衷心


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

「ちょっと二日くらい留守にするけど、いいか?」
 765プロ唯一のプロデューサーである彼は、その日の朝、事務所に来るなり秋月律子に
そう言った。いきなり話を振られて、律子は一瞬面食らったが、すぐに今週のスケジュールを
頭の中に展開し、「そのくらいなら、大丈夫だと思いますけど」と冷静に答えた。
 デビューして半年余り、名前も売れてきてそれなりに忙しいとはいうものの、もとより
プロデューサーなしでも、アイドル活動くらいなんとかできるだろうと内心思っていた彼女に
してみれば、それほど大きな問題ではなかった。
「で、何かあったんですか?」律子は持っていたボールペンを彼の方へ向けた。
「田舎のばあちゃんが、ゆうべ亡くなってさ」
「え、それは……ご愁傷様です」律子は礼儀正しく、座っていたイスから立ち上がって一礼した。
彼もそれに応じて、小さく会釈を返した。
「九十過ぎてて、何年も寝たきりだったし、ここ一年くらいは意識もずっとなかったから、
もう自分の中で、心の準備はとっくにできてる、って思ってたんだけど、やっぱりすごく
悲しかったな。口の悪い親戚は、意識不明で寝たきりなんだから、もう死んでるのも同じだ、
なんて言ってたし、おれも確かにそういう感覚少しあったけど、頭でそう考えてるのと、
本当にそうなるのとは、天と地ほど差がある、ってのがよくわかったよ」
「大丈夫です?」律子は彼の精神状態を気づかって言った。
「ああ、もう気持ちの整理はついたと思う。おれ、ガキのころ、ばあちゃん大好きだったから、
顔見たら、きっとまた泣くかも知れないけど」
 彼は社長に休暇の了解を取ると、そのまま会社を出て行った。雑誌社からの取材を午前中に
終え、少し空き時間のできた律子は、彼の不在にいくぶん物足りなさを感じながら、今ごろ
飛行機に乗っているころかな、と廊下の窓から空を見上げた。
 ところが、そうやってよそ見をしていたせいで、律子は一歩目の階段を踏み外し、きちんと
一階分、滑り落ちてしまった。音を聞きつけた社長が飛んできて、すぐ車で病院へ運んでくれた。
幸い、骨には異常なく、脚に二、三個所打撲を作った程度で済んだ。
「このくらいなら、ファンデーションで隠せるから問題なしね。お医者様も、湿布していれば
明日には痛みもほとんどなくなると言ってたし」
 事務所に戻ってきた律子は、イスに座ったまま、何か所か赤くなっている自分の脚をながめて、
ひとりごとを言った。しかし、彼のことを考えていて階段を踏み外したというケガの理由が、
自分自身、なんとも気に入らなかった。
 次の日、大事をとって一日分の仕事を自分でキャンセルした律子は、逆にこの空き時間を
逃さないようにと、一日会社にこもって、たまった書類や帳簿の整理をすることにした。
その中には、なかなか進捗していない、彼の分の書類もあった。
 昼近くなって、ご飯でも食べようかと、ゆっくり立ち上がって大きくのびをしたとき、部屋の
外からけたたましく階段を駆け上がる音が聞こえ、どしん、と大きな音をさせてドアが開いた。
プロデューサーが血相を変えて立っている。
「律子、大丈夫か!」
 律子は突然のことで、なにも言えずぽかんとしていたが、彼はほんの数メートルの距離を
走るように近づいてきて、彼女の両肩をつかんだ。
「大丈夫か、ケガは。医者を呼ぶから、座って待ってろ」
「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ、プロデューサー。医者ならきのう行って、もう治りかかって
ますから。痛みだってほとんどないし。っていうか、なんでケガのこと知ってるんです?第一、
会社出てくるのは明日でしょ?お葬式はどうしたんですか?」
「通夜は出てきたから」
「だめでしょ、お世話になったおばあちゃんなのに。……とにかく、この手を離して下さい」

 律子の言葉に、彼はようやく気がついたように両手を肩から離した。律子のケガがそれほどでも
ないと知って、彼は一気に力が抜けたようになって、近くにあった事務用のイスにへたりこんだ。
「そうか、大したことなかったか。あー、よかった」彼は背もたれに思い切り体重をかけ、腕を
だらんと床近くまで垂らした。「社長から、律子がケガをした、って話を聞いたときは、ホント
死ぬかと思ったよ」
 彼がきのう、会社へ定時連絡をした際、社長がどうもケガのことを少しオーバーに説明して
しまったらしい。
「人騒がせですねえ」
 そうは言ったものの、律子は彼が自分を心配してくれたことに、胸が熱くなった。自分が
プロデューサーにとって、それだけ大事な存在だということを確認できてうれしかった。
もちろん、それは自分が彼の担当アイドルだからなんだし、仕事の責任感てことよね、と彼女は
頭の中で忘れずにつけ足した。
 有休中であるにも関わらず、彼は律子に強制され、その日の午後いっぱい、たまっていた
書類の処理をするはめになった。自分の半分以下のスピードで、書類の束と悪戦苦闘している
彼を見ていた律子は、今回とは逆に、もしプロデューサーが入院でもするような大ケガをしたら、
自分は慌てるだろうかと、ふと考えた。いっぺんだけお見舞いに行って、「まったく、しょうが
ないわね」とか「やっぱり、つとまりませんでしたね」とか、ためいき混じりに言ったりした
あげく、肩の荷を下ろしたような気分で、自分で自分のスケジュールを管理して仕事をしていく
だろうか。
 まあ、そこまで薄情ではないつもりだし、今まで二人三脚でやってきたのだから、ケガなんかで
途中下車されても困る。とにかく、こっちに迷惑がかかるのだけはかんべんして欲しい、律子は
そう思った。結局その日、彼の書類整理はちっともはかどらず、律子は『やれやれ』と
思いながら、最初の予定通り手伝ってあげた。

 それから三日ほど経った。プロデューサーは営業先へ直行し、午後からの出社予定になっていた。
律子は彼が戻ってくるのを待ちながら、「片づかないから」と、まだまだたまっている彼の書類の
処理をしていた。
「律子君、ちょっといいかね」昼をまわったころ、社長が机に向かっている彼女に声をかけた。
「はい、なんでしょう?」律子は仕事の手を止めた。
「今日の午後のスケジュールなんだが、キミ一人でなんとかならんかね。もちろん、私も
できるだけサポートするが」
「え?別にそれは構いませんけど、プロデューサー、急な予定でも入ったんですか?」
「うむ、実は今、中央病院から電話があって、彼が自動車に……」
 その後のことは、律子の記憶にはあまりはっきり残っていない。どこをどう走ったのか、
タクシーに乗ったのか乗らないのか、それすらも憶えていなかった。気がつくと、病院の一室で
ベッドに腰かけているプロデューサーの顔を見ていた。彼はちょうど治療が終わったところらしく、
スラックスの裾から包帯がのぞいていた。
「り、律子、なんでここにいるんだ?午後のスケジュールを頼む、って社長あてに伝言して
もらったはずなのに……」
 律子は彼の頬を無性に平手打ちしたくなって右手を上げたが、途中で手を降ろすと、今度は
両手でにぎりこぶしを作って、彼の両肩にそのまま力を入れて載せた。彼は律子が説教モードに
入っているのを感じ取ったのか、いきなり言い訳を始めた。

「あー、いやその、悪い悪い。横断歩道渡ってるおばあさん見てたら、ばあちゃんのこと
思い出してさ。ちょっとぼーっとして信号変わったの気づかなくて、あやうく車にはねられそうに
なったけど、ころんで右足をひねっただけで済んだんだ。救急車には乗せられちゃったけど、
そんな大したことないし、ちゃんと一人で歩けるから。く、車だって運転できるぞ?」
「プロデューサー」
「は、はい」律子の強い声の調子に、彼はつい、かしこまって返事をした。
「あなたに何かあったら、私が……私が困るのよ!仕事は滞るし、私が自分で自分のプロデュース
までしなくちゃいけないでしょ!」
「すまん、注意する。悪かった」彼は律子の目から涙がこぼれているのを、わざと知らないふりを
して謝った。律子は自分でそれに気がつくと、後ろを向いて涙を拭いた。
「じゃあ、出かけるか」彼はベッドから用心深く片足ずつ降りた。
「え?どこへ?」
「午後の仕事先なら、ここからの方が近いだろ?直接行こう」
「ちょっと、その足で仕事するつもり?」あきれた口調で答える律子は、もういつもの自分を
取り戻していた。
「別に松葉杖がないと歩けないほどじゃないし、ゆっくり行けば大丈夫さ」
 結局律子は彼に押し切られ、二人は仕事のキャンセルもせず、無事午後の予定をこなした。
 その日の夜、プロデューサーは車で彼女を家まで送ってくれた。車から降りた律子がドアを
閉めようとすると、彼は「心配してくれてありがとな」と手を上げた。律子はその手に向かって
右手を伸ばしかけたが、思いとどまり、「おやすみなさい」と言ってドアを閉めた。彼はそのまま
会社へ戻って行った。
 律子は遠ざかっていく車を見送りながら、何日か前に彼が言った、「頭で考えてるのと、
本当にそうなるのとは、天と地ほど差がある」という言葉を思い出していた。いくら頭の中で
シミュレートしてみても、本当にそうならなければ、自分の心の底にある気持ちには気が付けない。
プロデューサーがいなくなったら「肩の荷が下りるかも」なんて思っていたはずなのに、
彼が交通事故に遭ったと聞かされた瞬間、何も考えられないくらい、頭の中が真っ白になって
しまった。本当は彼に何かあったら、自分も生きてはいられないくらい、大事な存在なのだ。
 律子は今日、彼がケガをしたおかげで、そのことに気づいてしまった。まあでも、これで
おたがい、一勝一敗、相手に心配かけたのだから、それでよしとしよう、律子はそう自分に
言い聞かせた。
 自分の部屋に戻って、パジャマに着替えた律子は、灯りを消したまま、ベッドの上でぼんやり
していた。じっと天井を見つめていると、暗闇の中にプロデューサーの姿が浮かんできた。
メガネをかけていないのに、彼女の目には彼の顔がはっきりと見えた。律子は両腕を真上に
突き出し、そのまま彼の背中に手をまわした。彼の幻は、ほどいた律子の髪を、ハープでも
弾くようにかきあげると、彼女にキスをした。
「うーん、やっぱりマネじゃあ、ピンとこないわね」
 律子は両腕をぱたりと降ろした。想像でキスするのと、本当にキスするのも、きっと天地ほど
違うんだろうな、と思った彼女はくすりと笑い、いつかその日が来ることを信じて、静かに
目をつむった。



end.