無題220


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「お疲れのようで…」

その男はいつもの様に廊下の片隅に立っていた 
いつもなら気にしないという訳ではないが、今日は特にこの男の顔を見たくなかったので
普段はエレベーターで降りる所をわざわざ階段で下りようと思ったらこれだ
そのまるで…

「『そのまるで“何もかもお見通し”という雰囲気が気に入らないのです、この下郎』と?」

男は煙草の箱に手を掛けながら薄ら笑いを浮かべて言う

「おっと、銀の女王様は煙草はお嫌いだったかね」

貴音「その呼び方はお止めなさい。大体貴方は人に“様”を付けて呼ぶような人ではありませんでしょう
   そういうことは人を少しでも敬える方がすることです。」

貴音はこの男の名前さえ知らない、知らされていないし、知ろうとも思わないが
分かっていることは黒井プロと何らかの契約を結んでいるということ
それが専属契約ではないこと、そして貴音が知る限りまさしく“下郎”いや寧ろ
ここまでくると“下種”という表現すら当てはまるかもしれない
噂によるとこの男は、積まれた金次第で大抵のことはやってのける
良く言えばある種のトラブルシューターらしい しかし実際の所は
トラブルの元を文字通り“抹消”することが仕事だと聞く
実際、黒井社長と間に問題を起こしたアイドルが一人
彼によって業界から“消された”そうだ
何より貴音が気に入らないのは、この男は自分が嫌われていると知りながら
まるでいつも自分がそこにいるのが当然だと言わんがばかりに唐突に現れ
慣れ慣れしく話しかけてくるそのその無神経さだ

「これは失敬。」

彼は大してこたえた様子もなく答え、話を続けた

「まあさっきのオーディションの後じゃ不機嫌になるのもわかるけどね。
 なんともらしくない出来でいらっしゃる。相手が格下だったことが幸いでしたか?」

貴音「話はそれだけですか。失礼いたします。」

貴音はさっさと彼の前を通り過ぎようとする
この男と長く話していて碌な目にあったことが無い
その時、彼は視界の隅で確かに“笑った”

「765のあの男か。」

貴音は無視して行けばいいのに、足を止めてしまった
これでは不調の原因を自白したも同然だ

「ククク…深夜のデートコースが屋台のラーメン屋とは何とも言い難いが
 まあ奴らしいと言えばそうかもな」

貴音「!!尾行けていたのですか!この下郎!」

「まあまあそう興奮しなさんな。別に俺はこれを黒井社長に報告しようとか
 765に持って行って強請のネタに使おうとかは微塵も思ってない訳でね
 ただまあ人生の先輩としてご忠告をとね」

貴音「…何ですか」

貴音は馬鹿正直に聞いてしまった事を後悔した

「あいつはやめとけ」

急に口調を低く変えて男は告げた

「あの男はダメだ。金とか地位とかそんな問題じゃない。もっと根本的な
 そう、あんたが恋愛の対象として視界に入ってない。まあそれはあんたも分かってるんだろうが…」

こちらに顔も向けぬまま男は喋り続ける。何故か普段のこの男には無い違和感を感じたが
貴音は黙って聞き続けた

「世の中にはな、ダメな男の傍に居場所を見出して身を破滅させていく女がいる
 そういう人の為に血を流してる人間を踏み台にして俺達は生きてる
 それだけのことなら特に俺から忠告なんかしないけどな」

彼はまるでここに居ない誰かに話しかけている様に虚空を見つけている
その眼にあったのは貴音の眼に間違いが無ければ、一抹の悲しさ・寂しさであろうか

「でもな…俺なら何とかしてやれる。
 まあ端的に言えばだ、あの男の心と体をおまえさんにくれてやるってことだ」

初めて眼を合わせたそこにあったのは、異質な笑みだった

「代償は…そうさな…あんたの体でどうだ?
 勿論、あいつにはバレないように上手くやる。それは保障してやる」

貴音「…前々から貴方に聞きたいことがありました」

「なんなりと?お姫様」

貴音「貴方には欠片も良心というものが無いのですか!」

貴音は気が付けば声を張り上げていた
男の下種な提案よりも、何より自分の心の奥底の欲望が
よりそこまで見抜かれていたことがショックだったのだ
そして一瞬「あの人の全てが手に入るなら」と考えた自分の浅ましさが許せなかった

「ま、あんたならそう言うよな。残念」

彼はそんな貴音の怒りも適当にあしらい
その返答を予め予測していたように、踵を返して歩き始めたが
ふと思い出した様に止まった

「質問に質問で返す様で悪いんだけども…」

彼は軽く振りむいて問うた

「良心とかって、時価でいくらぐらいあれば買えるもんなのかね?」

しかしそこに女王はもう居なかった

「…まあ、あんあんたの心は良心でも悪心でも高いよな
 少なくとも俺の持つ全てを捧げても手に入らない程度には」

こんなにも愛しているのに、心も体も自分の物にはならない

「そんな苦しみは女王様よ、あんただけの物じゃないさ」

男は煙草に火を付ける、彼女と会ってから
心なしか煙草の消費量が減った気がする
以前ならきっちり2日で一箱吸っていたのに
一昨日買った箱の中には、煙草が一本だけ残っていた

「煙草一本分の愛情か、するとはさしずめ、俺の心はざっと2,30円ってとこか…
 ククク…勝てる訳がねぇな」