無題8-124


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水の底から水面に浮かび上がってくるように、ゆっくりとした早さで意識が覚醒していく。
自分を、渋谷凛を思い出す。
飼い犬のハナコがエサを催促しようと吠える声も聞こえないし、シーツの肌触りも、枕の固さも、布団の重さもいつも感じている物とは違うことに気づいてようやく自分の居る場所が事務所の仮眠室であることを思い出す。

最近アイドルとしての活動は順調で仕事が増えてきたのは良い事だけど事務所の方針で成績上位とは言わないまでも勉強もある程度はこなすように言われていて、
仕事が増えた分学校にいられる時間は減ってきて、その分の遅れもどこかで取り戻さなければいけないわけで、
つまりは最近少しばかり寝不足気味だった。

バレンタインのイベントを終えて事務所に戻ってきたのがつい先程。時間を確認すると少し中途半端に時間が空いていて、
いつもなら近くまで買い物にでも出かけてみようとか考えたかもしれないけど今ばかりは睡眠を優先したのは仕方のないことだろう。
なんといっても人間の三大欲求の一つだし。
なんて誰も聞いてない言い訳をしながら仮眠室の布団を被ったのが最後の記憶。
自分の状態を思い出していると少しだけ機能するようになった頭がようやくそれに気づいた。

あれ。
おかしいな。
なんで、
プロデューサーの顔が目の前にあるんだろ。

わざわざ確認なんてしてなかったけど少なくとも自分が布団に入る前は誰も居なかったはずだから、つまりは自分が寝ている事にも気づかずこの人は布団に潜り込んでしまったのだろう。

(ホントに鈍いなぁ……色々と)

でも、考えてみればアイドルの活動が順調ということはそれだけプロデューサーが頑張っているからな訳であまり責める気にもならない。
それによく見れば目の下には隈が出来ているし髭も少し目立ち始めていた。
もう少しこのままでもいいかな。ただ見ているだけなのに不思議と退屈はしない。

やっぱり前言撤回。
ちょっとだけ悪戯でもしてみよう。
右手を布団の中から出して手を伸ばす。
頬に、肌に、髪にそっと触れる。
閉じられたまま瞼の下で眼球が動く。もうすぐ目が覚めるかな。

緩慢な動作で目が開かれて、結構長く固まった後、慌ててなにか言う前にその顔に触れて動きを止める。
「静かに。大声出したら皆来ちゃうよ」
驚きの声の代わりに深く息を吐き出して、色々考えてるのが丸解りの表情をコロコロ変えて音量を潜めて出てきた言葉は、
「悪い。眠たくて全然気づかなかった」
なんて台詞だった。もうちょっと気の利いたことが言えないのかな。
「別に気にしてないからいいよ」
そう、本当に気にしていないのだ。一緒の布団で眠った事なんて。
世間はバレンタイン一色で、つまりは季節は冬なわけで、そうすると外は寒くて布団から出るのが億劫で。
布団から出して冷たくなった右手をプロデューサーの手に握らせる。

「冷えちゃったから暖めてよ」

初めて繋ぐプロデューサーの手はあたりまえだけどやっぱり男の人の手で、時々繋ぐ加連や奈緒の手とは違うけれど優しい事に変わりはなくて、だから、
「時間までもう少しあるからさ、一緒にいようよ」

この優しい温もりに包まれて。
このまま、もう少しだけ。