未来の足跡


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 私が知っている世界は、本当にこんな形をしていたのだろうか。雪の降る空を見上げながら、そんな柄にもないことを考えている。地面には新雪が積もっていた。人気はなく、そして、その新雪の上には、足跡はひとつしか残っていない。ここまで歩いてきた、私の足跡だった。ライブが終わった後買い物に行こうと言った春香と美希と、それからプロデューサーに、それを断ったことへの不審さを感じ取られてはいなかっただろうか。そんなことばかり気にしている私は、きっと、意固地か、あるいは頭が悪いのだろう。
 不審さから、感づかれるのが、怖い。
 感づかれて、舞台を降ろされてしまうのは、もっと怖い。
 公園のベンチに積もった雪を、手袋をした手でそっと払った。そこに腰を下ろすと、
凍りつくような冷たさがお尻から這い上がってきて、そして、すぐに気にならなくなっていった。その間私は自分が雪の上に残してきた足跡をじっと眺めていた。私が通った後には、私の足跡が残る。雪の上にだって、足跡は残すことができる。
 けれど、その足跡だって、どこまで続くのかは、わからない。
 次のライブも、がんばろう――。
 私は右の手袋を外して、喉に触れる。
 そんな意図なんてまったくない言葉ほど、鋭く胸を突き刺す言葉はない。
 はあ、と吐いた息は白い。だんだんと、どうやって他人と会話していたのかよくわからなくなっていく。ずきり、と頭に疼痛が残る。その頭を軽く振ると、髪にしがみ付いていた雪がふわりと散った。
 寒さなんて。
 雪なんて。
 緩やかに落ちてくる雪は、辺り全部を灰色に濁らせていく。時折その役目を思い出してはすぐ忘れるようにして吹いている風は、舞い落ちた新雪の、その中でもさらに表面に積もったものを薙ぎ払うように攫っていた。
 眠れなくて、叫びだしたくなって、膝を抱えたままただ朝を待つ間に考えるようなことを、私は今考えている。朝を待つ時間は長い。考える時間だけは嫌になるほどあった。
 作品とは。
 結局のところ、作品とは二つに分けられるのだ。利己的な救済を保障する息工と、何かを遺す機構。その二つ。
 遺す。
 物語は、楽曲だって、絵画だって、みんなみんな、そんな叫びを持っている。想いを詰め込み時には構造化して普遍化して、そして、誰もが受け取れる、誰もがたどり着ける場所へ導こうとしている。学問だって、結局はそうなのだろう。
 大切な想いを、たくさんの人に伝えたくて。
 そのために、自分を削り、あらゆるものを犠牲にすることを厭わずに。
 どんな作品だって、そんな声を発している。そんなことに、こうなるまで私は気づいていなかったのだ。もっと歌えたらいいのに。もっと上手く、強く、歌うことができたらいいのに。もっともっと、たくさんの曲に出会いたいのに。
 そう、思う。
 本当に、心から、そう思う。
 そう思う時間だけは、無限と思えるくらいにある。
 喉を押す。指先に拍動を感じる。それが失われてしまうものであることを、感じている。
 コートのポケットの中で、携帯電話が震えた。取り出してみると、メールの着信だった。差出人は春香。千早ちゃん抜きなの申し訳ないからそろそろ戻るね、いろいろ食べ物買ったからみんなで食べよう。私はそのメールを読んで、ひとつ息を吐くと、立ち上がった。ホテルに戻らなければならない。そうやって歩き出そうとしたときに、目の前には自分が来るときにつけてきた足跡があった。ほんの軽い思いつきで、私は、その足跡の上に自分の足を重ねた。ブーツのつま先とかかとの幅の違いで、そのままぴったりと収まらずに、微妙にずれてしまう。二歩目はつま先を浮かせて、かかとだけをすでについている足跡に重ねた。そうしたら、元の足跡が崩れずにきれいに残った。

そうやって何歩か歩いてから振り返ると、雪の上にはひとつの足跡だけが残った。そのことにどこかで満足して、私はそのままそれを繰り返して公園の入り口まで歩いた。
私は今、痕跡を消しながら前に歩いている。何かをここに遺そうとしている。この足跡を見た人はどう思うだろうか。そんなことを考えた。ここを通りかかった誰か。その中の何人かは、帰る足跡がないことに気づいてくれるだろうか。ベンチまで歩いていった誰かがそれっきりどうしたのか、不思議に思ってくれたりすることもあるだろうか。
 そうだったら、いいのに。
 私は、私のそんなささやかなたくらみに、少しだけ唇の両端を上げた。
 そうして、ゆっくりと、春香たちが帰ってくるホテルに向かって歩き始めた。