When The Sun Meets The Sky


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時刻はようやく朝日が昇り始めた頃。
海岸沿いの道を空冷エンジン独特の音を響かせながら一台の車が走っている。
運転席に座っているのは眼鏡をかけて髪を緩い三つ編みにした若い女性。

バックミラーで後方を確認してからウインカーを出して路肩に寄せながらブレーキをゆっくりと踏む。
タイミングを合わせてクラッチを切る。
停止したことを確認してギアをニュートラルに入れてサイドブレーキをかける。
ようやくこういった一連の動作を意識せずともできるようになってきた。
周囲に誰も居ないことを確認してから降りて、大きく伸びをしたり肩を回したり軽いストレッチをする。固まっていた筋肉がほぐれてゆく感触。
いくらか慣れたつもりでもやっぱり一人での運転は緊張していたらしい。
大きな深呼吸をして一息。夜明けの冷たい空気が心地よい。

秋月律子18歳。只今人生初の車で一人旅の真っ最中である。

実の所、免許を取った理由なんていつか必要になるかもしれないとか、手っとり早い身分証代わりだとか、
他にはブログやトークのネタになるかもとか、有り体に言うならば無いよりはあったほうが良い程度の物だった訳で、
当然免許を取っても車そのものを買うつもりなんてこれっぽっちも無かった。
第一、アイドルなんてやっている身の上としては万が一事故でも起こそうものならそこでアイドル生命が終わってしまうわけで、当然周囲の反対も多かった。
じゃあ何故買ったのかと問われればこれはもう一目惚れとしか答えようが無い。

そのお相手の名は2代目フィアット500。
どんな姿かわからない人でもカリオストロの城でルパン3世が乗っていたと言えば大体想像はつくだろう。その程度には有名で少しばかり古い車である。

「せっかく免許取ったんだから少しぐらい車に興味持ってもいいんじゃないか」
なんてプロデューサーの一人に言われて車を少し観察するようになった。
相変わらず詳しいことは何もわからなかったけど。
そんな中、街中で何気なく見かけた一台の車。
その時は気にも留めずに通り過ぎたが、そのうちチラチラとあの丸っこいフォルムが頭に焼き付いて離れなくなって、
こういった方面に詳しい件のプロデューサーの首根っこ掴まえて根掘り葉掘り聞いてその時になってようやく名前を知って、
中古車しかも一昔前の車にかかる手間と金額とリスクとオススメ出来ない理由を懇切丁寧に説明してもらってそれでも諦めきれなくて、
信頼できる店を紹介してもらってそれまでアイドル稼業で稼いだ貯金を幾らか崩してもしもの為に保険もキッチリかけてようやく購入と相成った。

そんなすったもんだを乗り越えて迎えた待望の納車の日には、
「正直、自分でも驚いてますよ。免許取った時はもし買うなら流行のハイブリッドとかコンパクトみたいな無難なのだろうなって思ってましたから」
「利便性考えたら迷う余地なくそっちなんだがな。でも、何となくらしいとは思ってるよ」
「何でです?」
「いやあ、お前さん何だかんだいって世話焼きだもの。手間はかかるけどかけただけ応えてくれるこいつはピッタリだと思うよ俺は」
そんなやりとりがあったとか。

さて、納車されたはいいが律子はそれなりに売れているアイドルな訳で、あまり自由に時間を使える訳ではない。
それでもなんとか合間を見つけてはハンドルを握り、一人でも大丈夫だろうとお墨付きをもらったのがつい先日の事。
これ幸いと丸々一週間のオフを作り、行き先を決めないまま長いドライブに出かけることにした。

東京から遠く離れた地方でも自分の事を知っている人がいた。
アイドルをしているから当たり前の話だけどやっぱり嬉しい。オマケなんてしてもらえると特に。

すっかり缶コーヒーの味を覚えてしまった。暖かくなってきたとはいえ日が沈めばまだまだ冷える。
年期が入って貧弱なエアコンでは物足りない時のカイロ代わりに丁度いい。ちょっと糖分が心配だけど。

泊まるだけで食事さえ気にしなければラブホテル(最近は違う呼び方もするらしいが)が割と便利だと知った。あまり詮索もされないし面倒もない。……ただ仕事の時に使うかといえば怪しいところだが。

単純に車を運転するだけで、ハンドルを握っているだけでこんなにも楽しいと知った。
ドライブなんてガソリンの無駄だと思っていたけどその考えを改めなければいけない。

車の運転は楽しい。しかし、基本的にずっと座りっぱなしなので運動不足には気をつけなければいけない。
色々な所をまわっていると地方の名産品なんてついつい食べてしまうものだから体重計に乗って表示された数字を見て思わず目眩がした。
その夜からは周りの迷惑にならない程度に自主的にダンスレッスンをすることにした。何事にも復習は大事である。

普段騒がしく思っていても離れるとつい寂しくなってしまうものらしい。一日に一度事務所に連絡を入れることにした。けっして言わないけれど、電話をかけて最初に誰が出るのかが少し楽しみだった。

時折、風景と共に愛車の姿を携帯のカメラに収めるが少々物足りない。
帰ったらデジカメでも買うべきだろうか。
多分買う事になるだろう。

スケジュール帳を見て改めて確認する。帰らなければいけない時が来ていた。

自販機で買った缶コーヒーを適度に温くなるまで手の中でカイロ代わりに弄ぶ。
もう一方の手でエンジンルームにそっと触れる。少しずつ缶コーヒーと同じように熱が冷めていく。
重いステアリングにも、独特のエンジン音にも、硬いサスペンションの感覚にも大分慣れてきた。
髪を解いて、風に遊ばせるままにする。
海沿いの道をずっと走ってきた。飽きることのない波の音と、潮の香り。
大きく息を吸い込む。少し前に比べると空気がどこか甘くなってきた。季節が変わろうとしている。

愛車に体重を預けて、時折コーヒーを飲みながら何をするでもなくじっと日が昇る姿を見つめている。
あと少しでこのドライブも終わる。
また、あの騒がしくて忙しい日常に戻る時が近づいている。
それが嫌になった訳ではない。でも、この時間が終わってしまう事が名残惜しい。
コーヒーをまた一口飲んでそれっきり何も考えないようにする。エアポケットのような時間。

「まあ、それでもいっか」

ふとこぼれた呟きが虚空に溶けていった。
口に出してみると、すんなりと納得できてしまった。
別にこれが最後という訳でもない。これから先に幾らでも機会はあるのだから。
わざわざこんな事を考えてしまうのは夜明けの海などというシチュエーションだからだろうか。
ついでだからもうしばらくセンチメンタリズムに浸ってもいいだろう。

太陽が顔を出す。
目を閉じて全身で光を浴びる。
腕を伸ばして手を開いて、出来るだけ多くの光に触れようとする。
細胞のひとつひとつが柔らかい熱を帯びていく。
体が目覚めていく瞬間をはっきりと自覚する。
目を開いて、入ってきた光の強い刺激に少しだけ視界が滲む。
きっと、こんなふうにして世界も目を覚ます。

丁度缶の中身も空になった。空き缶をゴミ箱に放り込んで運転席へ座る。
エンジンに火を入れる。暖まるまで少しの暖気。
もどかしいとは思わない。
普段の仕事は時間に追われているのだ。一人の時間くらいこの程度の猶予はあってもいいだろう。

「さて、帰りますか」
そう声に出して、頭の中で思い描いた光景に苦笑する。自宅よりも先に765プロの事務所が浮かんできてしまうあたり割と重症かもしれない。

トランクに放り込んだお土産の数々を思い出す。
それなりに絞ったつもりでも、各地を転々と回ってきたからそれなりの量になっていた。
素直に渡してもいいけれど、わざと忘れたフリをして「私の無事な姿が何よりのお土産でしょう」と言ってやったらどんな顔をするだろうか。
きっともっと騒がしくなるに違いない。
こんなセンチメンタリズムなんて跡形も無く吹き飛ばしてしまうだろう。
ああ、どうしよう。
どっちを選んでも楽しい事になるのが容易に想像できてしまって緩む頬を押さえきれない。
とてもささやかで幸せな悩みを抱えて帰路につく。


朝の光の中、海岸沿いの道を一台の車が走っていく。