気づいてほしい


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 音無小鳥はたった今閉まったばかりのドアを見ていた。アイドルを何人も担当しているせいで、
あんなに忙しいというのに、プロデューサーである彼は一日に何度も会社に戻ってくる。
だがその滞在時間はごくわずかで、今しがたちらりと姿を見かけたと思ったら、もういなくなっている、
そんなすれ違いのようなコンタクトばかり。ずっと以前のように、仕事もそんなになかったころなら、
へたをすると一日中会社で彼と一緒だったこともあったのに。小鳥は会社の繁盛と、しじゅう彼の顔を
見られることを天秤にかけたらどっちが重いだろうと、ボールペンを片手に持ったまま考えた。
 でも彼はどうしてそんなに頻繁に会社に帰ってくるんだろう。どう考えても、現場から現場へ
移動した方が便利で早いはずなのに、わざわざ遠回りをしてまで、会社を経由して行くことが非常に多い。
何か理由でもあるんだろうか…たとえば、誰かに会いに来ているとか…。
 小鳥はそこまで考えて、首を振った。今うちには朝から晩まで常駐しているようなアイドルはいない。
まさか…いやそんなことはない。小鳥はもう一度首を振り、頭にちらりと思い浮かんだ、自分に都合のいい
考えを追い払おうとした。彼はもう一流のプロデューサーだし、彼の手がけたアイドルも彼のことを
みんな慕っている。業界でもすっかり名の通った人になってしまい、他社のアイドルの中にも、彼の事が
好きと公言している人さえいるくらいだ。そう、彼はなじんだこの会社が好きなのだろう、多分。
自分をここまで育ててくれた社長を敬愛しているのだ。それだけのことだ。小鳥はため息をつくと、
また自分の仕事に戻った。
「ただいまー」
 お昼を過ぎて、また彼の声が、人の少ない事務所に響いた。午前の仕事が終わっても、午後の
仕事場所へ直接向かわず、また一度ここへ戻ってきたようだ。
「おかえりなさい」小鳥は彼に向かって首をかたむけた。
「あー、腹減りましたよ」彼は手近なイスに腰を落とした。
「え、お昼まだなんですか?」
「そうなんですよ。ちょっと時間なくて食いっぱぐれちゃって」
「私もさっきまで電話に追われて、お弁当食べてるひま、なかったんです」小鳥は期待のこもった声を
出した。
「あ、じゃあオレ、自分の分をなんか買ってきますから、お昼一緒に食べませんか」
「はい、それじゃ私、お茶をいれておきますね」小鳥はいそいそと立ち上がった。彼の仕事が忙しいとはいえ、
今日のように、たまに昼ご飯を一緒に食べたりすることもあるし、午後のお茶を一緒に楽しむこともある。
単なる同僚同士の付き合いでしかないのに、小鳥はいつだってどきどきしてしまう。

「小鳥さん、お茶、ごちそうさまでした。それじゃ、行ってきます」プロデューサーはお昼を終えると、
また出かけて行った。
「行ってらっしゃい」
 小鳥は閉まりかかったドアに向かってそう言ってから、彼の湯飲み茶碗を片づけようと立ち上がった。
手に取った彼の茶碗をじっと見つめ、小鳥はまたため息をついた。果たして、自分の気持ちに彼が気づいて
くれることはあるんだろうか…。見たところ、彼は小鳥の気持ちには全く気づいていないように思われた。
それはもちろん自分にも責任がある。あまり表だってそんなそぶりを見せてしまうと、社内にもいろいろ
影響が出るだろうし、第一、そのことで彼の態度が逆によそよそしくなってしまったりしたら、それこそ
目も当てられない。
 こちらから好きだというそぶりは見せることができないのに、相手には気づいてもらいたい、小鳥はそんな
歯がゆさをいつも感じていた。しかも、彼はこういうことに関してはとても鈍感らしく、小鳥の気持ちを
汲んでくれることなど、ありそうにもなかった。
 いや、それを言うなら、社長だって、あまり自分たちの気持ちを理解してくれていないことが多い、
小鳥はそう思っていた。
 自分が早く帰りたがっている時に限って、社長は仕事をたんまりよこしたりするし、またそんなときに
限って、誰も手伝ってくれる人がいなかったりする。
「あの、社長、実は今日、私…」
「おお、音無君、いつもすまんね、じゃあ私はちょっと用事があるから、先に帰らせてもらうよ」
「あの社長、明日なんですけど…」
「そうそう、明日は特に忙しいから、音無君、君もがんばってくれたまえ」
 とまあ、そんなことばかり。いったいこの会社には、人の気持ちをちゃんと理解してくれる人は
いないんだろうか…。小鳥は「はあ…」と声を出してもう一度ため息をつき、茶碗を片づけてから
仕事に戻った。たまに鳴る電話を受けながら、彼女は広い事務所でただ一人、黙々と仕事をし続けた。
 一段落ついたところで、小鳥は立ち上がって大きくのびをし、ちょっと気分転換でもしようと、
誰かが読み捨てていったらしい雑誌を手に取った。後ろの方からぱらぱらとめくって見て、持っている本が
結婚情報誌だったことにちょっとびっくりしたが、そのまま読み続けた。
「あれ、小鳥さん、その雑誌って…」
「えっ!」
 いつの間にか、またプロデューサーが事務所に戻ってきていた。小鳥は雑誌を乱暴に隣のテーブルに置いた。
「や、やだなあ、プロデューサーさん、どんなことが書いてあるか、ひまつぶしに読んでただけですよ」
 そう言った彼女のデスクの上には、まだ処理を待っている書類の束が山のように並んでいて、とても
ひまそうには見えなかった。ところが、彼はそんなことを気にもせず、さっきの結婚情報誌をじっと見つめ、
何か考えているようだ。

「午後のお仕事は終わったんですか?」小鳥は話を変えようとした。
「ええ、あとは夕方にスタジオ入りするだけです」
 プロデューサーはそう答え、さっきの情報誌をまたちらりと見た。それから顔を上げ、真剣な表情で
小鳥に話しかけた。
「小鳥さんは、ずっとこの会社にいるつもりなんですか?」
 小鳥はちょっとカチンときてしまった。この会社で仕事をするのは確かに楽しい。彼が入社してからは
なおさらだ。だがその彼自身からそんなことを言われた小鳥には、
『ずっと独身のまま過ごすつもりなんですか、小鳥さんは。いやいや恐れ入りました』
という皮肉のように聞こえてしまった。だれも好きこのんで独身を貫き通しているわけではないというのに。
しかも他ならないプロデューサーがそれを打ち破ってくれたら、こんなうれしいことはないとさえ思って
いるのに。
「いるつもりはありません」小鳥はぷいっ、と顔をそむけて言った。
「えっ」プロデューサーは少しうろたえたように見えた。小鳥はそれを見て、自分が生涯独身の上に、
ずーっとこの会社にいるものだと、プロデューサーがはなから決めつけているように思え、ますます
意固地になってしまった。
「わ、私だって、その気になったら、なんとかなるんですよ?」
「えっ」プロデューサーはまた言った。小鳥はどうしてそんなに驚くんですか、私がそんなこと言ったらそんなに変ですか、とまたまたカチンときてしまった。
「それじゃお聞きしますけど、プロデューサーさんは、私が結婚して退社するのと、ずっと会社にいるのと、どっちがいいと思ってます?」
「え?そ、そりゃ…いやでも、ええと…」彼はしどろもどろになった。
「どっちです?」
「その…結婚しても会社にいるほうが…」
「それは無理じゃないでしょうか。私だって、うちでダンナさんの帰りを待っていたいですしね」
 小鳥はえへん、と胸をそらした。制服のボタンが、きゅっ、と悲鳴を上げた。
「い、家じゃなくて、か、会社で待ってるっていうのはどうでしょう?」
「はい?」小鳥は彼が何を言いたいのかわからず、ぽかんとしていた。
「あ、いや、その…いいんです、気にしないでください」彼は疲れたように肩を落とすと、壁に
もたれかかった。「自分の言いたいことを正確に人に伝えるのって、むずかしいもんですね…」
「うちの会社って、人の気持ちに気づかない、ニブい人ばかりですもんね」小鳥は少し皮肉を込めて言った。
「それって、小鳥さんも入ってますよね?」彼は苦笑いしたまま、右手で指鉄砲を作ると、小鳥に向かって
撃つまねをした。



end.