無題7-275


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 高槻やよいが自主レッスンから帰ってくると、事務所の中に朝見かけた姿はどこかへと消えていた。
 祝日のことである。その日は予てから高木順二郎社長がこの日は会社丸ごとオフにする! と宣言していた日で、きょろきょろと辺りを見渡しても人っ子一人見当たらない。
 やよいが今事務所の中にいるのは、朝、彼女が間違えて出勤した際にこの部屋で事務仕事をしていた『誰か』がいたからで、自主レッスンを終えて戻ってきても部屋に入ることが出来たのはその『誰か』がまだ帰っていない、ということになる。
 しかし、その『誰か』の姿が見られなかった。

 ぽふぽふと歩いてデスク群に近付けば、その『誰か』のデスクの上にはすっかり冷めた珈琲がマグカップの中で静かに佇んでいた。
 パソコンの電源は入りっぱなし。一応スリープモードにはなっているらしく、電源ランプは気だるげに点滅していた。
 買物にでも出かけたのかな、と思う。
 けれど時間はお昼を大きく回り、そろそろおやつ時。昼食を買いに行くには少々遅くないかな、とも思う。
 じゃあ、どこに?

 やよいが思いつく場所は、一つしかなかった。

 果たして、件の人物はそこにいた。
 仮眠室である。
 この仮眠室はかつてのボロビルから移転する際に新たに設置されたもので、他にもやよいが先程まで居たレッスン室や以前の倍程に広くなった給湯室(という名の駄弁り場。キッチン付)等が所属アイドルや事務員の要望によって備え付けられていた。
 主に事務方の熱望、要望によって設置された仮眠室のドアを開けて、一番手前。八つあるベッドの一つに、こんもりと毛布の山が出来ていた。
 やよいの探していた『誰か』――プロデューサーである。

 プロデューサーは入口に背を向ける様に横になって、まるで電池の切れた人形の様に静かに眠っていた。
 あまりに静かでまさか、との考えが一瞬やよいの頭を過ぎったが、よくよく耳を澄ませば静音になっている空調に混じって微かな鼻息が聞こえて、ほっと胸を撫で下ろす。
 壁に立てかけられているパイプ椅子をベッド脇に設置して、座る。首の所までしっかりと毛布に埋まっており、後頭部しか見えなかった。

 やよいはプロデューサーの後頭部をじっと見つめる。すっかり寝入っているらしく、彼はピクリとも動かない。
 疲れているんだろうなぁ、とやよいは思う。当たり前だよね、とも。
 竜宮小町をはじめとした総勢12名のアイドルたちは、今、それぞれに雲を得て空高く昇り始めた所だ。彼女たちの仕事が増え、それに従い人員が増え、事務所が手狭になり、こうして新しく居を構えることとなった。
 まだボロビルに居た頃からの、謂わば最古参の一人である彼は、それに伴って今までのプロデュース業と事務仕事に加えて新米たちの教育にまで携わることとなった。
 今日、本来ならばオフであるにもかかわらず彼がこうして出社していたのも、消しても消しても増え続ける仕事を纏めて終わらせるためであったらしい。
 今を乗り越えれば――。黄昏時の事務所の中で、彼と音無小鳥、そして秋月律子の三人で目の下に物凄い隈を作りながら死んだような目で笑っているのをやよいは目にしたことがあった。
 労基法何それ美味しいの? なレベルの激務に身を置く彼らの姿には一種特有の絆があり、それを少々羨ましいと思う傍らで出来るだけ無理をしてほしくないな、とも思ったのを覚えている。

 小さな寝息を立てるだけの後頭部を、人差し指で軽く突く。んがぁ、と無意識の抗議が返ってきた。

 やよいの脳裏にあるのは、いつかの病室で横たわるプロデューサーの姿だ。
 あの時と原因こそ違えどこのままではまたあの光景を目にすることになってもおかしくはない。そしてそれはきっとやよいだけではなく、当時を知るものであれば誰もが思っているに違いない事である。

――でも、じゃあ、どうすればいいの?
 突いたことによって軽く跳ねてしまった髪の毛を撫で整えながら、やよいは考える。
――私にできること。何かないかなぁ。
 やよいに事務仕事を手伝うことは出来ない。精々がパソコンとにらめっこをする彼を応援したり、かっちかちに凝り固まった肩をマッサージするくらい。
 でも、他の『何か』ならば。
 『何か』出来ないだろうか。
 『何か』ないだろうか。

 静音になっている空調の吐き出す空気の音、小さな寝息、電波時計の駆動音。
 そして自身の呼吸の音。そんな穏やかな世界でやよいは暫し黙考し。
 ぱさぱさに荒れた髪の毛を撫でながら、不意に一つの考えに辿りついた。

 あまりに大胆な考えに、一瞬音が消え、思わず呼吸までもが停止した。
 あっという間に頭に血が上る。顔が熱くてたまらない。心臓が高鳴っていくのを自覚する。
 ごくり、と唾を飲み込んだ音は、想像以上に大きく響いた。

――だ、だいじょうぶ、へんなきもちは、ない、よ、うん……!

 心中で誰にともなく言い訳して、やよいはそっと靴を脱いだ。
 お邪魔します、と小さく呟いて、毛布をそうっと持ち上げる。起こさないように、起こさないように、身長に潜り込む。
 張り付いたプロデューサーの背中は、予想以上に温かくて、大きくて、汗臭くて、逞しくて、安心した。

「……たぅー……」

 口から吐息ともつかない不可思議な声が漏れた。
 背中から腕を腹の方に回す。額をぴったりと背中に押し付ける。
 心音が背中越しにどくどくと伝わってくる。上下する胸の震動が直接感じられる。

 今朝、プロデューサーはこんなことを言っていた。
――休日だというのに出勤したくなるくらい、ここがやよいにとって居心地の良い場所なら嬉しいな。
 目の下に見るに堪えない隈を拵え、珈琲の入ったマグカップ片手に、若干焦点の合わない目で、どこかからかう様な、けれど本当に優しい笑顔で。

 そっと目を瞑る。
 心音と、寝息と、温もりに身を委ねる。
 もし、もし、やよいにとってこの場所がどうしようもないくらいに愛おしく心地の良い場所なのだとしたら。
――それは、皆と……あなたが。
 いつか言えたら良いな、と思いながら、やよいはゆっくりと眠りについた。



 思いだしたのは、幼い頃の記憶で。
 母の、父の温もりに包まれて眠った夜は、どんな悪夢も吹き飛ぶくらいに安心することが出来た――。