くのいち雪歩・忍び穴後編


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 一方こちらは高木一朗斎の長屋。高木老人が読み物をしながら茶を飲んでいると床下から
声が聞こえる。
「頭領、頭領」
 高木は眉を動かしただけで視線を遣ろうともしない。声の主を心得ているのだ。
「雪歩か」
「申し訳ありません。伊織ちゃんを攫われてしまいました」
 雪歩、と呼ばれた相手は、声を潜め、状況を説明する。
「武術大会にみんなで行く約束をしていたのですが、伊織ちゃんが先に屋敷を出てしまって。
少し高をくくってしまいました。まさか功徳新報がそこまで手が早いとは」
「催しがある時は人の波も心の波も乱れがちだ。少々気の短い輩がいたのだろう」
「いきなり殺すということはないと思います。手遅れにならないうちに探して、助けてきます」
「うむ、そうだね。伊織お嬢さんは可愛らしい娘さんだ、まだ日が高いとは言え見境の
つかない奴がいないとも限らない」
「探索の手は伸ばしています。時間から言っても遠くには行かないはず」
「半刻で3人呼べるが?」
「要りません。私の責任ですし、私だけで平気です」
 高木は茶を一口すすり、ふうと息をついた。
「わかった、任せよう。くれぐれも用心したまえよ」
「はい」
「今のお前は『瑠璃洞の雪歩』ではない。あくまで『水瀬屋のお雪』なのだ」
 応ずる声はなかった。というより、気配ごと消え去っていた。
 高木は茶を飲み干し、茶碗を盆に置いた。ふと窓の外の空を見上げる。
「空気が乾いているな。雪歩の日和だ」
 一人ごち、手元の書をまた一枚めくった。

 悪徳屋又右衛門。廻船問屋・悪徳屋の主人である。
 悪徳屋が店を開いたのももうずいぶん以前になる。もとは小さな問屋であったが、ある
時期から突如として商売を大きくし始めた。噂ではよい商売相手を見つけたという話である
が、その相手と言うのが後ろ暗かった。只のひとつとして確たる証拠はないが、表向きの
良心的な船問屋の裏で、いろいろと融通の利く商売をしているのだと言うのは半ば公然と
語られていた。
 公の立場としては一介の廻船問屋であり、水瀬屋の主人とも顔見知りである。同業者の
会合でも有力者の一端を担っていることから、伊織も挨拶をしたことがある。
 その悪徳屋が、いま目の前にいた。
「あんた……こんなところで、何を」
「おやおや、めぐりの悪いお嬢さんだね。本当に色恋にうつつを抜かしているのかな」
「なんですって!」
 不自由な体で身を起こそうとするのを、彼女を囲んだ男が阻む。
「こらこら、勝手に動くんじゃねえよ」
「なにすんのよ、やめなさいってば」
「お嬢さん」
 悪徳屋が言葉を継ぐ。
「私はこれまで一生懸命商売をやってきてね、お客様のためにどんなことでも応えようと
努力してきた。世の中にはいろんなお客がいる。安く荷を運びたい者、早く荷を届けたい者、
人に知られずに移動を手配したい者」
「は!御禁制のものを運びたいお客様だっているでしょうね」
「その通り。私はそれが正しいと思っているよ。物事には相応の手数と相応の代金があって、
その釣り合いが取れればどんなことだって商売になるんだ」
「商売敵の悪い噂を流すのも商売ってわけ」
「ちょっと違うな。水瀬屋より悪徳屋を使いたい者がいる、というところが商売さ」
「そんなの、使いたい人が勝手にそうすればいいじゃない」
「世の中にはしがらみというものがあってね、なかなか簡単に行かないこともある。だから、
水瀬屋さんには商売を小さくしてもらおうと私は思ったんだ」
「勝手なもんね」
「水瀬屋さんが商売を大きくしたのもそちらの勝手だからね。だけれど、ちょっと大きく
なりすぎた」
 くく、と悪徳屋は笑う。
「私のところと同じくらいなら、お客さんもいろいろと比較しやすいだろう。なにも水瀬屋
さんを潰そうだなんて思ってはいなかったんだよ。だけれど」
 今度はその表情を曇らせた。どうやら自分の感情に酔っているようである。
「だけれど、もうだめだよ。私の大事な瓦版屋に悪い噂を流すなんて、まっとうな人間の
やることじゃない。おかげでこんなにもあぶれ者が出てしまったよ」
「こんなにももなにも、全部あんたの因果が報いただけじゃないの!」
「いいやお嬢さん、あんたがおとなしくしてりゃこんなことにはならなかった。ほら、彼らは
お嬢さんのことを殺してやりたいほど恨んでる。だろう?」
 問われた男たちは一斉に下卑た笑い声を上げる。先ほど喋っていた男がまた口を開いた。

「おうよ。だがただ殺すんじゃ割に合わねえな。少々育ちが足りねえが折角の女だ、色々
とっくりと楽しんでから引導を渡してやるかな」
 男の言っている事は伊織にも理解できた。寝転がらされた姿勢で気丈にも顔を上げ、男の
にやけ顔を睨み返す。
「や、やれるもんならやってみなさいよっ!わ、私に指一本でも触れたら、舌を噛んで
やるから」
「そいつは都合がいいや。動きが鈍る」
 しかし男には伊織の脅しは通用しない。
「いいかいお嬢さん、人間、舌を噛んだくらいじゃ簡単には死なないんだ。勝手にひとつ
余分に痛い思いをしながら、手前の体がどんな目に合わされるかせいぜい見届けるんだな」
 むしろ逆に脅され、伊織の瞳にはみるみる涙が溢れだした。
「い……いや……許して」
「お嬢さん、私はどうでもいいんだが、彼らはきっと許さないよ。そうだろう?」
「へっへっへ、旦那は話が通じるいいお方だ」
 男の右手が伊織の着物にかかる。伊織は恐怖のあまり、身じろぎすらできない。
「さて、俺たちとちょっと遊んでくれや、お嬢ちゃん。なにほんの一日かそこらだ、その
あとはころりと楽にしてやるからよ」
「い……いやあああっ!」
 と……。
 その刹那である。
 暗い土蔵のいずこかで、彼らに向けて放たれた声があった。
「あの、待ってくださあいっ!」
「む」
「だ、誰だッ?」
 いささか頼りなげながらも凛と響く声は倉の内部に反響し、その所在は定かでない。悪徳屋も
男たちも、胸ぐらを掴まれたままの伊織までもがあたりを見まわす。
「一見まっとうな船問屋と見せかけ裏では抜け荷人買いの悪行三昧、一方では商売敵を追い
落とそうと謀略を巡らし、上手く行かぬと見れば人の命を手玉に取る血も涙もないその所行、
天が許してもこの私が許さないですぅ!」
「くっそう、どこだ、どこにいる?」
「姿を現しやがれ!」
 口々に叫ぶ怒号がものともせず、声は涼やかに男たちの罪を言い立てる。
「廻船問屋・悪徳屋又右衛門、それから瓦版・功徳新報一党、あなたたちの罪は明白ですう!
即刻罪を認め番屋へ出頭するならよし、さもなくば今ここで身動きとれなくして同心様を呼び
ますからそう思ってくださいっ!」
「いたぞ、あそこだ!」
 男の一人が近くの幅木を指差す。その上にはぼんやりと人影。
「落とせッ」
 彼らは手に持った小刀や足元の石くれを投げつける。一瞬身じろぐように見えた人影は
つぶての数の多さにたまらず、地面に落下する。
「莫迦め、やっちまえ!」
「……っ!」
 伊織を掴み上げた男が指示を出すと、彼らは手に手に刀を構え、どすどすとその体に
突き刺した。あまりのむごさに伊織は顔をそむける……が。
「えっ?」
「なんだこりゃあ!」
 異様な声を出して死体から離れる男たちに、伊織を掴んだ男がいぶかしげに首を巡らした。
「か……変わり身だと」
 伊織の傍らの男がつぶやく。伊織も男の影から恐る恐る覗いてみると……刀を突き立てられ
倒れているのは襤褸布を纏った古座布団ではないか。
「これは……これは一体――う」
 怖気づいたか伊織の着物を離し、立ち上がった男が突然呻いて倒れる。横倒しの伊織には
様子が見えなかったが、今度は耳元で声が聞こえる。
「伊織ちゃん、こっちに隠れていてください」
「え?――きゃ」
 反応する間もなく肩を抱かれ、ずいと引っ張られると体が下に落ちた。土蔵の地べたに
いたはずなのに、とあたりを見ると、どうやら穴が掘ってあったようだ。いつの間にか
手足の縄も切られており、自由に動ける。だが、声は落ち着いた様子で続けた。

「ちょっと騒がしいと思いますから、なるべく身を低くしていてください。お願いしますね」
 声の主はそして、伊織の視界を遮って穴を飛び出た。伊織は相手の姿を見つめる。
 ――忍者。
 純白の忍装束に白い覆面、動きやすさのためか腕や脚はほとんど覆わず、美しい肌を見せて
いる。ごく細い金の鎖帷子はむしろその肌の白さを際立たせるかのようだ。右手に持っている
のは刀ではなく、平刃の短槍……いや、違う。江州鋤である。
 忍者といえば隠密、という常識をひっくり返したような華美ないでたちだが、『忍者』、
そう表現するしかない人物が伊織を助け、今なお彼女の敵に対峙しているのだ。
「名無子忍軍・瑠璃洞の雪歩、参ります」
「なむこ?雪……歩?」
 小さくつぶやく声は男たちには聞こえまいが、それを伊織は確かに聞いた。一瞬穴を
飛び出そうと思うが、すぐに男の声が聞こえ、足がすくむ。
「そこにいやがったか!」
「おかしな格好しやがって。今度こそ膾だ、覚悟しろ」
「あのう皆さん、おとなしく自首してくださいませんかあ?」
 白い忍者は、この期に及んでなよなよと敵方に降参を願う。もちろんこの状況で応ずる
悪人はいない。悪徳が叫んだ。
「お前たち、相手は女じゃないか、しかも一人だ。やってしまえ!」
「ふえ、あの、あんまり近づかないで下さぁい」
「うるせえっ!」
 男たちが一斉に走り寄る。忍者は迎えうつと言うより、怯えたように鋭く叫んだ。
「いやーん、来ないでえ!名無子忍法・土龍砕っ!」
 左手で印を結びつつ右手の得物で地面を穿つ。すると、轟という音と地響き、そしてそれに
呼応するように土蔵の床が大きく崩れ落ちた。
「ぐお!」
「ぎゃあっ」
「うわあああ?」
 男たちの叫び声が聞こえる。薄暗い中もうもうとする土煙であたりは見えないが、穴の縁
から覗く伊織には数人の敵影がゆるゆると立ち上がるのがわかった。身を隠しながらも
近くにいるだろう忍者に叫ぶ。
「ちょっとあんた!まだ何人かいるわよっ!」
「あ、はいぃ」
 地面から鋤を引き抜くと、煙の中に駆け込んでゆく。しばらく金属のぶつかる音や男の
叫び声が聞こえ、やがて土埃がおさまった。
「雪……歩?」
 伊織は再び穴から這い出した。土蔵の床は地震でもあったかのように大きく崩れ、瓦礫の
中で男たちが呻いている。またその周りにも他の者たちが倒れているが、かすかにうごめいて
いるところを見ると忍者は彼らを殺しはしなかったのだろう。さて、その白い忍者はと
首を巡らす伊織の耳に、鋭い剣戟の響きが聞こえた。
 見ると、倉の奥のほうで切り結んでいるふたつの人影。どうやら相手も手だれらしく、
忍者は苦戦しているようだ。
 用心しながら伊織が近づくと、双方とも傷だらけである。いずれも大きな傷はないが、
避けては切り、切っては逃げるという千日手のようになってしまっている。
「ゆ……雪歩ーっ!」
「伊織ちゃん?」
「勝機ッ!」
 忍者に呼びかけたことで彼女に隙を作ってしまったようだ。そこにつけ込み男が刀を
彼女の眉間めがけて振り下ろす。
「きゃあっ?」
 間一髪で飛び退ったが覆面が破れ、その顔が半ば見えている。慌てて顔を隠す刹那、
男は伊織の方に素早く駆け寄り、その刀を伊織の喉に当てた。
「きゃっ?」
「くははは!形勢逆転ってとこかい。動くなよ、いずれにしてもこの小娘、殺したって
飽きたらねえんだ」
「……う」
「この泰平の世にくノ一とは驚きだぜ。そのおかしな姿からすればむしろ『くノ一かぶれの
女軽業師』あたりか?火遊びが過ぎるな、女」
「き、決まり事なんですからおかしいとか言わないで下さいぃ」

 男は伊織を半ば抱き上げながら、倉の出口へじりじりと移動する。
「お前を殺して、この小娘も切って、俺は逃げさせてもらう。幸い悪徳から稼いだ銭がある
し、何年か姿をくらませば用は足りる」
「人殺しなんて怖いこと、やめてくれませんかあ?」
「お前を殺すって言ってるんだぜ?」
 おかしな返答をする忍者に、男は苛立ちを隠せないようだ。彼女よりは彼の方が明らかに
怪我が重く、集中力は長くはもたないだろう。
「だってだって、そんなことしたら痛いじゃないですか。今だってこんなに痛いのに」
「ふざけたことを抜かして時間を稼ぐつもりなら無駄だぜ。ほら、お嬢の命を少しでも
引き伸ばしたかったらお前が先に切られるしかない。武器を捨てるんだな」
「ゆ、雪歩っ!こいつはどっちみち私を切るつもりなのよ?なら私ごと切っちゃってよっ!」
 喉に刃を当てられたままにもかかわらず、伊織が雪歩にそう叫ぶ。男は薄く笑って腕に
力を入れ、伊織の喉を締め付ける。
「……ぐ、ぇっ」
「伊織ちゃん!」
「威勢はいいが物事をわかってねえお嬢だな、つくづく。切られて死ぬってのは痛えんだよ、
すごく。この刃を横に滑らせればお前にもようくわかると思うがね」
「待ってください。わかりました」
 ついに覚悟を決めたか、雪歩は男に言うと手に持った武器を地面に落とした。
「これでいいですか?とりあえず伊織ちゃんを放してください」
「放しはしねえが、まあ息くらいはつかせてやるよ。これじゃお前を斬れねえからな」
 男の刀が伊織の首から離れる。激しく咳き込み、ぜいぜいと息をつく伊織を痛ましげに
見ながら雪歩は言った。
「伊織ちゃん、ごめんなさい。もう少しで終わるから」
「終わるのはお前らの命だ」
「あのう、本当に自首して下さいませんか?」
 相も変わらずの女々しい説得に、男の怒りが燃え上がる。
「いつまで下らねえ戯言をこきやがる!今さら助けなんか――」
 と、その時男は気付いた。こちらを見つめる女忍者の、破れた覆面から現れた目に映る
影を。その影が……規則正しくうごめいているのを。
 それは自分の背後に、誰かが駆け寄りつつあるのが映っているのだと。
「伊織ーっ!」
「ぬうっ?」
 がぃん。
 白刃が弾ける。
 混乱する現場に登場したのは真之介であった。
 おぼろげながら伊織が厄介事に巻き込まれたと察した真之介は結局父の応援には
向かわず、市中で伊織たちを探していたのだ。たまたま通りかかった近くで倉の床が
崩れる音を聞きつけ、野次馬に先んじて倉の中に入り込み、男に捕まっている伊織と
向けられた刀を発見して切りかかる隙を窺っていたのである。
 しかし男の剣客としての勘は鋭く、後ろを向いたまま真之介の刀を受け止めた。ぶん、
と刀身を滑らせ、勢いをつけて若侍を振りほどく。あわてて避けたが、真之介の袷が横に
切り裂かれる。刃が身にまで届かなかったのは幸運であったと言えよう。
「畜生、加勢がいたのか!だが残念だな、お前らの大事な嬢ちゃんを……ぐぅっ?」
 初太刀をこらえた男は、前後にいる忍者と侍に人質を見せ付けようと声を張り上げる。
が、男の声はそこで力を失った。驚いたような顔で伊織を見つめ、次に……伊織の手に
握られたかんざしが、自分の腹に突き立っているのを見つめた。
「貴様……どこに持っ、て」
「い、いつまでもバカにするんじゃないわよっ!」
 先ほどの圧迫でしゃがれた声だが、はっきりとした口調で伊織は言った。それを見、
雪歩は叫ぶ。
「伊織ちゃん、伏せて!」
 言われたとおりというより、ついに力尽きた風情で伊織が地べたに伏せる。と同時に、
真之介が男に切りかかった。
「だああああッ!」

「真之介さま、殺してはダメですう!」
 雪歩はその彼にも声を飛ばす。果たして彼は上段に構えた真剣の刃を咄嗟に返し、男の
肩口に渾身の峰打ちを叩き込んだ。

「……おり……伊織、伊織!」
「う、……ん」
 真之介の声に揺さぶられ、伊織はゆっくりと目を開けた。
 場所はまだ土蔵の中である。伊織が意識を失っていたのはわずかの時間でしかない。
「真之介……」
「ああ、よかった!」
 真之介は伊織を抱き締める。が、彼女はそれを力づくで押しのけた。
「そんなことより雪歩は?あの忍者はどこに?」
「雪歩……っていうの?あの人。あのあとすぐに姿を消しちゃったんだ。ボクも助け舟
もらって、あやうく人殺しにならずに済んだからお礼言いたかったんだけど」
「いなくなったあ?この役立たず!逃がしてどうすんのよっ!」
「ええ~?」
 真之介は伊織をいたわって傍にいたのであろうのに、いささか理不尽な叱責を受けて
傷ついたような顔をしている。そこに聞き覚えのある頼りない声が、土蔵の扉の方から
聞こえてきた。
「伊織ちゃあん!」
「お雪!」
「お雪ちゃん?今までどこに」
 ふらふらと走り寄る姿に、真之介は思わず問いただす。それには答えず、お雪は伊織を
両腕にかき抱いた。
「伊織ちゃんごめんね、私のせいで……私があんな浅知恵使ったばっかりに、こんな怖い
目にっ!」
「ちょ、ちょっと」
「そんな時についててあげられなくて、ようやくたどり着いた時には全部終わってて」
「だからお雪、ちょっと落ちつきなさ」
「こんな、こんなダメダメな私はっ」
 右手を振るうと、例の江州鋤が忽然と現れる。
「穴掘って――」
「だから落ちつきなさーいっ!」
 地面が揺らぐかという大音声。
 真之介などは両耳を塞いだほどだ。伊織のこの一喝で、ようやくお雪は動きを止めた。
「……はぅ」
「はー、もう、あんたって子は」
 大声かお雪のうろたえようが相当疲れたのだろう、胸に手を当ててひと息つき、伊織は
背筋をのばしてお雪に向き合った。
「あんた、なんにもダメダメじゃないじゃない。ことはごらんの通り片が付いたし、私も
真之介もピンシャンしてる。お雪はなんにもいけなくないの。だからめそめそするんじゃ
ないわよ」
「伊織ちゃん……」
 主人の……いや、『友人』の温かい言葉に、お雪は思わず胸が詰まる。
「むしろあんたの怪我の方が気になるわよ。ひどくやられてたみたいだけど大丈夫?」
「あ、幸い私はかすり傷……って、わ、あわわ」
「うわっ?ホントだ、お雪ちゃん傷だらけじゃないか、どうしたの?」
 伊織の質問にうっかり答えてしまい、慌てるお雪を見て真之介がようやく気付いた。お雪の
姿は、着物こそ傷んでいないものの手から顔から、おおよそ目に見えるところは大小の
さまざまな傷に覆われている。当然衣類の中も大変な有様であろう。
「あっあの実は、伊織ちゃんを探して神社の境内まで行ったんですけど、裏の藪で足を
滑らしてしまって」
「ええっ?大変だったね、大丈夫?」
「……真之介……あんた今の話を真に受けてるの?」
「うん?なんかおかしいかな?」

「はぁ。あんたがそれで納得してるってんならいいわよ。でもその手の傷はちょっと大きい
から血止めくらいしなきゃね。真之介」
「なに?」
「あんたのサラシ、少し貸しなさい。手当てするから」
「いや、でもこれは」
「さっき服斬られて丸見えのくせに、今さら何をもったいぶってるのよ」
「え、丸見えって?……うっ」
「あの伊織ちゃん、私そんな……え」
 そんな会話に何気なく真之介の服に目をやり、お雪は声を失った。
 確かに先ほどの斬り合いで、真之介は衣服を切り裂かれた。体さばきがよかったのか布地
だけですんだのは僥倖であったが……代わりに体の前面がぱっくりと口をあけている事態と
なってしまっていた。命がけの戦いだ、それはいい。問題はその『中身』である。
 鍛えているにしては白くしなやかな真之介の胸板が露出し、そこには……なかなかに
可愛らしい、まごうことなく女子のものに違いない、小ぶりな乳房がふたつ、つまびらかに
されていたのだ。
「いやああん!みっ、見ないでお雪ちゃあん」
「し……真之介さまが……おっ、おっ、おっ、女の子おおっ?」
 ようやく我が身の有様を把握した真之介が胸を隠してしゃがみ込む。目を白黒させた
お雪が驚いた声を絞り出す。その時倉の外がにわかに騒がしくなった。
「ええい、どけどけ!奉行所だ、道を開けいっ!」
「あーもう、収拾つかないじゃない。真之介、いつまでもへたり込んでないで同心さまに
うまく説明してよ。どうせ顔見知りでしょ?」
 伊織が耳打ちし、半泣きの赤い顔で真之介が身支度を整え、立ちあがったところで
捕り方たちが倉になだれ込んできた。
「南町奉行所同心・軽口哲馬である!ものども神妙にせいっ!……む」
「軽口さま。菊地道場師範代・菊地真之介でございます」
「なんだ、若先生。どうされた?」
 駆けつけた同心に、どうにか平静を取り戻した真之介が歩み寄る。菊地道場は同心の流派と
親交があり、時折出稽古などで手合わせをすることがあった。
「今日は大先生が試合に出向いているのであろう?」
「はあ、それが面倒ごとに巻き込まれまして」
「ちょうどよい。顛末を知っているか?」
「それがですね――」
「真之介さま、こう説明してください」
「――えっ」
 何から話しはじめようかと思案したところで、お雪の声が聞こえた。思わず振り返るが
彼女は伊織とともに、大分遠い間合いで控えている。
「どうした?」
「あ、いえ。実はですね」
 同心には聞こえていないようだと感付き、これは従うべしと判断する。同心をごまかし
ながら中継ぎしつつ語った内容はこのとおり。
 町で噂となっている功徳新報と悪徳屋のつながりは、発端が水瀬屋への中傷であった。
これを不服に思い丹念に噂を消して回っていた伊織と真之介であるが、それが悪徳屋の
不興を買い、苛立った彼は伊織をかどわかすに至った。本日の試合にともに出向く約束を
していた真之介は伊織の不着を不審に思い、探して回っていたところこの倉での騒音に
気付いた。廃屋となっていた倉は土台が腐っていたようで、伊織を連れ込んだ悪漢どもの
人数が多かったことで床が崩れ落ち、被害を免れた数名の悪人は駆けつけた真之介が打ち据え、
からくも伊織の救出に成功した、と言う次第である。
「そうか。あそこで伸びているのは確かに悪徳屋だな」
 事実はほぼ網羅されているが、伊織たちの計略のくだりと先ほどの白忍者がごっそり
抜け落ちている。伊織は完全な被害者、悪徳屋は完全な犯罪者、真之介はすっかり正義の
味方である。日頃の悪徳屋の評判、真之介や菊地道場の人柄をよく心得ていた軽口は、
その内容を信じることにしたようだ。
 真之介はさらに付け加えた。これも耳元に囁かれた言葉である。
「あの、それで軽口さま、伊織が憔悴しております。医者に連れて行ってやりたいの
ですが……」
「そうか。本当なら関係者は全員確保が原則だが……まあ、他ならぬお前の頼みだ、
構わんよ」
「ありがとうございます!」

「俺も瓦版は目を通しているぞ。若い男女があまり羽目を外すなよ」
「軽口さままで!そんなことないですよ」
「はは、わかったわかった。いたわってやれ」
 同心が部下を指揮し、悪徳屋一味を捕縛してゆく中、真之介は伊織と雪歩を従えてその場を
後にした。

「ま、見られちゃったんだから仕方ないわね。話してあげなさいよ真之介、いいえ、真琴」
 ところは伊織の部屋。伊織と真之介は軽い打ち身程度で大きな怪我はなく、神社で転んだ
と言うお雪だけが満身創痍の体で、診療に当たった医師は首をかしげていた。
 ただ、長く水瀬屋のかかりつけとなっている医師は心得たもので、丁寧に傷を治療した
だけで何も言わず帰って行った。三人とも跡が残るようなことはないだろう、とのこと
である。
 喉元に巻かれた包帯も痛々しい伊織であるが、本人は元気そのものである。幾重にも
重なった憶測を解き明かそうと興味津々、まずは真之介の話を戸場口にしようという魂胆の
ようであった。
「うん。お雪ちゃん、ボク、本当は女でね」
 真琴、と呼ばれた真之介も覚悟を決めたのか、咳払いをひとつして話し始めた。
「本当の名は菊地真琴。家の事情で男として暮らしてる」
「ほ、ほんとに女の方だったんですかぁ」
「うち、剣の道場でしょ。父は跡継ぎが欲しかったようなんだけど、ボクしか生まれなくてね。
母は男児の養子を受けるのにずっと反対していて、結局二人で話し合って決めたのが、
ボクを嫡男として育てること、だったんだ」
 父も母も一粒種の真琴を心から愛している。だが、こういう時代に息子がいないのは家の
一大事である。とは言え養子の当てもなく、親としても実子をないがしろにするには忍び
ない。真之介の両親が決断したのは、女子の真琴を男児の真之介として育てる方法であった。
「何年か前に……ボクの体のこと、ごまかしきれなくなって、ついに打ち明けてくれてさ。
それからずっとこの生活。ただ、ボクも今の生き方は嫌なわけじゃないし、両親も面白半分で
こうしたんじゃないって解ってるから。できるだけこうしておいて、……あはは」
 自嘲でも自虐でもない、その笑みは真之介が、両親を思いやっての明るい笑顔であるとわかる。
「いつか、ボクを負かすような強い人を見つけて、その人が全部受け入れてくれたら、
菊地道場を引き継いでもらおうかな、ってさ」
「そんなことが……あ」
 一通り話を聞いてお雪は思い当たる。
「それじゃあお二人で夜出かけていたのも、それに関係あるんですね」
「そうなのよ。最近この子ったら色気づいちゃって」
「な、なんだよ、そんな言い方しなくたって」
「何よ!自分で男として生きるって決めた反対端で、『ねえねえ伊織、あの子の着物、
綺麗だよね、着てみたいなあ』とかどの面下げて言える訳?」
「ぐぅっ、い、いいじゃないか!ボクだって綺麗な着物着てみたい時があるんだよーっ!」
「そんな女々しい心根でいいお婿さんなんか来てくれるわけないじゃないの、あんたなんか
ずっと男装してればいいのよ」
「なんだい、伊織だってすっごく楽しそうに着物いっぱい持って来てくれたのに!色味を
あわせて自分まで着替えたり、何着かはわざわざボクに寸法合わせてくれたのまで
あったじゃないか!」
「そ、それはあんたがあんまり嬉しそうだったから……わ、私の着物に片っ端から着癖
つけられちゃ困るからお古を直してあげたのよっ!」
「あ、あのう、もし」
「お雪は黙ってなさいっ!」
「うぅ、ひどい~」
 要するに、真之介が女物の服を着てみたいと伊織にねだり、伊織は幼馴染のために
世間に隠れて服を運んで、夜な夜な二人きりで披露会を催していたのだ。二人の楽し
そうな表情を見た通行人が、その仲が只事でないと察するに余りある有様が、くだんの
密会騒動に繋がったのである。
 しばしの言い合いの末、二人は本来解き明かすべき事態を思い出した。
「と……とにかく、そんなことがあって今回の騒動になっちゃったって訳なのよ。ね、
真之介」

「うん。ボクが余計なこと伊織にねだったせいでお雪ちゃんまで巻き込んじゃって、ほんと
ゴメン」
「あ、いいええ。いいんですよ」
「さて、それじゃお雪」
 と、ここで伊織が話題の矛先をお雪に据える。
「いよいよあんたのこと、聞かせてもらうわよ?」
「あのう……秘密っていうわけには」
「ダメ」
「ふうぅ、そうですよね。頭領すいませえん」
 お雪は天を仰ぎ、しかし心を決めたかやがて話し始めた。
「私、戦国から続いてる忍者の一族の出で……あの、あんまり喋るとさすがに伊織ちゃん
や真之介さままで危ないんで、ちょっとだけでいいですか?」
「呑気な忍者ね、つくづく。とっくに私たち消されててしかるべきなんじゃないの?」
「あ、いえ、こんな御時世ですし、今は忍者なんてむしろ絵空事って思う人のほうが多い
ですから。市中にもけっこういるんですよ、私の里のものだけじゃなく」
 先の戦いの中で彼女、『瑠璃洞の雪歩』がつぶやいた名無子――なむこ――というのは、
彼女が属していた忍びの一族名である。もともと戦闘よりは諜報を得意としていた一族は
その名を消し去り、「名無しの者」としてその時その時のあるじに仕えていた。
「だから一族の名もこんな感じですし、その里も今はもうなくなりました。一族も忍びとして
これから栄える心積もりはないので、頭領は時々身なし子を引き受けて、生活の術を
与えて独立させるような生き方をしています。詳しくは明かせませんが、忍者の頭領と
いうより寺子屋の先生みたいですよ、ふふ」
「あんたも身なし子だったの?」
「ええ、捨て子だったそうですよ。何をしてもうまくいかずにダメダメで、穴掘って埋まって
ばかりいたらそれが上手になりまして」
「ま、あの技はすごいわよね、確かに。土蔵の床を一瞬で抜くんだから」
「ああ、あれは本当に地盤がゆるんでたんです。そういうの見つけるの、得意なんです」
 野心を捨て、一般の人々とともに生きる決心をした忍者・名無子忍軍。頭領は戦うため
ではなく、生きるための技術として忍術を身なし子に教え、日々を暮らしていると言う。
「危険じゃない技術者集団っていうんなら、お父様に掛け合って5人や6人住まわせて
やったっていいのよ?あんたみたいのがいっぱいいたら商売にも役立ちそうだし」
「忍びを怖がる人や、利用しようと言う人もいますし、やっぱり私たちは日陰者です。
『陰気だけど、ちょっと手先が器用』っていうふうに、それぞれの生き方ができればいいんだ
と頭領が言ってました」
「……そう。解ったわ」
 一通り聞き終えて伊織が言う。隣で聞いていた真之介も唖然とした表情をしている。
「真之介はお礼言わなくていいの?あんたを殺生の道から助けてくれた恩人よ?」
「……って言うか」
 真之介がようやく口を開いた。
「お雪ちゃんがあの時の忍者だったの?」
「あんたの目はフシ穴かーっ!」
 真之介の頭をどやしつけて、伊織は改めてお雪に向き直った。
「真之介はどうでもいいわ、それよりあんたよ」
「私ですか」
「私の読んだ絵草子やなんかだと、正体を知られた忍者は大概行方をくらますわ。あんたも
そうするの?お雪」
「えっ」
 お雪は伊織を見つめ返す。伊織の瞳の光は複雑で、読み取れない。
「私は……」
 お雪はしばし考えた。
 忍者が身分を明かした後姿を消すのは、自分を追う者がいる可能性があるからだ。命を
狙おうという者もいようし、取り込もうと考える者もいる。そして人殺しの術を体得して
いる忍者と相対する人物は、おおむね人の命を重く見ない人種である。相手が武芸者で
あろうが少女であろうが、それを慮外とする者である。
「私は……伊織ちゃんや、真之介さまが心配です。私がいることで、今日みたいに皆さんに
迷惑をかけるんじゃないかって」

 伊織はすかさず言い返す。
「お雪が助けてくれたじゃない」
「こんなダメダメな私が、いつでも同じことできるかどうか」
「私を守ってくれたじゃない」
「ですから――」
「私のことはどうだっていいのよっ!」
 だん、と畳に平手を突き、伊織が激昂する。
「あんたは立派に私の命を助けてくれたじゃない!いま私がここであんたを怒鳴りつけてる
のは、あんたがいてくれたからなのよ!今日から先の私の命は、あんたから貰ったもの
なの!いい?」
「伊織……ちゃん」
「あんたがいなけりゃ、私は今ごろ恐ろしい目に遭っていたし、明日の今ごろはあの土蔵の
地べたで冷たくなっていたに違いないわ。あんたは今日明日には死んでた私の命を、救って
くれたのよ!」
 言いながら、伊織はお雪ににじり寄る。その目には涙をたたえ、しかしそれがこぼれぬ
ようにか懸命に目を見開き、お雪に詰めよってゆく。
「あんたに拾われた私の命なんかを、あんたは気にするんじゃないわよ!あんたがしたい
のは、どんなことなの?あんたは私と、真之介と、一緒にいたいの?いたくないの?」
 ぱた、ぱた、と畳に水音。ついにこらえきれず、涙が落ちる。
「私はお雪と一緒にいたいの!命の恩人のあんたと、この命が尽きるまで一緒にいたいの!
あんたはどうなの?私や真之介じゃなく、あんた自身はどうしたいの?」
「私は……私、は……っ」
 お雪の目にもいつしか涙が溜まり、こぼれ、流れ落ちていた。
「私……伊織ちゃんと一緒に、いたいです」
 絞り出すような一言は、やがて想いの奔流となって口を突く。
「伊織ちゃんと一緒にいたいです!伊織ちゃんや、真之介さまや、大旦那さまや、水瀬屋の
みんなと、ずっと一緒にいたいですっ!」
 堪らず顔を伏せる。自らの運命に歯向かう言葉を、自分の罪科に抗う望みを、誰よりも
迷惑を掛けたくない相手にぶつけてしまった自分を呪った。
 目を閉じても、脳裏に伊織の姿が映る。
 初めて屋敷に連れて来られ、挨拶をした強気な笑顔。
 瓦版を手に悪だくみに荷担させようとする、自信みなぎる表情。
 悪人を自分ごと斬れと命じた、決意の瞳。
 自分の人生の中でひと月足らずしか見ていない、伊織の顔。その笑顔が、怒り顔が、
泣き顔が、お雪の心を埋め尽くす。そして。
 そしてうつむいた髪に、何かが触れた。
「……よかった」
 はっとして顔を上げると、伊織がお雪の髪をなでていた。
「よかったわ、あんたが同じ考えで。これで私の片思いだったら、格好がつかないところ
だったもの」
「伊織ちゃん……っ!」
 お雪は伊織を抱き絞めた。伊織の胸に顔をうずめるお雪と、お雪の頭をなで続ける伊織の
姿は、まるで生まれついての姉妹のようであった。
 ただ、どうしても伊織が姉に見えるのだが。
「そうだ。お雪、これ上げるわ」
 しばし後、泣きやんだお雪に言い、伊織が懐に手を入れた。出てきたのは……幾分曲がった
かんざしである。
「これって」
 お雪はこのかんざしに見覚えがあった。そう、あの倉で、伊織が男の腹に深々と突き立てた
ものである。自分の勝機に繋がった小道具に、真之介が訊ねる。
「そう言えば伊織、どうしてこれ、あの時持ってたの?」
「……あいつらに捕まる前にちょうど買って来たところだったのよ。その……お雪に、
あげようと思って」
 伊織がお雪を置いて先に屋敷を出たのは、これのためであった。お雪に内緒で細工師に
作らせ、できあがった物を受け取ったところであったのだ。
「え……私に?」

「ほ、ほら、折角武術大会を見に行くことになってたじゃない。あんたって飾りっ気ない
から、仕方なく私とお揃いのを作らせたのよ。だ、だって連れ立って歩くって言うのに
かんざしのひとつもないなんて、連れてる私の方が安く見られちゃうでしょ?」
 嬉しそうに見つめるお雪に、伊織は頬を染めて慌ただしく説明する。
「でもあいつに思いっきり刺してやったから、汚れは落としたんだけど曲がっちゃったわね。
直してもらわなきゃ」
「……えっと、いいです」
「えっ」
「このままで、いいです。このままが、いいです」
 伊織の手を包み込むように、かんざしを受け取る。愛おしげに見つめ、伊織に笑みを向けた。
「ありがとうございます、伊織ちゃん。私、大切に使いますね」
「……あ、あんたがいいなら構わないけど」
 受け取ったかんざしを、位置を探りながら髪に挿してみる。途中から伊織が手伝った。
「どう、ですか?変じゃありませんか?」
「ふん、まあまあじゃない?」
「うわあお雪ちゃん、似合ってるよ」
 二人に言われ、お雪は嬉しそうに微笑んだ。

「お雪、お雪?お雪ってば!」
 そして今日も、水瀬屋では伊織がお雪を呼びながら歩き回っている。
「お雪、いないの?今すぐ返事しないと今日と言う今日はギッチギチに縛り上げて長持に
詰め込んで熨斗つけて田舎に送り返すわよ」
「はぅ、ここです伊織ちゃん。いま旦那さまの盆栽の手入れをぉ」
「まったく、相変わらず愚図ねえ」
「お願いですから郷里に返すのだけは勘弁してください伊織ちゃあん」
「冗談に決まってるでしょってば。大体あんた帰る田舎もないくせに」
「はぁ、そうでしたぁ」
 最近のこの界隈では、三日に一度はこのやり取りが聞こえる。近所を回る売り歩きの商人
など、これが聞こえた日は験が良いなどと言っている者さえいる。
「あっそれで伊織ちゃん、なにかご用ですか」
「そうだったわ。うちの門の前で拾ったんだけど、ちょっと相手しててくれない?」
 訊ねるお雪に、伊織は手に持っていた布の塊を手渡した。どうやら綿入れでその「拾い物」
をくるんでいるようだ。
「え、相手、ですか?」
「ええ、うちでは飼えないし、でも可愛らしいから真之介のところで面倒見てもらえないか
って思ってね。餌代くらいは持ってやってもいいし」
「飼う?餌?」
 矢継ぎ早の言葉を鸚鵡返しにするうちに、布の塊がうごめいた。驚いたお雪は思わず
取り落としてしまう。
「きゃっ?」
「うわ、気をつけてよ?このくらいの高さなら平気だろうけど」
「す、すいませ……」
 畳の上に落ちた綿入れはもこもこと身じろぎすると、やがて布の隙間から尻尾がにょきりと
飛び出した。
「……え?」
 続いてぶるりと強く身震いすると、それを包んでいた半纏はきれいに脱げ、中から茶色い
塊が現れる。
「おっとっと。どう、可愛いでしょ?」
 回りを見回し、走ろうとするのを伊織が抱き上げた。ぴたりと動きを止めたお雪の目の前に
伊織が見せたのは、まだ子犬の豆芝であった。
「捨て犬みたいなのよね。まだ生まれてそんなに経ってないし、頭もよさそうだから番犬
くらいにはなるんじゃないかしら。菊地道場も試合に優勝して人が増えたし、この子くらいは
……あら、お雪?どうしたの?」
 お雪の様子が変なのに気付き、子犬を抱いたまま伊織は顔を覗き込む。

「……き」
「き?」
 そしてお雪は胸いっぱいに息を吸い込む。
「きゃああああ!い、いぬ、犬はダメなんですうううっ!」
「えええ~っ?」
 ぶん、と右腕を振るうと、その手にはお馴染み江州鋤が握られている。
「来ないでええ~っ!名無子忍法究極奥義・紅蓮伽藍龍脈烈震破ああっ!」
「きゃあああ!?よくわかんないけどそんな物騒な技ここで使うなーっ」
 慌ててお雪に抱きつく伊織、その勢いで柴犬がお雪の顔にぺたりと抱きついた。今しも
恐ろしい技を繰り出そうとしていたお雪の目が、不意に白目を向く。
「……きゅう」
「あら、気絶しちゃった。お雪、お雪ったら」
 部屋の真ん中でばったり倒れたお雪はぴくりとも動かない。伊織はしばらく揺り起こそうと
してみたが、やがてあきらめた。お雪の顔をぺろぺろと舐めている豆芝を胸に抱き、意識を
失っている命の恩人にため息をつく。
「まったく。子犬見て気を失うなんて、どんな忍者よ。ふふ、ふふふ」
 ただ、その表情は柔らかい。子犬とともにおかしな奉公人を見下ろし、ころころと
笑い続ける。
「伊織ー。なにさ、今の騒ぎ」
 庭から彼女を呼びかける声がする。顔を向けるとちょうど通りかかったらしい真之介が、
垣根に肘をかけてこちらを見ていた。
「ああ真之介、ちょうど良かった。あんたんとこ行こうと思ってたのよ、お入りなさいな」
 真之介にはそう言い、伊織は子犬を包んでいた綿入れをお雪の体にかけてやり、縁側に
向かう。
 泰平のお江戸の陽光は、そんな彼らの上に今日も燦々と降り注ぐのであった。