たるき亭の小川さん


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 私の所属する芸能事務所の下に、小さな居酒屋さんがあります。ランチタイムも
営業しているお店で、その時間はアルバイトの女性が切り盛りしており、よくここで
お昼をいただく私は彼女と顔見知りになりました。
 私より少しお姉さんで、髪が長くて。目が悪いからとぶ厚い丸眼鏡をかけて
いますが、時折見えるその奥の瞳は美しく輝いていて。体は小柄なのに私でさえ
見ほれるような、魅力的なボディラインをお仕着せの和服に隠して(そういうの、
けっこうわかるんです)。
 しかも、私の事務所仲間と声がそっくりなその女性は……。





たるき亭の小川さん





「あ、ごちそうさまでした、小川さん」
「ありがとうございました、あずささん。お口に合いましたか~?」
「おいしかったです、とっても。お野菜の煮物、私の好きな味だわ」
 お料理の評判がよいこのお店は、お昼休みには近くのサラリーマンの人たちで
ごったがえしてしまいます。ですから、私はピークから外れた時間帯に食事に
来ることに決めていて、おかげさまで小川さんとも世間話をする時間がとれる
のです。
「ああ、よかった。今日の煮物、わたしもお手伝いしたんですよ~」
「ええ?マスターさんがお鍋を任せるなんて、すごいじゃありませんか」
「任された訳じゃありませんけれど、今日はいいお魚が入ったそうで、朝から
オーナーそれにかかりきりなんです」
「あら、そっちも興味あるわ。今晩のお献立かしら」
「イサキと鯛です、お刺身と煮付けをお出しする予定で……ああ、でもだめですよ、
あずささん」
「えっ?」
「今夜はせっかくのお祝いなんでしょう?」
「……あ」
 おいしそうな話題が出てきたので楽しくなってき、夜は事務所に戻るので期待が
膨らんでいたのですが、小川さんはこんなことを言います。それで、私も思い出し
ました。
「あずささん、お誕生日おめでとうございます」
「あ、あら……小川さんまで。ありがとうございます」
 そう、私が事務所に戻ってくるのは……事務所の皆が私の誕生日を祝ってくれる
からだったのです。

「これ、たるき亭からプレゼントです~」
「ええっ?」
 私の前に小さなグラスが置かれました。中身は涼しげな色合いのアイスクリーム。
「ラベンダーです。今夜から1週間限定の、『あずささんバースデースペシャル
デザート』ですよ」
 なんでも小川さんの発案にマスターさんが大乗り気になって、765プロのアイドル
たちの記念日に絡めてスペシャルメニューを出すことにしたのだそうです。
「せっかく可愛らしいアイドルさんがすぐそばにたくさんいるんですもの、コラボ
してみました~」
「あらあら、なんだかすみません、宣伝していただくみたいで」
「こちらもただでお名前使わせていただくんですもの、おあいこです~」
「それなら早く有名になってご恩返し、しなくちゃですね。うふふ」
 お礼を言いながら薄紫色のアイスクリームにスプーンを差し入れます。舌に
乗せるとふわりと融ける食感、鼻から体に染み渡るような甘酸っぱい香り。
「おいしい!」
「そうですかぁ。よかったです」
 ランチタイムはもうすぐ終わりで、お客さんは私のほかにはもういません。
わずかの時間でしたが手の空いた小川さんと少し話をできました。
「この間、CMでお見かけしましたよ~。うちにも入れてるビールだったので、
さっそくポスター貼らせていただきました~」
「ありがとうございます。でも、やっぱり少し恥ずかしいですね」
 さすがは居酒屋さんです。お店に入ったときに、かなり大胆な水着でビアジョッキ
を持つ私のポスターと目が合っていたのです。
「そんなぁ。お若いうちだからこそなんですから、胸を張っていいんですよ」
「そ、そうは言っても」
「いいじゃありませんかぁ。みんなのアイドルだからこそ、いろいろな経験が
できて」
「そう、ですね。そうですよね」
 小川さんの言葉で、朝の打ち合わせがフラッシュバックしました。興奮ぎみの
プロデューサーさんの表情、ぶ厚い企画書のファイル、私の名前が先頭になって
いるキャスト表。
「小川さん。私ね」
「はい」
「こんど、連続ドラマのオファーを頂いたんですって。今朝プロデューサーさん
からお話を」
「ええ?あずささん、連ドラは初めてでしたよね」
「はい。火曜10時のキー枠で」
「プライムタイムじゃありませんか、おめでとうございます~」
「ありがとうございます。頑張りますね」
 こうして喜んでいただけるお話です。やはり、私はファンの方のためにも……。
「それにしては、あまり嬉しそうではありませんね?あずささん」
「……」
「オファー、ということはオーディションじゃなくて、もう出演が決まって
いらっしゃるんですよね。いつも楽しそうにお仕事のお話をしてくださる
あずささんが、こんな戸惑った声を出すなんて」
「……あは」
「何か、困り事が?」
「小川さんにはかないませんね」
 以前にもこんな事がありました。小川さんは時々、驚くような観察力を見せる
のです。普段はやわらかな物腰で、私が見てさえのんびりやさんに見える彼女
ですが、実はすごい人なのかも知れません。
「あの……誰にも言わないでくださいね?」
「もちろんですよ」
「このドラマ、恋人同士が結婚式を挙げるまでを描いたラブコメディなんです。
私はその主人公で」

「主役だったんですか、ますますすごいです」
「その……第2話で、相手役の俳優さんと……キスシーンがあるんです」
 相手役の名前は、小川さんもご存知でした。まだ一般向けのキャリアは浅い
ですが舞台のご出身で、演技力を各方面で認められている方です。
「あずささんは、ひょっとして……まだ、なんですか」
 自分で振り出した話題なのに、そんな風に訊ねられて頬が熱くなります。
「い、いえ、そういうわけではっ」
「あらあらぁ、あずささんも隅に置けませんねえ」
 思わず言わなくてもいいことまで口にしてしまいました。でもあのときの
ことを……カウント、してもいいものなのでしょうか。
「いえその……あの、こういうとき、若いタレントさんだと『フリ』で済ます
こともあるって聞いています。でも、私くらいの年齢だと微妙ですし、その、
い、今のような事情でもありますし」
「周囲の方がとりなしてくださるでしょうに。成人していても、アイドルと
いうのはそういう存在なのでは?」
「私、主演ですからね。ご指名をいただいた制作サイドのみなさんのためにも、
腰の引けた態度ではいけないって思うんです」
「プロデューサーさんはあずささんが悩んでいること、ご存知なんですかぁ?」
「さあ、どうでしょう」
 キスシーンがあることはもちろん彼から聞いたのですし、大丈夫ですかとは
心配していただいています。ですがそれは、プロデューサーが担当タレントに
当然するような行動なのではないでしょうか。
「プロデューサーさんにしても、事前に内容を承知して取り次いでくださったん
ですし、私にとってチャレンジのできるお仕事だと考えてくださっているのも
わかるんです」
「そうなんでしょうね。よくわかりませんけれど」
「そんなありがたいお話なのに、私が一人でこんなことで悩んでいるなんて。
アイドルと言うより、芸能人として潔くないですよね、こんなの」
「タレントさんとしてはそうでも、一人の女性にとっては大切なことですからね~」
 キスとは、互いが互いを想ってこそのものなのではないか、と思います。だから、
小さいときにお父さんにしたキスはファーストキスとは呼びませんし、その考え
でゆけば友人にはやし立てられてのそれも同じです。たとえ……。
 たとえ少なくとも片方が、相手に強い好意を持っていたとしても。
 逆に言えば、お芝居とはいえれっきとした恋人同士が交わすくちづけを、今の
ままの私がすることに、大きな戸惑いを感じるのです。
 私はプロのタレントとして、このお仕事を成し遂げるべきなのでしょうか。
 あのとき触れたぬくもりを自分だけの宝物にして、大人の女性として振舞うべき
なのでしょうか。
 そのときです。
「……でもぉ」
小川さんが突然、こんな話を始めました。
「ねえ、あずささん。あずささんは運命を信じていますか?」
 運命。
 小川さんはご存じないはずですが、それは私の芸能活動の中心にあるキーワード
です。
「ええ、もちろん。信じていますよ」
「じゃあ、こういうのはご存知でしょうか。『運命は待つものではなく、自分で
掴むもの』」
「……えっ」
「運命の女神様というのは、とてもお忙しくしていらっしゃるそうですよ。いつ
見かけても、どこかへ歩み去る寸前」
 きょとんと見上げる私に、小川さんはゆっくりした動きで笑顔を見せました。
「女神様は誰かの目の前に立つことなんてないんですって。ですから」
 言いながら小川さんは、指を開いた両手を体の前で広げます。まるで、私に
抱きつこうとでもするかのように。

「忙しい運命の女神様は、呼び止めても止まってくれません。女神様を捕まえる
には、通り過ぎてからでは遅いんです。自分の目の前にいる、って思ったら、
ひと思いに駆け出して、手を伸ばして、全身で掴まえるしかないんですよ~」
「そう……なのかも、しれませんね」
 彼女の言うことはよくわかります。私の運命の人のことを知らない彼女は一般論
として、このお話が大きなチャンスであるとアドバイスをしてくれているのでしょう。
ですが、それがかえって私を戸惑わせているのです。
 私は一言つぶやいたあと、次の言葉が出なくなってしまいました。何かを
言おうとすると、それがせっかくの小川さんの助言をふいにしてしまいそうで、
どうしたらいいのかわからなくなってしまったのです。
 ですが、次の瞬間。
「……あーもう、じれったいわね。だーからアンタはダメなのよ、あずさ」
 うつむく私の頭の上に、こんな言葉が聞こえてきました。ぎょっとして顔を
上げます。
 小川さんは、私に背中を向けて食器棚の整理をしていました。
「あずさ、アンタだって内心はひょっとしたら、って思ってるんでしょ?いっつも
そうじゃない、答えが見えていればいるほど、アンタは道を決められなくなるのよね」
「……ふぁ」
 今ここには私と彼女しかいません。しゃべっているとすれば、小川さんに違い
ないのです。でもその物言いは、まるで……そう、まるで。
「大切な運命の人だものね、ドキドキしちゃう気持ちはわかるわよ。でも、アンタが
そのまま立ち止まってたら、その運命はまたどこかへ歩いて行ってしまうわ、
きっと。今ならまだ、その人はアンタの手の届く場所にいる。そうじゃない?」
「お……小川……さん?」
「一生に一度でいいから、これだって感じたらガッと行っちゃいなさい!
信じていいわ、アンタの勘は絶対間違ってない。自分の運命なんでしょ?
そんなの、あずさが自分で掴んじゃいなさいよ!にひひっ」
 そこまで言って、ぴたりと動きを止めました。憑き物が取れたとでも表現したら
いいでしょうか。
「あら、大変ですぅ」
 くるりと振り向き、壁の時計を見ました。
「ランチタイム、終わっちゃいました。夜の準備始めなければです~」
「え……え?もうそんな時間ですか?」
「ごめんなさいあずささん、お引き留めしてしまって」
「いっいえ、それは、でも、あの」
 さっきのあれはなんだったのでしょう。私は小川さんが話したのだと思って
いたのですが、彼女はそんなそぶりも見せません。ひょっとして私の空耳か
白昼夢で、彼女は単にお店の仕事をしていただけなのでしょうか。
 そのことを確認できないものか、そう思って話しかけようとしたその時。
 携帯電話の着信音。私のプロデューサーさんからです。大事なことを思い出し
ました。
「……いけない、待ち合わせ時間が」
「あら~、ますます申し訳ありませえん」
 これはゆっくり話を聞いている場合ではありません。何度も頭を下げてくれる
小川さんにこちらも何度も頭を下げて、通話ボタンを押しながら店を出ました。
「すみません、お待たせしま……し……?」
「いえいえ。ここだって音無さんから聞いてましたんで、とりあえず車取って
きました」
 店の目の前に止まっていたのは765プロの営業車でした。その車の前に立っ
ている人物から、電話の中の声と同じ声が聞こえてきました。
 そこに立っていたのは、プロデューサーさんでした。携帯電話を構えたまま、
でも目は私を見つめて、にこやかに話しかけてきます。
「765のみんなは最近、ここの店員さんと仲がいいそうですね。楽しいお食事
でしたか?」
「あ……ええ、そうですね」

「それならよかった。そろそろ出発の時間ですがあずささん、出られますか?」
 電話をしまいながら後部座席のドアを開けると、事務所に置いておいたお仕事用の
バッグも入っています。
「あ、荷物まで?申し訳ありません、ありがとうございます」
「お安い御用ですよ。あずささんは俺の大切な人ですからね。だから」
「えっ」
「もっと営業やレッスン……あれ、どうしました?」

 ――大切な運命の人だものね。

 さっきの言葉が胸に甦ります。
 あれは。
 あれは、いったい。
「あの」
 頭の中がまとまる前に、言葉が出ていました。
「あの……プロデューサーさん。まだ時間、大丈夫でしょうか。ほんの1、2分です」
「ああ、大丈夫ですよ、それくらいなら」
 あれは、あれも、小川さんからのアドバイスの続きだったのでしょうか。
 それとも私の空耳で、私の心の願望が、よく知る人の言葉を借りて響き届いたの
でしょうか。
 よくわかりませんし、わからなくてもいいのではないか、と感じました。
 なぜなら。
「プロデューサーさん、朝うかがったドラマのオファーのお話、なんですけれど」
「ああ。でもあれはまだ時間がありますからね」
 あの声が、私に聞こえたのは紛れもない事実なのですから。その内容も、
私には納得できることだったのですから。理由や原因ではなく、その意味する
ところはひとつなのですから。
 私を焦らせまいと言葉を継ぐ彼に、勇気を出してもう一歩近づきました。

 ――これだ、って感じたらガッと行っちゃいなさい!

「私、あのお仕事、お受けしようと思うんです」
「……えっ」
 まさか抱きしめるわけにはいきません。ですが、せめて態度で、言葉で、瞳で
それが伝わるように。
「いろいろと戸惑うことも多いかもしれません。でも、このお仕事はせっかく
プロデューサーさんが探してきてくださった大きなお仕事です。今日という日に
プロデューサーさんからいただけた、とても嬉しいバースデープレゼントです」
「あずさ……さん」
「恋人とお付き合いをしている女性の気持ちも、相手方の男性の心の動きも
わかりませんから、たくさん教えていただくことがあるかも知れません。それでも
……それでも私はこのお仕事を、やってみたいと思うんです」
 私の感じていることを、彼にも感じてもらえたでしょうか。それはまだ、
わかりません。彼はプロデューサーで、私はタレントです。単にその気持ちが
現れただけなのかもしれません。ですが私の目の前で、驚いた表情がみるみる
笑顔に変わってゆくのを見て、私はとても幸せな気持ちになれました。
 車に乗り込み、去り際にもう一度たるき亭に目をやりました。入口は閉じられて
いて中をうかがうことは出来ませんでしたが……。
 こんな素敵な誕生日プレゼントをくれた小川さんには、ぜひ今日のことを
報告しなければ。
 私はそう、心にそっとメモを書きとめたのでした。





おわり