……」 「ほら、あきらめて帰ろ。晩御飯、ハンバーグにしてあげるから」 「だって、だって、アスコルタの、ふうせん」  施設の運営事務所によって挨拶してから帰るつもりで、ここを通ったが……。このまま知ら ぬ顔で、泣き止まない彼の脇を抜けるのは(俺は良くても)千早に拙い。 「千早、ちょっと俺、スタッフに頼んでボンベと風船だけ――って、おい、千早?」 「あの……さきほどの帽子の子、ですよね」 「あっ!? は、はい。ほらユウタ、千早ちゃんだよ」  風船を取りに行く間、話しかけて待たせてくれ、そう頼むつもりだったが、俺は何かにつら れるように、千早を追っていた。しまったな。 「千早、お姉ちゃん。ぐすっ、さっきは、ありがとう、ござい、ました」 「……私こそ、ありがとう。あんなに楽しく聴いてくれて嬉しかった。それに、風船も……。  そんなに泣くほど、大事にしてくれたのね」  千早、それはダメだ。惜しい気持ちが強くなるだけで。 「うん。でも、あすこるた、の、ふうせん、飛んでっ……うっ、たっ」 「あの、ありがとうございました。ユウタ。男の子でしょ。アスコルタみたいに、笑おう?」  大粒の涙が、ぽろぽろと落ちて、彼の運動靴の間に染みを作る。それを迎えるように千早が しゃがむ。ひざを突いたその背中から、今まで見たことのないオーラが出ていた。……なんだ ろう、これは。母親のような、いや、違う。こんな千早は、はじめてだ。 「ほら。風船じゃないけれど、お姉ちゃんのをあげるから。もう泣かないで」 「……! アスコルタだ!!」  あー。今朝渡した、食玩のおまけのサンプル。発売前は、あんまり、よくないんだけど。 「そんな! ダメです、いただけません! ユウタ、だめだよ」 「いいんです。これも宣伝の一環ですから。私は、ユウタ君みたいなファンに貰ってほしいん  です」 「うん。お母さん、遠慮なさらずにどうぞ。ユウタくんも、欲しいだろ?」  しかたない。これで千早のテンションが維持できるなら、安いものだ。俺のせいにしとけば バレても何とかできる。 「……」 「ユウタ?」  おや? 泣きやんだけれど、これは……ユウタくん? 「千早お姉ちゃん、ありがと。でも、いい。がまんする」 「えっ?」 「だって、アスコルタが、男はがまんして強くなるって、せんしゅう言ってた」 「ユウタ君」 「ぼく泣かないから、千早お姉ちゃんも泣かないで」 「……っ!?」  泣いている気配はなかった。  けど、千早は笑顔のまま、涙を流していた。 「えっ、ち、千早?」 「あ、あの。うん、ごめんね。おかしいね、何でお姉ちゃんまで泣いちゃったんだろ。ふふ」 「おかあさん、かえろ! おなかすいた。ハンバーグがいい!」 「うん、かえろっか。あの、ほんとに有難うございました。応援してます、頑張って下さい」 「はい! ふふっ、じゃあねユウタ君。お姉ちゃん、また歌うから」 「うん、らいしゅうも見るよ。ばいばい!」  事務所での挨拶は、勝手口のところで済ませた。  エンジンをかけ、シートベルトを引っ張りながら、ナイトブルーの空を見上げる。  どこかにまだ、空色の風船が見える気がしたけれど、あるはずもない。 「強い子だったな」 「ええ。いい子でした」 「プロデューサー」 「うん?」 「すみませんでした、このサンプル、まだ発売前のお菓子のおまけ、でしたよね」 「ああ。いや、いいよ。来週には出回るものだしな。それに、千早が言ったとおりだ。あの子  にならあげてもいいと、俺も思ったし」  ふむん。どうやら、大丈夫なようだけど。でも、意外と子供好きなんだな、とは続けられな かった。千早の涙のワケは、それにつながっていると感じたから。 「それと……お話したいことがあります」 「ああ、かまわないよ。なんだ?」 「ここでは、ちょっと。明日、午前中の時間を私にくださいませんか。行きたいところが」 「解った。調整しよう」  強い決意がこめられた声に、俺は気圧されていた。何の話かは明日になれば判る。  今はただ、さっきの千早のオーラを信じよう。  包み込むような、あの優しい千早を。

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