月ノ歌


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 月が綺麗な夏の夜だった。

「……とうとう、ですか」
 ぽつり、と。何の脈絡もなく、助手席に座る四条貴音がそう漏らした。
 午後九時の車の中――貴音と共に、事務所へと戻っているときのことだった。
 貴音は今日、ある巨大オーディションに合格し――Sランクに昇格した。言わずもがな、
芸能界の頂点に立ったわけだ。
 だから俺は、彼女の“とうとう”という言葉は、ようやくSランクになれた感慨深さから
出たのだと思った。
「……あなた様。少し、よろしいでしょうか?」
 貴音が俺を向いて話しかけてきた。
「なんだ?」
「少し、寄っていただきたい場所があります」
 俺は横目で貴音の顔を見た。
 その綺麗な瞳は、なんだかいつも以上に透き通っていた。

 彼女が指定した先は、小高い丘だった。
 ビルの群れから少し離れた位置にあるそこは、地面に草が生い茂り、周囲を木々が囲っ
ていた。
 駐車場もない場所なので、適当に車を止めて貴音と一緒に歩く。
「……へぇ。こんなとこ、あったんだな」
「はい。以前、オーディション会場から帰るときに見つけました」
 貴音は俺より三歩先をゆっくりと歩く。
 丘を登り、一番上にたどり着いた。
 視界が開け、夜空が俺たちを包み込む。
「うわ……すごいな」
 純粋に、そう思った。
 今にも降ってきそうな星空――なんて陳腐な比喩しか浮かんでこない。360度のどこを
見ても、視界を輝きが埋め尽くしている。
 白、赤、青の光たち。それは、何色もの絵の具を使って埋め尽くされたカンバスのようだ。
 美しい風景を見せてくれたお礼を言おうと思って、俺は貴音の方を向いて、
「貴音、都会にこんなところがあったんだな――、」
 続きが言えなくなった。

 ――貴音が、踊っていた。

 両手を広げて、くるくると。星や月と戯れるように。
 草原をステージに、鈴虫の声をオケにして。
 貴音の銀色の髪が揺れる。夜空からの光をはじいて、闇を照らしあげるほどに。
 ――冗談みたいに、幻想的な光景だった。
 ステップを踏む。星々を掴まんと手を掲げる。
 貴音の表情は、泣いているようにも笑っているようにも思えた。
 見惚れていた。見蕩れていた。
 永遠とも思えるような時間が過ぎたあと。
 貴音が俺へ向けて、深々と礼をした。
「……あなた様」
「な、んだ?」
 なぜか俺は言葉が詰まった。
「ありがとうございました」
 そう、ただただ美しく、貴音は微笑んだ。
「Sランクにあがらせてくださったことも……765プロでわたくしをプロデュースしてくだ
さったことも。わたくしと、出逢ってくださったことも」
「……なに言ってんだよ。感謝される筋合いなんて、ないよ。それは全部、貴音が頑張ったか
らだ」
「いいえ。あなた様がいなければ、今わたくしはここに立っておりません。どこか、見知らぬ
地で這いつくばっていることでしょう」
 滔々と、朗々と――貴音は言葉を紡いでゆく。
「あなた様がかけてくださった優しき言葉の一つ一つを、わたくしは、絶対に忘れません」
「……そんな、」
 何言ってるんだよ、貴音。そんなのまるで、
 ――別れみたいじゃないか。
 怖くて、俺はそう言えなかった。
「765プロの皆にお伝えください。四条貴音は、楽しかったと。この身に余る幸福を享受し
ていたと」
「なに、言って」
 声が詰まる。俺の馬鹿野郎、どうして詰まるんだ。俺だって、もっとたくさん、言わなきゃ
いけないことが、あるのに。
「――わたくしは」
 貴音は夜空を見上げた。月と星の光が、吸い込まれるように貴音に降り注いでいた。
「あなた様の隣に立つにふさわしい女だったでしょうか?」
「――貴音!」
 嫌な予感がして、走った。貴音までは5メートルだ。歩けばすぐに詰められる距離なのに、
走らざるをえなかった。
 無論、この場所には夜空以外に何もない。俺を慌てさせる要素は何一つないはずなのに。
「貴音っ!」
「……あなた様は、本当に」
 くすり、と貴音は頬をゆるめた。嬉しそうに。
「優しい方――」

光が、巻き起こった。
 いや、その表現は間違っている。光は巻き起こるものではない。
 それでも、そう表現するしかなかった。
 貴音の体が光に包まれて、膨れ上がって、広がって――
 あっと言う間に俺の視界も白に埋もれて、
「最後にわがままを言わせていただけますか?」
 貴音の声だけが、耳に届いて、

「愛しています。誰よりも」

 その声を残して、
 消え去った。

 ようやく目を開けられるようになると。
 そこには、夜空しかなかった。
 走った。探し回った。
 貴音はいなかった。
 月に吸い込まれたみたいに、いなくなった。

 車の中で貴音が言っていた“とうとう”とは、ランクアップのことなどではなく。
“とうとう帰るときがきた”ということだったのだろう。
 貴音は765プロに移籍する前、“遠いところに行く”と言っていた。
 Sランクになって目的が果たされ、帰る準備が終わったから帰る――ただ、それだけのこと
だったのだろう。
「……ははは」
 あぁ、確かに遠いところだ。どうやっても届かない。
 俺は、さっき貴音がやっていたように、夜空へ向けて手を伸ばした。
 銀色の月が、貴音みたいだと思った。

* *


 そうして、貴音はいなくなった。
 トップアイドルの突然の失踪は、大ニュースとなり、いくつもの噂を作り出した。
 俺はプロデューサーとして、“貴音は故郷へと帰っていった”と話し続けた。
 真実を隠して、自分なりの方法で貴音の名誉を護り続けた。

 俺は今日も、貴音と別れた丘へと向かう。
 草に座り込んで、夜空を見上げた。
 満天の星空。そして、銀色の月。
 月は、今日も煌々と世界を照らし続けている。

 だからきっと、貴音も笑顔でいるだろう、と。

 そう思うのだ。