TOWもどきim@s異聞~序章~3話

―――某日。レッスン帰りに立ち寄った喫茶店にて、「音無」小鳥はクリームソーダに突き刺さったスプーンをかき回して、向かい合った席で顔を抑えながら小刻みに肩を震わせている担当プロデューサーの姿に少しばかり頬を膨らませた。
「・・・・・・そ、それでその・・・・・・どうしたんだね?」
「―――どうするもこうするも」
心なしか、ストローをくわえた唇に思いの外強い力がこもり、思わずズッ、と音を立ててしまう。
「その後は騎士の人達が手伝ってくれて、お城勤めの法術師や街の獣医の方々に連絡つけてくれましたから、子猫は何とか無事でした。今じゃさっき話したミントちゃんが引き取り手を捜してくれてるって話です」
「い、いやそうじゃなくて・・・・・・その助けてくれた男の子というのは・・・・・・」
「・・・・・・神妙な顔で謝られちゃいましたけど何か?」
事実を知り、茶化すこともなく、生真面目な態度で謝辞を告げてきたあの表情には、一層こちらをやりきれない思いをさせられた。
過去の出来事となってそれなりに日にちは経っている。が、こうして改めて具体的に口にしてしまうと、その時の感情まで鮮烈に蘇ってしまうようだった。
「しかしまあ、災難だったな君も。勇者は無理でもせめて魔法使いだったら良かったのに」
「そうですね・・・まあ、街の外を出歩かない限りは滅多にあることでもないんですけど」
そもそも、盗賊及び魔物の襲撃だったらまだしも、「魔術師」があんな街中で騒ぎを起こす、なんてことは初めてだった。
「後で騎士さんの一人がこっそり教えてくれたんですけど・・・・・・街の近くで発掘された妙な船に侵入したとかで、
引っ立ててる最中だったらしいんですよね」
実物を目にしたことはないのだが、向こう側における伝説の大海賊アイフリードが駆けていたという巨大船―――バンエルティア号。
一部では海の空をもひとっ飛び出来る神秘の船、だなんて妙な伝承もあるが、何せ海から引き揚げられたのでなく地中から発掘されたのだ。
アイフリードの所有物かどうかも怪しいなどと言われてはいたが、実際にそれを信じて潜り込むような者まで現れたとなっては多少信憑性は高まった。
「王様含めて臣下の方々も観光スポットに出来れば、位にしか考えてなかったそうなんですけど。・・・・・・ああいう人達が
現れた以上は正式にどこかの研究機関とかに調査を依頼するかも知れないって言ってました」
―――まあ、どちらにせよ今の小鳥には縁のない話だが。
「ふむ、まあその船のことはともかくとして・・・無事で何よりだよ、小鳥君」
しみじみと頷いてコーヒーを口に傾ける高木は、心なしか本当に安堵した様子すら見せていた。思わず茶化すように手を振ってから、
「―――や、やだなぁ高木さん。あくまで夢の中の話なんですよ?」
「・・・まあ、現実的に考えれば、その表現が似つかわしいんだろうな」
正直小鳥としては、話をしていて今の今まで、高木が一度も口を挟むことなく、真摯な様子で話に耳を傾けている姿が意外に思えた。
「あくまで私の主観なんだが・・・・・・眠る時に見る夢というのはえてして形がない。意味のない光景が続いたり、非現実的な幸福や残酷なものだったりする時もある」
黒い沼のようなコーヒーにミルクを注ぎ、一瞬だがそこに作られた螺旋に見入られた。白い糸のような道筋が見る見る内に溶けて、コーヒーの一部になっていく。
「でも、君の今の顔を見ながら話を聞いていると、何というか夢に聞こえないんだ。
真に迫っているというか、それこそ「もう一つの人生」を生きているみたいに感じるよ」

「あ、あははは・・・・・・」
―――現代の感覚に無理矢理当てはめると、「そう見えるのは少しマズいのでは」、と脳のちょっと
冷めた部分が警鐘を鳴らしていた。相手が鷹揚な高木だからいいようなものの、こっちでは尚更話す相手を選ばなければ。
もう一つの人生。目に見えて素晴らしかったりするものでもないけど、こっちの「音無小鳥」とは決して重ならない道を思う。
「・・・・・・しかし、そんな大分前からそのような不思議体験をしているとは思っていなかったよ。どうして急に話してくれる気になったんだい?」
「・・・・・・本当、どうしてでしょうねえ」
自分でも魔が差した、としか言いようがなかった。向こうでそれこそ九死に一生を得て、何か感じ入ることでもあったんだろうか―――
自分の心なのに、気づけばこっちでスルリとあの出来事をこぼしていたことが、信じられなかった。でも、あそこでメリルに茶飲み話として話していた時のような感覚ともかみ合わない。

「・・・・・・こっちでも、誰かに知っていてほしいって、思ったからかも知れません」
窓際席のガラスに映る自分の姿を改めて眺めてみる。あのお団子から解放された髪が、解放されて白いブラウスの背中になびいている。
スカート丈だって、こけるような心配もない膝より少し位の長さ。
とりあえず、年相応の女の子の顔。まだまだ眼鏡も帽子も必要なんてなさそうな、駆け出しアイドルの顔。
ここでは激流のように目まぐるしい業界を、ふるい落とされぬよう駆け上がろうともがくことの、その息苦しさはやはりある。
でも、少なくともいつ何時命を失うかという心配なんて無用だ。
小鳥のように、何かの「逃げ道」を作って逃避しようなんて人は誰もいなかった、それでいて自分に出来ることをしようと必死だった。
そんな場合じゃなかった筈なのに、思えばその光景が途方もなく眩しくて、尊いもののように思えたのだろうか。
けどそんな鮮やかな思い出は、この世界で起こったことじゃない。文字通りだけど、今は小鳥の頭の中にしかないものだから。
「ちゃんと覚えていたいって思ったのかも知れません。こっちで誰かに『こういうこと』があったよ、って伝えて、
私以外にもあの世界のことを知ってる人がこっちにもいてくれれば・・・・・・勝手な話だけど、ちょっと安心するような気がして」
朝起きて出社して、みっしりと課せられたトレーニングに打ち込んで、スケジュールが空いていれば学校へ行って友達と歓談して。
―――夜寝る前になるまで、あの世界のことを思い出せない日もある、ということが急に怖くなった。忘れようとして忘れるんじゃなく、それこそ波にさらわれる位の呆気なさであの場所の思い出がかき消えてしまいそうな、そんな気配が。
「茶飲み話の種でもいいから、『そういえば前言ってた夢は最近どう?』とか、そういうこと言ってくれる人がいるって思えば。
少なくとも、本当に忘れる心配はないんじゃないかって」
そして、話す相手として思い浮かんだのは誰でもなく、目の前のこの人だった。
「・・・・・・おかしいでしょうか。別にあそこで、目に見えて特別嬉しいこととか幸せなことが起こった訳でもないのに」
「良いとか悪いでカテゴライズするような問題でも、ないような気もするがね」
思いの外サラリと返答してくる彼は、角砂糖をとぷん、とコーヒーに追加してから、
ティースプーンで水面をひっかき回す。節くれ立った指先とは裏腹の、仲々優雅な仕草だった。
「無理に意味を求めなくてもいいじゃないか。少なくとも私は嬉しいよ。もう一つの君の顔っていうものを知るっていう楽しみが増えて」
「・・・・・・楽しかったですか?」
目に見えて愉快な部分があったといえば、漆黒の翼やあの少年の無自覚の言の刃の件ぐらいしかなかった気がするが。
「というか、少しだけ羨ましいという気もするよ。誰だって、別の人生を歩んでいる自分を「想像」することは出来ても、
本当に体験するなんて普通は叶わないものさ」
「・・・・・・高木さんも、憧れたことがあったんですか?そういうこと」
様々な少女達をきらめくステージへと導き支えるその役割が、パズルのピースみたいにぴったりと当てはまるような人なのに。
成功しているいっぱしの「大人」としての、完成されたイメージしか思い浮かばなくても、
そんな十代の若者のような夢想をしてみることもあるのか。
「今の仕事は勿論やり甲斐を感じてはいるが、私だって人間だ。かつては銀河烈風隊局長になりたいといったような、
誇大妄想みたいな肩書きに憧れる時分もあったさ」
気のせいだろうか。そちらの方が小鳥の見ている夢よりももっとリアリティが高い気がしたが、敢えてツッコまずにおいた。
「だから、気が向いたら『次』の話も聞かせてもらえると、私としてもいい気分転換になるしね」
―――多分、八割方本気なんだろう。おべっかを使ってこういうことを言うほど甘い人じゃないこと位はわかっているつもりだ。
でも、あんな一大事みたいなのは多分、向こう側でも早々起こりはしない。彼が待ち望む『次』に、
メイドとしての仕事以外で語れることなどあるだろうか。
窓越しに、ビルとビルの間の狭い空に浮かぶ、心細げな真昼の月を見上げる。

今日も夜が来る。小鳥が、もう一人の「自分」が城のベッドで目を覚ます時間が。

トントン、と肩を叩かれて、反射的に振り向けば頬に当たる人差し指の感触。
典型的過ぎて言葉もない。
「―――よ、お嬢ちゃん!あれから大丈夫だったか?」
―――洗濯物のシーツをいそいそと運んでいる小鳥に、日本でも久しく
お目にかかることがないレトロないたずらを仕掛けてきた当の本人は、年に似合わぬ
子供のような表情で片手を上げて挨拶してくる。
「あ、ナイレンさん!・・・・・・そ、その節はどうもお世話になりまして」
「あーいいっていいって。・・・・・・とりあえず、そんなにバリバリ仕事こなしてる位なら、
まあ大丈夫なことは大丈夫みてえだな」
心なしかホッと肩を撫で下ろす仕草は、鷹揚なようでその実真摯な感じがした。
こういう辺りが部下からの信望が強い所以なのかも知れない。
「あの、私よりもナイレンさん達の方がよっぽど大変そうに見えたんですけど・・・・・・他の騎士の方達は?」
「ああ。まああの後城に戻って治療受けたからな、みんなケロッと任務に戻ってるよ。
・・・・・・上からはこってり絞られたがな」
一瞬眉をひそめたのも束の間、「ああ・・・」とその理由に思い至った。確かに昨日の出来事は、向こうで言うなら現職刑事が連行中の
被疑者を取り逃がした、という失態でもあるのだ。
「まあ、いくつか公共物が壊れた以外に人的被害がないってことと、相手が魔術師連中だったってことで、
始末書程度で済んでるけどな」
と言う割に、キセルを加えているその顔は少々苦々しいものがある。頭の中で疑問符を浮かべていると、
隣で書類を運んでいた部下が口を挟んできた。
「本当、殿下が取りなしてくれて助かりましたよね。正直市街地で魔術師と乱戦なんて、
始末書どころじゃどっかに左遷かと―――」
「オイこら!」
騎士はその叱責及び、キョトンとした小鳥の様子に気づくと、失言でしたとばかりに口を押さえる。
(・・・電化?)
が、今の小鳥にとっては馴染みの薄い単語は、そんな風にしか変換出来ない。
そんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、あからさまにゴホンと咳払いしてから、
「そ、そそそーだお嬢ちゃん!あのチビスケのことなんだけどよ、あれからどうした?」
「チビ・・・・・・って、あの子猫のことですか?」
持ち直していることは確認済みだが、それ以降はあの小さな法術師こと
ミント嬢―――というかメリル夫人預かりとなっているので、詳しくわからない。
「いい引き取り手が見つかるといいんですけどね・・・・・・」
「ま、悪い様にはしないと思うぜ。まあ俺が引き取ってやれるならやりたかったが・・・」
常日頃から通常の任務に加え、近々徴用される予定の軍用犬を世話しているナイレンである。彼に限らず、
何かと多忙な城勤めの人間にはプライベートで猫を飼う余裕があるとは思えない。すると、一瞬脳裏に閃くものがあった。自分よりも小さいその指先が放った矢の、玄人を思わせる程まっすぐな軌跡。
「・・・・・・あの時の男の子とかはどうなんでしょう?」
自分に対する悪気ないあの一言は置いておいて、二言三言話しただけだが幼いながらに誠実そうな人となりのような気がした。そんな気持ちでつい軽く提案してみる。
「あの時ちょっと話し込んでたみたいだし、お知り合い・・・・・・なんじゃないんですか?」
「あー、いやお知り合いっつーか・・・・・・」
気まずげに頬を掻きながら、妙に何かを言いあぐねているような彼らの様子に気づく。
明らかに、触れてほしくない部分に触れてしまったのだろうか―――その時、何気なく
脳裏を過ぎった思いつきをポロッと口にしてしまう。
「ひょっとして、ナイレン隊長のお子さんとか?」
刹那、がっくりと肩を外すそのコミカルなアクションで、かなり確信に近いものだったそれが外れだったことを悟った。
「・・・・・・あのな嬢ちゃん。俺としてもあっちにしてみても、それはちょっと笑えない想像なんだが」
「あ、す、すいません!・・・・・・年齢的にはピッタリかな、とか考えちゃって」
「・・・・・・そりゃ俺はトシもトシだが、カミさんもいた覚えもねえのにあんなデカイ子供は・・・・・・」
「・・・・・・重ね重ね申し訳ありません・・・・・・」

流石に邪推し過ぎたか、とつい萎縮して頭を下げると、隣の騎士が茶化すように、
「まあ、隊長の場合普通の家庭から縁遠い感じはありますけど、うっかり一夜の過ちでってパターンなら有り得ますよね」
「てめぇ・・・・・・回復早々また医務室送りになりたいか?」
おどけててるのか本気なのか判断のつきにくい表情で、手甲に包まれた拳をアピールする上司に部下は苦笑いを返しつつ、
「ああ、そうだ。―――小鳥ちゃん」
「はい?」
「・・・・・・今後、万が一あの少年に会うようなことがあっても、迂闊に今言ったみたいなことはおいそれと口走らない方がいいよ」
唇こそつり上がってはいたけれど、諭して聞かせるその口調と目は真剣そのものだった。


(・・・・・・ああいう言い方をするってことは、やんごとない身分の人ってことなのかな)
濁すような言い方ではあったが、実際部下の言い方や、あの時の少年の纏っていた不躾だが「血統書付き」のような
洗練された印象。突拍子もないけど、不思議と確証があるような気がした。
夕食用のハーブをぶちぶちと菜園で摘み、あらかたのノルマを終えてからうーんと腕を伸ばす。想像通りなら、猫の世話なんて
ご近所さんのように頼める相手ではなさそうだ。
 ナイレンらにも言ったことではあるが、現在子猫はメリル夫人預かりとなっている。といっても今はスケジュールが少し
空いていて家で世話を出来る時間があるだけで、いつまでも飼っている訳にもいかないそうだ。

―――飼えるものなら飼いたいんだけどね。

あの日出会った子猫の恩人こと、驚くタイミングを掴みそこねたがメリルの一人娘であるミントというあの女の子とは、鍵を
渡して以降ロクに会話もしていない。母親の後ろ姿からこちらをオドオドと見つめてくる姿は、あの鉄火場へ飛び出していった時の勢いが
嘘みたいな程いたいけというか、頼りなさげだった。

―――ごめんね、人見知りする子だから・・・・・・

拒絶、という訳ではないにしても、何度笑顔で話しかけてみてもビクついた顔で後ずさりされ、傷つかなかったといえば若干嘘になる。
が、それは置いておいて、会う都度に少しばかり伝わってくる、物言いたげな視線が少し気にかかってもいた。
(・・・聞きたいことでもあるの?って言って答えてくれる訳でもなさそうだしなぁ)
向こうも同じという家族でもないけれど、自分も小さい頃はあんな感じだった気がする。大人達に話しかけられても、それが例え
気安い笑顔であれ降りかかる言葉が異国の言葉のように思えて、萎縮して母の後ろをくっついた頃。そう思うと、無闇に
距離を詰めようとするのは酷のようにも感じた。

カゴに置かれたハーブの数々を確認する。言い渡されたノルマとしては充分だろう、そう考えてよいしょ、とばかりに屈んでいた腰を上げる。
ハーブの数々を布袋に入れ、開け口の先端を絞り上げながら見上げた空はもう、儚い赤に揺らめいている。
(・・・・・・もうおじさんに報告出来ることなんてないかもなぁ)
けど、世の中そういうものかと身を翻した瞬間―――
鳥達のさえずりと擦れ合う葉が醸す自然の音に混じって、にぁ、と。
甘く頼りなげな鳴き声が微かに、しかしこちらの耳目掛けて飛び込んでくるような存在感を以て飛び込んできた。
「え?」
と、間の抜けた呟きと同時に、ハーブの詰まった布袋を茶色い「何か」が警戒する間もなくかっさらっていく。
シタッ、と俊敏かつ華麗に地に降り立ち、布袋を抱えたその姿を見て「あ」、と思う。
今は鮮血ではなく、土埃や葉っぱにまみれたふわふわの茶色い毛並み。萎れるように折れていたあの時とは違い、ピンと三角に立った両の耳。
直感に近いものが降って湧いた。あの子だ。
「ちょっ―――!」
その細い目はこちらを見据えたかと思うと、ハーブ袋をくわえたそのままで、ぷいっ、と鮮やかに小さな身を
翻して再び茂みの向こうへ消えていく。
「・・・・・・ま、待ちなさい!」
―――魚を取られるならいざ知らず、ハーブを取られるとはどうなんだと思いながら、猫の背を追いかけて駆けだしていく。
あの時の猫かどうかとかハーブのことを抜きにしても、向かった先は魔物も潜んでいることもある森林地帯だ。城下の街角とは訳が違う。
オタオタレベルの魔物であっても、自分とは違い子猫の体躯では万が一遭遇したらひとたまりもないだろう。

乱雑に伸びた木々の間を文字通り潜り抜けるように、小さな背を見失わないよう追いかける。魔物の気配は窺えないが、
最近何かと走ってばかりいるな―――と、呑気に思う一方で、痛い位に伸ばした指先が、徐々に猫との距離を詰めていく。
木々の気配が段々と少なくなり、行く手に光が差す気配にも気づかぬまま、
「―――つかまえっ、たぁ!」
走りながらも一気に大股でジャンプして距離を詰めた後、一気に近づいた猫の体を強引に懐へ抱え込む。
尚暴れているが、猫及びハーブがとりあえず無事であることを確認して、胸を撫で下ろすと―――

目の前を、燃えているのか光っているのかわからない、小さな「色」が舞っていた。

「それ」が花びらと気づいて広がった視界で映るものを確認した瞬間―――
海以外にも空の色を映すものがある。その景色を見て小鳥が感じたのは正にそれだった。
向こうもこちらを覚えていたのか、一瞬意外そうな表情で、名残り惜しげになくなりそうなブルー、目にも鮮やかでありながらも
頼りなげに混ざり合う緋とピンクのグラデーションの更に下で、深く溶けそうな紫色が沈んでいる。
そして、目の前で広がっている花畑もまた、何の偶然かその複雑な空模様をはめ込んだように、どこか半端に融け合った水彩画の絵の具のような、
しかし不思議と目に心地よい彩りを放っていた。花々の輪郭に、うっすらと蛍火のような淡い光が宿っているようだった。
綺麗だと、その一言で済ませてしまうのは簡単かも知れない。ただ、一瞬猫を囲い込む両腕の力が緩まりそうになる程、その光景は鮮烈だった。

本当に唐突な思いつきだった。けれど一端思いついてしまった以上は、なかったことにする気にも出来なくて、何気なくキョロキョロと辺りを見回す。
人の気配はない。
「・・・・・・うん、よし!」
息を深く吸い込みながら、頭に手を伸ばし、纏め上げられていた髪が広がる。

「・・・・・・猫さん、どこー?」
ガサガサと、文字通り草の根を分けて捜索を開始してから、かれこれ一時間程だろうか。
家と今の場所との距離を考えると、門限もそろそろギリギリだ。父と母が心配するかも知れない。
―――来てほしかったようなほしくなかったような、「引き取り手」が名乗りを上げてきたのは今朝のことだった。
里心がつかないようにと名前をつけることも禁じられ、「猫さん」と呼び続けたあの子は、これから
よその家で暮らすようになって、きっと自分のことなんて忘れてしまうだろう。
ならせめて、お気に入りの「あの場所」へと連れて行く位はしてやりたかった。
―――いや、思い出がほしいのは、自分の方だったのだろうけど。
(猫さん、ごめんなさい)
目を離してしまったことは悔やんでも悔やみきれないが、とにかく今は捜すしかない。自分は『あそこ』まで
たどり着くまでの、魔物との遭遇を回避出来るルートを熟知しているが、あの子はそうじゃないのだから。
暗くなる空の向こう側で、夕陽を背負った城が見える。城の影が見えなくなったら、自分も帰り道を見失ってしまうけど―――と、思った時。
最早小さい尖塔のシルエットしか見えない城の向こう側に見出したのは、子猫と知り合った
あの日にお世話になった、母と『お友達』だという黒い髪の女の人の顔だった。
「・・・・・・あの人、元気かなぁ」
鍵をなくしたことに気づいた時には、本当に途方にくれた。
ミントの家は城下ではなく、城壁の外にポツンと立った一軒家だ。天文学者の父が「星を見る」為の絶好の
ポイントであるということから選んだ立地だが、「あの日」―――そんな我が家は折しも両親共に不在だった。
だからこそ、その時鍵はなくてはならない重要アイテムだった。
母曰く「対策」を施しているというだけあって、今まで家の近くで遭遇したことはないけれど、魔物だって生息している。
そんな状況下で家を開ける為の鍵を持たないということがどれ程心許ないか―――だから、あの騒動の後で
ハイ、と捜し求めていたものを手渡された時は、本当に安堵でくずおれた。
呪文から庇おうとしてくれたこともそうだったが、お礼はしっかり言わないと―――母に言い含められるまでもなく、
自分でわかっている筈なのに。
これまで何度顔を合わせても、ついつい尻込みしてしまう。

「・・・鍵を拾ってくれて、ありがとうございました」
顔を合わせている時はどう絞り出そうとしても出せなかったのに、誰も見ていない今だけはひゅるりと声を出せる。
 父と母以外の大人が、「大きい人」が自分を見ていると思うと、背筋が強ばるのはどうしてなんだろう。あの女性も、
助けてくれた騎士の人達も、皆優しい人だということはわかるのに。
―――思考が横道に逸れていたことに気づき、慌てて首を振る。今はあの子を捜さなくては―――決意も新たに、
一歩大股で踏み出した時だった。
ヒュカッ、と乾いているが鋭い音が耳を打った。
「ひゃうっ!?」
反射的に肩を戦慄かせると同時に、背中がそっくり返って地面に尻餅をついてしまう。
鈍い痛みに涙目になっていると、ガサガサと近くの茂みを分けて現れる人影があった。
「・・・・・・大丈夫かい?―――と」
父を思わせるような穏やかな声音でこちらを出迎える、矢筒を背負ったその少年は見覚えのある顔だった。
あの慌ただしい状況下の中、自分達を助けた後で騎士達と気難しげな顔で話し込んでいた―――
「君は、あの時の―――」
「・・・・・・ええと、「デンカ」さん、ですか?」
記憶の中の呼称をそのまま口にしたら、一瞬だがその表情が鋭く強ばる。が、キョトンとしたミントの表情をしばし見つめてから苦笑混じりに、
「・・・・・・騎士の人達がそう呼んでいたからかい?」
「は、はい。お名前じゃないんですか?」
「あだ名のようなものだよ。私の名前はデンカじゃない、ウッドロウだ」
手を差し出してくる少年―――ウッドロウは、思いの外強い力で座り込んでいたミントを引き上げてくれた。
「驚かせて済まなかった。・・・・・・弓の丁度修練をしていたところだったんだ」
チラ、と視線を馳せた先には、何本もの矢が突き刺さった丸い的がぶら下がった木があった。
「ところで、君はどうしてこんな所に?・・・私も言えた義理ではないが、早く帰らないとご両親が心配する」
やんわりとした口調で諫めてくる彼に対し、ミントは本来の目的を思い出して、
「あ、あの―――」
猫さんを見ませんでしたか―――と、続けようとした彼女の声は、そこで途切れた。

自分の五感が感じ取ったその違和感を、彼女は一瞬気のせいかとも思った。
けれど数秒と経たないその内に、自分の直感が正しかったことを悟る。
半ば「庭」のように知り尽くしているこの森の中で、確かに今までの記憶にない何かが遠く、何処かから木霊していた。
むずがゆいような鳥や虫の鳴き声に、微かに混じるもの。
唐突に黙り込んでしまった彼女の様子を訝しみ、ウッドロウが視線を合わせるように屈み込み、
「どうかしたのか―――」
「何か、聞こえてきます」
彼女には珍しい、断定の響きを以て断言した時、その「音」―――いや、声は、彼女の言を証明するように、一層存在感を増して耳に飛び込んでくる。
「・・・・・・魔物の声、ではなさそうだね」
同じく声を感じ取ったのか、彼もまた目を閉ざし耳に手を当てて、森に染み渡る音に神経を研ぎ澄ましているようだった。
確かに、断片的にしか伝わってこないその声は、魔物の類がいなないている、というには殺気のような物騒な気配は感じられず、けれど耳の
入り口から体の中を真っ直ぐに駆け抜けていくその気配。
迷った後、子供達は示し合わせるまでもなく、好奇心に従って足を踏み出していた。

「声」のする方へと。



その声―――歌が、当初ミントの目指していた「お気に入りの場所」への道筋から響いてくることに
気づいたのは、途中からのことだった。
それ程盛大に絞り上げられている訳でもないのに、高く空へと突き抜けるその声の主は、彩り鮮やかな花畑の中でただ一人、光景に黒点を作るように立っている。

その空と花々が織り成す夢のような絶景も、ミントが捜していた小さな友のことも、その時は頭から吹き飛んでいた。
少しばかり警戒して、自分を守るように前に立っていたウッドロウも、呆けたようなその顔が年相応にいたいけな感じに見えている。
もうすぐ全てが夜闇に沈もうとしている中で、「彼女」のシルエットは2人の視界にハッキリと映し出されていた。
お団子状態から解放され、深緑の木陰を思わせる豊かな黒髪が風になびき、幼い印象が強くなった横顔。真っ黒いメイド服の輪郭すら
夕闇に溶けることなく、どこかきらきらと小さな星の砂みたいに瞬いて見えて。
 そして何より、伴奏など一つとしてない中で、人の肉声がこんなにも素晴らしい楽器になるということを、初めて知った。
その声も、紡がれる言葉も、全てが今映っている世界の美しさを、飾ることなく素直に表している。
胸の内に、矛盾した2つの感情がせめぎ合っているようだった。眠れない夜、母が入れてくれたホットミルクを飲んだ時の凪いだような幸福感と、
父に手を連れられていった祭りに心を弾ませた高揚の感触。
 いつか使わなくなっていた、「もう少し」という言葉がまた口をついて出そうになっていた。子猫のことを惜しんだ時でさえ、
両親を困らせまいと決して使おうとしなかった言葉が。
横に並び立つ少年もまた、褐色の肌の上からはわかりにくいけれど、心なしかその横顔は上気していて、隣で握られた拳にも力がこもっているように見えた。
―――空がすっかり濃紺に塗りつぶされるまで、彼女の歌は2人をその場へ縫い止めていた。



―――何年ぶりだろうか。ステージでもカラオケボックスでもない、全くの無人の場所で、思い切り歌うなんて。
熱にうかされたように歌っている間、縁起でもない話だが走馬燈みたいに、「この世界」の思い出が鮮やかな彩りと共に、頭に映り込んでいた気がした。
それこそ、絶景への感動だけじゃなく思い出まで一緒に歌になったみたいに。
はぁ、と吸い込んだ息を吐き出し、ゆるゆると花畑に腰を下ろす。
(こっちじゃボイストレーニングもロクにしてない筈なのに)
掠れることも音程がズレることもなく、するすると声は歌を奏でてくれた。
足下でさっきの子猫が姿を消していることには一応気づいていたが、まあ問題はない。ハーブはしっかり確保している。
全き黒い夜空を眺めて思う。自分の記憶をカメラで写せたら、高木にもあの歌いだしたくなる位の美しさを、手土産に出来たかもしれないのに。

美しいもの。ストレートにそう言い表すしかないものが飛び込んできた時、躊躇うことなく歌い出した自分にも驚いたが―――
どうしてこの世界の自分は、今まで歌を「知らず」にいられたんだろう。向こうでの記憶があっても尚。一度声を張り上げたが最後、
歌は最早自分の四肢か五感のように切り離せないものになっていたのに。
世界と自分と歌しかないような、さっきまでのひと時の中で思い返すのは、「向こう」での母との思い出だった。

人目よりも、上手く歌えるかよりも、ただ母と一緒に歌うことが楽しみで、何よりの喜びだった記憶。
 アイドルでもないひとかどのメイドであっても、この世界の自分も歌えた。その事実に、遅ればせながら安堵して、喜んでいる自分に気づく。
もう、「向こう」の自分になる時は近づいている。やっぱり取り立てて「何か」が起こった訳でもなかったけれど。

(やっぱり、この世界は好きだと思います)

素晴らしい出会いがあった訳でもないけど、歌い終えた瞬間素直にそう思えた。
闇に沈み、少しばかり彩りの失せた花畑を見回し、
「時々は使わせてもらおっかな」
きっとこうなった以上、この世界でも自分はまた歌わずにはいられないだろう。ただ、それと人に見られることとはまた別だが。
アイドルを目指している身としては関心出来ないだろうが、やっぱり人目を意識しだすと恥ずかしさは拭えない。
パンパンとスカートの花びらを払って立ち上がり、何気なく横を向いた時―――
全身を嫌な意味での電撃が駆け抜けた。

先程自分が飛び出してきた木々のすぐ傍だった。二対の、見覚えのある子供達の瞳が、これでもかという程見開かれて自分を見つめている。
見られていた、というか、聴かれていた。
歌い終わった瞬間に通りかかっただけなら、文字通りあんな別世界の人間でも眺めているような眼差しを向けたりしない。
雪の中に手を突っ込んだ時にも似た霜焼けみたいな熱が、頬のみならず耳まで駆け抜けていくのを感じる。
(―――いぃぃやぁぁぁ!?)
「あ、あのあの!違うの、これは!」
ブンブンと両手を盛大に振って、半べそ状態で必死に抗弁を試みる。視線に気づかずさっきまでの自分を思うと
盛大にケリを入れてやりたい気分に陥った。
曲がりなりにもアイドル活動中の向こう側でならまだしも、聖歌隊にも楽団にも入っていない一介のメイドがひとりきり―――しかもノリノリで
広い場所で歌っていたなんて光景は、無垢な子供らの瞳にどう映ったかと思うと恥ずかしさで゙死にそうだ。
「ま、魔が差したっていうか、今のは私であって私じゃなかったの!だからお願い、見なかったことに―――」
子供達の自分を見つめる表情にも気づく余裕などないまま、小鳥は羞恥のあまり更に言い募る。彼らとの間合いが、それこそ
自分との心の距離を表しているんじゃないかという自嘲めいた妄想にかられた時、返ってきたのは静かな声だった。
「・・・・・・見なかったことになんて、出来ません」
強い意志を以てきっぱりと告げてきた少年は、スッと歩み出て、こちらへ徐々に近づいてくる。その表情に、呆れや侮蔑の色はない。
「先日失礼なことを利いた口で今更何を、と思うかも知れません。けれど、あなたの歌は決して恥ずかしくなどない」
強い口調で告げてくる少年の顔は、それこそ小鳥がさっきまでの己を恥じるような言動を許さない、とほのめかすような真摯さを含んでいて。
たじろぐ彼女に追い打ちをかけるように、ポスン、とスカートの辺りに軽い感触があたる。
え、と思った時には、紅潮した顔でこちらを見上げる金髪の少女が、小鳥のスカートの裾を握りしめて畳みかけてくる。
「鍵、ありがとうございました!え、ええと、ぬすみぎき?とか、そういうつもりじゃなかったけど、でも」
「え、あ、あの」
人見知りを体現していた筈のあの子犬のような佇まいが消え失せたみたいに、少女はマシンガンの如き勢いで
小鳥のスカートの裾をしっかりと掴んで、畳みかけるように言葉を連ねてくる。
「あの、お歌、とってもとっても素敵で、聴いたことなくて、その、お名前」
「・・・え?」
―――聴いたことがなくて当たり前だ。この世界で歌といえば教会の賛美歌ぐらいなもので、向こう側ではありふれているとはいえ
さっきの歌はまさに「異世界の歌」なのだから。
そう思って、軽い気持ちで答えようとする。
「あの、あれは『花』、っていう歌なんだけど―――」
ブンブンと金色の髪を必死に振り乱して、否定の意を表する少女。
「―――違います!お歌のこともそうだけど、そうじゃなくて!」
その時、自分を見上げる少女の顔に、ふっと霞みたいな既視感が過ぎった。
歌っている母を、まばゆいものに触れているような気持ちで見上げた時の、幼かった自分の顔はきっとこんな風だったかも知れない。
「私、ミント・アドネードです!お姉さんのお名前、教えてください!」
さっきまでの情けなさにも似た羞恥は、その無垢な叫びでたちまち遠のいていく。だが、一拍置いた後に、また頬は熱くなる。
こちらを見つめる2人の目が、混じり気なしの輝きでこちらを見つめる姿に、狼狽しつつも確かに喜んでいる自分がいて、そのことに呆れてしまう。
面映ゆさの中で、一つ高木に報告出来ることが増えそうだと、思考の片隅でそんなことを思った。
―――それが、ほんのひと時の幸福な日々の始まりにして、やがて訪れる「喪失」へと踏み出していく一歩だなどとその時は知らずに。
小鳥は、笑って自分の名を告げた。





―――積み上がったA4プリントの山をぼんやりと視認した時、ぼんやりとした思考の中で真っ先に思ったのは口元に
よだれでも垂れていないか、という懸案だった。
口で言うだけなら漫画みたいだけど、実際にやらかしてしまって手書き書類のインクを滲ませた時は、後輩事務員にしてアイドル候補生たる
少女の柳眉をこれでもかという位つり上がらせてしまったから。
何か、長い夢でも見ていたのだろうか。内容はそれこそ、霞がかったみたいに思い出せないけれど。
ポーチから取り出したコンパクトで、久々の徹夜明けで顔がどのような有様になっているかを恐る恐るチェックする。
肩で切り揃えた髪には多少の寝癖はついているが、手櫛でまだ何とかなるだろう。頭のヘアバンドにインカム、ついでに口元の黒子までもを
チェックしてから、ホッとため息をつく。とりあえず、人前に出られないような惨状ではない。
壁にかけられた時計を確認すると、もう間もなく皆の出社時刻だった。
「・・・・・・顔でも洗って、お化粧直ししとかないとね。・・・・・・あっ!亜美ちゃん達ったら、お菓子は家に持ち帰るように言ったのに・・・」
「未完の幼きビジュアルクイーン」の指定席となった来客用ソファ前のテーブルで、まだ中身のあるベックリマンチョコの
派手派手しい紙袋がが放られているのを見て顔をしかめる。
そして、ガムテ張りされた「765」の社名が影を作っている窓をガラガラと開け、朝の空気を思い切り吸い込む。いつから、と
決めた訳でもないけれど、徹夜明けにおける恒例の作業だった。
「・・・・・・さて、今日も一日頑張りますか」
あと少し経てば、今はだだっ広く錯覚してしまうオフィス内も、息つく間もない程騒がしくなるだろう。
 シャワー代わりに朝陽を浴びて、ひとしきりリフレッシュした後―――

透明度の低いガラスの向こうに、ゆら、とたなびく長い髪が見えた気がした。
「―――え?」
反射的に瞼を擦ってガラスを見直した時、当たり前だがそこには髪を短く切り揃えた自分の姿しか映ってはいない。「音無小鳥」の姿しか。
(・・・・・・伸ばさなくなって、どれ位経ったっけ)
アイドルを断念してからずっと、今の髪型を通していることに深い意味はない、と思う。ただ、ここへの就職を決意した時に、
『舞台裏』の人間にとっては長い髪よりこっちの方が融通が利く、と思っただけで―――
 ぼんやりとそんな風に考えていた時、デスクに置いた自分の携帯が軽やかに着信音をでる。
慌てて手に取ったそれの着信画面には、自分のかつてのプロデューサーにして現上司の名前。
「―――あ、もしもし社長ですか?珍しいですねこんな朝早くに―――」

そうして話し込んでいる内に、さっきまでのぼんやりとした逡巡は消え去り、たちまち事務員としての日常を取り戻していく。
ただ、差し込んでくる金色の朝陽が、不意に「あの子」の髪のようだ―――などと、一瞬過ぎった感想も、忙しさの中で存在ごと消えていき。

―――嘘のように突拍子ない光と緑の世界を。確かにあった筈のもう一つの思い出を、忘れたことすら忘れたまま、彼女は今日もアイドル達を笑顔で出迎える。

再び始まりの日がやって来る、その日まで。

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最終更新:2011年11月21日 22:28