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 戦いにはたいていの場合、勝者と敗者が存在するものだ。
 しばしば全員が敗者ということもめずらしくない。
 そして全員が勝者になれるケースは稀有である。

    ◇  ◆  ◇

 そろそろ世間一般では深夜と呼んでも差し支えない時間。いちおうは閑静な住宅街だというのに、今夜はびっくりするほど無数の星々が夜空をにぎわせています。そんなどこかミスマッチな光景を、さきほどから車の後部座席の窓越しに、ぼんやりと私は眺めていました。もうメールの返事をいただいてから随分と待たされているのですが、かの人は未だにあらわれず。

 ──クリスタルナハト。

 記憶の深淵から忌まわしい言葉が浮かんできたのと同時に、暗い路上で何かが動いたような気がしました。そちらに視線を向け、目をこらします。もしかしたら勘違いでしょうか。いえいえ、確かに動きました。さらにその暗がりを注目してみましょう。

 やがて冷たく薄暗く街路灯の光にうっすらと照らし出されたその姿は、まぎれもない桜高軽音部の部長、田井中律さんその人でした。あわてて車を飛び下り駆け出しそうになる衝動を懸命に抑えます。ちゃんと前の席の人たちにひと声をかけておかなければ。

「しばらくの間、ここで待っていてくださいね」
「ですが……」
「無論、大丈夫なのでしょう? あなた方がお仕事に手を抜いていない限り」
「……はい、お嬢様」

 どこか諦観の混じる返事ではありましたが、とりあえず無事に同意を得ることができました。とはいえ、私の方も少々きつい物言いだったかも知れません。後で何か埋め合わせの一つも考えておきましょう。きちんとアメとムチの使いどころをわきまえる。それが上に立つ者としての責務なのですから。

 車のドアを開けると、りっちゃんはさっそく私の姿を認めたらしく、その場に立ち止まるなり口を開きました。

「ムギか」

 戸惑ったような表情をりっちゃんが浮かべています。先ほどのメールのお返事は『いつ帰れるかわからない』という、とてもそっけないものでしたから。ひょっとしたら私が待ち構えていたのが意外だったのかも知れないですね。

「まさかこんな時間まで待ってるとは思わなかったよ。どしたの、今日は」
「なんとなく、りっちゃんとお話がしたくなって」
「……明日じゃだめなのか」
「明日じゃだめなの」

 ほんの少しだけ語気を強めます。ようやく諦めていただけたのか、小さくため息を吐きながらも、りっちゃんは私の背後の車に目をやりました。

「にしてもなんか……すっげー車だな。詳しいことわかんないけど、うちの車とはモノが違うって感じ」
「これでも一番小さなものを選んでもらったのだけど」
「10人くらい乗れるんじゃないの、それ」
「まさか。いちおう定員は6名よ。前に2名、後ろに対面で4名の合わせて6名」
「いや、対面で座れるってところが、すでに普通じゃないんだけどなっ」

 ビシッという音が聞こえたような錯覚を感じるほど、厳しいりっちゃんの突っ込みが入ったところで、そろそろ私は本日の本題を持ち出すことにしました。

「ところで澪ちゃんの様子、どうだった?」
「今ごろ必死なんじゃねーの。梓にプレゼントするためのチョコ作りで」

 いかにも興味ないよという調子で、そんなことを言います。

「今夜は星も綺麗だし、告白には絶好な雰囲気ね」
「さて、そいつはどうかなー。他の連中はともかく、なんせ二人ともアレだから」

 脳裏に真っ赤になって固まる彼女たちの姿が浮かびます。そうですね、なんせあのお二人ですから。思わず妄想の世界に旅立ちそうな自分の意識を慎重に抑え込みます。私の聞きたいことは、決して彼女たちのことだけではないのですから。

「でも、りっちゃんはそれでいいの?」
「何が言いたいのかなー、ムギ先生」
「澪ちゃんと梓ちゃんがどんどん仲良くなっても、りっちゃんは平気なの?」

 一瞬、りっちゃんは言葉に詰まったようでした。しかしすぐに口を開きます。

「ぶっちゃけ、心の底から祝福っていうわけじゃないけどな」
「けど……?」

 思わず私は身構えます。すると、それまで無表情に近かったりっちゃんの顔に、ふっとイタズラな笑みが浮かびました。

「あームギってさ、ひょっとして私が以前の和のときや、澪の風邪引き騒ぎのときみたくなるんじゃないかって思ってるだろ」
「まあ……いまさら否定はしないわ」
「大丈夫だ、と思う。あの頃と今ではちょっと考えが変わった」

 夜空を見上げながら、りっちゃんはそんなことを言いだしました。

「私と澪は、そろそろ距離を置いた方がいいような気がするんだ」
「どうしてそう思うの?」
「なんつーか、お互い頼りすぎっていうか、特に澪がな」
「梓ちゃんにならまかせてもいいと」
「全面的にってわけじゃない。親友を辞める予定はいまんとこないし」

 あくまで柔らかい、それでいて決して否定を許さないという口調でした。

「澪はさ、梓の前ではカッコつけたいって思ってるとこ、あるだろ」
「それはあるわね。確かに」
「だからさ。梓と一緒にいる時間が長くなれば、そんだけ澪もしっかりしなきゃいけなくなる。イヤでもな」
「それは……ある種の煉獄かもしれないわね」

 今度は私がため息をつく番でした。

 言うまでもなくことですが、澪ちゃん──私たちの軽音部のベース担当の秋山澪ちゃん──は、どうしてこれほどと思うくらいの恥ずかしがり屋さん。それにまつわる失敗談も数えきれないほどありますし。

「理想の先輩を演じ続けなきゃいけないってことだから。梓ちゃんのコト、大切になればなるほど」
「たまに弱音を吐きたくなる時とか、困った時に手を貸すとか、それくらいはフォローするつもりだけど」

 もちろん今の梓ちゃん──同じく軽音部のリズムギター担当である中野梓ちゃん──は、すでに澪ちゃんの性格については百も承知のはずなのですが。だからといって澪ちゃんが、梓ちゃんに向かって甘えたり弱音を吐いたりする場面は、やはりなかなか想像できませんね。

「でもそれで澪が強くなれるんだったら、私はそれでいい」
「……優しいのね、りっちゃんって」
「どうかな。ただの強がりかもしねーし。それに理由はそれだけじゃないんだ」
「それは……?」

 私はりっちゃんの意図がわからず、思わず小首を傾げてしまいます。

「澪の梓を見る目。小学校時代からずっとつるんできたけど、あんなの初めてなんだよ」

 ああなるほど、そういうことですか。それは私も感じていましたから、なんとなく理解できます。

「親とか先生とか、友だちとか、唯やムギや、それから私とか。そういうのとは全然違うんだよな」
「梓ちゃんもそうよね。私たちに向ける眼差しと澪ちゃんへのそれは、明らかに別物」
「多分……あのふたりは、私たちとは違うんだよ、どこか根っこのところで」

 おそらくりっちゃんも私と同じ結論に達しているのでしょう。澪ちゃんと梓ちゃんは、女の人を恋愛対象としてみることができるのだと。

「ぽっと出のヒロインに主人公を取られる幼なじみとか。なんだよそのエロゲ展開」

 ついっとそっぽを向き、まるでぼやくような彼女の言葉は、正直なところ意味がよくわからなかったのです。ですが、とても質問を返す勇気はありませんでした。表情こそ見えなかったのですが、なんとなくりっちゃんが泣いているように思えてしまって。

 尊敬できる部活の先輩。
 真面目で妹のような後輩。
 何よりお互いに認め合う実力と才能の持ち主。

 そんなふたりが出会ってしまったのです。あたかも磁石のプラスとマイナスのように惹かれあっていくのは、むしろ当然のなりゆきだったのかもしれません。

 それにしても運命というのは、なんと無慈悲なものなのでしょう。いったいどうしてこんな事になってしまうのか。誰ひとり悪い人などいないのに。

 ですがいったい何が言えるでしょう。ただの傍観者にすぎない、この私に。どんな慰めも励ましも、あまりにも空々しい。それどころか、むしろ残酷ですらあると思えてしまいます。

 とはいえ、このまま何もせずにりっちゃんとお別れするのも、ちょっと気が引けてしまうわけで。

「ねえりっちゃん、なんだか私、急に甘いものが食べたくなっちゃった」
「じゃあ、そろそろ帰れば。家には食べ切れないくらいお菓子があんだろ」
「今の私はねぇ、りっちゃんが買ってくれたものを、りっちゃんといっしょに食べたい気分なの」
「これから、ここで?」
「ええ、もちろん」

 するとりっちゃんはくるりと振り返り、正気かという表情でしばらくの間まじまじと私の顔を見つめ、やがて深々とため息をつきました。しょうがないなあ、と言わんばかりに。

「近所のコンビニでもいいんなら」
「了解であります、りっちゃん隊長っ!」

 軽口を叩きながら、私はりっちゃんの左腕にするりと両腕を絡めます。

「おいおい、変なとこで唯のマネすんなよ」

 苦笑いでりっちゃんがそんな突っ込みを入れてきます。

 でもごめんなさい、りっちゃん。これが今の私の精いっぱいなんです。もし貴女が男の子だったら、もう少し別の展開もあったかもしれないですけど、ね。

 すると。

「なあムギ、今なんか妙なこと考えなかったか?」
「全然ちっとも考えてないわよ、もちろん」

 やっぱりごめんなさい、りっちゃん。おまけに今の私は大ウソつきなんです。本当に、本当に、もし貴女が男の子だったら、どれほどよかったのでしょうか──。

    ◇  ◆  ◇

 自分の部屋の照明を全て落とし、まさにベッドに潜り込もうとした時のことです。私の携帯がメールの着信を告げたのは。画面を見るとそれは澪ちゃんからのモノでした。

「『水晶の夜』……ですか」

 私は携帯を机の上に置き、窓のカーテンを少し開けて夜空を見上げます。

 さきほど終わってしまった2月14日。バレンタインデー。日本中の乙女の決戦の日。

 おそらくは数えきれないほどの告白が日本中で、いえそれどころか世界のあちらこちらで行われたことでしょう。ですがもちろん、その全てがハッピーエンドとは限らない。

 断られてしまう人。
 勇気が足りなくて渡せなかった人。
 あるいは親友のためにそっと身を引く人。

 きっとそんな人たちも少なからずいたに違いないのです。

「クリスタルナハト……」

 先ほど思い出した忌まわしい言葉を、ゆっくりと噛みしめるように、正確に発音してみます。ですが言い終えた瞬間、やはり背筋に冷たいものが走るのを抑えることはできませんでした。

 おそらく澪ちゃんは知らないのでしょう。本来『水晶の夜』──ドイツ語でクリスタルナハト──という言葉が、歴史的にとても忌まわしい事件の名前だということを。

 第二次大戦直前の1938年11月9日の夜、ドイツ各地で発生した反ユダヤ主義暴動。ユダヤ人の住宅、商店、さらにはユダヤ教の寺院までもが次々と襲撃され、火を放たれました。しかし当時のナチスドイツ政権は消火活動はおろか、暴動を取り締まることさえしなかったそうです。

 その破壊され砕け散った窓ガラスが、月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから、のちに『クリスタルナハト』と呼ばれるようになった。そう聞かされています。

 確かに澪ちゃんと梓ちゃんにとって、今夜はまぎれもない祝福の星空なのでしょう。ですが同時にあの星々の冷たい輝きのうちには、戦いに敗れた無数の乙女たちの涙もまた、少なからず混じっているに違いない。そんな確信を得てしまうほど、今夜の星空はどこまでも深く透明に澄み渡っていました。

 ひょっとしたらそのまま、暗闇に自分の心が吸い込まれてしまうのではないか、という恐怖を感じてしまうほどに──。

 (おしまい)