TOWもどきim@s異聞~第一章~ 春香編2


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 降りしきる雨の中を早足で急ぐ人の群れの中。
一瞬誰もがそこに目を留めては、とりあえず何事もなかったかのように行き過ぎていく。
一見しただけだと、花屋の軒先なこともあって、まるでラフレシアばりに大きな花が満開になっているようにも錯覚出来たことだろう。
路上にしゃがみ込んだ少女の体を覆い隠しているパステルピンクの傘が、クルクルと床屋のサインポールばりに回っているのだから。

「・・・・・・あの、これ下さい!」
店先でかれこれ五分、唸りながら座り込んで陳列された鉢植えを眺めた末に、彼女は店員にそう言って、
柔らかな花弁を開かせた数輪の、名も知らぬ青い花の鉢を手に取った。
『散歩でもして気分転換でもしてきなさい』と伊織によって事務所から強制的に叩き出され、傘をくるくる回しながら
近所をうろついていたのがつい先程までのこと。
雨の醸す湿気にも負けない後ろ向きな心地で歩いていて、今日は雨靴でもないのに、とわずかに湿ってくる靴下の感触で殆ど
無意識に顔をしかめそうになった時、吸い込まれるような引力でその小さな花は彼女の目を惹いたのだ。
毎度ありがとうございました、と店員の笑顔に見送られながら、ビニール袋の中の花を見やる。深い海の底にも、高く晴れ渡った空のようにも見える青色。
頭の隅に思い浮かぶ彼女のシルエットそのままの。
渡す時には、さり気ないにこしたことはない。
(―――千早ちゃんに似合いそうだから何となく買っちゃったんだ)
あくまで自然に、自然にと胸中で繰り返していると、何だか彼女への口説き文句みたいだな、とちょっと笑えてしまう。
これで花束だったら、真辺りが好みそうな少女漫画の世界だ。
一時は千早の趣味に合わせてクラシックかオペラのCDでも、という思いもあるにはあったが、もし曲調及び作曲者について
聞かれたら答えられるだけの知識がない。こと『音楽』という土俵では、千早に対し迂闊なプレゼントは禁物、という意識があった。
 殆ど破れかぶれのチョイスだったが、何もしないよりマシだ。

(―――けど)

風でゆらゆらと揺れる花びらの輪郭に、彼女の後ろ姿と颯爽となびく髪を見出しながら、脳がつい先日の鮮烈な光景を掘り起こす。

亜美や真美のそれに比べたら本当に些細な、イタズラにも満たないちょっとしたお遊びのつもりだった。
少なくとも、多少羽目を外しても許してもらえるものと無意識に信じ込んでいた。

穏やかにまどろんでいた、白い面差し。ぐっすりと彼女が寝入っているのを確認してから、すべらかで長く、
自分が伸ばしてもここまではいかないだろうと思わせる艶を放つ髪を編み終えるまで、春香は本当に気楽だった。
怒られることを全く考えてなかったなんて嘘になる。
ただ怒りはしても、一言二言注意してくるか、呆れてため息をつきながら小突いてくるか、それで終わりと気楽に構えすぎていた。

そんな決めつけにも似た考えは、ふと自分の手を彼女の瞼に翳した瞬間、粉々に吹き飛ばされることになったが。

一歩足を引かなければ、生ぬるい比喩抜きで鼻先を切り裂いていた。頭の端でそんな風に思うほど、振りあげられたその小さな
指先は刃のように鋭い勢いを伴っていて。
何よりも、その瞬間、それまで和やかに寝入っていた空気をあっさりと反転させたその表情こそ、春香に『打ちのめされる』という心地を味あわせた。
 事務所で共に活動してはや数ヶ月、花が綻ぶように穏やかに見せてくれていた筈の親愛も何もかも消え失せ、向けられた眼差しは
心臓を片手で握られたような錯覚さえ覚えるほど冷えきって―――

それ以来、気づけば正面から千早の顔を見ることすら何となく怖くなっていた。

だけど。

 冷たく湿った空気に混じる車の排気ガスや、換気扇から漂う飲食店の雑多な芳香、それら全てを深く吸い込み、吐き出す。一緒に、
胸に溜まったしみったれた気持ちも綺麗に身体から排出出来たらと埒もないことを考えた。
どうして、とかあの程度、とか。過ぎてしまったこと、犯してしまったことの理由を考えてみたところで、最早どうにもならないだろう。
ただ今は、千早とちゃんと正面から話すこと。それを考えなければ始まらない。
 もしまた、あの苛烈な眼差しをぶつけられ―――拒絶されたらというIFは、やはり春香を怖じ気づかせる。
けど、だからといってこのままでいい訳もないと、ここに来てようやく彼女も腹を括った。
まずは話してみよう。そもそも、直接言葉で断絶を突きつけられた訳でもない内に、こんな風にいじいじ悩んでいるのは性に合わない。

文字通り、打ちつける雨に頭を『冷やされた』お陰だろうか。多分、あのまま事務所でゴロゴロとのた打ち回っているままでは
不毛な一日のまま終わるところだったかも知れない。
(・・・・・・伊織に感謝、かな)
今頃うさちゃんを片手にくしゃみをしているかも知れない彼女の姿を思い浮かべると、沈鬱な心境も忘れてクスリと口の端がつり上がった。
雨のせいもあってか、周りの空気もふるりと肌寒さを増したいる気がする。
そろそろいい頃合いだし、早く事務所へ戻ろうか―――そう考え、帽子で喩えると『目深に』掲げていた傘をほんの少しばかり上げると、
視界がほんの少しばかり開けた。

今にして思えば、タイミングは、それこそ図ったようだった。


苛立ち紛れに力を込めたブレーキを踏み、乱雑な扱いをされたタイヤが耳障りな悲鳴を上げながら、車はその場所、
双海総合病院の前に横付け停車された。平時であれば決してしないような不作法を、自覚しない程彼も彼女も気が急いていた。
これ以上ない程青ざめながら、後部座席の千早の手を強引に取ってそのまま車を降りた。入り口まで殆ど目と鼻の先だったとはいえ、
傘もささずに飛び出した二人の身体を
容赦なく冷たい雨が叩く。さっきまで呑気に眺めていたこの曇天も雨模様も、さっきの連絡を受けた後では
それこそ不吉の前兆としか思えなくなっていた。

水滴を飛び散らしながら院内へ飛び込んできた、スーツ姿の男と少女という取り合わせに怪訝な顔を向ける患者や職員達の姿に
構うこともなく、必死に目的の人物の姿を捜した。
 首元から手首に至るまでをブルーと白のストライプのシャツで包んだ、跳ねたおさげ髪が特徴の後ろ姿が、
こちらに背を向けて腕を組んで立っている。
「律子っ!?」
院内のささやかな喧噪を突き抜けた呼びかけに振り向いた秋月律子は、その先にあった担当プロデューサーと
同僚アイドルの有様に目を剥いた。
「ちょっ・・・・・・何て格好してんですかプロデューサーっ!?それに千早までっ」
突然の大声によりびっしりと集められた注目に辟易した様子を見せながらも、律子はとりあえず両者の手を強引に取って、
非常口付近―――人気の少ない場所を見定めてズンズン進んでいった。
それから疲れたように重いため息をこぼした時、
「・・・・・・思ったよりも早く着いてくれたのは助かりましたけど。亜美達のご実家とはいえ、目立つようなことはやめて下さいよ」
「―――あのなぁ!」
報告を受けたのなら、何でそうも落ち着いていられるのか。焦燥と共に吐き出そうとした言葉を遮ったのは、それまで静かに俯いていた千早だった。
「春香は、春香の容態はっ!?」
身を切られんばかりに震えながらも、鬼気迫る気迫が伝わってくる問いかけだった。最も知りたかった、気がかりだったことを
先んじて訴えられたプロデューサーの声が、掠れるように萎む。ともすれば、さっきのエントランス周辺にも少しは届いていたのではと
思わせる声量を発した当の千早は、真っ直ぐに律子を視線で射抜きながらも、プロデューサーのスーツの裾を握りしめて小刻みに肩を震わせていた。

―――そんな二人のただならぬ様子を見て、しばし呆気に取られたように目を瞬かせていた律子は、
やがて頭を片手でかきむしりながら、一言こう発した。

「・・・・・・担がれた訳ね、二人とも」


嫌な想像ばかりがリアルに頭を過ぎっていた。集中治療室に運び込まれたか、もしくは定期的かつ不吉なメロディを
奏でる心電図の傍で痛々しい程の数のチューブに繋がれながら、ベッドに横たわっているか。
しかし一足先に着いていた律子の落ち着き払った態度のみならず、廊下でかち合った親御さんからの実に朗らかな
『ご迷惑をおかけして・・・』という言葉が来た日には、流石に引いていた血の気も冷静さも戻ってくる訳で。

そして、案内された病室で実際の有様を目の当たりにした時、二人は途端に脱力感でヘナヘナとくずれ落ちた。
布団の下から、ゆるやかに上下する胸部と、ふにゃふにゃと唇を変に波打たせて、時折「うへへへ・・・・・・」と
妙なにやけ面を披露して寝返りを打っている姿。
尋ねるまでもなく、彼らの想像していたような惨事になど至ってはいなかった。
途端、ジワジワとこみ上げてくるさっきまで自分達が晒していた醜態への羞恥に悶えていると、枕元に立っていた『元凶』から
呆れたような声が投げかけられた。
「・・・・・・ちょっと、あんた達何よその格好?身体位拭きなさいよね」
―――おい伊織さん、あんたさっきまでしゃくりあげるみたいな鼻声で『春香が・・・・・・春香が車に・・・・・・っ』とか言っとらんかったか?
恨みがましい視線を向けてくる彼の、そんな内心に気づいたのかまでは定かではないが、伊織は先手を打つようなタイミングで、
「春香が車に『風で飛ばされた傘を潰されて、回収しようと走ったらコケてガードレールに頭ぶつけて気絶した』から
病院に運ばれたって言おうとしてたのよ」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・それで、改めて聞きますけど・・・・・・春香の容態は?」
平静を装いながらも、やはり若干怒りや羞恥を滲ませた千早が、低い声音で問うてくる。
心なしか、周囲の空気にもビリビリとした電流めいた剣呑さが漂ってくるようだった。
伊織と同じく春香に付き添っていた小鳥が、そんな彼女の様子に若干冷や汗を掻きながら、
「ぶつけたのが頭だって聞いたので一時は肝を冷やしましたけど、脳検査も異常はないそうです。結構寝入っちゃってますけど・・・・・・
先生の見立てだと軽い睡眠不足によるところが大きいだろう、と話してたので、心配はいりませんよ」
―――今度こそ、プロデューサーと千早。両者の肩から力が抜けていった。
「・・・・・・伊織、頼むからこういう悪ふざけはやめてくれないか?」
「悪ふざけのつもりはないわよ。・・・・・・あ、それと千早」
伊織はスタスタと未だ険しい顔を向ける千早の視線を物ともせずに近寄っていくと、ズイッ、と一つのビニール袋を差し出した。
「これ、鉢は割れちゃってるけどあんた宛のカードが添えてあったから。貰っておけば?」
吐息にも似た「え」、という間の抜けた響きが、ほんの少し耳朶に触れたような気がした。
今更確かめようもなかったが、とりあえず千早はその張りつめていた雰囲気を若干緩和させたような―――或いは伊織の言葉に面食らったような感じで、
ズイッと差し出されたビニール袋を受け取った。
 横合いから覗き込む。土台となる鉢は少し割れてしまったが、誰もが知っている『千早の色』が凛然と咲いていた。

「値札見てみるけど、結構自腹切ったみたいだし。・・・・・・ここいらで許してあげたら?」

さり気なさを装いつつも、後半で若干調子を窺うように上がったトーンで、ちょっとピンと来た。
こちらとは違い、まだ喧嘩の詳しい経緯を知らない伊織のことだ。春香視点での情報だけを頼りに推測してみて、意志の固いというか
頑迷なところのある千早に、かなり乱暴ではあるが軽く発破をかける意味でああいった言い方をしたのだろう。

千早の方も、担がれたことへの怒りはどこへやら、少しばかり戸惑ったような顔つきで花びらに触れている。
一応病室に『鉢植え』は、と余計な茶々を入れそうにもなったが、贈る相手が患者でないならばノーカンということに
してもいいだろう、と呑み込んでおくことにした。

「・・・・・・春香のフォローのつもりなのか知らないけど、水瀬さん。・・・・・・次からはもう少しやり方を選んでもらえないかしら」
疲労しきってはいるが、呟く言葉にさっきまでの険や緊迫感はなかった。
「ほ、ホントだぞ伊織。・・・・・・ていうか、電話の時ホントに鼻づまりしてるみたいな声だったけど、風邪でも引いてるのか?」
「あ、それはですね。・・・・・・反対したんですけど臨場感を出したいから、ということで私が黒胡椒を」
「そこ、余計なこと言わないっ!」
―――さっきまでの、それまでの全部が失われそうな、形のない危機感や焦燥に怯える空気は微塵もなくなっていた。
そうなれば、場所が病院でも一気に『いつもの765プロ』へと早変わりする。
 「交通事故」というキーワードをダシに使われたにも等しい千早は、とりあえずもうそんなに引きずった様子はない。
そんな姿を見て、それまで勝手にドギマギしていた気持ちが、またも勝手にホッと収束する。
幼い頃に彼女やその家族を見舞った悲劇について、事務所内で知っているのが自分だけである分仕方ないのだろうけど。

「たまたま個室が空いてて助かりましたよ、大部屋に運び込まれてたらややこしくなるところでした」
それまで入り口にもたれ掛かり、事の成り行きを見守っていた律子が、やや疲れたように初めて話に加わってきた。
「大したことないとはいっても、明日からの仕事とかはしばらくキャンセルしないといけませんから。春香の親御さんは
もう承知してくれてますけど、関係各位への謝罪と挨拶周り、よろしくお願いしますよ、プロデューサー?」
まあ私も手伝いますけど、とポンと肩を叩かれながら、ウッと喉の奥が詰まったような感触を覚えたのは無理からぬこと。
頭の中に詰め込まれていた春香の今後のスケジュールには、結構大口の仕事も残っていた覚えがあるだけに、頭が痛くなりそうだ。
見下ろす当の本人の、こちらの苦悩など知る由もなさそうな無垢で呑気な寝顔を、ちょっとばかりつねってやる。
 そんな酔狂滅多にしない。けど触った瞬間、いつもの平凡で安らかな世界がようやく、自分の中で取り戻された気がした。
(―――どんな夢見てるんだか)
病室の外から、バタバタと賑やかな足音が迫ってくる。大方知らせを聞いた他の事務所メンバーが駆けつけてきているのかも知れない。
・・・・・・騒ぎすぎて看護師に叩き出される前に、しっかり言い含めておいた方がいいかと、とりあえず顔とネクタイだけは引き締めながら
病室の入り口へと向き直った。


浮上出来ない。何かの底に自分がわだかまって、縫い止められているように。
見える世界は本当に真っ暗で、風情もへったくれもなく子供が絵の具で塗りたくったような乱雑な黒さは、
逆に春香に冷静さを取り戻させた。

手足をどれだけ動かしてみても、ぶつかるものは何もない。ただ、身体を起こしたその瞬間、妙に重たい荷物がぶら下がっているような感触はした。
水の中を静かに溺れている、という方が一番しっくりくるだろうか。
(カナヅチって訳じゃなかった筈なのになぁ)
呑気な呟きを発した傍で、でも人間の身体は主に体脂肪によって浮き上がるというから沈んでいるというのは
ちょっと喜ばしいのかも、とか考える。
けれど、そんな怖くもない黒の世界に変化が訪れるのにそう時間はかからなかった。

鼻先を、何だか湿ったような土と、濃密だが澄み切った草の香りが満たしていく。
最初は、ともすれば気のせいかとも思う位のささやかなものだった。けれど、一端聴覚に飛び込んで春香の脳を刺激したその音―――
いや『声』を、自分が聞き逃す筈もない。
でも、一瞬信じられなかった。
確かにそれは、脳裏に思い描いた人物の持つそれだと本能が訴えかけている。
日常の他愛ない歓談の時には少し静かで頑な部分もあり、でも一度歌えば喜怒哀楽の全てを美しく奏で、聞く者の心を等しく響かせる。
でも、春香は未だかつて聞いたことがない。
彼女のこんな歌い方を、レッスンでもコンサートでも聞いたことがない。

―――何で。


―――そんな泣きそうな声で歌ってるの、■■ちゃん


遠くから降り注いでくる、覚えのない声、声、声。
それがきっかけとなったように、気づけば周りの『黒』はさながらガラスに亀裂が入ったみたいに剥がれ落ち、帯のような光が差し込んできた。
 黒一色の世界に慣れきっていた視界にその光はいきなり受け入れるには眩しすぎて、反射的に腕で目を庇う。
同時に、それまで思うようにならなかった身体が嘘みたいに軽くなり、そして、軽くGすら感じさせる勢いでグングンと
突き抜けるように浮上、いや飛翔していく。上へ、上へと。
 絶叫マシーン並みとは言わないけど、それまでの軽いまどろみも一気に覚めるようなスピードに、少しばかり背筋が震えた。
このまま突き進んだら、果たしてどこへ辿り着くんだろう。
たった一回きり。トクン、と胸を鼓動が揺らしたのは、恐怖かそれとも未知への好奇心だったのか。
やがてゆらり、と頭上の光へとかざした自分の掌の切っ先を。

軽く乾いた羽ばたきの音を響かせて、一羽の鳥が駆け抜けた。


濃霧が晴れたみたいにクリアになった意識の中で、最初に認識したのは自分の横たわっているしっとりとした草むらの感触だった。
光の中に遠くなっていく鳥の影に目を奪われていると、そっと口づけるように灰色の羽根が彼女の頬に舞い降りてくる。
(……あれ?)
電線と建物で狭まった窮屈な空と、無機質なビル群で構成されたコンクリート・ジャングルもそこにはなく、見渡せど見えるのは
目にも鮮やかな木々の群ればかり。

そして、むくりとた拍子に耳に飛び込んだしゃらんという金属音に気づいて首を下に向けた時、今度こそ春香は硬直した。
見慣れた自分の私服じゃない。
風船のように膨れ上がったパフスリーブが特徴の、踵まで丈の伸びたワンピース。胸元には、白く広がった襟と銀に輝く十字架のネックレス。
臑まで覆わんばかりの紅茶色のブーツ。
いわゆる『修道服』と呼ばれるそれは、やけに主張が激しい赤―――自分のイメージ・カラーをしていうのも何だが―――で
派手に染め上げられていた。
いよいよもって、今置かれている状況の現実感が薄れていくようだった。
(・・・・・・だってこんなダンスの時に転びそうな衣装、絶対に着な―――)
「って痛っ!?」
後頭部が鈍い痛みを訴えて、春香はやや涙目になって患部を押さえる。
痛みがあるなら少なくとも夢や天国と称される場所ではないのかも知れない―――と、見当違いな安堵感を抱いた時だった。

―――それでは一時間後に再度召集をかける。各々の持ち場についた後は―――

野太く朗々とした男性の声が、茂みの向こう側から響いていった。
え、と反射的に首を向けると、鮮やかな緑の空間の中では妙に目立つ、煤けた灰色の鎧の群れが行儀よく列を成して歩いていた。
「・・・・・・じ、時代劇の撮影かな?」
こんな時でも反射的にポジティブに解釈出来る楽観性は長所かも知れないが、しかし第三者がツッコむ間でもなく脳は「否」を告げていた。
並々ならぬ気迫を纏い、奥へ奥へと進んでいく兵達の様子を固唾を飲んで見守っていると―――
それを一瞬、春香は見間違いかと思った。
だが、屈強な兵達の中では際立っている滑らかな黒髪と小柄で華奢な体躯。―――そして、隣の兵に何事かを
注意されて体勢を変えた時に見えたその横顔を見た瞬間、春香の背筋に電流が走った。

「―――ちはっ」

反射的に駆け出して草むらをかき分けた、その瞬間。
 悲鳴を上げる暇さえない。目の前の現実を認識するのに、多少脳の回路が繋がらなかった。
自分の影を覆わんばかりの、ただただ巨大なそのシルエット。ただ、それを見た瞬間、春香の脳にはそれと相対している自分の姿に
象の足に踏みつけられる蟻のイメージを抱いた。
唐突に自分の前に立ちはだかり、その太い腕を振るうその様を呆然と―――

「下がっててっ!」

その瞬間は実に鮮やかだった。
大した助走も踏み台もなく、恐らくは少女と思しき『誰か』の細い足は音も立てずに天高く跳躍し、春香の頭上で華麗な一回転を披露する。
 春香がギョッと身を引いた時、次に過ぎったのはあらゆる意味で「有り得ない」光景だった。
長い長いオレンジのスカートから伸びた小さな足の踵が、ほの昏い森の影から身を乗り出していた巨大かつ茶色い『何か』の肩を、殆ど
陥没させるかの如き勢いで強襲したのだ。
「・・・・・・く、くくく・・・・・・クマッ!?」
それは幼き日、絵本やテディベアという媒体でのみ慣れ親しんできた「くまさん」への幻想を、動物園で粉々に打ち砕かれた時の衝撃にも似ていた。
丸太何本分を束ねたみたいに太く逞しい上半身と比較し、チョコンという擬音がつきそうな位の短足ぶりが際立った下半身は何ともバランス悪く映った。
眺めているだけでも実に痛そうな牙を覗かせた口は大きく裂け、前脚には鍬みたいに太く鋭い爪がギラリと物騒にきらめいている。
だが、そんな巨体も別段鍛えられてるようにも見えない少女の踵落としのみで、信じられないことに痛恨の一撃を喰らったようによろめいている。
苛立ち紛れに横薙ぎに振られた爪を、少女はバックステップで軽々とかわした。
その身代わりとなる形で、すぐ後ろにあった巨木が、その爪の餌食となって忽ちその太い幹にメキメキを空洞を作った。
「三散華っ!」
凛とした声と共に少女が放った、そこからの一連の攻撃はまさに演舞のようだった。
ブロック幣にでもぶつかれば忽ち壊れそうな華奢な拳や脚が繰り出す、ただ「殴る蹴る」だけの動作。全てを見切るには
あまりにも素早く、されど火花すら散っていそうな。
その一連のコンボがトドメの一撃となったのか、クマモドキはヨロヨロとふらつくような仕草を見せた後―――その体躯を、
地響きと共に大地へと沈ませた。

目の前の少女は吐息と共に顎を伝う汗を手の甲で拭うと、素早く呆然と座り込んでいる春香の元へと駆け寄って、手を差し出した。
「怪我とか、してない?」
「え?・・・・・・あ、ハイ!」
パンパンとスカートの土埃を払って立ち上がる。深緑の木陰のような髪を木漏れ日にきらめかせたその少女からは、
先程雄々しくクマモドキ(仮称)と戦っていた時の気迫は感じられない。
「余計なお世話、だったかな?」
「いやいやそんな!あ、あの・・・・・・あなたこそ大丈夫なんですか?あんな大きい熊なんかと戦って・・・・・・」
「熊?・・・・・・ああ、エッグベアか。大丈夫だよ。私これでも、人より鍛えてるんだから」
・・・・・・エッグベア?と聞き慣れぬ単語に春香が疑問符を浮かべるよりも早く、そこで少女がズイッと顔を近寄らせ、少しだけ
窘めるような口調で言ってくる。
「でも、ロクな武器もないのに女の子一人で危ないよ?せめてボムとか・・・・・・って!」
彼女はそこで驚いたように声を張り上げると、グイッと春香の後頭部に顔を寄せる。
「うわ、すっごい腫れてるよ!?全然大丈夫じゃないでしょう、これ!」
「痛たたたっ!?・・・・・・あ、いやこれは襲われて出来た傷じゃなくて・・・・・・!」
「とにかくちょっとついて来て!私の村にいい先生がいるの!」
「え、ええ!?」

ほんの一瞬、さっきの行列を見た森の深奥を眺める。
でもそこには彼女どころか人っ子一人いる気配はなく、ただ鳥のさえずりが響き渡るのみ。
(・・・・・・とりあえず、着いていってみようかな)
『村』という時点で正直どんな僻地にいるのかと戦々恐々とした心地だったが、まずは人のいる所に行かなければ始まらない。
「え、ええとわかりました。お言葉に甘えてもいいですか?」
「敬語なんて使わなくてもいいよ、多分私達同い年位だと思うし。―――あ」
ふと、少女はそこで思い出したように振り向くと、オレンジのスカートを翻して一回転。
その拍子に、風と一緒に太陽と藁のような、どこか安らかな香りが鼻をくすぐったような気がした。

「私はファラ、ファラ・エルステッドっていうんだ。あなたの名前は?」