cicada


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夕立でも来るのだろうか、僅かに鼻に残る雨の匂いに私は空を見上げていた。
「すいません。わざわざ連れて来てしまって」
「いいのよぉ、私が行きたいとワガママを言ったんだから」
墓前から腰を上げた千早ちゃんは桶を手に取ると、「では戻りましょう」と促す。
私もそうね、と踵を返すけれど、千早ちゃんから手を掴まれ足を止めた。
「そっちは違いますよ、あずささん」
少し脱力した笑みを見せる彼女に、少しだけ安堵したのは私だけの秘密。
今はもう、いつ切れてもおかしくない、張り詰めた糸のような危なっかしさを感じなくなっていた。
千早ちゃんに引っ張られるままに歩き出すと、足で何かを蹴る感触がして視線を落とす。
羽化に失敗した蝉。
ほどなくして夕立がやってきた。

「ありがとうございます。私的なことで車まで出してもらって」
事務所に戻る途中、助手席に姿勢正しく収まっている千早ちゃんがもう一度、頭を下げる。
私はもう何度繰り返したか分からないやり取りに苦笑いを浮かべた。
「どうしました?」
訝しむ彼女に、ううん、と首を横に振る。勿論、運転に支障が出ない範囲で。
「お礼ならこっちが言いたいくらいだわぁ」
いまいち分かっていない千早ちゃんの視線。運転の練習なんて言うのも良かったけれど、正直に返すことにした。
「千早ちゃんの弟さんに会わせてくれて」
そこまで言って、地雷を踏んでしまったかしらとヒヤリとする。
けれど、隣から漂う空気は緩やかで、スピーカーから曲が僅かに漏れるだけの車内は心地良かった。
「何て言ったら良いんでしょうか。その、ほんの少しだけ今の状況を受け止める余裕みたいなものが出来たんだと思います」
「余裕、ね」
「はい。以前の私はただただ自分の不遇を拒絶するだけで、それこそ……んー、どう言ったら良いんでしょうか。ひたすら歌っていうものに逃げ道だけを見出して、それに固執して」
さきほどまであんなに激しかった夕立も、今はもう小雨になっていた。
その湿っぽさが少しだけ作用したのか、千早ちゃんの芯の通った強さの裏側の、本当に脆い部分が見え隠れしている感覚。
「今もまだ私の頼りは歌です。でもその何割か、僅かですが少し他のものが混ざり始めました。それを人によっては不純物だと言うことも出来ると思います。実際、以前の私ならきっぱりとそう言います。
でも、その不純物が今は心地良くも思うんです。それで私の歌の何かが失われたとしても。私はそれを前進だと解釈します」
彼女の、透き通るような声は本当に聞いてて気持ちが良い。同時に、その歌声を手に入れるのにどれほどの努力を、犠牲を払ったかも考えさせられる。
だからこそ、それを形作った彼女の生い立ち、環境の理不尽さも安易に否定し難いものにしていた。
それに、と千早ちゃんは続ける。
「今もまだ私の中には以前の私が巣食っています。私に訴えるんです。アナタにそんな幸せは似合わないと。歌に全てを傾けることを裏切ったのか、と」
視界の端に映る千早ちゃんの切れ端。
確かにそこには前の彼女が残っているのかもしれない。自分だろうが他人だろうが傷つけることで、切り捨てることで鋭くなった彼女の歌。
ちょうど、赤信号にぶつかり千早ちゃんの方に顔を向ける。
俯き、乗り際に買った、まだ封を開けていないペットボトルを両手に持ったままの彼女。
結局、信号が青になるまで何も言えなくて、車内に響く曲に隠した沈黙が正解だったと、言い訳しているような自分がとても恥ずかしかった。

 忘れないでほしいから
 うるさく鳴いてみせるよ

車を事務所前に止め、千早ちゃんだけを先に降ろす。
窓ガラス越しにまた頭を下げる彼女に、やはり私は微笑むことしか出来なかった。
再度、車を発進させ近くの専用駐車場に停める間、千早ちゃんの最後の言葉が今も頭の中を廻っていた。

とにかく今はまだ、歌にしか自分を見出せませんから

車から出ると、コンクリートの地面から立ち上る雨の匂いが鼻を刺激する。耳には蝉の騒々しい声が響く。
何度繰り返しても、夏には慣れそうにない。