hot line


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 アイドルデビューを果たして数ヶ月。三浦あずさが、よく道に迷うというのは、彼女と
親しい者のみならず、一緒に仕事をしたことのある業界の人間なら、誰でも知っている。
だが、彼女の所属する事務所の人間しか知らないこともある。
「あずささん、こっちです」彼女の担当プロデューサーが声をかけると、あずさは迷わず、
どんな場所からでも最短距離で彼のところへたどり着く。フロアが違っていても、部屋を
ひとつ隔てている場合でも、彼の声が聞こえている限り、その効力は変わらない。実に
不思議な現象だ。彼はある日、事務所でミーティングをしている時、そのわけを訊いてみた。
あずさは人さし指を口にあて、少し頭をかしげて考えてから話し始めた。
「あのう、病院の床って、青とか、赤とか、黄色とか、白とか、そういう色の線が
引いていたりしますよね」
「は?え、ええ、大きな病院だと、行き先を間違わないように、病棟ごとにラインで
色分けとかしてますね」彼はあずさがいきなり何の話を始めたのかと、首をひねった。
「プロデューサーさんの声を聞くと、その病院の色の線みたいなものが、ぱっと見えるような
気がするんです」
「線が?」
「はい、それをたどっていくと、プロデューサーさんのいる場所に着けちゃうんです。
不思議ですよねえ」
「うーん、なんかよくわからないんですけど、迷路の正解が床に書かれてるみたいな
感じでしょうか」
「はい、そうですね、そういう感じです」あずさはぱちんと小さく手を打った。「あ、あと、
迷わないように、って小石を道に落としていくお話がありますよね。お菓子の家が出てくる
お話。あんな感じの時もあります。…あれ、小石じゃなく、毛糸の玉を持って迷路に入って
行くんでしたっけ?」説明しているうちに、あずさは知っている話がごちゃまぜになって
しまったらしい。彼は助け船を出した。
「糸玉を持っていくのは、確か怪物退治のために迷宮に入るとかいう話じゃありませんか?」
「あ、なるほど、それだったのかも…。それじゃあ、きっとプロデューサーさんは、
迷路の出口で、そのはじっこを持っていて、私が迷いそうになると、引っぱってくれて
いるのかも知れないですね」
 その話をなんとはなしに聞いていた事務所の人間たちは、『それは飼い主が犬の引き綱を
握っているのと一緒だ』と、いっせいに心の中で思った。ひどい例えだが、確かに見た目は
それに近いかも知れない。「あずささん」「はあい」とたとたとた。「あずささん、こっちです」
「はい、プロデューサーさん」とたとたとた。

 彼もあずさの話を聞いて、なんとなくそういうイメージを持ってしまったのだろう、
苦笑いしていた。ところが、あずさ自身も同じように考えていたらしく、「でも、それって
犬と飼い主みたいですよね」と自分から言ってしまった。犬の散歩が趣味だと公言している
彼女らしい。
「そ、そうですか…」彼の表情はますます妙なものになった。
「うふふ、でもそれはそれで楽しそうです。プロデューサーさんに、いろんなところへ
連れて行ってもらえそうで」あずさは屈託なく笑った。たぶん、彼はあずさにとって、
犬小屋…もとい、家のようなものなのだろう。ともすれば自分の部屋にもたどり着くことの
できない彼女の帰巣本能が、彼に対してだけはきちんと働くのだ。彼女の言う、病院の
色分けされた線というのは、ヘンゼルとグレーテルが森に蒔いた小石のように、夜でも
月の光を受けてぴかぴかと輝く道しるべなのかも知れない。もっとも、その道しるべも、
彼なしでは、森の落ち葉の中に埋没してしまう。

「あら?」あずさはまた迷っていた。ここはテレビ局の中。今日は番組収録のために
プロデューサーと一緒に来ていたのだが、彼はディレクターと打ち合わせがあるといって、
少しの間席をはずすことになった。楽屋で待っていたあずさは、どこからか、きれいな歌声が
かすかに聞こえてきたせいで、つい廊下に出てしまった。案の定、10メートルも歩かない
うちに、彼女はもと来た方向を見失っていた。ところが、迷子になっても、それほど
あわてないのが彼女の長所だ。まだ時間はあるはずだし、方向音痴を治す…いや、改善するには、
いい機会かも知れない、そう思い、彼が戻ってくる前に、楽屋を自分で探してみることにした。
 廊下をゆっくり歩いていると、さっき聞こえてきた、きれいな歌声がまた耳に入ってきた。
閉まり切っていないスタジオのドアをそっと開けてみると、誰もが知っている、有名な歌手が
リハーサルをしているのが見えた。いつか自分もああなることができるのだろうか、とあずさは
思った。一曲歌い終わると、スタッフが一斉に拍手をした。ADの一人が、あなたの歌声は、
聞いているだけで疲れが吹っ飛んでしまいますね、と感心したように言った。言われた彼女は、
ありがとうございます、と謙虚に、しかし自信にあふれた表情で答えた。
 あずさは、そのやりとりを見て、この間「あずささんが笑っているのを見ているだけで、
なんだか疲れが吹き飛ぶようですよ」とプロデューサーが言ったことを思い出した。本当に
そんな効果があるのかどうかはわからないが、彼がよろこんでくれるのなら、こんなにうれしい
ことはない。もともと、自分にとってただ一人の人を見つけるために、いや、見つけてもらう
ために、この世界に飛び込んだはずだったが、いつしか、自分を応援してくれるファンのために
頑張ろうという気持ちも彼女自身の中に生まれていた。

 もちろん、その気持ちは、とても大切にしている。しかし最近では、それに加えて、
プロデューサーのよろこぶ顔が見たい、という気持ちも大きくなっていた。というより、それが
今では彼女の原動力の大部分を占めている。自分の笑顔を見るのが好きだとプロデューサーは
言ってくれるが、自分にとっても、彼の笑顔は体を動かしてくれる、燃料みたいなものかも
知れない、とあずさは思っていた。なぜなら、その笑顔を見るたび、彼女の胸はガソリンを
注がれたエンジンのように熱くなるからだ。
「あれ、あずささんじゃないですか」声をかけられ、あずさが振り向くと、顔見知りの局の
スタッフがいた。「さっき、プロデューサーが向こうで必死に探してましたよ」
 あずさは、自分が今、迷子だということを思い出した。やはりまた彼に心配をかけて
しまったのかと思い、急いで教えてもらった方へ歩き出した。しばらく進むと、階段の
上の方から彼の声が聞こえてきた。
「あずささん!」
「プロデューサーさん、ここです」
 彼の声が聞こえると、あずさはようやく迷いもなく、いつも自分が見ている、あの病院の
ラインに沿って、階段を上がり始めた。
「あずささん、こっちです」彼の声も近づいてくる。
「はい」あずさは返事をしながら、どんどん縮まっていく、階段上のラインを目で追っていた。
ラインは以前二人で話したときのように、犬の引き綱になったり、森に蒔いた小石になったり
して、最後には迷宮で迷わないための糸に変わった。階段を登り終えると、廊下の向こうから、
彼が早足で近づいてきた。ようやく彼に会えたあずさは、心の底からほっとした。彼の方も、
あずさを見つけられて、本当に安心したようだ。
「ごめんなさい…」あずさは彼の前で、申し訳なさそうにうなだれた。
「いいんです、おれが見失ったのがいけなかったんです。それより、収録がもうじきですから、
ちょっと急いでスタジオに行きたいんですが、いいですか?」
 彼が手を差し出した。あずさは「はい」と言って、その手を握った。二人をつなぐ糸の距離は
ゼロになっていた。彼は力強く彼女の手を引いて、ぐんぐん進んでいく。もちろん、あずさが
歩けないようなスピードではない。
 あずさはプロデューサーの手のぬくもりを感じながら、彼が芸能界という迷宮へ紡ぎ出して
くれるその糸を、決して離さないようにしよう、と思った。彼がいつでもその糸の端を持って
いてくれるから、自分も迷わず歩いていける。アイドルの頂点へ登る道も、その糸をたどって
いけば、きっと迷わず進んでいくことができる。それに、どんなに長く伸びても決して強さを
失わないその糸は、きっと真っ赤な色をしているはずなのだから。



end.