風船のおにいちゃん


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休日の昼下がり、人がごった返すショッピングモールの一角に、男の子が歩いていました。まだ十才にも満
たない男の子は、両親と一緒に買い物に来ている所でした。学校よりもずっと広くて、見たことも無い店がい
っぱい並んでいるショッピングモールの光景を目にして、その瞳は興奮が溢れていました。
 白くて大きなウサギさんから貰った風船を誇らしげに掲げながら、人の波の流れの少ない所を見つけて小走
りに駆けていると、男の子は壁際で女の子が泣いているのに気がつきました。緑色のセーターに茶色のスカー
トを履いたその女の子は、編んだ髪を両方の側頭部から垂らしていました。
「どうしたの?」
 男の子が近寄って声をかけると、女の子の泣き声が止まりました。
「いないの……」
「いないの?」
「おとうさんと、ひっく……おかあさん」
 クラスで背の順に整列する時、いつも男の子は一番前でした。そんな男の子よりも更に小さな女の子の頬に
は、涙の通った後がまだ濡れたままです。後ろにも横にも、自分よりずっと大きな大人達があっちからこっち
へと通り過ぎていきます。
 どうして、みんなこの子に声をかけてあげないんだろう。男の子は憤りました。
「……ふうせんも、なくなっちゃった」
 作り物の人形みたいに小さな手が、天井を指差しました。指の示す方向を見上げてみると、なるほどそこに
は男の子が持っているのと同じ風船が漂っていました。空に帰りたいのに、風船は意地悪な天井に邪魔をされ
ているように見えます。
「ふうせんなら、ぼくのをあげるよ」
 さっきまでは離すまいと思っていたはずの風船を、男の子はいとも簡単に女の子へあげてしまいました。
 自分よりも小さい子には優しくしてあげなさい。父親がそう言っていたのを思い出したのです。
「……ありがとう」
 まだ涙で潤んだままの瞳が、男の子を見上げました。迷子の女の子が泣き止んでくれたのにホッとする男の
子でしたが、突然ハッとしました。
「ぼくの……!」
 後ろを振り返り、さっきまで一緒にいたはずの両親の姿を探しましたが、見つかりません。目の前で流れる
のは見知らぬ顔の大きな人間達ばかりです。男の子は背筋に嫌な汗がどっと溢れるのを感じました。
「いない……」
 呆然と立ち尽くし、体を押し潰す圧倒的な孤独感に男の子は声をあげて泣き出しそうになりましたが、すぐ
傍で同じ状況に陥っている自分よりも小さな女の子のことを思い出して、ぐっと踏みとどまりました。
「おにいちゃんも、まいご?」
「……うん、ぼくも迷子なんだ」
 素直にそう言ってしまうと、男の子の心は不思議と落ち着きました。こんな時に何をすればいいのか、迷子
になった子供はどこへ行けばいいのか、考えることができたのです。男の子は目をきょろきょろさせました。
「迷子センターに行かなくちゃ。行こう、一緒に」
 男の子が差し出した右手を、女の子はうんと頷いて取ってくれました。右手に感じる確かな温かさは、まだ
心にくすぶる寂しさと恐怖を追い払ってくれました。
 男の子の心に、小さな勇気が芽生えた瞬間でした。

自分より頭一つ分も二つ分も高い、黒や茶色の葉っぱを豊かに生い茂らせた木々の間を、二人はくぐりぬけ
るように進んで行きました。休日だからか人の流れは激しくて、立ち止まっていたら押し流されてしまいそう
でした。男の子は流れに逆らうように懸命に進んで行き、自分の体の陰に庇いながら女の子の手を引っ張りま
す。女の子は健気に男の子の手を握り締めて、小さい歩幅でしっかり男の子についてきました。
 ところが、歩けど歩けど一向に目的地に辿り着けません。このショッピングモールは、まだ小学生の男の子
にとってあまりにも広すぎました。どこへ行けばいいかは分かるのに、どうやって行けばいいかが分からない
のです。太い柱が立ち並ぶホールまでやってきた所で、男の子は途方に暮れました。思わず涙が出そうになり
ましたが、繋いだ手から伝わってくる女の子の存在が、それをさせませんでした。
「ねえ、おにいちゃん」
 黙ってついてきていた女の子が、一本の柱を指差しました。
「ちず……」
「地図? あっ、ホントだ!」
 指が示す先には、ショッピングモールの地図が貼り付けてありました。
「えっと、この赤いマルは何だろう……この漢字、読めない……あっ、フリガナがある」
 現在地を確かめて、男の子の目は迷子センターを探し始めました。程無くしてそれは見つかり、目の前に広
がる道と地図とを照らし合わせます。
「えっと、このまままっすぐ行って、曲がり角で右に行けばいいのか」
 道筋が分かったことで、不安に曇っていた心が晴れていきました。当てのない放浪に明確な目的地が見つか
り、自分達を待ち受ける冒険を楽しもうとする余裕さえ、男の子は感じ始めていました。
「大丈夫? 怖くない?」
 頭一個分小さい女の子に声をかけると、
「うん、へいき」
 女の子の口からは、はっきりした答えが返ってきました。
「もうちょっとだと思うから、頑張ろうね」
「うんっ!」
 男の子が、大股で一歩を踏み出しました。

 それから二人が迷子センターに辿り着いたのは、すぐのことでした。通り行く人の数はさっきから変わりま
せんでしたが、男の子はするすると人波をすり抜けていき、男の子が通り抜けた場所を、女の子も通り抜けま
した。
 目立つ色の看板の前までやってくると、窓口の向こうから一人の女性が話しかけてきました。
「あれっ、キミ達だけ? お父さんとお母さんは?」
「ええと、ぼくも、この子も、迷子で、えっと……」
「そうなんだ。じゃあ、二人のお名前をお姉さんに教えてくれる?」
 お姉さんに言われた通りに、まずは女の子が名乗り、続いて男の子が名乗りました。二人は、初めてお互い
の名前を知りました。
「キミ達だけでここまで来たんだ……えらいね、よく頑張ったね」
 お姉さんの手が、男の子の頭に伸びてきました。
「今からお父さんとお母さんを放送で呼ぶから、ちょっとあっちに座って待っててね」
「うん、分かった。行こう」
 男の子は、女の子の手を引いてソファーの上に腰を下ろしました。さっきのお姉さんとは別の人が、オレン
ジジュースをコップに入れて持ってきてくれました。
「ありがと、うぅ、うああっ……!」
 これでもう大丈夫。そう思った瞬間、男の子の頬に熱いものが伝いました。堰を切ったように、涙がぼろぼ
ろと零れ落ちていきます。
「なかないで、おにいちゃん」
 安堵の涙を流す男の子に、女の子の手に握られたハンカチが伸びていきました。
「……ごめん」
 男なのに、情けないな。
 女の子に涙を拭ってもらいながら、少しだけ勇敢になった男の子は照れ笑いを浮かべました。

それから年月が経ち、背の低かった男の子も長身の立派な青年に成長しました。芸能事務所でアイドルのプ
ロデューサーとして働く彼は、新たに移転した事務所の一角に備えることになった購買店について、とあるレ
ストランで商談をしていました。小売業を経営する壮年の男と契約を結び終えると、男は懐かしい目になって
青年にある昔話を始めました。
 始めは他人事として聞いていたその昔話は、幼い日の記憶を鮮明に呼び起こすものでした。
「まさか、あの時の少年と、こうして仕事の取引をするようになるとは。人生何があるか分かりませんな」
 知性を匂わせる顔立ちの男は眼鏡の蔓に指を添えて、にやりと笑いました。
「しっかり顔は見ていたし、名前だって聞いていたのに、覚えておらず申し訳ありません」
 青年はぺこぺこと頭を下げるばかりです。
「無理も無いでしょう。今からもう十五年も前のことになるし、貴方も娘も、こんなに小さな子供でしたから」
 男は、掌をテーブルの高さに合わせながらそう言いました。
「休日に出かける度に『風船のお兄ちゃんはどこ』って、あの頃の娘は私達にいつも言っていたんです」
「そ、そうなんですか」
「あの頃の娘は『風船のお兄さん』をかなり慕っていたようでしたよ。今では忘れてしまっているようですが」
 青年は、あの休日の午後以来、それとなく女の子がどうしているか気にしていた時期があったことを思い出
し、そんな頃もあったと懐かしむ一方、少しだけ恥ずかしくなりました。
「もしもあの時のことを覚えていたら、初対面の時にお互いどんな顔をしたのでしょうね」
「分からないです。でも、覚えていなくて、却って良かったと思います」
「ほう、それはまた、どうして?」
「その時のことをネタに色々とからかわれちゃうかもしれませんからね。泣き顔見られてましたし」
「ははは、そうか」
 青年は苦笑いして、男は目尻にくっきりと皺を作って笑いました。
「まぁ、褒め言葉を素直に受け取ってくれなかったり、何かと口答えして面倒に思う時もあるでしょうが、宜
しく頼みますよ。人のことを細かい所までちゃんと見てて、小さな親切にも気がついてくれる子ですから」
「ええ、と言っても、こっちばっかりが世話になっちゃってると感じることも多くって。呆れた顔をされるこ
ともしばしばです」
「食卓を一緒に囲む時間が取れた時は、よく仕事の話をしていますよ、娘は。会計が面倒だと愚痴も零してい
ますが、テレビや雑誌に出た時の話をするのが多い辺り、きっとタレントの仕事も楽しいのでしょう」
「そうですか。楽しんでやってくれているなら、何よりです」
 青年は、ホッと胸を撫で下ろしました。娘がアイドルの仕事をしていることで何か苦言を呈されたらどうし
ようかと、レストランに入った時からずっと胃を締め付けられる思いだったのです。
「ただいま」
 と、そこへ、話題に上がっていた人物がお手洗いから戻ってきました。
「なんか和気藹々としてるじゃない。何の話してたの?」
 お下げにした髪を揺らしながら少女が男に尋ねると、
「ちょっとした昔話をな」
 と、男が答えました。
「え、ちょっとお父さん、変な話してないでしょうね。『お風呂ぐらい一人で入れるもん!』って言って一人
でお風呂入ろうとしたら溺れかけた時のこととか……」
「……その話なら、たった今お前がしてしまったよ」
 墓穴を掘ってしまった少女に、父親の男は苦い顔になりました。
「あっ、し、しまった……プロデューサー、今言ったのは真っ赤なウソですからね、断じて、決してっ」
「くくくっ……律子らしいじゃないか……いてっ」
 ぱしんと軽快な音を立てて、ハリセンが青年の頭を叩きました。
「笑わないで下さいよ。誰にだってあることでしょう、それぐらい」
 膨れっ面になりながら、少女がドカッと青年の隣に腰を下ろしました。眼鏡の蔓をつまむその仕草は青年の
向かいに座る彼女の父親にそっくりで、青年は思わず頬が緩みました。
 あの日の話は、本人が言い出さない限りは、そっと胸にしまっておこう。
 青年はそう心の中で呟きながら、隣に座る少女に、柔らかい流し目の視線を送りました。


 終わり