世界はキラキラ


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 更衣室の私のロッカーには、
 子猫の生首が入っていた。
「…………」
 よく見てみたところ、本物ではなかった。ただ、一瞬本物だと見紛う程度にはリアルで、
血糊の飛び散り具合と飛び出た眼球が実に気持ち悪い。これがロッカーにあるということ
自体が悪趣味なのは変わりなかった。
 私が手に持つ生首を見て、隣のアイドルが小さく悲鳴をあげた。
「……フン」
 近くのゴミ箱に生首を投げ捨てて、私は衣装へと着替えた。
 オーディションの前にこんなイタズラをされたら、普通のアイドルだったらテンション
が下がって、歌う気分ではなくなってしまうかもしれない。
 けれど私の精神は乱れない。もう、慣れてしまった。

 こんなイタズラをされるのは、一度目じゃないから。

* *


『合格者――二番、東豪寺麗華さん。五番、桜井夢子さん。この二人です。あとは帰って
もらって結構です』
 私は汗を拭いながら、ふぅと息をついた。
 オーディション会場――審査が終わって、スピーカーからそんな声が流れる。
“桜井夢子”という私の名前が、ある。今日もなんとか勝つことができた。
 ……“イタズラ”をしなくなってからは、だんだんと合格するのが難しくなってきた。
それでも日々レッスンに励み、何とか実力をキープしている。

 オーディションが終了し、そのあとのテレビ収録も終えた。
 クリーム色の廊下を歩きながら、やれやれと息をつく。今日の仕事は成功と言ってもい
いだろう。とりたてて大きなミスはなかったし、うまく知名度もあげることができた。
 なのに私の気分は、まるで明るくなかった。厚い雲に包まれた空のように、暗鬱として
いた。ずぶずぶと、一歩ごとに泥土の中に沈んでいくようだった。
 と。対面から、一人の女性が歩いてきた。
 彼女は……そうだ、さっき私と一緒のテレビ番組に出た、東豪寺麗華とかいったか。ロン
グヘアーが印象的な、冷たい雰囲気の美人だ。
「お疲れ様、桜井夢子さん」
「お疲れさまです」
 透き通った、優雅な声で挨拶される。私も形ばかりの笑顔を作って返した。
「あなたの実力でオーディションに勝てるなんて……すごいわねぇ? どんな魔法を使った
の?」
「…………」
 一転して、彼女は意地の悪い笑顔になった。切れ長の目と形のいい唇を歪め、嫌らしく嘲
笑する。
 甲高い靴音を立てながら、私に歩み寄って、
「私は、」
 すれ違いざまに、耳打ちしてきた。

 ――あなたのやったことを、知っているわ。

「さようなら」
 そんな言葉を残して、彼女は去っていった。
 私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

* *


「久しぶり、涼」
「うん、久しぶりだね。一ヶ月ぶりくらい?」
 午後八時。レストランで私と涼は向かい合っていた。
 涼はTシャツにジャケット、ズボンと代わり映えのない格好をしている。他に服を持って
ないのか、と突っ込みたくもなる。少し、多少、ちょっとだけ、いつもよりお洒落をしてく
る私がバカみたいじゃないか。
 彼女――もとい、彼が“オールドホイッスル”で男であることをカミングアウトしてから
しばらく経った。涼が男の格好をしているのも最近は慣れてきた。
 しかしながら、ぱっと見てそんじょそこらの女性より艶のある肌をしていうのは、実に腹
立たしい。
「なによ、その荷物」
 仕事が終わって直接来たのだろうか、涼の隣には二つ紙袋が置かれている。チラリと隙間
から見えるものは……服、だろうか?
「あ、あはは、気にしないで」
 触れられたくないのだろうか、涼は話題を逸らす。
「夢子ちゃん、仕事のほうは大丈夫?」
 まっすぐに、曇りのない眼差しで私を見つめる涼。
 一瞬、ロッカーにあった、子猫の生首がフラッシュバックする。
 東豪寺麗華の一言がリフレインする。
「大丈夫なわけ、ないわよ。結構辛いわ」
「……そう、なんだ」
 声のトーンを落として、涼は言った。
「えぇ。今までズルしてたツケ、払わなくちゃいけないからね。勝てたり勝てなかったりで、
鬱になりそうだわ」
 頭をかきながら、それでも私はにやりと笑ってみせた。
 ……人を騙すときのテクニック。嘘をつくときは、限りなく真実に近いものが一番いいの
だという。
 確かに今の私は辛い。辛いが、勝てないことが辛いのではない。
 けれど涼は鈍感だから、きっと騙されてくれる。
 こんな奴に、私のことで心配なんてさせてやるもんか。
「何か、僕にできること、ないかな」
 涼はおそるおそるといった感じで聞いてくる。上目遣いなのがいじらしい。
「あるわ」
 私は言った。伝票を持って立ち上がった。
「さ、行きましょ」
「ど、どこに?」
「いいところよ」
 冗談めかして言ってはみたが――
 涼の笑顔が曇った。
 私はそれに気づかないフリをして、彼の手を引っ張った。

* *


 向かった先はホテル。といっても、“純粋な宿泊施設としての”ホテルではない。主に男女
が連れだって入るようなところだ。
 シンデレラ城みたいな、大仰な建物の中に、私は涼の手を引っ張りながら入ってゆく。
 ……こういった場所に来るのは、初めてではない。
 誘ったのは私からだった。なんとなく“そんな”雰囲気になったときに、“そういう”ホテ
ルがあったから、ノリで入ってみたらそのままいたしてしまった。ただそれだけの話。
 最初のときはまぁ、雰囲気もあったし悪くはなかった。私も涼も初体験だったけど、“行為”
を何とか形にできた。
 けれど、今の私たちに、そんなしあわせはなかった。

 饐えた匂いがする部屋。雰囲気作りなのか、薄暗い照明の中。
 やたらスプリングがギシギシと鳴るベッドの上で、私たちは不器用に求め合う。
 震える手でお互いの服を脱がす。キスをする。手を繋ぐ。
 抱きしめ合う。
 でも、言葉は交わさない。
 ただ、無言のまま繋がり続ける。
 ――私たちは別に、恋人同士じゃない。
 私も涼も、告白し合って正式にお付き合いをしているわけじゃない。
 だからこれは、一種の火遊びのようなもの。
 男性アイドルとしてデビューし直し、人気を博している“秋月涼”が……“桜井夢子”とい
うぱっとしないアイドルと、ホテルに入っているところを激写でもされたら、大問題になるだ
ろう。
 だけど涼は黙ってついてきてくれる。そのリスクを抱えてもなお、私が望むままにしてくれ
る。
 辛そうな顔をしているけれど、とても優しく抱いてくれる。
 まるで壊れものを扱っているかのように。
 ――私は私を傷つけたくて、涼に代わりにやってもらっているだけの卑怯者なのに。
 涼のくれる温もりは、あまりにもあたたかすぎて――

「……夢子ちゃん、泣いてるの?」
 動きを止めて、涼が心配そうにこちらを見た。
 私はそれ以上言って欲しくなくて、涼の細い首を強引に抱き寄せて、唇を塞いだ。
 涼は、私を抱きしめたままでいてくれた。

* *


 辛いのは、イタズラを受けることじゃない。

 一週間経って、私はまたオーディションを受けることになった。
 受かれば知名度をぐっとあげられる、そんな大きなオーディションだ。
 今日の空は気持ちいいくらいに晴れていたが、相変わらず私の心は曇天だった。
 オーディションが行われるテレビ局の前に着く。参加者なのだろう、入り口付近にはアイド
ルらしき女性が多数いる。
 そんな中、
「涼?」
「夢子ちゃん?」
 女性の中に紛れて、ロビーに入ろうとする涼がいた。いつも通りの私服だが、この前の二つ
の紙袋を抱えている。
「同じオーディション……なわけないわよね」
「うん。僕はバラエティ番組の収録」
 そう言う涼は、どこか憂鬱そうだった。髪をくるくる手で巻きながら、目を伏せている。
「どうかしたの?」
「ううん、別に。お互いがんばろうね」
 涼は笑顔を作って、手を振りながらテレビ局に入っていった。
「……変な奴」
 何か嫌なことでもあったのだろうか。
 まぁ、いい。私も気合いを入れ直さなければ。
 涼に会ったことで、少し気分が明るくなっていた。
 頑張ろう、と呟いた。

* *


 事件は、オーディション開始前に起こった。

「ないっ!?」
 控え室に、そんな声が響きわたった。
 一人のアイドルが控え室に入ってきて、バッグを開くやいなや、そう言ったのだ。
「私の、靴がっ!」
 靴?
 オーディションでは、当然普段履いている靴で踊るわけにはいかない。動きやすい、換えの
シューズがないと言っているのだろう。
「私が、トイレ行ってる間に……! 誰か、知らない!?」
 控え室にいる他のアイドルたちが、顔を見合わせる。
 当然私は何も知らない。控え室にはついさっき来たばかりだし、置かれていた彼女のバッグ
のほうはほとんど見なかった。
 というより、オーディション前、他人の持ち物など誰も気にしてはいないだろう。例え誰か
が盗んだとしても、分かったかどうか。
 控え室は気まずい沈黙に包まれた。靴を探しているアイドルは、焦った顔で周囲を見回して
いる。
 ――あぁ、かわいそうだな。
 そう私が思ったとき。
「そういえば」
 流麗な声が発せられた。
 声は、東豪寺麗華の声のものだった。
 彼女も、このオーディションに参加していたのか。
「あの子が、あなたのバッグの近くで何かやっていた気がしたわ」
 そう言って、彼女が指差したのは――
 私だった。
「――え?」
 一瞬訳が分からなかった。何故私が、麗華に指さされているのか。
「あなたが、やったの?」
 アイドルが、私へと詰め寄ってくる。
 その瞳に、はっきりと怒りの感情を宿して。
「どこに、やったの?」
「ちょ、ちょっと待って。何で私があなたの靴を取らなきゃいけないの?」
「返してよ……ねぇっ!?」
 風船が割れたような怒鳴り声だった。彼女は今にも私に掴みかからんばかりだ。
「私は、やってない! 勝手に決めつけないでよ! そもそも理由がないじゃない!」
「あるじゃない、桜井夢子さん」
 横から、張りつめた空気をものともしない、麗華の声。
「あなたには、あるじゃない。ねぇ?」
「……どういうこと?」
 そう聞いたのは私ではなく、私に詰め寄るアイドルだった。
「知らないの? そこの桜井夢子さんはね、ちょっとしたイタズラをして、他のアイドルを邪
魔しちゃう、困った子なの」
 麗華を見る。遙かな高みから、嘲笑するような目だった。
 ――麗華は私を知っている。私がやっていたことを、知っている。
「証拠は、……あるの」
 私の口から出た弁解は、そんな間抜けなものだった。麗華の目を見ていられなくなって、視
線を逸らしてしまった。
「ないわ。ないけど、私はあなたがバッグに近づいているのを見た。そして、あなた以外の人
は近づいていない。それで十分じゃない?」
 麗華は、白々しくそう言い放った。
「私は、やって、」
「ふざけないでよッ!」

 今度こそ、私はアイドルに掴みかかられた。首を絞めかねない勢いで、襟を引っ張られる。
「返して! ねえ、返してっ!」
 彼女の瞳には怒りだけではなく、涙も浮かんでいた。
 このオーディションに、何か大切なものでもかかっているのだろうか。返して、返してとう
わ言のように繰り返す彼女は、哀れだった。
「いい加減観念したら? 見苦しいわよ、桜井夢子さん」
 口調に憤りを含ませて、麗華が言った。けれどそれは演技だろう、目の奥にはサディスティ
ックな光がある。
「私、は――」
 周りの雰囲気が、無言で私を犯人だと決めつけている。
 いっそのこと、認めてしまおうか。
 そう思った、そのとき。

「夢子ちゃんは――僕と一緒にいました」

 控え室の入り口のほうで、そんな声がした。
「……え?」
「さっきまで僕とずっと一緒でした。だから、靴なんて盗る暇はありません」
 そこに立っていたのは……
 スカートタイプのステージ衣装に身を包んだ、涼だった。
 麗華や被害者のアイドルとはまったく別の、静かな怒りを口調に込めて、そう告げた。
「……秋月涼さん。本当ですか?」
 麗華が低い声で問う。驚いているのだろうか、表情が固まってる。
「えぇ。僕とロビーでジュースを飲んでました。盗れるわけ、ないです」
 それは、嘘だ。涼と会ったのはテレビ局の入り口だけで、彼は番組の収録に向かったはずだ
った。
 しかし嘘でも、人気アイドル“秋月涼”が発した言葉の効果は絶大だった。
 芸能界は縦社会。遙か上の存在である涼の言葉は、それなりの力を持っている。
「きっと、どこかに落としちゃったんじゃないかな。僕も探すよ」
「い、いえっ! 秋月さんにそんなことしてもらうわけには……!」
 靴を盗られたアイドルがぶんぶんと首を振る。
「いいって。靴がないとオーディションでどうしようもないもんね」
 涼は微笑み、彼女へと近づくが、
「……あなたたちは、いつも一緒にいらっしゃいますね」
 麗華の冷たい声が、涼を遮った。
 まだ彼女の目は諦めていなかった。涼の隙を探すように、目を細めている。
「何か、僕と夢子ちゃんが一緒にいて悪いことでも?」
 訝しげに涼は聞き返す。
 私は嫌な予感がしていた。
「いーえ、いえいえいえ、そんなことはありません。ただ――」
「ただ?」
「秋月さんは、実は男性なんですよね? ナーバスになるオーディション開始前に、男の秋月
さんと女の桜井さんが会っている。ふふ、不思議なものですね?」
 ……そういう切り口で攻めるつもりか。
「ひょっとして、付き合ってたりするんですか?」
 それはとどめの一言だった。
 つまり。私と涼の関係を追求されたくなければ、引け、と言外に言っているのだ。
 認めてしまえば、アイドルたちしかいない控え室での発言とはいえ、噂としては広まってし
まうだろう。スキャンダルに発展しかねない。
 しかし否定してしまえば、私のアリバイが不自然なものになってしまう。
 実に狡猾な攻め口だった。
「涼――」
 もういいからやめて。
 そう言おうと、口を開きかけた、

「はい。僕と夢子ちゃんは、付き合ってます」

 前に。
 涼は、言った。
 聞き間違えのないように、一言一言、はっきりと。
「な――」
 控え室が今度こそ沈黙に包まれた。
 あまりの堂々とした発言に、麗華は唖然としている。
 けれど涼は表情を少しも崩さずに、毅然としていた。
 靴を盗られたアイドルはおろおろしている。

 私は――
「……りょ、う」
 もう、耐えきれなかった。
「……っ!」
 走った。
 走って控え室を飛び出した。
 廊下を駆け、階段を下り、
 テレビ局を飛び出した。

* *


 ぼんやりと道路を歩く。もうオーディションには間に合わないだろう。間に合ったとしても、
どうでもいい。
 ――辛いのは、イタズラをされることでも、その罪を押しつけられることでもなくて。
 過去に同じことをしていたという、自分の罪の重さを見せつけられて、恐ろしくなることだ。
 ようやく思い出した。麗華は、私が友達面をして近づき、陥れたアイドルだ。涼と違って、彼
女は私のイタズラにくじけて、オーディションに勝つことができなかった。
 彼女にどんな心境の変化があったのか分からない。けれど今、彼女はイタズラを仕掛ける側に
回っている。
 それをけしかけてしまった、桜井夢子の罪の重さがひたすらに苦しい。
 それに。
「涼……」
 涼だけは巻き込みたくなかった。
 私の罪は、自分で受け止めなければならなかったのだ。
 私との関係を告白した涼。
 ――涼に寄りかかり、慰めを得ていた私は、そんなに彼の重荷になっていたのか。
 嫌だ。涼に迷惑はかけたくない。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ――。
 涼は私の夢だ。私の憧れだ。私の誇りだ。
 それを、“桜井夢子”なんてモノで、汚してはいけないんだ。

 気づけば、スクランブル交差点にまで来ていた。
 駅の前にあるこの交差点は、まるで時間が早回しされているかのように、激しく車が行き交う。
 今は赤信号だった。信号を待つ人々が、続々と私の後ろに並んでゆく。
 ――ふ、っと。ある考えが頭をかすめた。
 このまま目を閉じて、横断歩道に足を踏み出してみれば。
 きっと、みんな楽になるんじゃないだろうか?
 涼は重荷から解放されて、麗華は私への復讐を果たす。
 それでいい。ハッピーエンドだ。考えれば考えるほど、名案に思えてきた。
 何を躊躇う必要がある?
 私は――
 堅く目を閉じて、
 赤信号へ、
 足を、
 踏み、
 出、
「――夢子ちゃんっ!」

 せなかった。
 誰かに後ろから抱きすくめられて、動きを止められたからだ。
 通行人がたくさんいる交差点なのに、その誰かは、構わずに腕に力を込めた。
「夢子ちゃん。ダメだよ」
 涼の、声だった。
「……離し、て」
 私はもがくが、意外なほどに強い力で抱かれているので、動けない。
「離して! 離して……!」
「嫌だ」
 涼は静かにそう言う。
「私、涼のことが嫌いなの! 迷惑なの! ずっとずっと嫌だった! 遊んであげてたの、気づ
かなかったの!? バカね、本当にバカだわ!」
 何を言っても、腕の力は緩まない。
「だから、お願いだから、離し、て……」
 視界が歪んできた。何なんだろう、これは。
 まさか、泣いているんだろうか、私が?
「僕、」
 涼が言った。優しい声で。
「夢子ちゃんのこと、好きだ」
「――――――え?」
 雑踏の中。
 周囲の時間が停止して、総てが灰色になって、世界は私と涼だけになった。
「だから、離したくない」
 涼の声は震えていた。
「……なんで、私、なの」
 少しの間のあと、彼は答えた。
「さっき、僕、スカート衣装だった」
「……?」
 そういえば、そうだった。控え室に入ってきた涼は、女性アイドルとして活動していたときの
衣装だった。
「今日の番組のために、女物の服を、いっぱい持っていかされた」
 数日前に涼と会ったとき、彼は大量の紙袋を持っていた。
「……僕はまだ、“女のアイドル”として求められてる。もちろん表向きのオファーは、男性とし
ての秋月涼だけど――まだ、女性用の衣装を着させられるよ」
 涼はそんな弱音、私に一言も吐かなかった。
 今までずっと、一人で耐えてきたのだ。
「だけどね。夢子ちゃんは、僕に変わらず接してくれる。僕が男だって、認めてくれる」
「……それは、」
 違う。私はなし崩し的に涼を求めていただけで、そんな意図は、ない。
「分かってる。ちゃんと、分かってるよ」
 でもね、と涼は続ける。
「闘えるんだ。先が全然見えなくて、不安だけど――夢子ちゃんがいるから、僕は闘える」
 涼は、私を抱きしめる腕に力を込めて。
「だから、そんな哀しいこと、言わないで」
 彼の声は、はっきり分かるくらいに震えていた。
 泣いているんだろうか。
 私のために。
「バカ……涼の、バカ……」
 はたしてバカはどっちなんだろうか。
 私は体の力を抜いて、涼に身を任せた。
 そのまま、しばらく泣き続けた。

* *

 今日、テレビ局でオーディションが行われる。
 かなりハイレベルなオーディションだ。参加者は全部で十人で、合格は二枠。厳しい闘いだ。
 その、更衣室。
 電灯は消され、部屋の中は暗い。何も見えないそこに――
 きぃ、とドアが開き、誰かが入ってきた。
 誰かはロッカーの一つを開けて、ごそごそと何かをやっている。
 ――私は電灯のスイッチを入れた。
「!?」
 白く光り出した電灯が照らす人影は、
 東豪寺麗華のものだった。
「……桜井夢子」
 彼女は、さっきからずっと、壁に寄りかかっていた私を睨む。その表情に慌てたものはない。
 私は彼女がいじっていたロッカーに近づく。彼女が手に持っていたのはワセリンで、ロッカーに
入っていた靴の、底に塗っていたようだった。
「まぁ大体分かってたけど、あなただったのね」
「……それが、何か?」
 フン、と麗華は鼻を鳴らして髪をかきあげた。
「私が大声をあげて、あなたがイタズラしてるところを見た、と言ってもいいのよ? 桜井夢子さ
ん」
 なるほど。私に見つかっても実害はない。麗華らしい、狡猾な作戦だと思った。
「前科のあるあなたと、八方美人な私。みんなはどっちを信じるかしら?」
 勝ち誇ったように笑う麗華。
 しかし。
「すれば?」
「……え?」
「あなたには私にイタズラをする権利がある。だから、好きなだけするといいわ」
「……」
 淡々と認める私を不審に思ったのだろうか。麗華は目を細める。
「けどね」
 私は再びロッカーを覗きこむ。そこは私のロッカーではない。誰か別の、知らないアイドルのも
のだ。
「私以外の誰かにするのは、やめておきなさい。それはもう仕返しじゃないわ。あなたは、昔の私
に成り下がってるだけ」
「……ふざけないで」
 低い声で、麗華は言った。顔は俯き、拳を震わせながら。
「あなたに何が分かるの! 私はあなたのせいでオーディションに負けた! 負けちゃいけないオー
ディションだった! そのせいでこんなランクでくすぶってる!
 桜井夢子さん、あなたが教えてくれたことよ! オーディションで勝つために何をしてもいいっ
てね! それの何が悪いの!」
「……そうね。返す言葉もないわ。私も昔、そう思ってたから」
 けど、と私は問いかける。麗華をまっすぐ見て。
「それであなたは、何かを得られたの?」
「――――」
 麗華が口を閉ざした。
「私は得られなかった。総てを失う羽目になったわ。プライドも、アイドルを志した動機もね」
 ふぅ、と息をつく。
「……私の知り合いに、どうしようもないバカな男がいるの。あいつは“闘う”って言ってたわ」
「闘う……」
「そう。闘う。芸能界は嫌なことだらけよ。差別と偏見に満ちてる。隣を見れば足の引っ張りあい。
……でもね」
 そんな中でも、秋月涼は、いつだって輝いている。
「私は、涼の隣を歩けるようになりたいの」
 だから。
「私には、好きなだけイタズラをするといい。いくらでも耐えてみせる。……その上で、実力だけ
でのし上がってみせる。それが、私の闘いよ」
 私は麗華の顔を見ずに、踵を返す。
「イタズラして、ごめんなさい」
 最後にそれだけ言って、私は控え室を出ていった。
 背後から、麗華のすすり泣きが聞こえてきたが、きっと気のせいだろう。

* *


「……それで、その子は結局どうなったの?」
「さぁね。少なくとも、イタズラしてるって話は聞かなくなったわ。この前レッスン場で見かけた
けど、ちゃんと努力してるみたいよ」
「そっか。よかった」
 二人で会話をしながら街を歩く。
 涼は私の隣でにこにこと笑っている。

 あれから一週間後。控え室にて涼の交際カミングアウトがあったり、スクランブル交差点にて公
衆の面前で私を抱きしめたりと、マスコミが食いつきそうな事件を起こし、しばらくはその後始末
に追われていた。
 涼が所属している876プロが上手く護ってくれたらしい。“抱きつき事件”は、ドラマの撮影
ということになっているようだ。
 それから控え室での涼の爆弾発言については……特に噂になってはいないようだった。あの場に
いた全員が、口をつぐんでくれているのだろうか。
 よく分からないけれど。
 めでたしめでたし、なんだろうか?
「夢子ちゃん」
「……なによ」
 涼の前で本心を明かしたことを思い出して、恥ずかしくなった。自然と口調がぶっきらぼうにな
ってしまう。
「あの、ね」
 と、涼はどこか煮えきらない。女の子みたいに、体をもじもじさせている。
「……まだ、返事、聞かせてもらってないけど」
「え?」
 返事? 何か涼から誘われただろうか?
「何の、話?」
「え――だ、だから、僕、夢子ちゃんに、こ、告白、したんだけど……」
 顔を赤くして、涼は言った。
 ――ようやく合点がいった。
 つまるところ。この男は、
 まだ、私の気持ちに、気づいていないわけだ――!?
 呆れた。呆れ果てた。こんなに呆れたのは生まれて初めてだった。
「一生、悩んでなさいっ!」
「え、ええーっ! ひどいよぉ、今日すっごく緊張してたんだよぉ!?」
 私は涼を追い越して、早歩きで道を行く。
 彼は慌てて私を追いかけてくる。

 ――まだ、私は涼の隣を歩けないな。
 だから、手を繋ぐのはまたこんど。

 闘わないとな、と思った。
 これからも色んなことがあるだろう。過去の罪は、まだまだ私を縛るだろう。
 けれど、それでいい。私はきっと、闘ってゆける。

 それに――

「待ってよ、夢子ちゃーん!」
 こっちも、闘いだ。
 この優しい朴念仁に、私の気持ちがちゃんと伝わるまで。


 空は突き抜けていて。
 きっと、
 世界はキラキラ輝いている。



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