千早振る


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暦の上では春だけれども、まだ寒い日々が続いている今の季節。
 そうは言っても心の中まで寒いというわけでもなく、いやむしろほのかに暖かい、かもしれない。いや、俺が面倒を見ている子たちの仕事が、ようやく軌道に乗り始めたのだから、贅沢を言っていては罰が当たる。
 …というより、色々と紆余曲折もあったことだし、これぐらいは…と思うのは自分に甘いかな。努力がそのまま認められるなんてことがいつもあるほど世の中甘くないだろうし。

 俺がそんなことを考えながらプロダクションの事務室で小鳥さんと一緒に仕事をしている今は、土曜日の昼下がり。今まさに売れ時でというよりも今こそ売れなくてどうするんだ、というような子たちをプロデュースしているのに事務所で内職かと落胆する必要はまったくない。
今日はまず朝のニュースで顔出しできたし、その後には午前中にあった雑誌取材もうまくいった。それだけで、今の身分ならもうおなか一杯だ、というところだろう。適度に息抜きは必要だ。
でも当の彼女らは仕事とオフの中間ぐらいの気持ちのようで、午後になった今は、片方の子は料理番組に出る時のために自習だと言って買い物に行ってしまい、もう片方の子は事務所のトレーニングルームでこれまたトレーニングの自習をしている。

 俺が自分の机の上のパソコンで調べ物をしたり、次の企画のための売り出し方法なんかを作っていると、トレーニングをしていた方の子が戻ってきて、タオルで水分をふき取りながら事務室の隅のソファーに腰掛けた。
 おそらくいつものように洒落っ気もなく汗を流してきたのだろう。
それから、一息つきながら水分補給をしてこうやって少し身体を休める。そしてしばらくしたらまた別のところで歌の自習でも始めるのだろう。
それが彼女の日課。

 でも今日の彼女は少し違った。

 おもむろに彼女はソファーから立ち上がると、しっとりとして乾き切っていない長い髪をなびかせながらロッカールームのほうへと歩いていく。ドアを開け、それが再び閉まる間もなくすぐに戻ってくると、その手には黒革の通学かばんが提げられていた。
 ナイロンのありふれた高校生が使うようなかばんではなく、黒くて少しだけ光っている革のかばん。そういう古めかしさを感じさせる小道具を見ると、彼女が本物の高校生であったことを今更ながらに思い出してしまう。
春香はともかく、彼女はどうも時々年齢がわからなくなってしまうようなことがあるのだが、こういう姿の彼女はどう見ても真っ当な"女子高校生"だ

でもなぜ今日、土曜日で仕事しかない日なのにそんなかばんを持って来ているんだろう。もしかして普通のかばんを買う余裕がないのか、いやそうでもないだろう、などと思っていたのだけれども、俺の疑問はすぐに解けた。
 彼女は自分のかばんから「国語2」という文字の見える本を取り出して、それを開く。
 俺はそんな彼女の姿に一瞬ぽかんと見とれてしまった。でもよく考えてみれば、ああ、千早も普通の勉強をするんだ、などと思ってしまうのは彼女に失礼なことかもしれない。でも、こんなところにまで持ち込んで、宿題でも出ているのだろうか。
 教科書のページをめくる彼女の手が止まる。開いたページを彼女の眼がゆっくりと追っていく。胸元で軽く握っている彼女の指が締められたり緩められたりしている。

 俺はたまらず、席から立って、ソファーに座っている彼女に近寄って言葉をかけた。

 「…千早。どうしたんだ?宿題か?」
 彼女が教科書から眼を離すと俺の方を向く。その表情は、悪戯が見つかってしまった子犬のようにも見えて、少し慌てているようにも見える。
 「あ、いえ、その…。宿題って言えば宿題なんですが…
 さっきの、雑誌の取材に関連して、ついでに調べ物を…」
 「さっきの雑誌?」
 「はい。」
 先ほどの取材で何があったか、と思い起こしてみる。確か和歌の話になって、あ、そうか、和歌だから国語の教科書か。
 「実は、最近、勉強が手に付いていなくて。」
「ああ、そうだったんだ、悪いな、仕事のスケジュール、少し見直すよ」
「いえ、それはいいんです。でも、お前も色々あるのはわかるけれど、余りに悪すぎると落第だぞ、と学校で担任に言われてしまったので…。
しょうがない、少しは勉強するかと思って、かばんを掴んで家を出てきたのですが…。
今まで、歌以外の勉強なんて、って思っていたので、ほとんど何も手を付けていなかったのです。でも担任にそう言われたからではなく、自分でも最近それも余り良くないのではないかな、とは思っていたんです。
 そうしたら。
先ほどの取材で…恥ずかしい受け答えをしてしまったのではないかと思いまして。
やっぱり余り物事を知らな過ぎるのは、歌にもよくない影響が出るのかもしれない、と思ってしまったんです。そういう意味では、とても有意義なお仕事でした。なので、早速その気持ちを忘れないうちに、と思いまして。」

「そうなんだ。刺激になったのならそれは良い事だな。」
 「はい。そうです。
 …あ、ここです、ここ。実は、本当にさっき話題になったあの短歌が、気になっていたのですが…。確か教科書に載っていたような気がして、それで丁度よいので調べていたんです。
 …ここ、ついこの間授業でやったはずだったんです。
でも、真面目に聞いていなくて…内心、酷く後悔していました。
無知はああいう時に露になって、言葉の端々に現れてしまうのでしょうね…反省することしきりです…」
 千早は唇の端を軽く噛みながら悔しそうに言う。
 「無知って、そこまで言わなくても。」
 「いえ。事実は事実ですから。それは正面から受け止めないと。
 でも本当にいい勉強になりました。短歌は古人の歌であることを認識させてくれましたし、古典、文学について詳しくなることは、歌を学びたいという目的にもきっと役に立つことだと思いますし。
昔の人はこういう気持ちを歌にして残しているんだ、と考えてみれば、これもよい勉強です。
 …でも、やっぱり…歌の意味の正しいところはわからない…か。
 授業で、解釈についてもやったはずなんですが…全然、覚えてなくて…もしちゃんと覚えていたら、変な受け答えをしないで済んだのに…」
 真面目だなぁ、千早は。本当に千早は自分が興味を持ったことについてはとても真面目な子だ。考えてみれば元々彼女は聡明で優秀な子で、それに加えて歌の才能と努力する心があっただけなのかもしれない。それが今の彼女を創り出して育てている。
逆に言ってみれば、今までの彼女は、歌にしか興味がなかったからこそこうなっているのかもしれなくて、やってみればもっと色々なことができるのかもしれない。
 だったら尚更、これだけに留まらず、もっと別のことにも興味を持ってもらいたいものだけれども。
 そんなことを俺が考えていると、千早が俺に問いを投げかけた。
 「あの…プロデューサー。一つお伺いしてもよろしいですか?」
 「ああ、何だい?」
 「はい。他でもありません。先ほど話題になった、"千早ぶる"の短歌ですが…
 プロデューサーは、解釈など、ご存じないですか?」
 そう来るか。
 「もしご存知でしたら、教えていただきたいのですが。
 いえ、自分で調べるのが本筋と思いますが、いかがでしょう」
 いや、はっきりいって知らないとかは全くなくて、むしろ色々知りすぎていて困るような状態だ。

そもそもお前、どんな答えを求めてるんだ、とか逆に聞いてみたいぐらいだし。
といってもどう考えても千早の性格だから真正面からの普通の答えを求めてるんだろうけど。
しかしだな、一言に芸術や古典と言ってもこの世界は奥が深い。もし仮に「芸術的、古典的な精神に則って適切に解説をお願いします」なんて言われたって答えは単純じゃない。
はっ、もしかしてそれを知っていてのあえての問いかけか?千早みたいなレベルの高めの子なら、ひねりにひねってそういうことがないわけじゃないかもしれない。ひそかに俺のほうが試されているのかも。
だとすると更に上を行く回答を与えてやらなきゃいけないんじゃなかろうか。

うむむ。

「どうしたんですか、余り悩まないで下さい。いえいいんです、お廉違いのことを伺ってるのはこちらですから。」
「いや別にお廉違いというわけでもなくてな。知らないわけじゃないんだよ」
「そうですか。いえ、簡単で構いませんので、さらっと」
さらっと語るほうが難しいって。俺の場合は!

そう。そうなんだ。千早振る、と聞いて答えが一つしか出ないような一般人ならまだいい。
知らない奴なら「ああ、千早のマネするってことだろ?」とか適当なこと言ってれば…
いやそれをやるときっと千早からあのまなざしで見つめられる羽目になるだろう。あのまなざし、俺は実は結構好きなんだけれども時々自省しないと取り返しの付かないことになりそうだから自粛しなければならない。
じゃあ普通に解説すればいいじゃないか、とも一瞬だけ思うけれどもそこは俺の血が邪魔をする。だからと言って単にアレをやってもオリジナリティがないような気がする。

すると残る手段は一つしかないじゃないか!
すなわちそれは演台の上で座布団を投げつけられる覚悟で「演る」ということである。
千早の前で演る。なんということだろう。
この、いつも観せる方にばかり回っていてそのことに純真無垢に取り組んでいる子をして、観る側に回らせると想像するだけで、ちょっとした緊張感だ。
以前律子の前で本物のほうを演った時とはまた違う感覚。あの時律子は「まあ、なかなかですね」と律子なりに褒めてくれたものだが。

どうする俺。

「うーん…」
「あ、いえ、ご存じなければ、それで。すみません、突然こんなことをお伺いして」
「いや。大丈夫。知ってるよ。それじゃあいい機会だから教えよう。
 というより、参考にしてくればというぐらいで構わないかな?」

 俺は、思い切って彼女に説明を始めた。

「まずは、この初句だな。初句の「千早振る」ってどういう意味だと思う?」
「…ええと…そうですね、では一つヒントを頂けますか。」
「ああ、構わないよ?なんだい?」
「ここでいっている、千早、というのは私のように、名前を示しているのでしょうか。」
「うーん…そうだな。それぐらいは教えていいか。そうだ、名前だよ。千早、という人がいたんだ。うん。美人の女性だったというよ。」
「だとすると、そうですね、その女の人が…振る…ということなのでしょうか…
それとも短歌の約束事があっての言葉でしょうか…。」
 鋭いな千早。いや、本当はちゃんと授業を聞いていて、俺を試しているのか?などと考えてしまう。
「うーん…。短歌ですし、振る…雨水が降られるのふる…の意味だったりするでしょうか?
 その千早さんが、雨に降られて雨宿りをして…という話…。そういえばそんな、雨宿りを題材にした短歌があると聞いたことがありますけれど…これでしょうか…
 いえ、それだと、二句目の『神代も聞かず』、とつながりが…悪いですよね。
 うーん…どうなんでしょう…」
「そうだな。いいところを突いていると思うよ。
じゃあまあ、もったいぶらずに教えてやろう。千早っていうのは、簡単に言うと昔にいた歌舞伎の役者だ。出雲阿国、とか言う名前は聞いたことがあるか?
彼女は歌舞伎の創始者といわれる人だけれども、千早、というのも歌舞伎というものが阿国によって始められるようになり、間もないころに活躍した歌舞伎役者なんだよ。」
と、そこまで言うと、向こうの方で小鳥さんが何やら小さく頷いている。
そう来るんだ、とかいうような声が聞こえた気がしないでもない。
そんな小鳥さんに構うこともなく、千早が続けて聞いてくる。
「そうなんですか。結構、その千早も、素晴らしい活躍をしたように聞こえますけれど…」
「ああ、もちろんそうだ。何と言っても、阿国が創始して、千早が発展させたとも言われているからな、歌舞伎は」
「へえ…それは凄い…私も、自分の歌で、そういうことができればいいのですが…」
それぐらいの意欲は持っていて欲しいと俺も思う。

「できるさ。大丈夫だって。
はっきり言ってな、うん、この事務所に似てるよ、当時の歌舞伎の状況は。
阿国っていうのはなぁ、言ってみればその、音無さんみたいな存在だったんだよ。」
俺がそんなことを言った瞬間に、ぶぶううううう、とかなり大きな音が机の向こうでする。
その音声の主であるショートカットの頭があわただしく動いている。どうやら飲んでいたお茶を書類の上に思い切りぶちまけたようで、慌てて机の脚に引っ掛けていた台布巾を手にとってふき取っているようだ。土曜日出勤だというのにお疲れ様、小鳥さん。
俺はそんな小鳥さんの慌しい気配を感じながらも、千早に向かって話を続ける。
「音無さんみたいな…?」
「ああ。音無さんが昔アイドルだったのは知っているよな。あれは、この事務所ができて間もないころのことなんだそうだよ。うちも小鳥さんが頑張って基礎が出来た。その辺が阿国の作り上げた歌舞伎と一緒だな。
で、小鳥さん、っていうか阿国が引退した後、しばらくして後継者の、その、千早だな、がデビューしたわけだよ。
 で、その千早には師匠の阿国だけでなく別にサポートする人がいた。」
「プロデューサー…ということなんでしょうか。そういう時代に、その言葉が適当かどうかは判断しかねますけれど」
「ああ。プロデューサーのようなものだと思っていいよ。
まあ、当時の人の役割を今の言葉で定義できるようなものでもないんだけれどな。とにかくそういう役どころの人がいた、と。
 でも、結果として千早は自分自身の努力と、少しだけのプロデューサーのサポートで活躍して、大成功を収めた。
そう言ってしまえば簡単なんだけれども、実のところプロデューサーと千早の関係は、はじめはあまりうまくいっていなかったんだ…っていうと、なんか身につまされるような話だな、はは」
「え、その、いえそんな…」
「いいんだよ。気にするな。
 うーん…でもそうだなぁ。考えてみればなんと親近感の沸く話に…うーん…
 日頃の気持ちが自然とにじみ出て…いや何でも…」
「考え込まないで下さい、プロデューサー。気になりますから。
 それで、どうなるんです?いえ、聞いてばかりで申し訳ありませんけれど。」
「いやいや、いいよ。
 まあそのな。千早は、お前みたいにとても才能があって、しかも努力する子だったんだけれども、プライドも高くてな。
下世話なことはできないと言って、必要だからやれ、といわれたことでも納得しなければ首を縦に振らなかったんだよ。」

「え、その…すみません、でも…」
「いいんだ。気にするなって。千早はそれがいいところなんだから…って今のはお前に対して言っているんだからな…ってややこしいなあ。
 で、だ。ある時、その、千早にな、プロデューサー役の奴が、この着物を着てこれから舞うんだ、って言ったんだよ」
「え…その、歌舞伎の着物ですよね?」
「正確なデザインなんてもう伝わってないからわからないけれど、まあそうだ。
でも、千早はそれが気に入らない。
"私はそんな着物なんて着たくありません"
"こんなのを着るんですか?嫌です"と言った感じで。だからそれが「千早振る」。
千早は首を振って拒否したからとも、首を振ってうんと言わなかったからとも言われているけれども、とにかくその着物を着て演じることを拒んだんだよ」
ほおお。今度はそんな声が上がる。
もう、聞くのはいいから静かにして下さいよ。
変な声で合いの手いれないで下さい小鳥さん。
「そうなんですか…。でも、私は、気持ち、わからないでもないです…いえすみません」
千早は本心からすまなそうに言う。ちょっと俺の心が痛む。
だけれどもまあ、止めるわけにもいかない。
「いいんだよ。謝らなくて。
 で、神代だ。神代って何だと思う?」
「ええと…ああ、わかりました。歌舞伎の演目ではありませんか?違いますか?
 ああ、そうではなくて、これも短歌のお約束ごとか何かでは…?」
「うーん、またまたいいところ突くね。でもそうだなあ…違うんだ…」
「そ、そうですか…残念です…。やっぱり、勉強不足ですね、私は…」
「いや。そうじゃない。むしろ千早もよく考えて…鋭いな…流石だな…いやそうじゃなくて…。」
いつの間にか、仕事の手を完全に止めてしまって、席の向こうから俺たちの会話に聞き耳を立てていた小鳥さんが、俺の顔を見ながら感心したような表情でうんうんと頷く。
俺は、小鳥さんが何かを言うんじゃないかと冷や冷やしながら続けた。
「ええとそのな。神代っていうのは千早の相棒。今で言うならユニットの相手方だよ。
 わかりやすく考えてみれば要するに、今の千早にとっての春香だ。」
「春香?春香なら、どっちかというと素直にプロデューサーの言うことを聞いたんでしょうか…」
「いやそれがな。春香も嫌がるんだよ。っていうか春香じゃなくて神代だけど。
"千早が嫌なら私も嫌です"とか言って。これまたうんと言わない。
 だからそれが「神代も聞かず」。

「そうなんですか…もしかして、その着物って、この間春香も嫌がったようなものじゃありませんか?春香も嫌がるような衣装…。私が嫌だって言うのは当たり前では…。
あんな変な、キワモノもの衣装を私たちに着せて興味本位のファンを獲得しようとか言う、プロデュース戦略とかいう言葉のごまかしの…いえなんでもありません…」
「うっ、それはちょっとな、待て、単に解釈の問題で…」
「い、いえ、今のは神代さんと千早さんの気持ちを代弁しただけで…」
代弁といってしまうには気持ちがこもっていたぞ、千早。

「それで。千早さんも神代さんも嫌がった衣装、その後どうなったんですか?」
「おお、そうだな。流石に二人に嫌がられて、そのプロデューサーも考え直したんだよ。
でもいい案が浮かばない。どうしたもんだかと悩みに悩んで、仕事もうまくいかなくなって、挙句の果てに放浪の旅に出てしまった。」
 「そんなに悩んでしまったんですか…一見、変なことを考えているように見えても、本当は真剣で真面目な方だったんですね…」
 「だ、だから俺じゃないぞそれは。
悩んだのはその、千早と神代のプロデューサーだからな。
そして悩みに悩んだ末に行き着いたのが龍田川だ。」
「龍田川…これは川の名前でいいんですね。とても遠くまで放浪したことになるんでしょうか」
「ああ、奈良県の川で、紅葉で有名なよい場所だそうだよ。都から奈良まで、今なら余り遠くもないような気もするけれど、昔だからな。
野を越え山を越え、時には一人寂しく野宿をし、プロデュース戦略に悩みながらの放浪だから大変だった…うう、なんか自分で言っていてちょっと身に染み…いやなんでもない…」
「ぷ、プロデューサー、すみません、いつもいつもご迷惑ばかりかけて…。
なるべく、私もわがまま言いませんから!
でも、ちょっと時々センスが…その…ついていくのが…
この間の、幼稚園児の格好とか…あれは流石に…いえなんでもありません…」
「うっ。まあそれはいいとして。
その龍田川まで来た彼は、はっとそこで見た景色にとても強い衝撃を受けた。とても綺麗な景色だったんだ。
 色とりどりの秋の紅葉が水面に映えて…それはもう絶景でな。
眼を閉じて想像してみてくれ。秋の深まる中、清流のほとりにそびえ立つ山々の紅葉。
どうだい?思い浮かぶだろう?」
「は、はい…わかるような気がします。秋の澄み切った綺麗な空気の中に、鮮やかな色とりどりの樹木の紅葉が…」
「そうだよ。そして感動したプロデューサーは、川の方へと降りていった。するとそこでは、何やら川で作業をしている人たちがいたんだ。」
「何のでしょう?」
「染物だよ。染物。布を染めていたんだ。
千早、布を染めるためにはな、綺麗な水がたくさん必要だ。だから昔は川の側に衣料を扱う人々が集まっていたんだ。
いい布は、とても綺麗な水のたくさんあるところじゃないとできないんだよ。
で、プロデューサーはそこで作業をしている人に聞いたんだ、こんな素晴らしい布地は見たことない、どういう品物なんだ、とね」
「はい。私も聞きたくなります。素晴らしい布地なのでしょうから」
「ああ。そうだよな。
そうしたらこう教えてくれた。これは、"唐紅"と言って、渡来人の技術で染め上げる手法でしか表現できない鮮やかな赤で、ここでしかできないものなんだ、とね。
それを聞いたプロデューサーは思った。そうだ、これだ、この布地で衣装を作って、千早に着せてやろう、そして千早の舞を完成させてやろう、とね。
きっとこれなら喜んで着てくれるだろう。そう思ったんだよ。
すぐに彼は周りの人に頼み込んだ。一緒に作業させて欲しい、とね。でも周りの人は言う、これは我々でも大変だ、楽な作業じゃない、お前さんみたいな都の人間には無理だ、と。
お金さえ出せばわけてあげるからそれで良いだろう、とも言われたんだけれども、プロデューサーはその時金を持っていなかったんだ。何しろ放浪の末にたどり着いたところだからな。
それに、どうしても彼は、自分で作ったものを千早に着せたかったんだ。」
「なんていう、篤いお心の持ち主なんでしょう…。」
「…ああ、そうだな。熱心だったんだろう。その人も。
 ま、そういうのが第四句の"からくれない"の意味するところだ。
まあそういうこともあって、彼はとにかく拝み倒して布染めの作業に加わらせて貰ったんだ。確かに言われたとおり、作業はきつかった。川の流れる水は冷たい。その中にずっと身体を置いて、作業しなければならないからな。」
「なんて情熱的な…すみません、そういうお心遣いがあるのに、私は…」
ふと気がつくと、知らないうちに千早の声が少し震えている。俺はそんな千早の姿にちょっとどぎまぎしてしまう。
「い、いやそれは架空の、いやそうじゃなくてプロデューサーって言っても俺じゃないから、まあ…」
「あ、はい、でも、その…わかってはいるんですが…私…」
「…まあ、それはそれとして…。
ところでだな、その作業は日夜続けられたんだ。周りの職人さんたちもびっくりなぐらい、彼は頑張った。ひとえにいいものを作りたい、という思いが彼を動かしていたんだろう。でも長旅の末にそんな慣れない重労働だ。そんなことをしていたら、彼はどうなると思う?」
「え…」
千早の表情がさっと暗くなる。むう、そんなに反応されても困る…けれど俺もここで引くわけにはいかない。引きようがない。
「布染めの作業で、疲労が溜まっていた彼は…
自分の手で染め上げた布を見て、ああ、これで千早にも、と思って気が緩んだんだろうな。その完成した晩に、眠るように息を引き取ったんだよ。」
「………。」
「で、その布は千早の元に届けられた。千早はそれを見てとても悲しんだ。
失ってみて初めてわかった、プロデューサーが自分のことをどれだけ大事に思ってくれたのか、をね。
そして嘆いた。この、唐紅の布を作るために、"水くくるとは"とね。
千早の脳裏に、日夜、冷たい水の中で布をくぐらせていた彼の姿が思い浮かんで…
彼女の涙が布地に落ちて、それがまた鮮やかな模様を作り上げたとも言われている。
そして千早は、その布で作った衣装を纏って、歌舞伎の世界に名を残したんだ」
「…なんていう…そんな…。
私、私…。大事な人を失ってまで、名を残そうだなんて…そんな…」
「ああ、だから余り考えすぎないようにな?千早。お話だから。そう、お話…」
「でも!いえ…。いいんです…
わかりました…いえ、本当にわかったんです…プロデューサー…」
 千早の眼には今まで見たこともないような大粒の涙が溢れかえらんばかりに湛えられている。いや、凄いな俺の演芸も。だなんて言っていていいのか、怪しい気がしてならないぐらいだけれど。

 「プロデューサー…本当に今日は、とても素晴らしいことを教えていただき、ありがとうございました。
 これからは、この短歌のことを肝に銘じて、頑張ります!
 本当に、古典の世界は奥が深いですね…」
 いや、古典って言っても創作古典っていうか。それにどっちかっていうと古典落語だけど新作だし…なんだっけ、小鳥の千早か、千早の小鳥か…って言われた人もいてだな…そうじゃなくて…。
 とか、そんな現実逃避をしていると。
千早が思いつめたような顔をして、教科書をかばんに詰めはじめる。
 「ん、どうしたんだい、千早?」
 「はい、今日はもうこれで失礼します!
 来週、試験ですから、今日と明日、ご教示頂いたことを忘れないように復習して、しっかり心に刻んで、試験に生かします。これ、試験範囲なんです。」
 「試験?!」
 試験だって?そりゃまずいって。
 俺が思わず小鳥さんの方を見ると、小鳥さんはその瞬間に明後日の方向を向いてしまう。
 「参考にというつもりで演ったんだけど…」
 「はい、大変参考になりました。これで試験も万全です。プロデューサーって、勉強の教え方も上手なんですね。試験勉強をしなくてはならなかったのですが、本当に貴重な時間をありがとうございました。
…いえ、試験だけじゃありません…これまでの私の至らなさを省みて、今後の私の行動に役立てていこうと思います…
それでは、失礼します。また、お仕事頑張ります。
何でも…頑張りますから!
プロデューサーが、考えがあって選んでくれたなら、着ぐるみだって、サンバ衣装だって…くっ…でも頑張ります!
それでは失礼します、プロデューサー!」

千早は力強い足取りで事務所から出て行った。

「はぁぁぁぁあああああああ!」
やばい。これはやばいって。試験ならそう言ってくれよ千早。
とか何とかいったってもう遅い。
「はぁぁぁぁあああああああじゃないでしょう…
しーりませんよ、しーりませんよったら…さあどうなることやらですね…。」
「こ、小鳥さん!」
小鳥さんがにやにやとへらへらの混ざり合ったような笑顔で笑いながら俺の方を見ている。
「プロデューサー、落研だったんですか?
だとしたら経験が思いっきり邪魔しましたね」
「うー…。」
「まあ、結構いい出来だったんじゃないですか…オーソドックスに"千早振る"を演るのかと思いましたけど、オリジナル版ですかー。さすがですねぇ、プロデューサー。
 この間律子さんが言ってたのはこれだったんですねー。いえいえさすがさすが。」
「い、いやあれはオリジナルの方で!」
「まあまあ、いいじゃないですか、新作なんでしょう?ふふふふふっ、龍田川で染物で千早に着せるだって、ふふふっ。仕事の方にも行かそうだなんて。お上手ですね。」
小鳥さんは薄笑いを浮かべたまま、口元に手を当てて思い出し笑いを繰り返している。
「こ、小鳥さん、途中で突っ込みいれてくださいよ!
 龍田川って相撲取りじゃないんですか?とか!」
俺もかなり慌てていて、話してる最中に思ってたことと全然違うことを口走っているような気がしないでもない。
「あら、そんな無粋なことしませんよ。
それに何ですか。私。出雲阿国でしたっけ?ふーん、そうなんだ…」
「いいじゃないですか、アマノウズメじゃないんですから!」
「私は神話の世界から生きてたりしません!」
「ずっと生きてるなんて言ってませんって!たとえですたとえ!」
「へーへー、何でもいいですよー。そんなに言うなら今度天岩戸のコスプレで宴会芸やってさしあげますよーだ。
とにかく私は…おっと仕事が…土曜日なんだから速く帰りたいですしねぇ」
「…」
いかん…なぜか小鳥さんまで拗ねている…。
「大丈夫ですよ。千早ちゃんが赤点取って、そのせいで仕事のキャンセルが出てもいいように、スケジュール見直しておいてあげますから。
 ああ、それだけじゃ足りません?千早ちゃんを宥めて、機嫌を伺って、っていう時間も確保しておかないと…あーこりゃ大変ですねっ、ご愁傷様!」
とかいう会話をしていると。
事務所のドアが勢い良く開いて、一人の女の子が入ってくる。
「あら、神代ちゃんお帰りなさい」
「へ?かみよ?誰です、それ?」
「いや、春香、それはだな…」
「んー。次のお仕事の役名か何かですか?
 そう言えば、さっき建物の出口のところで、千早ちゃんとすれ違ったんですけど…
 なんか千早ちゃん、物凄く燃えてましたよ!
 プロデューサー、あのクールな千早ちゃんをあそこまで激励できるなんて、何か凄いこと言って励ましてあげたんですか?」
「うはぁ…」
「よーし、私も千早ちゃんに負けないぞ~。
 これ、お土産のケーキです。私はトレーニング終わってから食べますね!
 先にお二人で召し上がっていてください!では!」

 ただただ呆然と春香を見送る俺。
 は、春香まで…。

「さ、お仕事、お仕事…ケーキは春香ちゃんが戻ってからにしましょうね。
 プロデューサーさん、それまでには立ち直ってくださいね?ふふっ」


~終~