ボクノメガミ前編


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 それは、僕が中学2年になって少し経った、初夏の夕方のことだった。
 梅雨入り宣言はまだだったけれど、今日は朝からひどく胡散臭い天気が広がっていた。授業が
終わり、部活もないので帰ろうと校門を出たあたりで空は真っ黒になり、帰り道の半分を小走りで
行き過ぎたところで水を貯め込んだ雨雲がついに決壊した。
 これはいけないと目前まで来ていたショッピングモールに飛び込み、僕はしばらく雨やどりを
することにした。
「うわあ、傘もって来ておけばよかったなあ」
 モールの出入り口、似たような境遇のたくさんの人に紛れて小さく悪態をついた。あんな空模様
だったけど降水確率は10%だったのだ。モールの雑貨店はあわただしく雨傘のワゴンを店先に
並べ始めて、サラリーマンの人が諦めたようにそれを買いに歩き出すけれど、当然僕にはそんな
余裕はない。
 天気予報を信じるなら、この雨はいずれやむ筈だ。にわか雨なら30分くらいだろうし、多少帰りが
遅くなるくらいなら特に支障はない。
 そう決めて改めて暗い空を見上げていると、すぐ隣にピンクのキャミソールが翻った。
「まったく、ついてないわねー。それにしてもアイツ、傘一本にどれだけかかってるのかしら」
 振り向くと、ロングヘアーの女の子が僕と同じように空を見上げているところだった。
 背丈も年格好もクラスの女子と変わらない感じ。ピンクのシャツに同系色のロングスカート、黒と
いうより光を放つような栗色の長い髪を後ろになでつけて、細いリボンで留めている。
 勝ち気そうな瞳、意志のはっきりした眉。可愛らしい鼻筋、花びらのような唇は軽く紅を差している
のだろうか、鮮やかに赤く、つやつやと光る。
 ノースリーブの白い腕に小さなウサギのぬいぐるみを持っている。ウサギはまるでその腕に
しがみついているかのように、彼女が身を揺らすたびにふるふると足を振った。
 待てよ。
 綺麗な子だな、としばらく見とれて、それから僕は気付いた。僕はこの子を、知っている。
「……水瀬伊織?」
「え?」
 僕は思わず彼女の名を口にし、彼女はそれに反応するようにこちらに視線を移した。至近距離で
見る怪訝な表情は間違いない、あの水瀬伊織その人だった。
「うわ、本物――」
「わわっ、しーっ!」
 我を忘れて大声を出しそうになった僕を慌てて制し(僕より声が大きかったけど)、彼女は自分の
唇に人差し指を当てた。
 水瀬伊織。春にデビューした、僕と同い年のアイドル歌手だ。

 ここ数年、芸能界はアイドルのデビューラッシュが続いていた。いくつかの芸能プロダクションが
打ちだした『ユニットプロデュース』という手法も定着してきて、同一人物が別の芸名で再デビュー
するなんて事もザラになり、言わばアイドルの戦国時代とでも表現すべき状況になっている。
 水瀬伊織はそんな中、765プロダクションという事務所からデビューした、まったくの新人アイドルだ。
世間知らずのお嬢さま、というプロフィールで売り出したもののこんなご時世、受身主体のキャラクター
ではなかなか目立つのが困難で、デビューから2ヶ月が経過した現在も知名度はあまり高くないのが
実情だ。……と、これは芸能雑誌の評論の受け売りだけど。
 まあ、正直な話、本当にあんまり売れてない。
 そしてなぜそんなマイナーアイドルを僕が知っているかというと、……僕はそんな彼女の、数少ない
ファンの一人だからだ。それも、『大』のつく。
「ちょっとあんた、場所柄もわきまえずなんて声出すのよ!私のこと知ってるんならそこはもっと
奥ゆかしくつつましく、周りの人にバレないように小声で聞くのがマナーってもんでしょ?」
「ご、ごめん」
「まったくもう、こんなところに超人気アイドルの水瀬伊織ちゃんがいるなんてわかったら、全国1000万人
の私のファンが黙っちゃいないじゃないの」
「……超人気?」
「いきなりこんな雨に降られて、こっちは久しぶりの……じゃなかったタイトなスケジュールの中を無理
やり、仕方なく、断りきれなくて、なんとか入れた仕事が押してていらいらしてるのよ」

「あの」
「なによっ!」
「……みんなが」
 いきなりマシンガンのようにまくし立てられてたじろいでしまい、言葉を出すのが遅くなってしまった。
風で吹き込んでくる雨の霧が頭上で渦巻くようにいきり立つ彼女に、やっとのことでギャラリーを指差す。
「水瀬伊織、って」
「あ、聞いたことある。アイドルの」
「へえ、本物かよ」
「わたし初めて見たー」
「オレも」
 雨宿りで暇をもてあましている人々のど真ん中であの長広舌だ、興味を引かないわけがない。マイナー
とはいえれっきとしたアイドルの降臨に、サラリーマンや大学生が色めき立つ。
「……あらぁ、いっけなぁい」
 さすが芸能人。いきなり十数名の好奇の視線を浴びほんの一瞬躊躇したらしいものの、すぐさま立ち
直って彼女は可愛らしく微笑んだ。
「そろそろ時間ね、行きましょ」
「え」
 一言声を出すのが精一杯で、僕は急に左手をつかまれて引っ張られた。
「ちょ、ちょっと、なに」
「なにじゃないでしょ、早く来なさいったら」
 歩くというより小走りのスピードで、彼女はショッピングモールをどんどん進んでいった。初めこそ
早歩きだったがすぐ全力疾走のスピードとなり、モールの中で道を二度ほど折れて立ち止まる頃には
二人とも肩で息をしていた。
「はあ……大丈夫みたいね」
「いっ、いったいなんなんだよ、急に走ったりして」
 あたりをきょろきょろと見回して小声でつぶやく伊織に、なんとか息を整えて不平を言う。好きな
アイドルに出会えたのは嬉しいが、それと100メートルダッシュは別だ。
「なに言ってんのよ。あのままあそこにいたらパニックになっちゃうでしょ」
 しかし、彼女は悪びれない。
「私だけ脱出したらあんた今ごろもみくちゃよ?助けてあげたんだから感謝しなさいよねっ」
 そもそも大声で自己紹介したのは伊織自身だというのに、僕に恩を売るありさまだ。けれど僕は、
その得意げな笑顔に何も言えなくなってしまった。
「あ、ありがとう」
「ふん、あんたこそよく私だって判ったわね。オーラは消してたつもりなんだけど」
「あ……僕、伊織ちゃんのファンなんだ」
「へ」
「あの、CDも写真集も持ってるしカードも集めてるし、記事が載ってたら雑誌も買ってるし。ファンクラブ
だって、ほら」
 疑われた、と思い、慌てて説明する。喋りながらポケットを探り、定期入れに挟んでいるファンクラブの
会員証を取り出した。会員番号0000007、デビューのニュースをネットで見て、即765プロにアクセス
してゲットした栄光のヒトケタ台だ。
「……あら、あんただったの。7番なんてすごいわね」
 会員証と僕の顔をかわるがわる見つめて、ようやく納得してくれたようだ。にっこりと微笑んでくれた。
「へえ、そうなんだ。ありがと。これからも伊織をよろしくねっ」
「は、はいっ……あ、そう言えば」
 思い出した。彼女はなぜ、こんなところにいるのだろう。
「伊織ちゃん、どうしてここに?」
「ああ。下僕に――」
「……え?」
「――じゃない、私のプロデューサーに、傘を用意してもらっているところなの。今日はこのショッピング
モールでロケなんだけど、最初のシーンが外だから」
 なにかおかしなフレーズを聞いたような気がするが、僕にはその先の話題のほうに興味があった。
「へえ、『ゆーどる』の?」
「あら、観てくれてるの?」
「もちろん」

「ありがと。でも今日は別の番組のレポーター」
「ええっ?新しい番組なの?」
「そうなのよケーブルのバラエティなんてショボ――ちがった、地元に触れ合える番組だから伊織、
大好きなの」
「放送はいつ?僕、ぜったい観るよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。えっとね……」
 携帯のスケジュールに言われた日時とチャンネルを記録しながら、僕の脳の一部が警告を発している。
 ……あれ?
「これもレギュラーになるの?」
「とーぜんじゃない、私を誰だと――え、ええそうなのよ、レポーターは他の子とローテーション
なんだけど、スタジオには毎週出演するのよ」
 ……ええっと。
「すごいなあ、ロケの構成とかも自分で考えるの?オープニングとか最初が肝心だよね?」
「もっちろん!」
「じゃあ伊織ちゃん、オープニングでファンを一人占めにする一言をどうぞ、サン、ニイ、イチ、キュー!」
「『さあ下僕たち、私の前にひれ伏しなさぁいっ!』……って、なに言わせるのよーっ!」
「……うわぁ」
「あ」
 時が止まる。
 いま僕の目の前にいる水瀬伊織は、僕の知っている伊織ちゃんではなかった。
「あ……あの、あのね?」
「い、伊織、ちゃん……」
 僕の知っている伊織ちゃんは、恋する少女の気持ちを歌い上げる可愛らしい女の子で。
 雑誌のインタビューでも楚々としてにこやかに受け答えをするお嬢様で。
 テレビのバラエティで司会者にからかわれても、鈴を鳴らすように可憐に笑ってかわす才媛で。
 こんな、こんな高飛車な発言をするような子じゃない。
「伊織ちゃんって……意外と」
「……『意外と』、なに?」
 思わず口をついて出た言葉に、彼女が食いついた。
「意外と高慢ちきなんだね?意外と女王様気取りなんだね?あんたは私の何を見てたの?可愛らしくて
か弱くておとなしいお嬢様?何を言われても笑ってるお人形?見た目だけで中身のない動くマネキン?」
 開き直った?あの伊織ちゃんが?
「だ、だってテレビじゃ」
「テレビに映るものが全部ホントなんて今どき小学生でも思わないわよ。もしもあんたがそーいう、
『かわいいかわいい伊織ちゃん』のファンだったんだとしたらおあいにくさまね」
「なんだっ……て」
「あんたが好きだった伊織ちゃんはこの世には存在しないって言ってるのよ。まったく、ファンだから
って気を許した私がバカだったわ」
「な……なんだよ」
 今度は僕がカチンとくる番だった。
「なんだよ、勝手なことばかり言って!それじゃなに?テレビや雑誌で出てる、きみの言う『かわいい
かわいい伊織ちゃん』はきみじゃなくって、単にきみが僕らを騙してたって言うの?」
「騙すですって?やめてよね、人聞きの悪い。あれは私のオフィシャルキャラクターなんだから」
「はあ?どう見たって二重人格じゃないか、隠さなきゃならないような本性持っててアイドルでござい
ますなんて、人をバカにするのも程があるだろ?」
「なあんですってぇ?」
「なんだよ」
 その時、僕の脳味噌は二つのことを同時に考えていた。
 ――大事な伊織ちゃんのイメージをめちゃくちゃにして、なんて奴だ。
 ――どうして僕は大ファンのアイドルと口ゲンカをしてるんだ?
 アンバランスはほどなく止められた。僕たちの間に割り込んできた人がいたのだ。
「あーはいはい、ゲリラパフォーマンスは俺の目の届くところでやってくれ、回りの人がびっくりするだろ?」

「……えっ?」
「プロデューサー!」
 背の高い男の人だった。スーツ姿だけどあまりビシッとした感じはしない。伊織は、この人のことを
プロデューサーと呼んだ。
「あんたねえ、一体全体今の今まで何やってたのよ!あんたがぼさっとしてるから私が大変な目に
遭ってたっていうのに」
「わかったからテンション下げろ、『もうその芝居はいいから』」
「あ……そ、そっそうね、ごめんなさい」
 プロデューサーという人は伊織に顔を近づけ、重ねてそう言った。芝居?パフォーマンス?
なんだそれ。
 でも、彼女はそれで納得したみたいだ。急にしおらしくなって、いつもの――テレビ画面の中で
見かける――水瀬伊織に戻った。
「えー、みなさんおさわがせしました。こちらにおりますのは新人アイドルの水瀬伊織です。このあと、
こちらのショッピングモールのレポーターをさせていただきますので今回はご挨拶がてら、現在
手がけているドラマの1シーンをアドリブを交えご覧に入れました次第で」
「はじめましてみなさん、水瀬伊織でーす。まだデビューして少しですけど、頑張りますのでよろしく
おねがいしまーっす!」
 と、二人が息の合った挨拶をするのを聞いて、ようやく僕たちが注目の的になっていたのに思い
当たった。そりゃそうだ、さっきと一緒で周囲はギャラリーに事欠かない。
「ゲリラパフォーマンス?」
「タレントの人だったのか」
「あ、さっきの子だ」
「知ってるよ、頑張ってね」
「なんだ、客寄せかあ」
 さまざまな声が寄せられる中、彼女はそれぞれの声援にありがとうとかよろしくとか、にこやかに
応えている。ぼんやり立ち尽くしてそれを見ていると、不意に首元に大きな手が当てられた。
「きみ、申し訳ないがきみも頭下げてくれ」
「え」
 ぐい、と有無を言わさず強く押され、隣の伊織と同じように僕もお辞儀をする羽目となった。
「えー、間もなく撮影開始です。お時間がある方はぜひ水瀬伊織がこのモールを盛り上げるのに
ご協力願えれば幸いです。ただ、カメラが回っている間はどうかお静かに。放送予定は……」
 プロデューサーはさっき僕が伊織から聞いた放送時間を説明しながら、彼女の背中をぽんぽんと
叩いた。小さくうなずいて伊織がこちらを振り向く。
「楽屋がこっちにあるの。急いで」
「え?こんどは何――」
「いいから来なさいっ!」
 またもや手を引かれ、僕はモールの通路の隅の、そんなものがあるとは知らなかった小さな部屋
へ案内された。

「……で、きみはうっかりNGワードに反応して、つい怒っちゃったと、そういうことか」
「だって」
「だってじゃないだろ。ファンの子に迷惑かけて」
 小部屋の中には小さなテーブルと椅子と、彼女が持ち込んだらしい化粧ケースが置いてあった。
普段は物置とかなにか別の部屋で、今日の撮影のために空き部屋を作ったのだろう。
 プロデューサーはさっきの人の波をどうにかコントロールしたようで、この部屋に入ってきたのは
ついさっきだ。伊織にひとしきり小言を言って、それから僕のほうを見た。
「きみ、すまなかったな。面倒に巻き込んで」
「……いえ」
「きみの名前、事務所で見たことあるよ。『ゆーどる』の放送の日はかならず感想メールくれてるよな。
伊織と二人で、『いいファンがついてくれた』って話してたんだ。伊織、きみからもちゃんと謝るんだ」
「……ごめんなさい。私、ついカーっとなっちゃって」
 プロデューサーと並んでこちらを向き、伊織はイタズラがバレた子供みたいな顔で謝罪した。
だけど、僕のショックは治まらない。

「いいですよ、もう、どうだって」
 吐き捨てるように言ってやった。その言葉に伊織が眉を曇らせる。胸がチクリとした。
「こんな子だって知らないでずっとファンやってた僕がいけなかったんですから」
「んー、ちょっと待った」
 プロデューサーが口を挟む。
「俺は、これからも伊織をよろしくって言おうと思ってるんだけどな?」
「はあ?何言ってるんですか。ずっとファンだって思ってた子に会ったらいきなり食ってかかられて、
全力疾走させられるしあんな悪目立ちするし、僕はひどい目に遭ったって言ってるんですよ?」
 怒りにまかせてとは言え、まさか大人の男の人にこんなこと言えるとは自分でも思ってなかった。
だけど口から出た言葉は勝手にスピードを増してゆく。
「春にデビューのニュース見て、他の誰でもなく伊織ちゃんを可愛いって思って、それからずっと
追いかけてきたのに!ファンクラブにも入って毎週テレビチェックして、ずっと見てきたのにこんな
子だとは知りませんでしたよ!がっかりだ!」
「おおっと」
「もういいですよ。僕帰りますね」
 立ちあがってドアの方に行こうとした時、その背中に声が聞こえた。
「……ちょっとお」
 伊織の声だ。さっき、モールで聞いたのと同じテンションの。
「黙って聞いてりゃ好き勝手言ってくれるじゃない。なにががっかりよ」
「なんだよ。がっかりしたからがっかりって言ったんだぞ」
「あんたの目が節穴だっただけでしょうに!見た目ばっかりに食いついて本当の私になんか見向き
もしないくせに、都合が悪くなると『こんなのとは思わなかった』ですって?こっちこそがっかりよっ!」
「ああもう伊織、やめろってば」
 再び割って入ったプロデューサーを挟み、僕は彼女と睨み合った。
「今日は重ね重ねすまなかった。ごめんな、帰る途中だったんだよな?まったく申し訳ない。見送りは
できないが足元も悪い、気をつけて帰ってくれ」
 僕が手を出すとでも思っているのか、それとも伊織が僕に襲いかからないようにしているのか、
プロデューサーは彼女を隠すみたいにテーブルに乗り出してこう詫びてきた。僕はもう怒る気も
しなくなっていて、大げさに溜息をついて見せ、ドアノブに手をかけた。
「それはどうも。じゃ」
「……ただ、な」
 ノブをひねろうとした手が止まった。彼の声が、とても大切なことを告げているように感じたのだ。
「伊織の言ったことも、ちょっとだけ考えてみてくれ。きみに会えたからこそ、伊織が言った言葉だ。
きみになら聞かせようと思った、彼女なりの言葉なんだ」
 もう一度だけ振り返って伊織を見たけれど、こちらを睨み続けている瞳からは、僕は何も読み取る
ことができなかった。

 その週の土曜日、部活の早朝練習のために学校に向かう途中、通り道の公園で細く高い歌声を聞いた。
「……なんだろ」
 2年になったので本当は必要なかったけれど、僕は1年生の時と同じようにかなり早く家を出ていた。
生活指導の先生もさすがにいない時間帯にコンビニで立ち読みをするのがちょっとした楽しみ
だったし、もはや習慣となっていた芸能雑誌の記事チェックもこうやってこなしていたのだ。
 歌声は公園の端にある野外音楽堂の方から聞こえていた。音楽堂と言えば聞こえはいいけれど
要はコンクリの舞台と客席があるだけの場所で、普段は子供たちがヒーローごっこをするのに
使っているくらいだった。
 そう言えばだいぶ昔、バンドの練習してる人を見たことがあったっけ、などと思い出して横手から
舞台に近づく。初めて聞く歌だったけれど、歌うその声には聞き覚えがあった。
「『……ボクがチカラに なってあげるよ』……うーん、やっぱりもう少し強く出さないと勇気づけてる
感じが出ないわよね。えっと……『ボクがチカラに』……」
 案の定、そこにいたのは水瀬伊織だった。
 僕がどんな顔をして話しかければいいか考え込んでいる間に、彼女の方が人の気配に気付いた
みたい。背中を向けて練習していたのがふいにこちらを振り向き、目が合った。

「きゃっ?」
「わ……や、やあ」
 一瞬ぎょっとしたように身を固くし、相手の顔に思い当たってばつの悪そうな膨れ顔に変わる。
僕はといえば結局なにもできず、間抜けな笑顔で右手を上げた。
「……ぷっ。なによ、ファンやめたんじゃなかったの?」
 自分でもおかしいと思ってるくらいだ、伊織が笑うのも無理はない。彼女は意地の悪そうな
ニヤニヤ顔でこちらに近づいてきた。
「通りかかっただけだよ」
「ふうん、あんたこの辺なの。その荷物、テニス?」
「これから朝練なんだ」
「へえ、スポーツ少年ってワケ」
「別にいいだろ」
「やーね、そんなケンカ腰にならないでよ」
 客席の間に立ち尽くす僕を見下ろしながら、舞台の端で立ち止まる。
「いつかまた会えたら、あらためて謝ろうかしらって思ってたとこなんだから」
 不意に動いた朝の風が、伊織の髪や服を揺らした。ちょうど逆光になる彼女は、光る風に乗って
飛んで行けそうに見えた。
「……その、悪かったと思ってるのよ。よく知らない人から『イメージと違う』とか言われると、つい
頭に血が上っちゃうのよね」
 ああ、そう言えばプロデューサーが『NGワード』って言ってたな。先日のことを思い出していると、
伊織がぺこりと頭を下げた。一瞬遅れて、ロングヘアが波打つ。
「ごめんなさい。ともかく、暴言はよくなかったわ」
 顔を上げて、続ける。
「だけど、あの時言ったことまで間違ってたとは思ってないからね。私は『アイドル・水瀬伊織』って
いうキャラクターでもあるし、一人の『水瀬伊織』でもあるの。両方あって今の私があるんだから、
どっちか片方だけで私を見て欲しくなんかないの。……特に」
 そこまで言って、ふいと視線を外した。
「せっかく私のファンになってくれた人にはね」
「……あの日、さ」
 彼女の言葉で、僕にも言う勇気が湧いた。
「あの日の夜、録画してた『ゆーどる』や、スクラップしてた雑誌、見返したんだ」
 伊織の視線が再びこちらへ帰る。
「まだ二ヶ月だけど、どっぷりハマり込んでたからね、けっこうあったよ」
 口ゲンカで別れて、モールを出た時には雨は上がっていた。しばらくは怒りまかせで歩いていた
けど、家に着く頃には頭は冷えていた。その頭で僕が考えていたのは二つ。
 ――伊織ちゃんがあんな子だとは思わなかった。
 ――僕は本当に、ちゃんと彼女を見ていたんだろうか。
 あの直後にテレビをつける気にはなれず、夕方のアイドルバラエティは録画に任せてその日を
過ごし、あらためて起き出したのは夜中だった。
 『ゆーどる』……『You Gotta Idol!』は月曜から金曜まで毎日、午後6時から放送されている
テレビ番組だ。出演者を変えながら数年続いている人気番組で、伊織はその月曜レギュラーの
一人なのだ。
「録画してたのは月曜だけだけどね。伊織ちゃんの歌が聴けるのと、おたより当番が楽しみだった」
「3度やったわね。私も楽しみにしてるわ。ファンの人たちの生の声援だし、どれ読むかも自分で
だいたい決められるのよ」
「バクダンメール以外は?」
「……あんたもアレ好きなの?悪趣味ねえ」
 伊織が苦笑した。
 番組に届くファンレターを紹介するコーナーはレギュラーのアイドルが持ちまわりで担当している。
その中で司会者のお笑い芸人が、彼女たちに内緒にしていた意地悪な手紙を読むのだ。たとえば
『○○ちゃんを映画館で見かけて観察していたら、寒いギャグで大爆笑していた』とか『○○ちゃんが
恵方寿司を丸かぶりしてる姿を見てみたい』とか。
 初めて会った時の、ケンカの元になったのもこのコーナーのお決まりのフレーズだった。

「『伊織ちゃんに罵って欲しい』っていうの、地だったんだね。いやがってた割にすらすら喋ってた
から、初めから台本あるんだって思ってた」
「私のことをよく知ってるファンは、なぜかああいうコトばっかり言うのよ」
「次のときは『伊織ちゃんが街なかで事務所スタッフらしい男の人を蹴飛ばしてた』っていうタレコミ
だったよね。あれ、プロデューサーさん?」
「アイツ、やーらしいのよ。すぐ触ろうとするし。たまには痛い目に遭わせないと歯止めが利かなく
なるのよね」
 そう、僕はそこで録画や雑誌を見返して、伊織の別の面を探していたのだ。そしてそれは、確かに
存在した。
「僕はさ、きみのこと見つけて、なんていうか、いきなりファンになっちゃったから……なにも見えて
なかったんだと思う。テレビ見ても、自分のイメージと違うきみは全部、スタッフにやらされてるか
デタラメだって勝手に思ってた」
 雑誌のインタビュー。『可愛いばかりのお嬢様キャラでは大変だろう』という質問には、『キャラクター
っていうのはよくわからないけれど、伊織を見つめてくれる人ならきっと解ってくれるって思う』と、
あいまいだけれどさりげない本音を言っていた。
 歌番組のゲスト出演。司会者がおざなりで的外れな褒め方をしたあと、アップになると素晴らしい
笑顔でいるくせに、ロングで映る雛段では終始司会者を睨みつけるくやしそうな視線を見つけた。
 生放送を録音していたラジオゲスト。同じ事務所のパーソナリティの人が『伊織ちゃん、この間も
プロデューサーさんのこと蹴飛ばしてたわよねー』っていうコメントに『あずさ!あんたなんでそんな
余計なこと――』っていう小さな叫び声の直後、急に音声が途切れてCMが入った。
 全部、僕は見なかったことにしていたか、勝手に解釈していたのだ。伊織ちゃんがそんなことする
はずない、伊織ちゃんは優しくて可愛らしい子で、本当のお嬢様なんだ、と。
「それは本当は逆で、僕は、自分で勝手に『水瀬伊織はこういう人だ』っていう姿を作り上げて、
そのイメージのファンをやってたんだな、ってわかった」
 彼女は、水瀬伊織は『自分』を見て欲しかったのだ。
 アイドルとして売り出すイメージだけじゃなく、その奥底にある彼女自身を、伊織はファンに
気付いて欲しかったのだ。そして、その上で、全部の水瀬伊織のファンになって欲しかったのだ。
その日は結局、ビデオを見たり切り抜きを読んだりしているうちに朝になってしまった。起きてきた
両親には「友達と約束があって早起きした」と嘘をつき、授業の半分近くを居眠りして先生に怒られた。
「だから、僕こそきみに謝らなきゃって思ってたんだ」
 舞台の上に立っている伊織にあらためて姿勢を正し、深く頭を下げる。
「ごめんなさい、伊織ちゃん。僕はきみのこと、全然わかってなかった」
 伊織は何も言わない。顔を上げると、続く言葉を促すようにうなずいた。
「あの日、僕はたぶん初めて……きみのファンになったんだ。これから、ファンとして頑張って
きみのこと応援したいって思うんだけど……いいかな?」
 逆光の伊織の表情は不鮮明で、よくわからない。彼女は、一度自分を落胆させたファンに
どういう態度をとるんだろう。こんなこと言っても効果ないんだろうか。僕は顔を見つづけられず、
視線をそらした。
「……ふうん。殊勝な心がけだこと」
 まだしばらく続いた沈黙のあと、そう聞こえて彼女に目を戻す。
 やがて彼女は……。
「それでこそ私の下僕だわね。にひひっ♪」
 そう言って、ここからでもはっきりわかる満面の笑みを浮かべた。



「へえ、新曲の練習」
「普通はレッスン室借りてやるんだけど、発表まで時間がないのよね。事務所行く前にイメージ
固めようと思って」
 伊織は、練習している曲のことを教えてくれた。タイトルは『フタリの記憶』。
 彼女がこれまでに発表した音楽CDは2枚、『Here we go!!』と『GO MY WAY!』だ。3枚目の
シングルはこれまでの元気ソングではなく、しっとりしたファンタジーテイストの曲だという。
「朝練って言ってたわよね、時間大丈夫だったら……ちょっとだけ聴いてみる?」

「え?聴いててもいいの?」
「と、特別よ、あんたの心意気に免じて。それにほら、インプレッションも聞いてみたいし。ちょっと
こっち来てみなさいよ」
 舞台の端に開いて置いてあるバインダーを眺めながら手招きする。近づいてみるとファイルには、
楽譜と歌詞が綴じ込まれていた。
 タテに開いて使うようにしてあり、上に楽譜、下に歌詞のページ。譜面には音楽の教科書に
乗っているような五線譜だけじゃなく、GとかCmとか英語の記号や見たこともないマークも入って
いる。
 そして歌詞カード。活字で印刷された歌詞の周囲には、伊織が自分で書き込んだのだろう、
細かい注意書きが山ほど加えられていた。
『いろんなことのスピード、速いっていうよりたくさんあって追いかけきれない』
『ボロボロなキミを見て、なぜ?って』
『悲しい……×、あわれ……×、かわいそう……×』
『助けてあげたいって思える?』
 他にもいろいろ。たくさん書いてある伊織の意見に寄り添う形で、別の筆跡が補足するように
解説していた。レッスンの先生の字だろうか。
「へえ、こんな風にして憶えるの。いろんなこと考えなきゃいけないんだね」
「あったりまえじゃない。ただ歌詞を口から出すだけなら普通の人と一緒でしょ」
 僕の疑問に、待ってましたとばかり解説を始める。
「そんなのはカラオケ屋でやればいいのよ。私たち歌手はね、その歌に込められた想いを
理解して、聞く人の心に正しく伝えるのが使命なの」
「難しいんだ」
 感心していると、小さく笑って舌をちろりと出した。
「……まあ、プロデューサーの受け売りなんだけどね。じゃ、やるわね」
 そう言うと、舞台の上で誰もいない客席に向かい、深呼吸をした。
 集中し始めたのが手に取るようにわかる。舞台の袖でバインダーを握ったまま、僕は身動きが
取れなくなってしまった。
 トン、トン、トン、トン……。拍子を取る小さな音は彼女のブーツだ。まるで心音のようなゆっくり
した拍動が伊織を包んでゆく。
 そして、歌が紡がれた。

  いつものように空を翔けてた
  ずっとずっとどこまでも
  続く世界

 そこで繰り広げられた歌は、神様か精霊なのか、空をたゆたう『ボク』の物語だった。
 歌詞をあらかじめ読んでいたし、伊織の注釈にも目を通していたので歌のストーリーは
わかっていた。でも、伊織の口から広がるその世界は文字で書かれた言葉の羅列などではなく、
『ボク』と『キミ』の想いが複雑に絡まり合う壮大な物語となっていた。
 『ボク』が見つけた『キミ』は挫折と失望にとらわれ、今にもくずおれてしまいそうだった。
 『キミ』に対して哀れみや施しの気持ちではない、純粋に応援したい感情が『ボク』に生まれた。
 『ボク』と出あえたことで『キミ』の心は、強く明るく照らし出されるようになる。
 『キミ』はやがて『ボク』の光を受けるばかりでなく、自ら輝き始める。
 『ボク』は『キミ』の放つ光を見て思う。これで、もう、大丈夫。
 『キミ』といつまでもいたいけれど、『ボク』にはもう時間がない。
 『ボク』は全てを消してゆこう。
 『キミ』が泣くのは辛いから。
 笑いあった思い出もキスしたことも、二人の記憶を還して去ろう。
 そんなやりとりが、伴奏もなにもないアカペラの歌声から僕の目の前に鮮やかに描き出された。

  何も言わずにサヨナラするよ
  キミと出会えて
  すごく嬉しかったな

 はっとして伊織を見つめなおす。

 今の彼女は特徴的な大きなモーションのダンスもせず、ただ立ち尽くしながら歌っている。斜め
後ろにいる僕からは目を閉じているのがかろうじてわかるくらいで、表情までは定かでない。
 さっきから太陽を見え隠れさせている雲が突然晴れ、あたりが光で包まれた。
 雲を飛ばした風が地上にも吹き下ろし、彼女の服を強く煽る。そして僕は思った。

 伊織ちゃんが空へ帰ってしまう、と。

「伊織ちゃん……っ!」
 体が勝手に動いていた。ふわりと浮いた――僕にはそう見えたのだ――彼女の体を追い、
駆け寄って手を握り絞める。
 歌声がやんだ。
 なにかに思い当たったかのように、伊織がゆっくりとこちらを振り返る。
 彼女の目は僕に向いていたが、僕に焦点を合わせたのはその数秒あとだ。
 そして僕に気付いて、きょとんとした表情で訊ねた。
「……なに?どうかしたの?」
「あ……あの、っ」
 彼女から視線が外せない。この表情を見逃すことができない。
 そこにいたのは、また僕の知らない水瀬伊織だったから。
「あの……いや、ごめん……きみが」
 胸が締めつけられるようだ。やっとのことで口に出す。
「きみが……消えちゃうんじゃないかって、思って」
 伊織が僕を見つめている。
「……ふふっ」
 凍りついたように時間が過ぎ、やがて彼女は笑顔を浮かべた。僕の知っている水瀬伊織の笑顔を。
「なら、上出来ってことね。歌もらった次の日にもう歌いこなせるなんて、やっぱり私ってすごい
じゃない?」
 ころころと笑う彼女を見つめながら、僕はようやく息をついて、それでしばらく呼吸するのを
忘れていたのだと判った。それにしても、昨日から練習し始めた歌とは思えなかった。この歌
をフルパワーで聴いたら、僕はどうなってしまうのだろう。
「よかったわ、今の感覚が掴めて。ところで朝練の時間、大丈夫?」
「え……あ、やっば」
 聞かれて時計を確認して青くなる。遅刻はないだろうけど、学校まで全力疾走は確定だ。
「私も事務所に行く時間だわ。じゃあね」
「うん、さよなら……あ、ねえ、伊織ちゃん?」
「なあに?」
 スタートダッシュの直前に、あわてて訊ねる。今の歌の完成形を、一刻も早く聴きたかった。
「この歌、いつから聴けるの?時間ないって言ってたし、近いうちにCDの録音とか、テレビで
おひろめとか?」
「明日よ」
「あ、そう……って、ええっ?明日?」
 伊織のあまりの自然さに、僕は普通にうなずいてしまった。昨日新曲を貰って、今日の、
明日?芸能界のことはさっぱりだけれど、どう考えても尋常じゃない。
「そんなに驚かないでよ。私が一番びっくりしてるんだから」
 そう答えた彼女の笑顔はちっとも慌てている様子はなく……むしろ、この綱渡りを楽しんで
いるように見えた。