ばんそこ


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 今日のイベントは大成功と言っていいだろう。駆け出しアイドル・天海春香としては
充分すぎるほどの客入りだったし、参加した子供たちは正真正銘大喜びだったからだ。
 とある遊園地での握手会である。デビュー曲『Go My Way!!』と事務所の先輩のカバー曲
を猛練習した成果もあり、春香も歌やパフォーマンスに磨きがかかってきた。この調子
なら来月にエントリーを考えているオーディションでも充分戦えそうだ。
「春香、お疲れ様」
「おつかれさまでしたっ、プロデューサーさん!」
 着替えた彼女がこちらに駆けてくる。
「大丈夫か?思った以上にギャラリーが集まったからな。手とか、痛くないか?」
「はい、大丈夫ですっ」
 にこにこと笑いながら、右手を顔の前で振ってみせる。
「いっぱいお客さん来てくれたんだから、文句なんか言ったらバチが当たりますよ。50人
くらいでしたか?」
「そうだな」
「今日みたいなコンディションなら、500人はいけますよ!・・・あ、でもサインはちょっと
大変かも」
 自信たっぷりの顔でそう言ってから、ちょっと考えて付け加える。
 今日のイベントは子供たちをターゲットとしたものだったので、春香は色とりどりの
風船にサインを書き、握手の時に渡したのだ。膨らんだ風船を押さえつけながら書くサイン
は結構大変だったと見える。しかもあらかじめ午前中から準備していたのは20個で、予想外
の客を見て本番前に急遽30個書き足してもらったのだ。
「ごめんごめん、あれは集客を予想できなかった俺が悪かった。次は普通のサイン色紙に
しようかな」
「あ、そんなわけじゃ。風船にサインって、かわいいですし」
「じゃあせめて、膨らます前にゆっくり書けるように手配しておこうか。それならもっと
前から準備できるから」
 反省会、という程ではないが、思いついたことを話しながら歩く。撤収は別働隊がいる
ので、俺たちはあとは事務所に戻るだけだった。
 と、その時。
「わあああん!あああーん」
 火のついたような子供の泣き声。俺も春香もびっくりして足を止めた。
「わああん、ぼ・・・僕の、僕の・・・っ」
「ああもう、しかたないわねえ」
 声の方を見ると小学校低学年くらいか、男の子が上を見上げて大声で泣いている。そばで
なだめようとしているのは母親だろうか、彼女もちらちらと上を見ては子供に視線を戻し、
と繰り返している。
「なんだ?転んだのかな」
「あ、プロデューサーさんあそこ!風船!」
 俺が子供に目を向ける間に、春香は彼の視線を追ったらしい。言われて指差す先を見ると、
青い風船が天高く舞い上がってゆくところだった。
「あー、手を離しちゃったのか・・・って、春香?」
「ね、キミ、大丈夫だった?」
「おっおい」
 視線を隣に向けた時には、そこにいたはずの彼女はもう男の子に向かって駆け寄っていた。
「ぐす、ぐすっ・・・ふぁ、歌のお姉ちゃん」
「え?きゃ、さっきの」
「あ、ども、天海春香ですっ。私の歌聞いてくれて、あの、ありがとうございました」
 親子は驚いている。そりゃそうか、マイナーとは言えさっきまで歌を歌っていたアイドル
が目の前に登場したら涙も止まるというものだ。俺も急いで近づいた。
「あ、驚かせてしまってすみません、春香の事務所のものです。先ほどは足を止めてくだ
さってありがとうございました」
「ああ、芸能事務所の方ですか。すみません、お騒がせして」
「坊や、春香の歌聞いてくれたのか。どうもありがとうな」
 男の子の前で膝をつき、笑いかけてやる。彼もとりあえず泣くのはやめにしてくれた
ようだ。間近で見ると片膝をすりむいている。転んだ拍子に風船の紐を離してしまった
のだろう。

「う、うん、テレビで、聞いたことあったから」
「ええっ、番組観てくれたの?わーい、嬉しいなっ」
「あの・・・お姉ちゃん」
「ん、なあに?」
「風船・・・もう、ないの?」
 彼は不安げに訊ねた。春香が困ったという顔をしてこちらを見るが、在庫が残っていない
のは彼女も俺も承知のことだ。
「あー、ご、ごめんね、風船はもう、全部お友達にあげちゃってー」
「え・・・?もう、ないんだ・・・ふぇ」
「わわ、ちょ、ちょっとまって泣かないでっ!えとえとプロデューサーさんどうしましょうっ」
「ど、どうしようったって・・・そうだ坊や、風船はないけどそうだな、なにか別なものに
サインをしてあげようか」
「ふ・・・風船がいいよぉ」
「えええー?」
 母親は申し訳なさそうにしているが、要するに彼はあの風船がたいそう気に入っていた
ようだ。
「あーそうかー、ありがとなー、でもごめんな、もう風船は――」
「あーっ!」
「――うわ!?ど、どうした春香?」
 男の子にどうやってあきらめさせようかと話し始めた俺を遮って、春香が大声を出した。
面食らって聞き返すと、彼女は撤収の始まっている舞台のほうへ駆け出した。
「プロデューサーさん、救急箱ってありましたっけ?」
「へ?あ、えーと、多分まだ控え室に置いて・・・って、どうしたんだよ一体」
「ちょっと私、行ってきますっ!」
「・・・なんだあ?」
 わけが判らないがしかし、この状況で泣く子と親をほっぽって俺まで春香を追うわけには
行かない。膝を怪我した男の子のために絆創膏でも取りに行ったのだろうと思い、俺は彼の
説得を再開した。
 時間にして数分だったろうか、あの手この手でなだめすかしていた男の子がふと表情を
変えた。彼の見つめる先には走って戻ってくる春香と・・・ふわふわ揺れる空色の風船。
「お姉ちゃんだ!」
「春香?その風船、どう――」
「ごめんね、お待た――っと、わ、きゃあっ!?」
「おわあっ、春香!」
 男の子に笑いかけ、そこで気が緩んだのか何もない道で盛大につまづく。俺のフォローは
どうにか間に合い、春香の体を支えると同時に彼女の持ってきた風船を捕まえた。
「あ、す、すみませんプロデューサーさぁん」
「油断も隙もないなお前は、もう。どうしたんだ?この風船」
「あ、あのですね」
 春香は持ってきた空色の風船をくるりと回す。サインはこれからのようで、なにも印刷
されていない無地の風船に・・・絆創膏が貼ってあった。
「なんだこれ」
「あの、準備してる時にスタッフさんから貰ったんです。穴が開いててふくらまないって」
 彼女が控え室で追加のサインをしている時だ。横で風船にヘリウムを詰めていたスタッフ
が成型不良の風船を見つけたのを見て、紛らわしいからと春香が預かっていたのだそうだ。
サインを失敗したり割ってしまった風船と一緒にあとで捨てるつもりで、ポケットに入れた
のを忘れていたのだという。
「で、この子の怪我見て思ったんです。ばんそこ、貼ったら大丈夫じゃないかなって」
「それで救急箱か」
 俺の予想は半分だけ当たっていたというわけだ。春香の頼みにスタッフは快くヘリウムの
ボンベを出してくれ、穴については補強のテープでしっかり塞いでもらって、絆創膏はその
上から貼ったのだそうだ。
「えと、これでよし。はい、どうぞ」
「あ、ありがとう、お姉ちゃん!」
 俺からマジックを借り、サインを書いて、男の子に渡す。彼のために持ってきた絆創膏
は、その間に母親が手当てしてくれた。

「もう飛ばさないでよね?今度のはキミとおそろいで、ばんそこ付きなんだから」
「うんっ!」
 そして泣き止んだ男の子はしっかりと風船の紐を握り締め、もう片手で手をつないだ母親は
こちらを何度も振り返り、礼をしながら去って行く。
 俺は春香と並んで手を振りながら、彼女に言った。
「春香、お前、やるなあ」
「えー?そうですか?」
「そうだよ。あんな奥の手持ってるなんて。たとえ俺があの子を説得しても、あの子は
今日のことを悲しい思い出にしてしまったろう。春香が風船を持ってきてくれたから、
彼にとって今日は一生忘れられない日になったんだって思うぞ」
「私も子供のころ、遊園地で貰った風船飛ばしちゃってすっごい泣いた思い出があるん
ですよ。そんなのやだなって思って一生懸命考えたら、ポケットの風船のこと思い出し
ました。えへへ」
「なるほどね。よしよし、えらいえらい」
 春香の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
「やー?ぷ、プロデューサーさんチカラ強いですよ、痛いですってば、もー」
「ありゃ、すまんな」
「プロデューサーさんてばデリカシーないんですから」
「ごめんってば。・・・よし、それじゃあこうしよう。今日は春香がえらかったから、なんか
食って帰るか」
「え?いいんですか?」
「これならデリカシーいらないしな。どうだ?」
「やったあ!じゃあ私、観覧車でクレープ食べたいですっ!」
「よしきた・・・って・・・か、観覧車?」
「だってー、せっかく遊園地だしー、まだ閉園まで時間あるしー」
 上目遣いで俺を見る。確かに今日は仕事で来たので、当然だが乗り物などひとつも乗って
いない。
「うーん・・・」
「・・・ダメ、ですか?」
「うん、いいだろう。なにしろ今日は春香、えらかったからな」
「わーい!」
 少しじらしてみたが、まあ妥当な『ご褒美』だろう。期待以上の仕事をしてくれたのだ、
ねぎらってやるのは当然だ。
「でも事務所には終わったって連絡しちまったから、大急ぎだぞ。ダッシュでクレープ
買ってダッシュで観覧車乗るからな」
「はいっ!ダッシュですねっ」
「観覧車も超特急で回してもらうか、ジェットコースターくらいのスピードで」
「うええ?それはロマンチックじゃないですよお」
「いいから急ごう。ほら、こっち」
「あっはい」
 担当タレントとは言え女の子と二人で観覧車というシチュエーションに少し照れてしまい、
ぶっきらぼうに言い放って走り出した。
 進行方向手前にクレープの屋台と、その向こうに大きな観覧車が見える。
 観覧車の向こうには、幾分暗くなった青空に一筋の白い雲が、まるで・・・。

 まるで風船に貼った絆創膏のように、ぺったりと貼りついていた。



おしまい。