open face


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 水瀬伊織は怒ったような表情で、となりに座っているプロデューサーの顔をじっと
見つめていた。
「どうした?」プロデューサーが訊く。
「リラックスしなさい」
「は?」彼はなんのことやら、頭の上にはてなマークを浮かべている。
「いいから、リラックスしなさいってば」
「リラックスねえ…こうか?」プロデューサーは不思議そうな顔をしながらも、伊織の
要求に応えるべく、座っていたソファの上で、体重を背もたれにかけ、伸びをするような
格好で足をテーブルの下へ投げ出した。伊織は彼の顔をじっと見ていたが、
「リラックスしてないじゃない」と不満げに言った。プロデューサーはよいしょ、と
体を起こした。
「なんだかよくわからないけど、時間があんまりないんだから、ちゃんと資料に目を
通してくれ」
 ここは765プロダクションの応接室。これから伊織のスタジオ収録に出かけるため、
二人は打ち合わせの最中だ。あいにく会議室は使用中だったので、客のいない応接室で
資料を広げている。
 伊織は、元の姿勢に戻ってしまったプロデューサーを険しい目つきでにらみつけたが、
彼はその視線に全く気づかない様子で、彼女にスタジオでの注意点を細かく説明している。
伊織は両ひじをひざに突き、背中を丸めて両手でほおづえをついた。手のひらで隠れている
彼女の口元は思い切り「へ」の字型をし、まゆはスキーの描くシュプールのように
曲がっている。普段なら彼に対して、弾丸のように文句の数々を言いかねないところだが、
彼女にしては珍しく、沈黙を守っている。
 伊織はゆうべ、参考用にと渡されたテレビドラマの映像を事務所から持ち帰った。
内容はありきたりのラブストーリーだったが、伊織はいつもしているように、これが
自分とプロデューサーだったら、とドラマを見ながら考えていた。いったいそんなことを
考え始めるようになったのは、いつぐらいのことだったろうか。
 ドラマや映画に出てくる恋人たちの会話を、「こういうところはアイツに似てるかも」
とか、「自分ならこんなこと絶対言わないわ」とか考えているうちに、画面の中の
俳優たちを自分とプロデューサーの姿に移し換える、そんな作業を彼女はもう幾度となく
行なってきた。
 ゆうべも伊織は、自分とプロデューサーを、モニターの中の主人公たちに投影して
いたのだが、そのドラマの中で、恋人同士の会話シーンに、こんなのがあった。
『あなたって、いつでもマジメな顔しかしてないような気がする』とヒロインが言うと、
『そんなことないさ。自分の部屋でくつろいでいるときは、無防備な顔になってると思うよ』
『無防備?』
『うん、自分のお気に入りとか、大事なものばっかりに囲まれてると、すごくリラックス
できるしね』
『大事なものかあ…その中に私も入りたいな』
 伊織はその「無防備な顔」というものにいたく興味を持った。思い起こしてみれば、もう
半年以上も一緒に仕事をしているというのに、プロデューサーのそんな「無防備な顔」
とやらにお目にかかったことは一度もない。自分が普段見ているプロデューサーの顔とは、
真剣に仕事をしている顔、バカみたいに笑っている顔、困ったようにこっちを見ている顔、
だいたいそんなものだ。
 ゆうべのドラマを参考にするならば、「無防備な顔」というのは、自分の大事なものが
すぐそばにあって、心配事のない状態でなければできないものなのだろう。自分は
プロデューサーとしょっちゅう一緒にいる。一番多くの時間を過ごしていて、現在の
彼にとっては一番大事な存在のはずなのに、その無防備な顔を、今まで自分が見たことない
だなんて、どうしようもなくくやしくて腹立たしかった。まるで自分は別に大事じゃない、
とプロデューサーに言われているような気持ちだった。

 今日は朝から打ち合わせということで、応接室に二人きり、じゃまはいない。自分と
二人きりで部屋にいる時にリラックスしたなら無防備な顔を見られるかと思って、いつもの
口数をがまんしているというのに、そのプロデューサーは、来客用の柔らかなソファに
もたれかかるということもせず、資料の束を手に、体を前方へ折りたたむようにして
仕事の話ばかりしている。この男はいったい、いつ、どこで、どんな状況なら無防備な顔に
なるのだろう?
『自分の部屋でくつろいでいるときは、無防備な顔になってると思うよ』
 ドラマのセリフが頭の中にリフレインされた。
「そうだ、アンタの部屋よ!」伊織は目を輝かせて立ち上がった。
「は?」説明を中断され、プロデューサーはぽかんとした。
「アンタの部屋へ行くって言ったの。ほら、早く!」
「なんでオレの部屋へ?これから仕事って言ってるだろ?」
「仕事なんか後回しでいいわよ」
「そんなわけにいかないだろ。むこうでスタッフ待たせてるんだから」
 時間がなくなってきたのか、プロデューサーは少しいらだちながら、さっきからしていた
説明を手短かにもう一度くり返すと、伊織を追い立てるようにして事務所を出た。
 伊織は、プロデューサーが運転する車の助手席に座ったまま、しばらく無言のまま
腕組みをしていた。プロデューサーは、伊織の様子をうかがいながら話しかけた。
「急がせて悪かったな」
「ふん」伊織は顔をそむけた。
「なんかあったのか?」
「なんかってなによ」伊織は彼の顔を見ずに返事をする。
「おれの部屋見たいとか言い出すし」
 伊織は無言だった。
「今日はこの仕事終わったら事務所に戻ってくるだけだから、少しくらいなら寄り道できるぞ」
「寄り道…」伊織は彼の方へ顔を向けた。
「何が楽しいのかよくわからないけどさ、おれの部屋見て気がまぎれるんなら別にいいぞ」
「ほんとに?」
「ああ」
 伊織の表情がみるみる回復していく。
「じゃあ、仕事を早く終わらせるわよ!ほら、急いで!」
「はいはい」

 ところが運悪く、スタジオでは時間が少々押し気味になり、終わったのは予定より1時間も
遅かった。もちろん伊織はとってもご機嫌ななめだ。
「まったく、なんであんなに時間かけなきゃいけないのよ」伊織は助手席のシートベルトを
締めながら言った。
「そういうなよ。みんながんばったんだからさ」
「そりゃそうかも知れないけど…」
「で、ホントにおれの部屋見たいのか?」
 伊織は今日の最大目的はそれだと言わんばかりに、「もちろんよ」と答えた。どうしても
プロデューサーの「無防備な顔」というのを見てみたい。しかも自分だけがそばにいる
時に、だ。せっかちな彼女は、それを『いつか』見てみたいのではなく、『今』見たいのだ。
 プロデューサーの運転する車は、午後の日差しを避けるように、しばらく日陰を選んで
走っていたが、やがてスピードをゆるめ始め、彼の住むアパートのすぐ隣にある、砂利の
敷かれた駐車場で停まった。

 プロデューサーは伊織の先に立って、アパートの階段をのぼっていく。伊織は
「エレベーターもないところによく住めるわね」とぶつぶついいながら、彼の後から
ついていった。プロデューサーは3階の一室の前で立ち止まり、ドアのカギを開けた。
「はい、どうぞ。きたないとこだけど」
「ほんとにきたないわね」
 ふた間しかない部屋の中は雑然としていて、薄暗かった。プロデューサーはいつも自分が
使っているのだろう、部屋の真ん中に置いてある、少しすすけたアームチェアを伊織に勧め、
自分は毛布の積み重なったベッドに腰掛けた。
「どうだ、満足したか?」
「アンタはそこで寝てるのよね」
「ああ」プロデューサーはベッドの上であぐらをかいた。
「それじゃ、そこでくつろぐといいわ。私はここで見てるから」伊織は彼の方を向いて
ニヤリと笑い、腕組みをする。
「くつろぐ?」
「ええ、だって自分の部屋でしょ?」
「くつろげって言われてもなあ…これから事務所に帰ってまだ仕事あるし」
「明日にしなさいよ」
「そうもいかないよ」
 言うことをきかないプロデューサーにじれてきたのか、伊織の口調が少し荒くなった。
「いいから、少しはゆったりしなさいよ!アンタが一番リラックスできる場所なんでしょ?」
「どうかなあ。最近は寝に帰ってくるだけの小屋みたいな感じになってるし」
 伊織は眉を寄せ、彼の顔に射るような視線を浴びせた。この男は自分の部屋を
ビジネスホテルみたいに思ってるわけ?
「アンタは自分の部屋でゆっくりくつろいだりしないの?」
 プロデューサーは時計をちらりと見てから、自嘲気味に笑った。
「夏休みとか、長いオフがあったらできるかも知れないけどさ。今の仕事を始めてからは
そんな余裕ないよ。帰る時には結構疲れてるし、そのままベッドにバタン、って感じだ。
最近じゃ土日も事務所詰めてるしな」
 伊織のこめかみがぴくぴくと動く。どうも今すぐこの男の無防備な顔を見ることは
難しいらしい。結局、仕事に追われている限り、この男が自室でリラックスすることは
ないのかも知れない。それなら、いっそのこと、手を回して会社をクビに…。いや、それは
ダメ。へたをすると、事務所を辞めた後、二度と顔を見ることができなくなってしまうかも。
伊織はその想像に、少し背筋が冷たくなった。
「それじゃ、アンタがリラックスできるのはどこなのよ」
「…特にここ、ってのはないかなあ」
 伊織はむむむ、と今にも爆発しそうになった。今朝からのがまんがもう限界近い。
「あ、風呂につかってる時は気持ちいいなあ、とは思うけど」
「お風呂?」伊織は目を丸くした。
「ああ、遅出の日の朝とか、ゆっくり風呂に入ってると結構ほっとするよな」
 伊織は恨めしげにぼそぼそとつぶやいた。
「…お風呂じゃ一緒にいられないじゃない。…ぜ、絶対ってわけじゃないけど」
「ん、なんか言ったか?」
「言ってないわよ!」伊織は顔をそむけた。
「まあでも、そのうちひまができたら、どこかでゆっくり息抜きしたいなあ」
「どこかってどこよ」伊織は彼が『温泉』と言うのかと、内心はらはらした。

「そうだなあ…」彼は首をひねりながら考えていたが、急に明るい表情になり、
「ああ、前に大学の友達と郊外の自然公園へ行ったときは気持ちよかったなあ。
空がほんっとに晴れてて、あったかくて、それでいて木陰はひんやり涼しくてさ。
乾いた芝生の上でずーっと寝ころんでたなあ。うん、あそこならまた行きたいなあ」
「ふーん。…友達って、男?」
「ん?ああ、そうだけど?」
「…自然公園の芝生ね」伊織は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「さ、そろそろ戻ろうか」プロデューサーは腰を上げた。

 プロデューサーと伊織はまた車に戻り、事務所へと向かった。伊織はまた無言のまま
助手席に座っている。しかし今度は朝とは違い、機嫌を損ねているのではなく、さっきの
話に出た、自然公園へプロデューサーと二人きりで行く方法を思案していたのだ。
「おい、重いぞ」
 考え込んでいるうちに、知らずにプロデューサーの方へ体を近づけていた伊織は、
自分の頭が、彼の左腕にもたれかかっているのにようやく気づいた。
「うるさいわね。ちょっと考え事してるんだから、静かにしてなさいよ」
 プロデューサーはやれやれと肩をすくめ、運転に集中した。伊織は目を閉じて、懸命に
考えている。
 えーと、私の休みがこの日とこの日だから、コイツにもどっちかを無理やり
休ませておいて…そうそう、私がオフにはそこへ行ってみたい、って言えばいいのよね。
なんで、って言われたら…この前きいたから興味があって、ってことにすればいいわ。
私のいうことなら聞くはずだし。…でも、他の人間は一緒に行ったりしないように
きっちり言っておかないと。家にも行き先は内緒にしておいた方がいいわね。
オフじゃなくて仕事、って言っておけば完璧ね。
 着ていくものは…この間買ってもらった白のワンピースなんかどうかしら。私の
そういう姿を見たら、きっとこの男もいっそうドキドキして…それじゃダメだわ。
落ち着かないと意味がないのよ。白いブラウスにロングスカートの方がいいかしら。
 でも、その日が晴れじゃなかったら困るわね。ううん、私が出かける日なんだから、
晴れるに決まってるわ。うん、絶対そうよ。よし、これでオッケーだわ。
 でも、どうして私がこんなに苦労しなくちゃいけないのよ、まったく。無防備な顔を
見たい、っていうだけなのに。私がそばにいる時は、いつでもああ、幸せだなあ、って
顔をしてたらいいじゃない。まったくニブいんだからもう…。

 雲一つない青空の下、伊織は大きな木の下で、乾いた芝生の上にひざを崩して座っていた。
少し暑い日差しをさえぎる木陰のひんやりした空気が、薄手の半袖のブラウスから伸びる、
ほてった腕を心地よく冷ましていた。
 彼女のひざの上には、芝生に寝転がったプロデューサーの頭が載っていた。プロデューサーは
伊織の顔を下から見上げ、くったくや警戒心のかけらもないような、自然で穏やかな笑顔を
見せていた。伊織は彼の顔を見て、自分も同じように笑う。二人ともなにも言葉をかわさず、
じっと見つめ合っているだけだ。
 都会の喧噪はおろか、遠くで鳥のさえずるかすかな音くらいしか聞こえるものはなく、
この世でたった二人しかいないような、そんな空間の中に彼女たちは存在していた。
 伊織の手がプロデューサーの頬にそっと触れる。彼は静かに目をつむる。伊織は満足そうに
微笑み、少しだけ背を丸めると、顔を彼に近づけた。

「よし、着いたぞ。…なんだ、寝ちゃってるのか」
 事務所の前で車を停めたプロデューサーは、自分の左腕にもたれかかったまま眠っている
伊織の顔を見ながら言った。
「まったく、起こすのがかわいそうなくらい、無防備な寝顔だな」プロデューサーは、自分に
よりかかっている伊織の頭をのけようともせず、笑いながら静かに右手を彼女に伸ばした。
 伊織は夢の中で、ゆるやかな風が、まるで自分の髪をやさしくなでつけるようにして
吹いていくのを感じていた。


end.