無題7-230


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「春香ー?夏休みの宿題は終わったのー?」
夏休みももう少しで終わりという日の夜
母から毎年お決まりのセリフを頂戴した春香は、返答に詰まっていた
今年の夏は、海外ロケやら何やらで忙しかったのだ
「うー…Pさんは出張だし、困ったなー」
「しょうが無いわねー。明日にでも、お兄ちゃんに聞いてききたら?」
春香の家の裏手には、春香と7つ程の離れた従兄が一人で住んでいる
天海家の血を引く者の中ではずば抜けて頭が良く
主に生物学を専門としているが、他にもわけの分からない研究を色々やっている
世界レベルの大手企業から主任待遇で幾つも誘いを受けているが
全て『めんどい』の一言で断っているらしい
今は家庭教師と塾の講師をして生計を立てている
最近はPに宿題や課題も手伝ってもらっているが
昔から、この時期の春香の切り札は彼だった
「うん。そうする」
一族の中では、新年の集まりにすら顔を見せず
若干孤立している従兄ではあったが、春香はそんな彼が嫌いではなかった

家の裏手の周り、溝を超えて隣の家の塀の勝手口を開ける
そこには半開きになっている窓があった
窓の外に設置された空調の室外機の上には、猫が一匹鎮座している
彼が飼っているペットの猫、小町だ
猫のくせに10年以上生きていて、半分人間化しているのか、非常に猫らしくない猫だ
「小町ちゃん、こんにちは。お邪魔するね」
窓を開けるとそこはゴミ屋敷だった
「お兄ちゃーん。入るよー?…って相変わらず汚い部屋だねー」
その評価に対して、部屋の…正確には家の主は堂々たるものだ
椅子に浅く腰かけ、背もたれに上半身を預けて脚を机の上に乗せて軽く組んでいる
「汚いだと?その評価は適当じゃない。物が多いから散らかってる様に見えるだけだ
 現に、俺自身は何処に何があるのか完璧に把握している。第一…」
彼は体を垂直に戻し、机の上に置いてあった宅配ピザの箱からピザを一切れ出して咥える
お前も食うか?と言わんばかりに箱をこちらに向けてくる。春香も一切れもらった
彼は宅配ピザを頼むとき、いつももちピザ(照り焼きソース)を注文する 
春香もコレが一番好きだ 中学生の頃から、お腹が空いた時やお小遣いがピンチの時
当時大学生だった彼によくこのピザを奢ってもらったものだ
「人様の家に堂々と窓から上がり込むやつが言うセリフでもねーだろ」
「えー、いいじゃん。昔からそうなんだし」
「フン。で?今年は何と何と何だ?」
完全に見透かされているようだ
「えーっと…英語と数学と生物と化学デス…」
「計4つとはな。相変わらずお前さんは、俺の予想を素敵に裏切ってくれる」
「学問に王道無しって言うけど、近道というかコツみたいなのは無いのー?」
「個人的な見解だが、結果を出す為に必要なのは99%の努力でもなければ1%の才能でもない
 一番物を言うのは、重ねた手数と撃った弾数だな 理論的には、あれが一番良い」

そこまで言うと彼は、茶でも淹れてくると言って、隣の部屋に入って行った
待っている間に部屋を見回して見ると、ふと見慣れない物が目に入ってきた
「メガネ?」
平然と暗い所でパソコンを弄ったり本を読んだりしている割に
彼は両目とも視力は良かった筈だ
(お兄ちゃんのじゃない…という事は…)
「彼女さんのとか?」
もっとあり得ないだろう
別に遊び方を知らないという訳でもないのだが
彼は基本的に、恋愛よりも友情を重んじる男である
考えている内に、彼が湯飲みを手に戻ってきた
「緑茶でいいかー?…っておい、そのメガネは…」
「あっ、ちょうどよかった。このメガネって誰の?」
「それはさっき完成した新発明。名付けて、“クロノのメガネ”だ」
「クロノ?」
「ギリシャ神話で“糸の紡ぎ手”と呼ばれる、運命を司る女神さ
 その名の通り、何とそのメガネを掛けると…」
「掛けると…?」
「メガネを通して見た人間の、所謂“運命の赤い糸”が見える」
「へー…運命の赤い糸が…って!!それ凄い発明じゃない!!」
「そう、割と凄い発明なのだ。ただし一つ欠点があって…」
「じゃあさっそく。私の運命のお相手は、だーれ?」
春香はメガネを掛けて目を閉じ、自分の小指を立てて目の前に持ってきた
(キャー!!誰だろう!!ひょっとして、Pさんだったらどうしよー!!)
春香は、期待と興奮に胸を膨らませ、恐る恐る目を開ける 
すると…
「…無い」
(これはひょっとして…生涯…独身?)
「最後まで人の話を聞け。欠点というのは、自分の糸は見えないという所だ」
「なーんだ…ビックリして損したよ…」
しかし…
「ちょっとコレ、面白そうだから借りるね!」
「あっ!おい、ちょっとま…」
彼が何かを言い終える前に、春香は窓から飛び出て靴を履き
道を走りだしていた
「…宿題は良いのかね?」
小町が呆れたように、欠伸を一つ放った

2時間後、春香は事務所の下まで来ていた
「ムムム…半信半疑だったけど、まさか本当だったとは」
事務所に来るまでの間、変装も兼ねて例のメガネを掛けていたのだが
電車の中も、道端も、ともかくそこらじゅうが赤い糸だらけだった
しかし、効果が証明された以上、実践に移るべきだ
「さてと…じゃあ本命と行きますか」
春香は、事務所の中に足を踏み入れた
(確か今日事務所に来てるのは…)
「あれ、春香どうしたの?今日はオフだったよね?」
まず最初に見つけたのは、765プロが誇るアイドルの一人、菊池真だった
「あっ、真。ちょっと用事ができちゃて…」
そう言いながら、春香はさり気なく真の手に目をやる
(赤い糸…ある。へー、この真がねー)
お相手は誰だろう?もしPさんだったら…
(真、女の友情は意外と脆いかもしれないよ?)
「…春香?聞いてる?」
「あっ!!ゴメンゴメン。聞いてる聞いてる」
「そう?じゃあ僕、これから予定が有るから」
そういって去っていく真の後ろ姿から伸びている赤い糸は
事務所の外にまで続いていた
「…雪歩まで繋がってたらどうしよう…」
絶対にあり得ないとは言えないのが怖い所だ

事務所の奥に進むと、小鳥さんがいた
「あら春香ちゃん。休日出勤かしら? Pさんは、今ちょっと出てるけど…」
「はい、ちょっと。小鳥さんもですか?」
「そうなのよねー。もう肩が凝っちゃって…
 でもね、今日は友達に誘われてねー 久々に合コンなのよ」
「へー、そうなんですか…」
「あっ、その眼、年甲斐も無いと思ってるでしょー
 私は断ったのよー?でも、付き合いってのもあるじゃない?」
そう言う割には、いつもより随分とお化粧に数段力が入っていたが
(あっ、そうだ)
小鳥さんの手元に目をやると
(…ある!!)
「?春香ちゃん?どうかした?」
「い、いえ。あの…小鳥さん」
「なぁに?」
「い、いつかきっと、素敵な出会いがありますよ!」
そう言って春香は事務所を後にした
「? 変な春香ちゃん」

春香は近くの公園まで来ていた
Pさんは事務所にいるものだと思っていたから
彼の赤い糸の確認はできなかったが
とりあえず、もうちょっと待ってもう一度行ってみればいい
「んー、まさか小鳥さんにまでねー」
ちょっと以外だった 確かに綺麗な人ではあるのだが
何となく、小鳥さんは結婚しないものだと思っていたからだ

そんな事を考えていると
何処からか、聞き慣れた声が聞こえてきた
辺りを見渡すと、声の主が見つかった
春香達765プロ所属のアイドル、皆が憎からず思っている男
765プロのアイドルを一人で束ねるプロデューサーだ
外回りの途中だろうか? 春香は声を掛けようとした
「プロデューサーさ…」
すると彼の隣に並んで、一人の女性が一緒に歩いていた
どうやら、春香達がよく利用しているスタジオの女性スタッフのようだ
とても優しくて綺麗な人で、デビュー当時から凄くお世話になっている

春香は声を止め、近くの木陰に身を隠した
二人は噴水の近くを歩きながらとても親しげに話していた
春香はバッグからメガネを取り出すべきかどうか迷った
春香はまだ若いが、主観的には17年という時間は決して短くは無い
そんな中で、悪い予感に限って大抵当たるのだという事も知っていた
何も見なかった事にして此処を去る 別にそれで良いんではないだろうか
この場の事は私しか見なかったのだ だから、それを私が忘れてしまえば…
だがどうせ忘れるのなら…
「…」
春香はバッグの中に、そっと手を差しいれた

「遅かったな。どこまで行ってたん…」
従兄のそう問う声も耳に入らなかった
何があったのか、その高すぎる洞察力で大方の所を悟ったのだろう
彼は大きく息を吐くと、それ以上何も言わずに湯飲みの中の冷えた茶を飲み干し
新しいカップで春香が好きな紅茶を淹れてくれた
彼自身は紅茶よりもコーヒーが好きなのだが、何故かいつもこの紅茶だけはキッチンに常備している
いつもなら心を落ち着かせてくれる優しい香りも、今の春香にはあまり効果が無かった
「だから使わせたくなかったんだ」
「…ゴメン」
「見ようが見まいが、知ろうが知るまいが、どんなに必死に抗っても変えられない事はある。それは事実だ
 知ってしまうのが辛いなら、始めから見ないというのも選択肢の一つではある」
彼はそう言いながら、足元に転がっていた箱を取り上げる
「だが…今回に限って言えば、打つべき手が無いわけではない」
その言葉に春香が顔を上げると、箱の中にはハサミとノリの様な物が入っていた
「赤い糸を自由に切り張りできるハサミとノリだ。メガネとセットで作った」
それだけ伝えると、「後はお前次第だ」と言うように、彼は論文を読み始めた

春香は、二つの道具を見つめながら考えた
色々、本当に色々考えた その間、彼は何も言わずに待ってくれていた
そしてようやく結論を出した というより、心の中で考えが纏まった
春香にとっては、義理や倫理観も大事だったが
何よりも、自分が相手をどうしたいのかが一番大事だった
仮に彼の運命を捻じ曲げたとして 己と彼の運命の弦を絡ませた所で
自分も彼も幸せになれるとは思えなかったし、自分は彼に永遠に負い目を感じ続ける事になる
「やっぱり、いいや」
「そうか」
彼も、それ以上を聞かなかったし、言わなかった
人によっては、ぶっきらぼうで冷たく見えるかもしれないが
春香は、彼のこういう所も嫌いではなかった
「このメガネも返すね…。あっ、ちょっと待って」
「ん?」
「まだお兄ちゃんの糸を見てなかったよね!見てあげる」
春香は、彼の顔が引きつったのを軽く数年ぶりに見た気がした
「結構だ!」
春香の手からメガネを奪い取って本棚の上に置く
「それより早く宿題を進めるぞ」
「はーい。もう、照れちゃって」
「照れてない!それに、俺は結婚で幸せになるタイプじゃないんだ」


本棚の上には先客がいた
小町は、昼寝を邪魔された事を起るでもなく
寝そべったまま大きな欠伸をして顔を前に向けた
するとちょうど、小町の眼の前にメガネが来る形になった
小町は、自分の目の前の空中を軽く引っ掻き始めた
それは、まるで目の前で揺れている糸を捕まえようとする
最近の小町としては非常に珍しい、猫的な行動だった   ≪終≫