昇華する讃美歌


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

「そういえば……」
 私は右手に持ったエナメルバッグを置いて、事務所に置いてきてしまったブレスレットを思い出した。
「取りに、行くのかな」私は私に聞いた。否定。
 疲れているから。
 夕陽が地平線に滑り込み、地球のほかのところに太陽がその生命を落としかけているこの時に、私は家に向かって歩いていた。
 着ているのは学校指定のブレザー、ダッフルコート。
 野暮ったいと不評らしい。私には興味がないが。
 家に帰ってからの事を考えながら、今日のことを思い出す。

 髪留めを取ってレッスンをしていたら、彼が部屋に入ってきた。
 彼は私に向かってタオルを投げた。
「どうも……」
「うん」
 彼は壁際にあったパイプイスに座る。
 何も言わない。
「どうしました?」私は首を拭く。シャツの中は後にしよう。
「いや、なに。ただ単に精神が動揺しているだけさ」
 そう言って、彼は口にくわえたチュッパチャプスをかみ砕く。
「動揺?」
「うん」
 ちょっと待ってみるが、話すつもりはないようだ。
 私は少々困惑しながらも、当たり障りのないところを拭く。
「プロデューサー、私はシャワーを浴びに行きますが……」
 彼は手をふった。私はそれを了解の意ととった。
 スタジオを出て、扉を後ろ手で閉める。
 その目の前を影が走り過ぎた。
 その姿は十メートル先で角に隠れた。
 おそらく千早か。
「千早!」
 答えはない。
 聞こえてなかったのか。それとも無視されたか。
 私はシャワー室に行く前に、事務室を覗く。
 そこには春香がいた。
「春香、千早がさっき走って行ったけど、何かあったの?」
 春香は言いにくそうに「あー……」とだけ言う。
「そう、ですね。あったと言えば、あった、んですよねえ」
「……千早がプロデューサに告白でもしたの?」
 春香は顔をへこんだスポンジのようにゆがませる。
「……う。なんで分かりました?」
「千早からプロデューサのことが好きだって言われていたから」
「うそっ!?」
「嘘じゃないよ」
 私は春香に笑いかける。
 春香は私から目線をわざとらしく外す。
「そうそう、春香」
 春香が振り向く。「なんですか?」
「千早は春香のことは好きよ。だから言わなかったの」
 彼女の表情が変わる前に私は彼女の顔を視界から除く。
 私はシャワーを浴びて、誰にも会うことなしに社屋を出た。

 携帯電話が震える。
 千早からのメール。
 要約すれば、彼女は私がプロデューサを好きだと思っていて、自分の行動を抜け駆けするよう感じて、こうしてメールを送ったそうだ。
 私は後ろに気配を感じる。
 そこにはプロデューサがいた。
「律子……」
「まったく……、感想を言う暇すらありゃしない……」
 プロデューサは首をかしげるが、言った。
「千早が、俺に告白してきた」
「知っています」
 彼はうつむく。
 無言。
 高架を電車が通る。鉄骨が高笑い。
 私はため息をついた。「寒いですね。喫茶店にでも入りましょう」
 彼はあごが肋骨を折ればいいとでも思っているようにうなずいたのだった。

 二人は近くに喫茶店チェーンを見つけ、入る。
 息が姿を消す。光を反射する気概を、温かい空気が削いだ。
 二人ともブラックコーヒーを頼み、窓際に空いた席に座る。
 周りにはあまり人はいない。もう九時を過ぎている。
 彼はひとくち、コーヒーを飲む。
 私も飲んだ。
「俺は……」
 彼がぽつりとつぶやく。
 私は答えない。
「俺は……、俺が何をしたいのかわからない」
 彼が言う言葉はプラスティックとカップの間隙に吸い込まれて、私の耳には届かない。
 私が何も言わなかったことの意味はコーヒーの中に撹拌し、空気に蒸発していく。
「どうして、私に話すのですか?」
 彼は顔を上げた。
「さあ……」苦笑い。ひとくち。「さあね。分からないさ」
「……それは当然のことではないでしょうか。自分が何をしたいのか、それを分かって行動すると言う人はいません。自分が行動した後、それに対して都合のいい目的を作るのが人です」
 私はかばんの口を閉めて、窓の外の空を見上げる。
 まっくらやみ。
 黒い。
 空が溶けたアスファルトの涙をこぼしそうに。
「律子……」
「ええ。私があなたに対して、言葉をかけることはできます。それを望みますか? それとも……」
 私はほほ笑む。
 努めて優しく、憂鬱な笑みを。
「ああ……」彼はうつむいて、顔を右に、上に、左に。そして前に。
「いや、いい。ありがとう」
 彼はやっとほほ笑み、再確認する。
 沈黙の価値を。
 私はコーヒーを飲み、彼に別れを告げた。
「おかね。置いておきますよ」
 彼はうなずく。
 去り際に彼が「なあ。律子……」と言う。
「なんですか?」
「いや、なんでもない……」
 彼は首を振る。
 吹き出して、顔を背けた。
 私は意味もなくほほ笑み、外に出た。
 手に持ったかばんはずっしりとする。
 人の体も心も、
 まだ私には荷が重い。
 けれど、
 冷気にさらされた世界だけは、
 私を優しく叱ってくれそうに思えた。