武田氏2.25


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武田蒼一は何につけても凄いことで評判であった。

耳目をふさいで胸を掻き毟るような謂れなき中傷を浴びても、また、準備に3ヶ月かけたプロジェクトが頓挫しても、
あまつさえ男性ファンから熱烈な支持を受ける女性アイドルが実は男性であったとしても。

彼はいつも眉ひとつ動かさない。

ただ一言、呟くのみだ。

「ほう」と。

彼の人外じみた人格者ぶりは、話に聞くばかりではいかにも真偽を疑われそうなものだが、実際に彼に会った者はみな納得するという。
……ああ、この人は凄いのだ、と。

なんだか分からないけど、この人は底知れぬ何かを知っていて、常人には考え付かぬ何事かを常に考えているのだ……。
そういう風に感じさせる風貌をしているのである。掛け値なしに。



さて、ある日の風景(こと)である。
武田蒼一はさる人物に会うため、とある芸能事務所へと足を踏み入れた。


――ボエ~


突然、声が聞こえた。彼は眉をひそめた。外見からは分からないが、心の中でひそめた。

武田蒼一は声の主に近づき、話しかけることにした。

「ちょっと、君」
「は、はい?」

声の主は振り返った。ボーカルレッスンを中断され、少し驚いている。
武田蒼一は静かに話を続ける。

「君は今……音取りに苦戦しているようだね」
「ど、どうしてそれを!?」
「やはり、そうか。……僭越ながら、軽く助言を」
「はあ」

武田蒼一は薄く微笑むと(外見からは分からない)、歌っていた少女の目の前の楽譜をつまんだ。
そしてそれを上下逆さにした。

「こ、これはっ」
「そう、逆だ」

少女は何度も頭を下げた。どうりで楽譜が読みづらかった筈である。

――ボエ~

声の源を離れながら、武田蒼一は微笑んだ。人を惹きつける歌が大好きであった。

数分後となる。

武田蒼一は水も滴るいい男だ。
というより濡れ鼠になっていた。

それは通った廊下が水風船の飛び交う戦場だったことが主な理由である。

廊下のあちらとこちらに分かれて、瓜二つな女の子ふたりが投げ合っていたのだ。
当人たちの言葉を拾うに、これは双子の戦いらしい。

どうしたものかと武田蒼一は考える。立ち止まって考える彼の後頭部に、流れ弾。
革靴の中まで水浸しである。

…そうこうするうちに調停者がやってきた。


――亜美、真美!民間人を巻き込むなっていつも言ってるでしょう!

――わ、りっちゃんだー!真美、ここは一時休戦だよう。

――合点だよ亜美!煙幕よォーい!

――おーまーえーらァァァァ


双子の放ったロケット花火が嵐のように室内を飛び交う。
それをものともせずに走り抜けるメガネの娘、かなりの美少女なだけにある種の残念さを武田蒼一は感じた。顔には出さない。

騒ぎが遠のいてから、彼はふっと息をついた。それから呟こうとした。

「ほぅっくしょん」
びしょ濡れだ。すこし寒い。


「そこな、殿方」
また歩いていくと、武田蒼一は突然何者かに声をかけられた。そいつは気配をまったく感じさせず、そこはかとなく不気味である。

「ほう、誰だい」
だが彼の表情は動かない。武田蒼一だから。

「申し遅れました、わたくしは四条貴音。アイドル業を営んでおりまする」
「ほう、これはこれは」
「貴方様は」
「僕は武田蒼一。名乗るほどの者ではない」
「よく分かりました」

ひゅん、と風の切る音をさせ、四条貴音が目の前に移動した。
人間らしからぬ速度だ。だが武田蒼一は微動だにしない。

「面妖だね」
「お褒めに預かりまして」
それからいきなり、四条貴音は一瞬にして着替えをした。
目にも留まらぬ速さ。肌色が見えたか、見えなんだか。
ともかく彼女は割烹着に着替えたのだった。

「これは一体」
「わたくし、自主的にこの事務所のがーどをしておりまする」
「ほう」

「まずはこちらをお見舞い」
「ほう」
四条貴音がどこからか取り出してきたちゃぶ台に、湯気のあがる博多風ラーメンが置かれた。

「これは一体」
「召し上がれ」
「なるほど」

ちょうど小腹が空いていない所だったが、四条貴音には有無を言わせぬ迫力があった。
武田蒼一はちゃぶ台の前に座り、割り箸をとった。
紅しょうがの器を手に取り、ひとつまみ、ふたつまみ、ラーメンの上に載せる。四条貴音は対面に正座して固唾を呑んでいる。


一面の雲を割って差し込んできた日光のごとく、紅しょうがの朱色が眩しい。
スープの散るのも気にせず、豪快にずずり。
「ほう」

「いかがでした」
「ご馳走様でした」
「お粗末様でございました」
「いいスープだった、掛け値なしに」
「ほう」

四条貴音と名乗った女性は満足したように頷いた。
それから人知を超えた速度で引っ込んでいった。
……彼女は本当に、あの有名アイドル四条貴音であったのか?妖怪変化か何かではあるまいか?
武田蒼一には判然しなかった。いくらなんでも妖しい女性であった。
しかし、豚骨スープのどぎつい香りだけはどうあがいても本物だった。

「いいラーメンだった、掛け値なしに」

気づけば濡れそぼった体は暖まっていた。
あの一杯は四条貴音風の女性の親切心だったのかもしれない。
……しかし、いつまで歩けばいいのか。
これは試練かなにかだろうか。

 * * * * * * *

 如月千早がレッスンをしている所に、誰かが入ってきた。
見ると、武田蒼一氏ではないか。
服もなにもびしょ濡れ、それと、なんとも言えない旨そうなにおいをさせている。

――これは一体?

千早が問うと、

――今日は君の誕生日だそうだね。
そう言って武田氏は瓶詰めの何かを取り出した。

――まあ、これは?

――喉飴だ。気に入るかは分からないが、まあ、どうぞ。

――わざわざ、どうも……。

千早は深々と頭を下げた。
いろいろと面食らってはいたが、武田氏があまりに真面目なので、彼女は空気に流された。


 武田氏が帰ってから、千早は瓶から飴を一粒取り出して、口に放り込んでみた。
ころりころりと舌で転がす。

「……紅しょうがの味がする」
呟いた言葉に、部屋に入ってきたプロデューサーが返事する。

「どうした、千早?」
「今しがた、誕生日プレゼントをいただいたのです」
「……2月だったと思うんだが、誕生日」

プロデューサーの言葉に、千早は頷いた。
でも武田氏のことだから、きっと何か意味があるのだろうと思った。

――ボエ~

遠くで誰かが歌うのが聞こえた。
負けじと千早も練習に戻る。

千早は軽く息を吸った。
飴が効いているかは分からないが、リラックスして歌えそうである。