無題97


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「また泊まったんですか?」
「え、ええ」彼はばつが悪そうに、音無小鳥の質問に答えた。クリーニングから帰っ
てきたばかりで、ぴしっと折り目のついたスラックスを穿き、糊の効いたワイシャツ
を無頓着に腕まくりして着ている姿は、いつもの彼そのものだった。起きたばかりと
はいえ、靴下をはかずに素足にスリッパというのが、ずぼらな彼らしくもあった。
 だが、バイタリティ溢れるその見かけとはうらはらに、どこか青年らしさを欠いた
疲労の色があるのを小鳥は感じていた。無理もない。アイドルを数人抱えているにも
かかわらず、この会社には彼しかプロデューサーがいないのだ。若いエネルギーに
だって限界はある。
「会社は宿泊所じゃありませんよ。ちゃんとご自分の部屋へ帰って、きちんと睡眠を
とってください。日中だって、それほど休憩時間があるわけじゃないでしょう。そん
なことをしていると、いつか入院なんてことになっちゃいます」最初は規律を守りな
さい、というようなきびしいものだった小鳥の表情は、だんだんと悲しそうなものに
変わっていた。
「すいません、部屋へ帰る時間が惜しくて、つい…」心配そうな小鳥の顔を見て、さ
すがに悪いと思ったのだろう、彼も神妙な顔つきになった。
「この間なんか、私が出社してきたとき、イスに座って寝てましたよね。あれじゃ体
も痛くなりますし、健康にもよくありません。面倒だとか言わないで、帰れる時はき
ちんと帰ってくださいね。約束ですよ」
 いつもの優しい小鳥の口調に戻って、彼はほっとした。小鳥を悲しませるというこ
とは、彼女のことを秘かに想っている彼にとって、最大級の苦難といっていい。ほっ
として気が緩んだ彼は、小鳥への気持ちを控え目に発言した。
「でも、ここなら朝イチで小鳥さんに起こしてもらえますから」
「もう、何を言ってるんですか」小鳥は怒ったような口調とはうらはらに、うれしそ
うにそわそわした。「自分のおうち、って大事なんですよ。安心して眠れる場所なん
ですから」小鳥は机の上にあった、彼のネクタイを手に取り、結んであげようかどう
しようか迷っているように、小さな輪をくるくるといくつも作った。
「まあ、ホントはそうなのかも知れませんけど。これが帰ったら『おかえりなさい』
とか言ってくれる人でもいれば別ですけどね。帰ったってメシ…ご飯ができてるわけ
でもないですし、時間を節約しようと思ったら、ここにいた方が便利ですし、第一通
勤しなくていいから、気楽といえば気楽ですよ」彼は手を差し出し、小鳥からネクタ
イを受け取ると、しゅるしゅると首に巻いて、器用に細い結び目を作った。
 小鳥は半分冗談のような彼の言葉の中に、一抹のさみしさを見つけた。本当は彼
だって、大切な人が待つ暖かい部屋があったら、会社に泊まったりはしないに違いな
い。疲れた体を癒やしてくれる、自分だけの大事な場所に必ず帰るはず。小鳥は、そ
の待っている人の役を自分がしてあげられたら、と思わずにはいられなかった。だ
が、彼とは単なる会社の同僚でしかない今の自分には、まだその資格はない。それで
も、その暖かさの何分の一かでも彼にあげることができないだろうか…そう小鳥は
思った。彼が仕事へ出かけた後も、彼女はそのことをずっと考えていた。

 小鳥は何日かして、大きめの紙袋を持って出社した。ゆうべも泊まっていたらしい
彼が「おはようございます、小鳥さん。なんです、それ?」とだらしなく頭をぼりぼ
り掻きながら、まだ眠そうな声で訊いた。
「ないしょです」珍しく彼の社泊をとがめず、小鳥は紙袋を後ろ手に持つと、笑顔で
更衣室へ消えた。
 彼がその日のスケジュールを全て消化し、明日の打ち合わせに使う資料を引き取り
にスタジオに寄って、ようやく会社へ戻ってきたのは夜の8時をまわったころだっ
た。今日は残務整理もないし、久しぶりに早く帰って自分の布団で寝ようか…また会
社に泊まったりしたら、小鳥さんに心配かけちゃうだろうし…彼がそんなことを考え
ながらビルを見上げると、会社のフロアにはまだ灯りがついていた。
「…社長が残ってるのかな」そう思いながら、彼は入り口のドアを開けた。中から
「おかえりなさい」と声がした。彼は驚いてその場で固まってしまった。小鳥が事務
服の上からエプロンをかけ、にっこり笑って立っていたからだ。
「こ、小鳥さん…どうしたんです?」
「うふふ、いつもお部屋へ帰らない人のために、ちょっとサービスしてみました」
 たっぷり10秒はかかって、彼は夢から覚めたように、ようやく普段の意識を取り
戻した。同時に、部屋全体にとてもいい匂いが充満しているのに気づいた。
「ご飯の支度、できてますよ」
「え、ご飯?」
「といっても、私が作った料理を持ってきて、ここで暖め直したりしただけですけ
ど」小鳥はそう言って、窓際の机をおおっていた、デパートの包み紙を持ち上げた。
茄子の炒め物、鶏の唐揚げ、ほうれんそうの胡麻和え、コンソメスープ、ピラフ…料
理の盛られた皿が、所狭しと並んでいた。恐らく彼女は前々から社長たちのスケ
ジュールをきちんと把握して、彼が会社に帰ってきても、自分しか残っていないとい
う日を選んだのだろう。彼は、帰社は何時になるのか、と、今日に限って何度も小鳥
に訊かれたことを思い出した。
「どうかしましたか?ご飯まだなんでしょ?…あ、わかった」小鳥は一人で合点をす
ると、コホン、と一つ小さなせきばらいをした。
「お、おかえりなさい、あなた。ご飯にします?お風呂にします?それとも…」
「こ、こ、小鳥さん、それって…」彼ののどは知らずにグイッ、と音を立てたが、小
鳥は平然と言葉を続けた。
「それとも、し、ご、と?」
「え?」
「ふふふ」小鳥は口に右手を当てて照れ笑いをしている。
「そ、そうですよね、そんな、あはははは…」
 二人は照れ隠しにおたがい笑った。
「でも、小鳥さん、ずっと待っててくれてたんですか?」
「え?ええ、ちょっと私も仕事が残っていたので、ついでに…」ついでなんかでは絶
対ないのは明らかだったが、彼は小鳥の優しさに水をささないでおこうと、「そうで
すか」としか言わなかった。

「それより、さめちゃいますよ。一緒に食べましょ」小鳥は彼をイスにかけさせ、箸
を渡した。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
 一口食べた彼は、びっくりして小鳥の顔をじっと見た。「おいしい!こっちもおい
しい!凄いです小鳥さん!」
「そんな、ただの作り置きですから、そんなにいちいち反応しないで、どんどん食べ
てください」
 はい、とうなずいて食べ始めた彼の箸は、最後までただの一瞬も止まらなかった。
「ああ…すごく満足しました…」彼はイスの背もたれに体重を思い切りかけ、声を出
しながら深呼吸した。
「すごおい、全部食べちゃったんですね」二人で食べる分としてはちょっと多かった
かな、と小鳥は思っていたのだが、それでも彼は楽々と食べ切った。彼女が作った料
理を食べ残すなど、彼にとってはありえない話だったのだろう。
「満足って言っても、なんていうか、量とか、そんなんじゃなくて、自分がいつも食
べてたコンビニの弁当って、やっぱり味気ないんだなあ、って今さらながらに思い知
りましたよ」
「コンビニのお弁当は、それはそれで楽しかったりするんですけどね」
「まあ、毎日じゃなければ。あーあ、今日はとっても満足ですけど、明日からはもう
コンビニの弁当が食べられそうにないですよ…」
 それなら、私が毎日…と小鳥は言いかけたが、どうしてもその言葉を口から出せな
かった。
「自分の家があって、待っててくれる人がいれば、こんな幸せが手に入るんですね
…」彼は小鳥を見つめ、胸とお腹を右手で満足そうにさすった。
「あれ、それだと、ご飯のために家庭を持ちたいように聞こえますよ」自分の気持ち
をうまく口にできなかった小鳥は、逆にちょっぴり意地悪をした。
「まさか、そんなんじゃないですよ。ご飯もそうですけど、さっき小鳥さんが『おか
えりなさい』って言ってくれたのが、すごくうれしかったんです」
「私、毎日みんなが会社へ帰ってくるたびに言ってますよ」小鳥は笑った。
「でも、さっきのは、社員が帰ってきた時の『おかえりなさい』じゃなくて、その
…」
「え、ええ、そうですね。そうかもしれませんね」小鳥は自分でその解答を口にする
のが恥ずかしく、言葉をにごした。
 それから小鳥はお茶を淹れ、二人は楽しく話を続けた。小鳥は彼によろこんでもら
うことができて、とても満足していた。胸がぽかぽかと暖かく、自分に話しかけてく
れる、彼の声もいつも以上に心地よかった。彼も、小鳥と二人きりで食事ができて、
まるでここが自分の家だと錯覚しそうなくらい、幸せな気持ちに浸っていた。彼は
『小鳥さん、もう帰らないといけないんじゃないですか』と言わなくてはいけないと
思いながら、その話を避け、小鳥も『明日もお仕事なんですから、今日はちゃんと
帰って自分のベッドでおやすみになって下さい』と言わなければいけないはずなの
に、それができなかった。二人だけで食事をし、二人だけでお茶を飲んで話をする、
そんな時間が訪れるのは、忙しい毎日が続く限り、めったにないのを二人とも判って
いたからだ。彼と小鳥は、あと10分、あと5分と、帰る時間を延ばし延ばしにし、
二人だけの時間を楽しんだ。

 二人はこうやって食事をして話をしているだけで、自分の気持ちが相手に伝われば
いいのに、とおたがい思っていた。もちろん、伝わっていた。会社の同僚に対する親
愛の情としてだけは。彼は小鳥を親切な先輩と思っていたし、小鳥は彼を誰にでも優
しい人だと思っていた。それは彼が入社してからずっと変わっていない。あるいは、
ひょっとしたら、もしかして、相手は自分のことを好きなのでは?二人は今まさにお
互いそう思っていたのだが、どうしてもそれを相手に正面切って確認することができ
なかった。
 本当ならこんなシチュエーションがあれば、好き合っているもの同士の関係が変化
しないわけはないのだが、この二人に限っては、そういうことはなかったし、残念な
がらこれからも恐らくないだろう。相手の親切を自分への好意だと確信することさえ
できず、おたがい口に出せないまま遠慮ばかりしている、どちらかといえば恋愛に臆
病な二人では、いくら好き合っていたとしても、なんとなく同僚として付き合ってい
るうちに、定年退職になってしまう、なんてことにもなりかねない。この二人の仲が
めざましく進展するには、たとえば、車にひかれそうになった小鳥を彼が救って自分
は骨折してしまい、入院先で彼女がずっと看病してくれるとか、階段からころげおち
そうになる小鳥を彼が受けとめ、勢いあまって二人の唇が触れてしまうとか、時なら
ぬ雷に小鳥が驚いて彼に抱きつき、もうキスするまで1、2センチというところまで
顔が近づくとか、そんな神仏の助けみたいなことでもない限り、絶対に――
「あれ?」彼が窓の外を見た。
「どうしました?」
「雨が降ってきましたよ。まいったな、置き傘が一本もない日に限って…」
「あ、それなら私が余分に持ってますから、よろしければお貸ししま…」
 ぴかっ。ばりばりばりばり!
「きゃあっ!」
「こ、小鳥さん?」
 どうやら神様は二人の味方らしい。



end.