──「あ、あの……何ですかこれ」
──「何ってネコ耳だけど」
──「いや、それはわかるんですけど……えと、これをどうすれば」
──「何ってネコ耳だけど」
──「いや、それはわかるんですけど……えと、これをどうすれば」
(「けいおん!」#09「新入部員!」より)
◇ ◆ ◇
可愛いマフラーを巻き終えた真鍋さんが、私に向かって別れの挨拶を告げた。
「それでは会長、お先に失礼します」
「はい、お疲れさまでした」
「はい、お疲れさまでした」
秋の日はつるべ落としなどと言われるが、つい先ほどまで明るかったはずの窓の外は、いつの間にかすっかり闇に包まれていた。どうやら少しばかり仕事に没頭しすぎたらしい。
「もうすっかり遅くなってしまったから、真鍋さんも気をつけて帰って」
「わかりました。会長も、あまり無理しないでくださいね」
「ありがとう。そうする」
「わかりました。会長も、あまり無理しないでくださいね」
「ありがとう。そうする」
ぱたん、と生徒会室の扉が閉まる。
あの子──真鍋さん──は、本当によくやってくれている。私のような不出来な人間が、まがりなりにもこの一年近くも生徒会長職をまっとうしてこれたのは、彼女の有形無形のサポートがあればこそだ。たとえばこの間だって──。
だが私の思考は、どこからか響いてきた小さく不愉快な騒音で中断されてしまう。音の発生源に目を向けると、マナーモードに設定していた携帯がぶるぶると震えていた。またもやご注進のメールらしい。今日一日だけでいったい何通届いたのだろう。ため息のひとつも出ようというものだ。
だからといって会長という立場上、下からの報告を頭ごなしに無視するわけにはいかない。古今東西、他者の意見に耳を傾けなくなった組織がどのような末路をたどるか。少し歴史を勉強したものであれば誰でも知っている。
もっとも今朝から何十通と届いているメールのほとんどは、多少の違いはあるものの、ほぼ同じ内容と言っていい。つまるところこういうことだ。
──私たちの澪たんと、その後輩の一年生が……いたしちゃったらしい。
なんでも澪たんが、風邪で寝込んでしまった一年生の所にお見舞いに行って、そのままなりゆきで、ということらしい。しかもその翌日から、澪たんが風邪で休んだのが何よりの証拠、なのだそうだ。
まったくもう。バカバカしいにもほどがあるわね。
ところで生徒会室の一角にある書類棚には、会長だけが開けることを許されている特別の引き出しがある。久しぶりにそこを開けると、どういうわけか黒いネコ耳が視界に飛び込んできた。
なんでこんなものがと一瞬だけ考えたが、すぐに数日前の記憶がよみがえった。確かこれは先日の学園祭で、あまり付き合いのないクラスメイトに無理やり押しつけられたもの。まさか家に持って帰るわけにもいかず、かといって捨てる勇気もなく。結果この引き出しに押し込んだまま、完璧にその存在を忘れ去っていたのだった。
もちろんこの私にネコ耳を装着する趣味などありはしない。とりあえず今は用も興味もないので脇におく。さらに薄いピンク色のクリアファイルもよけておく。そして最後にあらわれた、ずしりとした手ごたえのある、黒くて分厚いブラインドファイルを手に取った。
そのファイルの最初のページに、話題の一年生のプロファイルが載っていることを私は知っている。しかも『第一級危険人物』という真っ赤なスタンプ付きで。つまりこれは、秋山澪ファンクラブの有志たちが作成した、澪たんに害をなす可能性のある人物の一覧表。いわゆるブラックリストなのだった。
──中野梓。
──性別 ♀。
──桜ケ丘女子高校1年2組。
──11月11日生まれ(さそり座)。
──身長150センチ。
──体重46キロ。
──血液型 AB。
──軽音楽部でリズムギターを担当。
──性別 ♀。
──桜ケ丘女子高校1年2組。
──11月11日生まれ(さそり座)。
──身長150センチ。
──体重46キロ。
──血液型 AB。
──軽音楽部でリズムギターを担当。
プロファイルの脇には、ごていねいに顔写真まで添えられている。撮影された角度や画像の粗さから考えると、はたして本人の承諾を得て撮影されたものなのか、かなりの疑問を感じてしまうのだが。
「それにしても」
ふと独り言をつぶやいてしまう。私ひとりしかいない生徒会室は、意外なほど声が響いた。
それにしても、かなりの逸材であることは認めざるをえない。残念ながら。
大きな瞳。つくりの小さな顔。ネコ科を思わせる強気なオーラ。日本人形を連想させる長い黒髪。さらにプロファイルによれば、強気でかつ真面目な性格で、親がジャズバンドをしてることもあり、ギターテクニックもかなりのものらしい。専門的なことはよくわからないが、ライブの録画を見た限りでは私もまったくの同感だった。
それにしてもアレよね。もしかすると澪たんって、こういう線の細い子が好みなのかしら。スタイルなら断然私の方がいいのに。まさか噂のロリコ……いやいや、澪たんがそんな倒錯的な性癖の持ち主なんてことはありえない。きっと彼女から見ると、さしずめ中野さんは妹的なポジションなのだろう。そうに違いない。
半ば無理やりに自分を納得させながらページをめくると、今度は中野さんがネコ耳を装着した写真が目に飛び込んできた。正直言って、悔しいくらいに可愛い。確かにこんな子が身近にいたら、頭のひとつも撫でてやりたくなる気持ちも、まあわからないではない。
でももし……もしこれが私だったら、どうだろう。
──たとえばネコ耳付けて、澪たんの前で「にゃあ」……とか?
我に返って首を何度も左右に強く振る。たとえ一瞬とはいえ、なんてバカなことを。それだけは無理。絶対に無理。どう考えても私のキャラじゃない。だいたいネコ耳なんていったいどこで……。
──あるわね。なんか手元にひとつだけ。
しばらくの間、好奇心と常識が激しい火花を散らす。そして最終的には好奇心の方がほんのわずかの差で勝利を収めた。
いや……その、ちょっとだけ。どんな風にイメージ代わるか見てみるだけ。頭の中で思い描くだけじゃなくて。ほら、やっぱり試してみないとわからないし。
ほんのりと心のどこかで羞恥心や背徳感を感じつつ、そそくさと鏡を取り出してから、そっと頭に載せてみる。するとそこに、ほんの少しだけ頬を紅く染め、神妙な顔つきをしたネコ耳少女の姿が映し出された。
──へえ。思ったよりいけるんじゃない。
じゃあ今度は……ポーズも付けてみたりして。うーんと、確かこうよね。両手を胸の前に持ってきて。手をグーの形に握って。手首をくいっと90度曲げながら。
「にゃ、にゃー」
ネコの鳴き声をあげるのとほぼ同時に、部屋いっぱいに破滅の音が響いた。まるでギロチンのような、生徒会室のドアを開けるガチャリという音が。
「すいません会長、ちょっと忘れ物を……」
「……へっ」
「……へっ」
ぎょっとして振り返る。そこには先ほど帰ったはずの真鍋さんがいた。ドアを半開きにした状態で、この世の終わりの惨状を目撃したような表情を浮かべて立ちすくんでいる。
「すいません、間違えました」
ぱたん、と生徒会室の扉が閉まる。
その音を聞いてようやく頭が回りだす。大変だわ。急いで誤解を解かないと。
「待って真鍋さん、間違ってないからっ。じゃなくて、間違いなのっ。違うのよおぉ。お願いだから見捨てないでえええぇぇっ!!」
◇ ◆ ◇
最終的には、一般生徒の気持ちを知るためにという苦しい説明で、なんとか真鍋さんには納得してもらうことができた。
──そのために、あんな恥ずかしい格好もいとわないなんて。
──さすがは会長。私とはレベルが違います。とても真似できません。
──さすがは会長。私とはレベルが違います。とても真似できません。
ううう、心が痛い。彼女に悪気がないのはわかってるんだけど。
そんなやり取りに疲れ果てて生徒会室に戻ってくると、新たな報告がメールで届いていた。どうやら噂は間違いだったらしい。冷静に考えればしごくあたりまえのことなのだが、内心ほっとしたのは否定できなかった。
でも今回の件で改めて確信した。日々の仕事をきっちりこなし、しかも少々のことでは動じない。やっぱり真鍋さんこそ最適任者だ。いずれ彼女に託そうと思う。次期生徒会長の椅子と、秋山澪ファンクラブ次期会長の座を。
そしてなんとしても、どんな手段を使ってでも、守らなければならない大切なものというのは、今の世の中にだって存在するのだ。たとえ旧守派と罵倒されようと。たとえ鬼とそしられようと。
先ほどの引き出しの一番奥から、今度は薄いピンク色のクリアファイルを取り出して中身をざっと再確認した。改めて激しい怒りが湧き上がるのを自覚する。
まったく、何が『課外活動予算の効果的再配分に関する一考察』よ。冗談じゃないわ。学校の名前を売るために、活躍が見込めるいくつかの部活に予算を重点配分し、その他は根こそぎ廃部しようだなんて。
許せない。この学校で、莫迦どもに好き勝手なんてさせるもんですか。
目線を上げ、虚空の向こう、見えるはずのない敵を睨みつけながら、私は新たな戦いの決意を固めていた。
あなた方がはたして誰に向かって喧嘩を売ったのか。
ひとつ教育してあげましょう。この私が。
(おしまい)