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 危機管理において、発生しうる状況の予測は、初期のもっとも重要な問題とされる。

    ◇  ◆  ◇

「あれ? 憂」

 ひんやりとした空気が頬をなでていくのを感じながら、お店の外へ一歩を踏み出そうとした、ちょうどその時でした。

「あ、梓ちゃん」

 ちょっとびっくりです。こんなところで会えるなんて思いもよりませんでした。身体の奥底からこんこんと嬉しさがわき上がってきます。たったこれだけのことで、真冬の外も小春日和のように感じられてくるのですから、ほんと不思議ですよね。

「……それってバレンタインの材料?」
「そだよ?」

 ところが梓ちゃんには、私が両手に下げた買い物袋にどうやら面食らったらしく、可愛らしい桜色の唇をちょっぴりへの字に曲げています。

「一体何人にあげるのよ……」
「え? お姉ちゃんにだけだよ?」
「一人分!?」

 そんな感じで驚愕しちゃう梓ちゃんもカワイイ。ですが、そこまで驚かれることなのでしょうか。このくらいの材料だと、せいぜい一般的なバースデーケーキの分量だと思うのですが。

 あ、そうか。ひょっとすると梓ちゃんは、あまり自分でお菓子を作ったりしないのかもしれませんね。あまり彼女からそんな話を聞いた覚えもないですし。だからぱっと見でどの程度の量なのか把握できなかったのしょう。

「梓ちゃんも材料買っていけば?」
「う、うん……」

 私がそう勧めると、やっぱり梓ちゃんはあさっての方向を向いてしまいました。自分が困ってしまうと、つい彼女はそんな仕草をしてしまうんです。本人はきっと気づいてないでしょうけど、カワイイので教えてあげません♪

「う……憂はそれ何買ったの?」

 すると今度は買い物袋を指さして、そんな感じの質問を返してきました。私は先ほどの買い物の内容を思い浮かべながら答えます。

「卵でしょ、グラニュー糖でしょ、薄力粉でしょ」
「ぐら……? はく、りき……?」

 それはまるで、生まれて初めて外国語で話しかけられた子どものような反応でした。

「あと今回はちょっとお酒入れてみようと思って、料理用のラム酒も買ったよ」
「……」

 話について行けず、梓ちゃんはすっかり固まってしまいました。そろそろかわいそうになってきたので、この辺で助けてあげましょう。

「うちでいっしょに作る?」
「よろしくお願いします、先生」

 こうして彼女はペコリと私に向かって最敬礼してくれたのでした。こちらの方はこれでオッケーですね。あとは先ほどから物陰でこそこそと梓ちゃんの様子をうかがっている、見るからに怪しい人への対応です。さて、どうしましょうか。

「あ。でもそうすると、卵が少し足りないかもしれないなあ」
「なら、私が買ってこようか」

 すると、ぱあっと梓ちゃんは顔を輝かせました。これなら自分も役に立てそうだ、そんな喜びが伝わってきます。

「でもそんなことしてもらっちゃ悪いよ」
「いいっていいって。すぐ買ってくるから憂はここで待ってて」
「じゃあ、お願いしちゃおうかな」

 心の中で両手を合わせます。ごめんね、梓ちゃん。

「卵にヒビがはいってないかどうか、よく確かめてね」
「うん、わかってる」

 そう言いながら梓ちゃんは、速足でお店の中へと向かっていきました。

 さて、梓ちゃんの行方を見定めてから、私は改めて歩道へと向き直り、声を潜めて呼びかけます。

「いい加減出てきたらどうですか、律さん」
「あ、なんだ。バレてた?」

 私がにらんだ通り、頭をかきながら街路樹の陰から姿をあらわしたのは、軽音部で部長を務めていらっしゃる、田井中律さんその人でした。

「なんか憂ちゃんも、すっかり梓の扱いに慣れてるっていうか」
「そんなことないです。梓ちゃん、カワイイし」
「いやそれ全然質問の答えになってないし」

 呆れたような表情を律さんが浮かべます。どうしてでしょうか。

「まあ予想はしてたけど梓のヤツ、あの雰囲気じゃ学校の授業くらいしか料理経験なさそうだな」
「じゃあ律さんが作り方教えてあげたらどうですか。部活の先輩なんですし」
「それはダメ。私は超えなきゃいけない障害だから」
「えっ……と?」
「いやほら、ゲームでもあるじゃん。障害が大きければ大きいほど燃える。クリアした時の喜びも大きい、みたいな」

 そんなことをつぶやきながら、胸の前で両手を合わせ、うっとりとした表情を浮かべています。時々、律さんの考えていることがわかりません。

「ま、そう言うことで。悪いけど梓のこと頼むわ。私は澪のフォローで手いっぱいだから」

 一方的に会話を打ち切ると、律さんはくるりときびすを返してしまいました。でもその寸前、確かに見てしまったんです。意味ありげに向けられた彼女の瞳に浮かぶ、海のように深い深い憂いの色を。

「あの……」

 今の短いやり取りだけでもわかりました。やっぱり気づいてるんですね、梓ちゃんと澪さんのこと。

 でも私にはそれ以上、声をかけられませんでした。ブレザーのポケットに両手を突っ込んで歩く律さんの背中が、ひどく小さく見えてしまって。そうこうしてる間に、彼女の姿はたちまち雑踏の中へと吸い込まれ、見えなくなってしまいました。

 そしてどういうわけかその光景が、まるで今後のことを暗示しているみたいな気がしてしまったんです。

    ◇  ◆  ◇

「……というわけで結局、澪先輩がお菓子が好きかどうか聞き出せななくて」
「そういうことならチョコケーキなんかどうかな。それも甘さ控えめの」
「あ、それ、いいかも」

 という会話の結果、梓ちゃんといっしょに私の家でチョコケーキを作ることになりました。

「これでよし、と」

 そして二人がかりでこね上げたケーキの生地をオーブンにセットし、不要になった道具を梓ちゃんと並んで洗っていたときのことでした。

「それにしても憂って、よくこんなの作る気になるよねぇ」

 ため息交じりに梓ちゃんがそんなことを言い出したんです。

「私ひとりじゃ、とてもこんなのできそうにないよ」
「そりゃ私だって最初からできたわけじゃないけど。一番大事なのはイメージかな」
「そうなんだ。どんなイメージ?」
「たとえばうまくできた時の感じとか、『憂、これ美味しいねえ』って言ってくれるお姉ちゃんとか」
「ああ、それならわかるかも。いかにも憂らしいし」

 微笑を浮かべながら梓ちゃんも同意してくれました。そういうことであれば。

「だから梓ちゃんもイメージ思い浮かべてみれば、うまくできるよ、きっと」
「私? ……でも、どんなこと考えればいいのかなあ。全然思い浮かばないや」
「たとえば澪さんに『とっても美味しい』って褒めてもらえることとか、ご褒美にちゅーしてもらえるところとか」

 ──ボンっ

 やだ。梓ちゃんたら、耳まで朱に染めています。ああもうっ、なんてカワイイんでしょう。

「いやいやいや。無理。そんなの絶対無理っ」

 ぶんぶんと顔を左右に振って力の限り否定しています。でもこれが梓ちゃんのよくないところ。こんな風に最初っから無理と決めてしまっては、できるものもできないじゃないですか。

「じゃあ、練習してみよっか」
「え……?」

 戸惑う梓ちゃんをそのままに、私は真正面から彼女の瞳を見つめながら満面の笑みを浮かべるのです。

「とっても美味しかったよ、梓」
「う、憂?」
「違うよ。今の私は澪さんなんだから」



 それでは気を取り直して、テイク2。

「とっても美味しかったよ、梓」
「あ、ありがとうございます、澪先輩」

 ぎこちない笑顔で梓ちゃんが答えます。うーん、まだまだ固い反応です。これは普段の努力が足りてませんね。もっともっと練習させてあげなくては。

「それじゃ私が特別にご褒美をあげよう。ほら、目をつぶって」
「ちょ、憂」
「めっ。憂じゃなくて、澪先輩でしょ?」



 さらに気を取り直して、テイク3。

「とっても美味しかったよ、梓」
「あ、ありがとうございます、澪先輩」

 今度はきらめくような笑顔で梓ちゃんが答えます。よしよし、だいぶ余計な力が抜けてきたみたいですね。

「それじゃ私が特別にご褒美をあげよう。ほら、目をつぶって」
「は、はいっ」

 そう返事しながら梓ちゃんはぎゅっと目をつむって、私に向かって軽く唇を突き出してきました。もうそれはそれはキレイな桜色で。

 あまりの美しさに、私はすっかり心を奪われてしまったのです。

 ──ゴクリ

 私は梓ちゃんの両方の二の腕を軽く掴みます。
 ほんの少しだけ自分の顔を傾げると。
 吸い込まれるように近づきました。



 視界いっぱいに彼女の姿が広がっています。
 息遣いだけがとてもはっきり聞こえます。

 腕を通してドキドキが伝わってきます。

 期待と緊張の香りが漂ってきます。

 自分の胸の鼓動も高鳴ります。

 そして。



 ──いっそ、このまま。



 その瞬間、キッチンいっぱいに騒々しい電子音が鳴り響きました。

「「うひゃあっ!!」」

 私たちは同時に我に返りました。オーブンのタイマーが設定時間を経過したことを知らせてくれたのです。

「……ケーキのコーデ、しよっか」
「……そだね」

 気まずい沈黙を埋めるように、私たちは作業に戻りました。



 もし、オーブンの時間がもう少し遅かったら。いったい……いったい、どうなっていたんでしょう。

 理屈ではわかっています。彼女は私に対して何の疑いも持っていないからこそ、あんな無防備な姿をさらしてくれたんです。もしあのまま事に及んでいたら、私はその信頼を最悪の形で裏切ることになったに違いありません。だから、これでよかったんです。これで。


 ──本当に?


 どうかしてます、私。

 梓ちゃんはお友だちなのに。
 大切なお友だちなのに。
 そのはずなのに。

 なんで。
 どうして。
 ありえない。

 大切なお友だちに対して。
 何てことを考えているのでしょう。

 みるみる罪悪感が膨れ上がっていって、このままはじけてしまいそう。


 ──認めたら?


 こんな私のことを、梓ちゃんはどう思っているのでしょう。そっと横目で梓ちゃんの顔を盗み見ます。でもそうすると当然あの桜色が目に入ってしまい、思わず私は顔をそむけてしまうのです。

 ひどく胸が痛みました。そのまま見つめていると、本当にどうにかなってしまいそうで。

 目まいがします。
 固く目をつむってそれに耐えます。

 身体が震えそうになります。
 歯を食いしばってそれに耐えます。

 まるで両腕をそれぞれ左右から思い切り引っ張られてるみたいです。

 いったいどうして、これほどまでに心をかき乱されてしまうのでしょうか。


 ──楽になれば?
 ──全部ぶちまけて。


 だめ。絶対だめっ。気付かれてはいけない、この感情だけは。ですが我慢すればするほど、まるでむき出しのナイフのように、その気持ちだけが研ぎ澄まされてしまいます。

 何も知らずに鼻歌交じりで、ぱんぱんにクリームの詰まったホイップを手にする梓ちゃんのことが、この時ばかりは恨めしい。

 手を伸ばせば届くかもしれません。
 全てを変えてしまえるかもしれません。

 それは可能性。

 いけない可能性。
 ありえない可能性。
 あってはならない可能性。

 ですが。

 きっとその先にあるのは、おそらく背徳という名の底知れぬ煉獄にほかならないのです。



 お姉ちゃん、どうしよう。
 いったい、どうしたらいいんだろう。



 私は梓ちゃん……貴女のことが、怖い──。

 (つづく)