秘湯


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 プロデューサーは悩みを抱えていた。それは自分の担当しているアイドル、高垣楓に
関してだ。
 彼女は最近、どこか元気がないように見えた。ぼんやり考えごとをしていたり、彼の
方を見ては何度もため息をついたりしている。本人にそれとなく訊いてみても、
「いつもと変わらないですよ」という答えが返ってくるだけだった。
 デビューして一年近く、人気もそれなりに出て、仕事は順調に増えているし、人に
見られることにも慣れ、ステージでストレスをためているような気配もなかったので、
彼はいったい何が彼女をそうさせているのか、さっぱりわからなかった。
 以前は、彼女独特の子供っぽさの残るあどけない表情で、期待に満ちた目の輝きを
いつでも彼に見せてくれた。きっとそのまなざしは、この世界で上を目指していくんだと
いう気持ちの表われなのだろう、とプロデューサーはいつも思っていた。
 25歳という、アイドルとしては遅めのスタートを切った彼女は、最初から
とらえどころがないというか、何を考えているのか、あまりよくわからないキャラクターを
持っていた。よく言えば落ち着いた雰囲気、別な言葉ならたいていのことには動じない、
というタイプだったので、プロデューサーの彼はそれに翻弄され続けてきた。
 たとえば、プロデューサーが早出をして事務所で仕事をしていると、楓がやってくる。
彼はそれに気づいて声をかける。
「おはようございます、楓さん」
「おはようございます。プロデューサーって、早いんですね…ごめんなさい、男の方に
こういう言い方は失礼でしたね」
とまあ、こういう感じだったので、プロデューサーは彼女の話をどこまで本気にして
いいのかわからなくなることがよくあった。そんな我が道をゆく彼女の様子がおかしいと
いうのに、彼は担当プロデューサーとして、原因を特定することがどうしてもできなかった。
 だが原因がわからなくても、彼女の気分を楽しくさせることで、症状が改善できるかも
知れない。そう考えた彼は、お酒が好きな楓のために、旨い酒を置いているという、
評判の居酒屋に招待してみることにした。しかも、二日酔いになってもいいよう、彼女の
オフの前日を選ぶという周到さだ。
「プロデューサーが誘ってくれるなんて珍しいですね。とってもうれしいです。
…こっちの腕、貸してくれます?」
 楓は、彼の腕を引きながら、地面から足を浮かせるようにして歩いていく。居酒屋に
入ってからも、彼女の機嫌はとてもよかった。
「お酒って、一緒に飲んでいるのが、好きでもなんでもない人なら、ちっともおいしく
ないものですよね。ああ、おいしい…」とか、
「楽しいお酒って大好き…ねえ、プロデューサー、朝まで一緒にいてくれます?」と、
杯をかたむけるたびに彼女は饒舌になり、態度は柔和になっていく。
 彼の見る限り、作戦は成功しているようだった。ところが、さらに酒が進んでくると、
彼女の態度に変化が現われた。
「…プロデューサーは、私のことをちゃんと見てくれているんですか?」
「毎日見てるじゃないですか。朝から晩まで、仕事中ずうっと」
「そういうことを言ってるんじゃないんです。仕事は仕事、プライベートは
プライベートですよ?」
「今はプライベートじゃないですか。ちゃんと目の前にいますよ?」
「プロデューサーはちっともわかってません」と楓は言うと、またもやぐいっ、きゅー
と杯を空ける。続けて何杯か飲んだ彼女は、さらにプロデューサーを問い詰める。
「このままずるずるとアイドル業を続けていて、人生をしくじったら、プロデューサーの
せいですからね。ちゃんと賠償してもらいますよ」
「いや、そういうのは会社に言っていただけないでしょうか」思いもよらない攻撃に、
彼は及び腰になった。
「私の担当プロデューサーはあなたなんですから、ご自身で責任をとらないといけません」
「えーと、それはまた後日検討させてください」彼は話をかわそうとする。
「人の話をちゃんと聞いてます?」ぐいっ、きゅー。

 そして看板になると、彼女はふらふらしながら、
「…ここからだとプロデューサーの部屋の方が近いですよね。帰るのめんどうなので
泊めてください」
「なにを言ってるんですか。ほら、タクシー来ましたよ」
 タクシーの窓から、不満そうな顔をこちらに向けて突き出している楓を見て、彼は
自分の試みが失敗に終わったことを悟った。
 次に彼は、彼女のもう一つの趣味、温泉の方から攻めることにした。
 楓の温泉好きは、酒以上かも知れなかった。なにしろ、自分の手帳の中に、数多くの
温泉の名前を書き込み、行きたいところのランク付けをしているというのだから。手帳の
中身をちゃんと見せてもらったことはなかったが、楓が楽しそうに手帳をながめたり、
なにか書いたりしているのを、プロデューサーは事務所で何度も見かけていた。恐らく
行ったところを線で消したり、感想や印象を書きこんでいるのだろう。
「日本のは、ほとんどリストアップしてるんですよ」
というので、彼自身もPCで検索してみたが、あるわあるわ、まあよくもこれだけ日本に
温泉があると思うくらい、鉄道の駅なみに多かった。
 そのことを彼女に言うと、なになに温泉とか、なんとかの湯とかだけではなく、
細かいところだと、観光地の単なるわかしたお風呂とか、足湯しかないところとか、
そんなのまでいれてあるんです、と答えが返ってきた。ひょっとしたら、彼が
検索した数よりも手帳に書かれている方が多いのかも知れない。
「露天はもちろん大好きですけど、ひなびた観光地のなんでもないお風呂とかも
好きなんです」
 彼はそんな彼女の温泉好きを利用しようと考えた。最近では、地方からの仕事の依頼も
来るようになってきている。現地に温泉があるなら、そういうホテルや旅館を宿泊所に
選べば、きっと気に入ってくれるに違いない。
 遠征の当日、行く前に彼女にその話をすると、とてもよろこんでくれたので、彼は
今度こそうまくいくかと期待した。
「プロデューサー、そのホテルって、混浴のお風呂はあるんですか?」
「ないですよ。あっても現役アイドルが混浴の風呂になんか入ったらダメです」
「えー、つまんないです」
「つまんないとかそういう問題じゃないです!ファンに知れたらどうするんですか?」
「…人はファンのみにて生くるにあらず」
「は?」
「…なんでもありません」
 それでも彼女は現地に着くと、「温泉、楽しみですね」とうれしそうに彼に言ってくれた。
 仕事は昼前から夕方まで休みなしでずっと続いたが、楓はそれをなんのトラブルもなく
完了させた。ほっとしたプロデューサーは、楓を旅館の部屋に案内すると、隣合わせに
取った自分の部屋へ戻ってきた。ネクタイをゆるめ、座布団に腰を降ろして間もなく、
浴衣姿の楓が部屋のドアを開けて顔を出した。
「プロデューサー、お風呂ご一緒しませんか」
「ああ、楓さん、どうぞ行ってらして下さい。おれはここでまだ仕事が残ってますので」
 プロデューサーの目の前のテーブルには、すでに書類やノートが広がっている。
「お仕事は後まわしにしませんか?ほら、おたがい男湯と女湯に入って、仕切りごしに
お話でもしましょうよ。
『プロデューサー、そちらの湯かげんはいかがです?』
『気持ちいいですよ。そちらはどうですか?』…なんて、楽しくないですか?」
 楓は浴衣のたもとを口元に当て、面白そうに体を左右に揺すった。
「すみません、ちょっとこれだけやっておきたいので」
 楓の表情はとたんにつまらなさそうになり、ぱたりとドアが閉められた。温泉から
上がった後、楓は彼に顔を見せることなく自分の部屋にこもったままで、次の日
帰るときも、またぼんやりした表情のままだった。彼はまたも失敗を痛感した。

「どうしたらいいんだろうか…」
 プロデューサーは事務所の机に向かい、一人でぼうっとしていた。外はすでに暗く、
みんなはもうとっくに帰ってしまっている。仕事はたまっていたが、それを片付ける
気にもなれなかった。
 結局、お酒を飲んでも、温泉に入っても楓の元気が戻ってくることはなかった。彼は
途方に暮れていた。今はまだ仕事に影響は出ていないものの、この状態が続けば
それもどうなることか。
 プロデューサーは、イスからのろのろと立ち上がり、そばにあったソファに、どさりと
体を投げ出した。いまだに何の解決策も思い浮かばず、精神的にも疲れ切っていた。
 もう今日は帰って寝てしまおうか、それともどこかで酒でも飲んで帰ろうか…。彼は
この間、楓を連れて行った居酒屋へでもまた寄っていこうかと思った。
『帰るのめんどうなので泊めてください』
 あの夜の、冗談めいた彼女の言葉が思い出された。ちょうどタクシーが来たから
そのまま無事に帰ってもらうことができたが、もし彼女の言うとおり、自分の部屋へ
泊めていたらどうなっていただろうか。
「ここがプロデューサーのお部屋ですか。わりあいかたづいているんですね。
え?私がベッドを使ってもいいんですか?そんな、悪いです。…あの、もしよかったら、
プロデューサーもご一緒に…」
 彼はそこで想像をやめ、寝転がったままで頭を小さく横に振った。こんなことを考える
ようではダメだ。彼女は人気上昇中のアイドルで、自分はその担当プロデューサーなのだ。
きちんと線引きができなくてはいけない。
 だが彼にそんな想像をさせてしまうほど、楓には魅力があった。常識的な部分からは
少しはずれたところもあるが、そこもまた彼女の抗しがたい魅力の一つになっている。
 泊めるというのは極端にしても、もし自分の部屋に彼女が訪ねてでも来たら?
彼はその状況を頭の中でシミュレーションしてみた。情けない話だが、彼女に部屋へ
一歩でも踏み込まれたら、そのまま無事に帰す自信がまったくなかった。
 いや、要は彼女を自分の部屋に入れなければいいだけの話だ。それさえ肝に銘じて
守っていれば、どうということはない。第一、彼女が部屋へやってくる機会がそうそう
あるわけもない。
 大きく息を吸って目をつむり、彼は落ち着きを取り戻そうとした。やはり、彼女の
元気を回復させるには、これまで以上に酒の美味しい居酒屋を見つけるか、一般には
知られていない秘湯にでも連れていってあげないといけないのかも知れない。しかし、
今までの策が不発に終わっている以上、それは相当難しそうに思えた。
 温泉のことを考えた彼は、人知れずひっそりと、しかしこんこんと湧く露天風呂と、
そこでお湯につかっている楓の姿をつい連想してしまった。髪をアップにした彼女の
肌は上気してピンク色に染まり、彼が最近ずっと見ていない、あの子供のような
あどけない表情をたたえている。
 彼は渇望していた。彼女のあの表情がまた見たい。自分の心をうずかせる、あの
あどけない表情と、期待に満ちた目の輝きを。
 プロデューサーはしばらく思い出をなつかしむように、ぼんやりとその想像に
ひたっていたが、その想像の中の楓が、いきなり彼に話しかけた。
「まだお帰りじゃなかったんですか?」
 目を開けると、楓の顔がすぐ前にあった。彼は驚いてソファからころげ落ちそうになった。
「顔が赤いですよ。なにかよからぬことでも考えてたんですか?」
 ソファに向かってかがんでいた楓はふふふ、と微笑んで体を起こした。
「い、いえ、なんでもありません。ちょっと仕事のことを…それより、楓さんは
どうしてここへ?」
 彼はいそいでソファに座りなおした。

「通りがかりに灯りが見えたので、どなたかまだいらっしゃるのかと思って」
「そ、そうですか。じゃあ、ついでに来週の予定の確認でも…」
 彼はすばやく仕事モードにシフトチェンジした。楓も彼の隣にかけ、予定をメモする
ため、持っていたポーチから自分の手帳を取り出した。180度近くに開かれたその手帳の
中が、ちらりと彼の目に映った。
「へえ、おれの名前と一緒の温泉なんてあるんですね」
「え?」楓はびっくりした顔になった。
「あ、いや、すいません、今ちらっと見えちゃったんです。どこどこの湯、とかいろいろ
書いてあったのが」
「…」楓は無言で手帳の角度を少しせばめた。
「けど、赤丸でぐるぐる印をつけてたところをみると、行ってみたいランクのかなり
上位にくる温泉ですか?」
 楓は手帳を閉じた。
「…そうですね、ぜひ泊まりがけで行ってみたいところです」
「遠いんですか?」
 楓は少し上目づかいになって、彼の顔を見た。
「…そうでもないです。ただ、なかなか行く機会に恵まれなくて…温泉っていうより、
お風呂なんですけど」
 その瞬間、彼の頭の中に電光がひらめいた。これだ。行きたくてもなかなか行けない
場所なら、それこそ本人にとっては秘湯と言えるのではないか。そこへ連れて行って
あげたらどうだろう。
 それほど遠くないということだし、オフの日を利用し、車で送って、彼女には一晩そこで泊まって
もらい、次の日また迎えに行けばいい。彼女と一緒に泊まる訳じゃないし、単なる
往復の運転手としてなら、なんの問題もないだろう。うん、これならいける。幸い、
来月のスケジュールなら、今から二日くらいの休みを組むことができるはず。
「よし、じゃあ次のライブでいい成績をとれたら、ごほうびとして、オフの日におれが
そこへ連れていってあげる、っていうのはどうです?」
 こんな時にも彼は仕事をからめるのを忘れなかったが、それを聞いた楓の目の中に、
みるみる精気が満ちてきた。
「いいんですか?」
 以前よく見せてくれた、あの子供のようなあどけない表情と、期待に満ちた目の輝きが
彼女によみがえった。仕事へのやる気も、今まで以上に感じられる。彼の心は再び
うずき始めた。渇きも急激に満たされていく。
「ええ、もちろんです。まかせてください!」彼は満足げに自分の胸をたたいたが、
誤解のないようにと、すぐに付け加えた。
「えーと、おれはそこへの送り迎えだけですけど、問題ないですよね?」
 なにがおもしろかったのか、楓はくすくす笑いながら答えた。
「はい、私がお風呂につかっている間は、どうぞご自分のベッドで待っ…お休みに
なっていて下さい」
「おれもその時は休みを取りますから、ゆっくりさせてもらいますよ」
彼は安心してほっと息をついた。
 楓は小指を彼に向けて差し出し、例のあどけない表情に、いたずらっぽい笑みを
加えたまま「約束ですよ?」と言った。



end.