春香エンジェル


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ええと・・・志望動機、志望動機は、と。
俺はもう一度、手元のメモに目を落とす。
『世界的な大恐慌と言われるこの経済危機の状況において、業種を問わず各企業が業績を落とし、喘いでいる
中、業容を拡大しようという御社の意欲、並びにその伸びゆく業績に対して、大きな将来性を感じ、私自身の
経験を御社のために役立てると共に未来に以下略

ヤバい。
覚えきれない。
っていうか、昨夜一度は完全に覚えたはずなのに、メモリクリア。
どうしよう?
もう、そろそろ本番だぞ。
てか、落ち着け俺。こんなの初めてじゃないだろ。

「では、次の方、どうぞ」
え?
次って、俺じゃん?
まずい、とにかく返事しないと・・・
「はぃいいぃ」
ど、どうした、俺の声?裏返るんじゃねえ!

「それでは、まずは当社を志望した理由を聞かせてください」
「あ、は、はい!動機は・・・ですね・・・」
なんだっけ?

ダメだ。思い出せる気がしない。
でも、何か、何か言わないと!
「あ、あの・・・あ・・・」
「あ?」
いやいやいやいや、『あ』に大した意味なんてないですから、聞き返さないで下さいよ、そこのお姉さん。
「あの・・・あ・・・」
「落ち着いて下さいね。あ?なんですか?」
いやだから、『あ』じゃなくて、いや、『あ』と言えば、そうそう。いや違う。
「あ・・・あ・・・あああああああ!」
「お、落ち着いて下さい!」
これが落ち着いてなどいられるか!『あ』と言えば、決まってるだろ!

「天海春香さんのいる事務所で、働きたかったんです!」

あれ・・・?
やっちまった?俺?
俺的にはNGワード指定してたつもりの台詞を、叫んだ気がする。

ヤバい。
緑の服のお姉さん、固まっちゃったよ。
そりゃそうだよな。明らかに所属のアイドル目当ての応募なんて。
普通なら、真っ先に落とされる。
うん。そうだよな。

      • 終わったな。
俺の人生最大の賭けが、終わった・・・。
やっぱり、受かるまで前の会社辞めるべきじゃなかった・・・。
いくら春香さんの事務所がスタッフ募集してるからって、受かるとは限らないじゃん。
いやでも、会社も辞めて絶対765プロのスタッフになるという、背水の陣で臨む作戦だったし。

「なんといい答えだ!ピーンと来た!君のような人材を求めていたんだ!」
あれ?
なんか声が聞こえる。
「しゃ、社長?!」
あ、真っ暗だと思ってたところに、人がいたのか。
社長・・・とか言ってるな。
「音無君、そうは思わないかね。彼は我が社のアイドルを、心から愛してくれている。彼の様な人間こそ、
新規スタッフにふさわしいのではないかね。」
「あ、あの・・・社長、普通は芸能プロダクションでは、所属タレント目当ての応募は、敬遠するんです
が・・・」
「うむ。しかし、彼は、おそらくそれを知っての上で、あえて春香君と同じ事務所で働きたい、と堂々と
宣言したのだよ。なかなか出来る事ではない。私は、その心意気を買いたいと思うのだよ!」
「心意気・・・ですか。」
「そうだ。そこのキミ、明日から早速、よろしく頼むよ。」
「えっと、ということで、採用決定です。詳しくは後で説明しますので、先ほどの待合室の方でお待ち
下さいね。」
なんだかよくわからないことになった。
「は、はい。では、失礼します。」

こうして俺は、社長の直感により765プロの社員となった。

俺が765プロのスタッフ募集を知ったのは偶然だった。
たまたまチェックしていた、某巨大掲示板のアイドル板「765プロダクション総合スレッド」で、募集がある
との書き込みを見かけたのだ。
「おまいら、これでも応募してみたらどうだw」との書き込みの下に、募集ページへのリンクがあった。
内容は「事務所移転による規模拡大のためスタッフ募集」
募集は、プロデューサー若干名、その他スタッフ若干名(ともに経験不問)だった。
プロデューサーは以前も募集しているのを見たが、我が憧れの天海春香さんには、もう専任プロデューサーが
付いているのを知っていたので、これまで応募はしなかった。
しかし、今回は事務員その他スタッフも募集しているではないか!
俺は、すぐさま履歴書を買いに行って、応募した。

そして、あまりにも見事に採用となったのである。


その出勤初日。
時を同じくして採用された数名と共に、出勤を要請されたのは午後だった。
強いwktkを胸に事務所に行ってみると、そこは引っ越しの準備でごった返していた。

「あ、おはようございます。早速ですみませんけど、とりあえず棚に残ってる書類を全部段ボール箱に詰めて
もらえますか?」
昨日も会った、事務の音無さんの指示で、とにかくわけもわからずに力仕事になった。
ざっと見渡すと、作業をしている人数はそんなに多くない。
昨日も見かけた新規採用者数人、他にはやはり若い男性が数人程度。あと音無さんの他に、なんか学生の
年代の女の子が数人。中には男の子か女の子か微妙な子も混じっているが、デビュー前のアイドルという
感じの可愛い子もいる。
とりあえず、春香さんはいないということは確かだ。


「お・・・終わった・・・。」
まさか、椅子や机の類いのトラックへの積み込みまで、全てスタッフでやるとは思わなかった。
時刻は夜の10時半。
初日なので、できればいろいろ情報を得たり他のスタッフや可愛い女の子たちと互いに自己紹介したりした
かったところなのだが、それどころじゃない状態のうちに、みな疲れ果てて言葉すら発しなくなっていた。
ただ、謎の「うっうー」という声だけは最後まで途切れる事なく響いていた気がする。

「みなさん、申し訳ありませんけど、明日は準備のために新しい事務所に朝6時集合でお願いしますね。」

音無さん、あんた、可愛い顔して鬼や。

「おはようございます!わあ、新しい事務所って、やっぱりいいですね!一段と広いし、奇麗だし、窓からの
景色も最高ですね!レベルアーップ!って感じです!」
あれ?
なんか天使の声がする。
そうか、昨日に続いて今度は早朝からの搬入と整理作業で疲れ果てた俺に、天使が舞い降りてきてくれたんだな。
わずかにこの世に残った意識の中で、俺はそんなことを考えていた。

ガバッ!
飛びかかった音じゃない。机に突っ伏していた状態から跳ね起きた音だ。
「春香さん、おはようございます!」
夢にまで見たマイエンジェル春香さんが、今すぐそこにいるじゃないか。死にかけてる場合じゃないだろ俺。
「はい、おはようございます。あの・・・新しいスタッフの方ですよね?」
「春香ちゃん、こちらの方々が、新しいスタッフのみなさんですよ。」
音無さんが解説を入れる。
「じゃあ、はじめまして、ですね。なんかみなさん、すっごくお疲れみたいですけど・・・」
「ふふっ。今日は朝から、事務所の引っ越しをみなさんにやってもらいましたから。」
そう。引っ越しをやった。手伝った、ではない。トラックでの輸送以外は全て我々がやった。
「そうだったんですか・・・。おつかれさまです。」
ぺこりと頭を下げる春香さん。
ああ・・・我々のような新参のスタッフにまで気を使ってくれるなんて、本当に天使のようだ。
「あの、春香さん。俺
「あ、プロデューサーさん!おはようございます!今日から新しい事務所ですよ!」
行ってしまった・・・。

「おっと、春香ちゃんここで新スタッフをスルー!」
「なんの実況ですか・・・」

春香さんが去って行った方向を見る。
プロデューサーさん、と言っていたな。
あの男がそうか。
「やあ、おはよう春香」
「あれ、プロデューサーさん、今日は優しい感じですね?」

先ほどより推定300Hzほど高くなった声のトーン
表情、仕草その他もろもろ
証拠は揃った。

そうか。
認めたくないが、春香さん、どうやらあの男に惚れてるな。

「なるほど。あいつが敵か。俺はそう心に刻んだ。春香への愛を貫き通すには、ヤツを倒さなければならない。」
「音無さん。」
「はい?」
「勝手に人の心の中を脚色してナレーションしないでください。」

ようやく本格的に本来の仕事になった。
まずは各種業務についての説明を受けた。そして聞いた限りだと、どうやらこの765プロダクションには、
はっきりとした業務分掌そのものが存在しない。
各アイドルについては、プロデューサーという名のなんでも屋が付いて、それ以外の事は、事務と言う名の
なんでも屋がやっている、という状況だ。
いかにも零細の事務所の業務形態のまま、ただ事務所だけが大きくなって、今やこの高層ビルの上層階に
来てしまった、ということ。で、忙しくなったので新規スタッフを募集したのはいいが、業務については
とりあえずそのまま、の形になっている。つまり、新規スタッフはとりあえずなんでも屋である。
そう言えば、職種が営業なのか企画なのか経理なのか総務なのか庶務なのか人事なのかイベントスタッフ
なのかマネージャーなのかそれとも他の何かなのか、募集要項の全然どこにも記載はなかったし、面接や
その後の説明でもそんな話は出てこなかった。

「こりゃ、まずは体制を整えないと仕事にならないかもな。」
これまでのスタッフはもちろん、新規採用組も大きめの会社での事務経験者はほとんどいない感じだ。
ある意味、俺の存在価値の見せ所かもしれない。
その日、俺は頼まれた雑務をこなした後、残業して各種社内書類のテンプレートを作成した。
ついでに、音無さんが簡単に作ってあった事務所の出入りや冷暖房、照明などの各種注意事項を清書する。
初日に出来るのはそんなもんだ。

作業を終えて、もう誰もいなくなった事務所を出ようとした時、春香さんのプロデューサーが戻ってきた。
「あ、おつかれさまです。」
とりあえず声をかけてみる。同僚なわけだし、他意はない。
「おつかれさま。初日から遅くまでご苦労さまです。」
「いや、大した事はしてませんから。ところで、今から、また仕事ですか?」
「ええ。春香のテレビ出演依頼があるんで、その番組内容の企画書とスケジュールの確認をしておきたくて。」
「大変ですね。でも、この事務所では春香さんが一番の売れっ子ですからね、頑張って下さい。」
「冗談抜きに大変なんですけど・・・まあ、春香が売れてるおかげですから、頑張りますよ。でも、せっかく
新しく人が増えたんだから、少しはこっちも手伝ってもらいたいところですけどね。」
確かに、まだあまり売れてないアイドルやその担当プロデューサーは、もうとっくに帰宅している。
担当アイドルによって、仕事量に差がありすぎるのは、問題だよな。
「だったら、俺が手伝えないか、明日にでも俺から社長に言ってみます。」
会社としても、俺としても、春香さん担当の仕事を分業できればその方がいい。
「あ、それはありがたい。お願いしますよ。」
どうやらこのP、ノリは軽いが素直ないいヤツっぽい、というのが俺の第一印象。


翌朝
さっそく、社長に昨夜の件を直訴してみた。
「うむ。それはいいな!早速だが、キミには春香君の担当専任スタッフとなってもらう。これからもよろしく
頼むよ!」
あっさり。
面接の時も思ったけど、これでこの会社大丈夫なのだろうか。
いや、俺が、俺たちが頑張れば大丈夫。きっと、多分。

「ということで、よろしくお願いします。」
何はともあれ、春香Pに挨拶した。
「こちらこそ、よろしく。いや、助かります。」
「しかし、今日の今日でいきなりとは思いませんでした。」
「社長、決断が妙に速いところがありますからね。考えているのか、考えてないのか・・・」

さっそく、仕事の話に入る。
まずは、次回のライブについて。
春香Pと俺、同性の同年輩同士、熱く話していると、互いに自然に敬語ではなくなった。
「じゃあ、とりあえず衣装、大道具、セッティングとステージ関連の発注だな。見積書はあるか?」
「いや、特にもらってない。忙しかったんで。」
「わかった。じゃあ会場と設営の方は条件がそんなに変わらないから、今の条件で俺が見積依頼しておく。
予算の管理も俺がやった方がいいか?」
「そうだな、頼む。俺はステージのコンセプトを作って、デザイン依頼の方をやる。」
「うん、これまでの春香さんの評判のステージを作ってきたセンスで、今回も頼むぜ。」
まったく、こいつは大したヤツだ。これまでほとんど一人で、あのステージを企画し実現してきた。
春香さんが売れたのには、間違いなくこいつの手腕が大きい。
こいつには、そう言った企画方面に専念してもらった方がいい。必要な事務作業は俺が引き受ける。

「評判のステージか・・・。嬉しいね、そう言われると。」
「衣装もステージのセットも、大評判だぜ。この前のチャイルドスモックは特に素晴らしかった。アンコール
のパジャマに至っては、もう天使かと見間違えるほどで・・・」
「・・・もしかして、お前一人の評判か?」
「いや違う違う。俺個人の意見も含めて言ったけど、少なくとも多くのファンに好評なのは間違いない。あの
衣装は、みんなお前が選んだんだろ?」
「ああ。」
「大したセンスだ。見事にファンのニーズを掴んでるよ。リサーチとかしてるのか?」
「別にリサーチなんかはしてない。と言うか、衣装についてはファンのニーズとかあまり気にしてないんだ。」
「気にしてない?」
さすがに、それは驚きだ。
「ああ。俺はただ、自分が着せたい、着たところを見たい、と思う衣装を、春香に着せてるだけだ。」

噂は本当だった。
765プロは変態事務所だ。
しかし、俺はその変態の言葉に、強い感銘を受けた。
目頭が熱くなってくるのを感じる。
この事務所に入って、本当によかった・・・。

さて、こうして無事にというかあまりにも予定通りに、春香さん専属スタッフAの地位を射止めた俺である。
しかし、ちょっとばかり計算が違った部分がある。
春香さんとの直接の接触が、下手すると他のスタッフよりも少ないということだ。
実際、春香Pは事務所の外での仕事が多い。その多くは春香さんと一緒だ。その分、専属スタッフとしては、
どうしてもそのフォローをするべく事務所内での仕事が多くなる。と言うよりも、春香Pを安心して外の仕事に
専念させるために、俺が事務所内での仕事を引き受けていると言う方が正しい。
しかし、仕事の進め方としては、これが絶対に正しいと思える。
春香さんとあまり接触ができない、ということを差し引いても、仕事そのもののやりがい、そして充実感は、
俺がこれまでの人生で味わったことがないほどに満ちあふれていた。

「はい、次アンコール行きます!春香さんは衣装替え、控え室1番、バックダンサーのみなさんは2番の部屋
に準備出来てますんで、お願いします!」
「時間、3分でお願いします!すでに20分押してます!」
「小道具、次の曲はアイマスのぼり、スタンバイは?」
「スタンバイOKです!」
「次は特効ありです!特効2と3、準備いいですか?」

ライブの舞台裏は、まさに戦場だ。
その戦場に身を置く立場になった以上、ゆっくりとライブを楽しむことなど出来はしない。
それは覚悟していたし、確かに残念だ。が、もっと充実した気分を俺は味わっていた。
自分が、春香さんのライブを作り上げている、その中の一人だという実感。

しかし、それ以上に勝利者感覚に酔えることがある。

例えば
そこに、出演者がステージ裏に戻ってきた時に使ったタオルがある。
春香さんが使ったのは、一番右端。チェックしていたから間違いない。
つまり、この春香さん使用済タオルを、手に取る事が可能だ。
手に取れるなら、当然、スーハークンカクンカとか何だって出来る。これひとつくらい、くすねてお持ち帰り
だって不可能じゃない。持ち帰ったらもうこっちのもんだ。
なんなら遠心分離機にかけて中の水分を抜き出す事だって・・・

いや、やらないけどね。
ただ、今の俺は、それをやろうと思えば出来る立場にいる。
それが満足なのだ。
実際にやっちゃったらただの変態だし。

「あ、スタッフさん。出演者の使用済タオルは、これで全部ですよね?」
音無さんがやってきた。
「はい、そうだと思います。」
「まさか、抜き取って隠したりはしてませんよね?」
「な、なに言ってるんですか?!そ、そんなことするわけないじゃないですか!」
「ごめんなさいね。ウチの事務所、スタッフやプロデューサーが、出演者の使用済タオルや着用済の衣装を
勝手に持ち帰ったりすることが、たまにありますから、気をつけてないといけないんですよ。」
「ぐはっ・・・」

あきれたわけじゃない。
負けた。そう思った。
勝ちたくないけど。

「あ、ほら。春香ちゃんがスタッフ全員ステージに出てくるように、って、呼んでますよ!」
「え?」
すでにアンコールラストの曲も終了していた。
ステージ裏のスタッフが、呼ばれるままに舞台へとぞろぞろ出て行く。俺もそれに続いた。

『今日は、この素晴らしいスタッフのみなさんとステージをお届けしました!スタッフのみなさん、そして
会場のみんな!本当にありがとう!!』

春香さんのこの一声で、ステージは幕を下ろした。

「よぉし!もう一軒行くか!」
「行こう行こう!」
「じゃあ私たちは、ここで失礼しまーす」
「はあい、おつかれさまー!」

ライブの打ち上げは大いに盛り上がった。
盛り上がり過ぎた俺たちは、何軒もはしごしてしまった。その内にいつの間にか、メンバーは俺と春香Pの二人
だけとなっていた。
「じゃあ、次はここでいいか?」
「もうどこでもいいぞ」
「この店、前はよく来たんだよ。このビルの上に事務所があった頃にさあ。」
そう言いながら、俺たちは『たるき屋』と書かれた暖簾をくぐった。

「じゃあ、あらためて、ライブ成功おめでとう!そしておつかれさま!乾杯!」
「おつかれ!」
その夜4度目の乾杯。
「いやあ、しかし、今日のライブは良かったな。凄い盛り上がりだった。」
「お前が手伝ってくれた事も大きいよ。おかげでこっちは、本来の演出の指示に専念出来たし。」
「お、嬉しいこと言ってくれるねえ。まあ飲め飲め。」
「当然だ。今日くらいは徹底的に飲むぞ!つきあえよ。」
「望むところ」
「こうやって苦楽を共にした同僚と飲めるってのも、ありがたいものだしな。」
「あ、そうか。もしかしてこれまでは、打ち上げと言っても事務所の人間はほとんど参加しなかったのか?」
「音無さんくらいだな。いつも最後は二人で愚痴っぽくなって・・・」
「そ、そうだったのか・・・ってあれ?そう言えば、音無さん、打ち上げに来てたか?」
「ああ、確かに見てないな。いつもは最後まで参加するはずなのに。」
「彼女、酒、好きなのか?」
「酒が好きと言うより、酒を飲むこと、飲む雰囲気が好き、って感じかな。」
「なるほど。」
「ただ、飲み出すと止まらない。」
「そうか・・・」

そんな話をしながら、また一杯。
と、春香Pが、なにやら神妙な顔でつぶやくように言い出した。
「なあ。」
「ん?」
「もしかして、の話なんだが。」
「なんだ?」

そして、視線を宙に漂わせながら、こう続けた。
「もしかして、春香って俺の事が好きだったりするのかな・・・」

俺は、Pに軽い殺意を覚えた。
こいつには、悪気は欠片もない。それはわかっている。
逆にそれが癪にさわる。無神経だ。
何より、春香さんがプロデューサーの事を好きだなんて事は、もう周知の事実以上の確定事項で、気付いて
いないのは事務所の内外を問わず当の本人だけと言って良い。その時点で既に無神経の唐変木なのだが。
俺は自分の言葉に毒を含ませた。
「おい、それって・・・ヤバい意味じゃないだろうな?」
「え?」
Pが驚いてこちらを見る。
「考えてもみろ。もし本当にそうだったとしたら、お前はどうするつもりなんだ?16歳のアイドルを相手に、
世間には自由恋愛の結果だとでも言う気か?」
「あ、い、いやそういうつもりじゃ・・・」
こいつは変態だが基本的に真面目なヤツだ。俺はあえて真面目な男にとって耳の痛い言葉を選んだ。
「かたや日本でも有名になったアイドル、しかし世間もよく知らない16歳の高校生。かたやこの業界でもまだ
駆け出しの若いプロデューサー。一般の人の目にどう映るか、言うまでもないだろ。」
先ほどのうろたえぶりからしても、こいつはそこまで深く考えて言い出したとは思えない。
ならば、こちらの思う結論に誘導するだけだ。
案の定、Pの顔はみるみる深刻に曇り出す。
「そんな事実が発覚したら、事務所そのものも問題視される。特に大事な娘さんを預けている親御さんはどう
思うか。他のアイドルや候補生の子だって、親御さんに元々反対されている子もいるみたいだし・・・」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
堪らずにPが言葉を遮る。
しばらく会話が途絶えた。その間、Pはじっと考えていた。

「・・・お前の言う通りだ。こんなこと、軽々しく口にするべきことじゃない。」
言うなり、グラスに残っていた冷酒を一気にあおった。
「俺が間違っていた。あいつが、春香が、何となく思わせぶりなこと言うのを、まんざらでもない気分で聞き
流して、いい気になっていた。これからは、もっとしっかりと、意図を持ってスルーすることにする。」
そういうPの顔には、悲壮感すら漂っていた。
「そうか・・・」
望んでいた結論に至った。
が、逆にどうにも罪悪感が芽生えたのも事実だった。
「それが、俺に出来る唯一の正しい選択だ。さもないと、みんなに申し訳が立たない。春香にも、春香のご両親
にも、スタッフのみんな、お前にも、社長にも、音無さんにも・・・」
「わたひがどうかしましたか?」
「ぶはっっっ!!音無さん?!」
「ど、どうしてここに?!だいぶ飲んでるみたいですけど・・・?」
「どうひてもこうひてもないですよ。プロデューサーさん、わたひは後片付けが終わったら打ち上げに合流する
から、後で会場の場所をメールで教えて下さい、ってお願いひたじゃないですか?」
「あ・・・すみません、すっかり忘れてました。」
「それはあんまりじゃないですか?・・・だから、仕方なくこの通い慣れたお店で、一人寂しく杯を傾けること
数時間、その間も、プロデューサーさんにもスタッフさんにも何度もメールを送ったのに、誰からも何の返事も
なく・・・ううっ・・・わたひも、今日は結構頑張ったんですよ・・・」
「本当だ・・・俺の携帯にも音無さんからのメールが来てました・・・気付きませんでした・・・」
「すみません!ごめんなさい!誠に申し訳ありません!」
「ううっ・・・罰として、今日のここのお勘定はプロデューサーさんにお願いしますからね。」

音無さんがそう言って差し出した伝票は、すでに20品目に到達していた。

それは、唐突にやって来た。

『天海春香、活動停止』

衝撃的なニュースが芸能界を駆け抜ける。ファンは騒然となり、お別れコンサートのチケットは、ドームという
考えうる最大限のキャパシティを持つ会場をもってしても、なお入手困難なプラチナチケットと化した。
俺も最初に聞いた時は耳を疑った。
どうやら聞くところによると、最初から活動期限が決められていたらしい。これは765プロの恒例だと言う。
おそらくは、これほどのメジャーアイドルになることを想定してなかったのだろう。
アイドルがそこそこに売れて、プロデューサーがそれなりの経験を積んだ時点で、その組み合わせを解消する。
人材育成という意味では、間違っているとも言えない方針だ。
過去にも例はあったのだろうが、それが話題になるレベルにまで達していなかった、それだけの話。
ただ、今回はトップアイドル天海春香ということで、話が大きくならざるを得ない。

そんな風に世間が騒ぎ立てる中、765プロでは、粛々とお別れコンサートに向けての準備が進んでいた。
いつものライブと同じ様に。

そして、ライブ当日―――――



――と言っても、俺はいつもの様に、裏方なのだが。
さて、そのライブ。
リハーサルでは不安な感じがあった春香さんだが、本番は、いつもの様に、いや、いつも以上に見事な
ステージングを披露していた。
お別れコンサートは、最高の形で幕を下ろした。
大成功だった、と言っていいだろう。

その後、いつもとは違い、スタッフ有志での打ち上げがあった。
主役である、春香さんとプロデューサーの姿は、そこにはなかった。
ライブ終演後、二人でどこかへ消えてしまったのである。
とは言え、今後の話もあるだろうし、それも自然な流れに思えた。
二人が、どこでどんな会話を交わしたかは、我々には知る由もない―――

――かに思われた。
その夜、帰宅した後で、携帯に一通のメールが届いた。
春香Pからだった。

『今から出てこれるか?』

俺は、不審に思いながらも返信した。
『大丈夫だけど、どうした?どこに行けばいい?』

『たるき屋にいる』

時計を見た。
間もなく深夜0時。
俺はとりあえず外に出て、タクシーを拾った。

「よく来たな。まあ飲め。」
たるき屋の暖簾をくぐると、春香Pから声がかかった。
「おう。とりあえずレモンサワーね。」
「俺は日本酒、ひやでもう一杯!コップで!」
すでにだいぶ飲んでいる様だ。
「大丈夫か?」
言いながら、カウンター席のPの隣に座る。
「ああ。飲んでるんだが、酔わないんだよ。なぜか。」
口調は軽いが、表情は暗い。
「酔いたいのに、な・・・」
そう言ったきり、空になったグラスを見つめて黙り込む。
そこに注文した酒が届いた。
ライブの成功を祝って乾杯、とも言える空気ではない。
俺は黙って一口飲んで、意味もなくグラスを振ってみた。
グラスを見つめたまま、春香Pが口を開く。

「春香に、告白された。」

「そうか。」
多少の動揺はあったが、予想の範囲内だ。俺は平然と応えたつもりだ。
「どうしたか、訊かないのか?」
「これから話すつもりなんだろ?」
「ああ・・・」
酒を手に取り、グッと一口飲み込む。はあ、とため息。
「振った。春香のことを。思いっきり、な。」
言い終えると、残った酒を一気に飲み干した。
俺は黙って、自分の酒をもう一口。
「それも、まるでデリカシーのない言葉で、だ。お前が前に、ここで言ったことが、ふと頭に浮かんでな。」
「俺の?」
「そうだ。『ヤバい意味じゃないだろうな?』って言ったんだよ。それをそのまま春香に返したんだ。」
思い返してみる。そんなことを言った様な気もする。
「はっきりと、そういう事はまずい、そんなつもりはない、って意味だったんだが、それにしても、ひどい
言い草だったと、自分でもそう思う。でもな・・・」
またしばらくの沈黙。

「でも、そうでもしないと、俺自身が、春香の事を拒絶しきれなくなりそうだったんだよ。」
言うなりグラスを持ち上げて、カウンター越しに、身振りで酒をもう一杯頼む。
「俺、はっきりわかった。俺は春香が、世界中の誰よりも、何よりも、大事だったんだ、って。」
やってきた酒をまたあおる。
「でも、やっぱり、春香を、親御さんを、周りのみんなを、裏切っちゃいけないんだよな。」
「ああ。お前はえらいよ。大したヤツだよ。」
心の底からそう思った。

「そうか!そう言ってくれるか!ありがとう・・・ありがとう・・・」
Pは安堵したのか、一気に酔いが来たらしく、いきなり泣き出した。
「春香ぁ・・・ゴメンよ、悲しませてゴメンよ、春香ぁ、春香ぁあああ・・・ううっ・・・」

互いに思い合う二人が、別れを迎えた夜だった。

それからしばらく・・・
春香さんが休養していることもあって、専属スタッフとしての仕事を失った俺は、どこかの神殿やギルドよろしく
社長室に出向き、ジョブチェンジを願い出た。
希望のジョブは、プロデューサー。
「うむ。いいねえ、どんどんやってくれたまえ!」
例によって、あっけなく受け入れられた。
「では、プロデュースする女の子を選んでくれたまえ。」
「社長、実はその件でちょっと。」
「なにかね?」
「春香さんが、そろそろ新たにまたアイドル活動を再開するそうですが、彼女をプロデュースさせて頂くことは
できないでしょうか?」
「ううむ・・・天海君か・・・。」
社長が珍しく即断を避ける。
「もしかして、すでに次のプロデューサーが決まっているんですか?」
「いや、こちらとしては、問題はないのだが・・・実は彼女は、今度の活動ではプロデューサーは必要ない、
とこう言ってきているのだよ。」
「え?そうだったんですか?!」
「うむ。天海君も、今や押しも押されぬトップアイドルだ。こちらとしては、プロデューサーがいた方が、
なにかと都合がいいのだが、彼女の意向を無視するわけにもいかない。そこで、だ。」
「はい?」
「君が彼女をプロデュースしたいと言うのなら、彼女自身に、君から了解を取ってもらえないだろうか?」
「僕自身から、ですか?」
「そうだ。事務所としては、彼女の意向を聞いている以上、強制するわけにもいかない。あくまでも、彼女が
納得した上でプロデューサーを付けたいと思う。」
「そういうことですか。・・・わかりました。」
「そうか!天海君は、明日久しぶりに事務所に来るそうだから、くれぐれもよろしく頼むよ!」


翌日。
俺は、多少緊張しながら、春香さんが来るのを待った。
やがて・・・

「おはようございます!」
聞き覚えのある、天使の様な声が事務所に響いた。まごうことなき春香さんの声だ。
「春香さん、おはようございます。」
「あ、スタッフさん。おはようございます。」
ぺこり、と頭を下げる。
「ところで、春香さん、ちょっと話があるんですけど、あちらの会議室の方に来てもらえませんか?」
「え?はい。」


「・・・ということなんだが。」
「じゃあ、あなたが私の新しいプロデューサーさんですか?」
「春香さんさえよければ、だけどね。一応、春香さんが今後プロデューサー抜きで活動したいとは聞いて
いるんで、春香さんが了解してくれることが条件になってるんだ。」
「私が、了解すれば・・・ですか・・・」
春香さんは、ちょっと悩んだ風を見せた。
しかし、それも一瞬で、すぐにニコッと春の花の様な笑顔を咲かせる。
世界を光で満たす、天使の笑顔だ。
そして、世界に彩りを与える天使の声で答えた。
「絶対イヤです♪」


/Fin.