優しい手のひら

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mioazu

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 雨の音がする。
 そう、「雨の音」が開いた窓の向こうの世界から鳴り響いていた。
 “しとしと”という擬音は誰が考えたのだろう。ただの水の雫が空から落ちてきて、いろんなものに当たって音を立てている情景を、なんともうまく表しているように感じる。
「雨……、やみそうにないですね」
 窓を開け、今日の天気の空模様を確認して、中野梓は隣の彼女へと呟いた。
「そうだなぁ」
 ほんの10センチほど高い位置で、同じように窓の外を眺めていたこの部屋の主である彼女――秋山澪が返事をする。
「どうしましょう……」
 雨は絶えず降り続いている。それほど激しい雨ではないけれど、心なしか梓がここまで来た時よりも雨足が強くなってきた気がする。
「これじゃあ出かけるのは無理かな」
「……そうですね」
 休日のお昼にも程近い頃。梓は澪の家までやって来ていた。本来だったらこのまま二人で出かけるはずだったのだが、あいにくの雨のためどうやら遊びにいくのは無理そうである。
「雨の中を出かけるっていうのも、まあなくはないけど……午後は雨が強くなるって言うし」
 秋雨、というものなのだろう。天気については詳しくもないのでよくわからないがなんでも低気圧のせいらしい。最近は割といい天気の日が続いていたのだが……よりにもよってこんな日に雨を降らせなくてもと思う。
「私、帰ったほうが……いいですよね」
「えっ?」
 隣の彼女を見上げながら小さく呟くと驚いた声が返ってきた。
「ど、どうしてだよ、梓」
「だって、その、澪先輩も忙しいですし。このまま居ても邪魔かなって」
 隣の先輩は今年は受験生だ。出かける予定もキャンセルされてしまったわけだし、何もする予定のない自分が居ても迷惑ではないかと思ったのだ。
「や、やだ」
「……え?」
「今日はずっと梓と一緒にいるって決めてたんだからダメだっ」
 眉を寄せて口をへの字にして若干頬を膨らませて言う澪。
「い、いいんですか? 私が居ても何もできませんし、迷惑になるだけじゃ……」
「なに言ってるんだよ。そもそも今日は私から誘ったんだから……ダメったらダメだ!」
「でも……」
 確かに今日のことを誘ってくれたのは先輩のほうからであった。
 だけどそのことのそもそもの発端は、自分がつい「最近あまり二人で出かけたりしてないですよね」なんて、少し寂しくて呟いてしまって、それを聞いた彼女が言ってくれたようなものであったのだ。
 だから本当は、今日も先輩のことを独占してしまってよかったのかな、なんてちょっと後ろめたいような気持ちであったのだ。
「それとも梓は……私と一緒に居るのはイヤなのか?」
「えっ」
 どこか寂しそうな瞳で顔を伏せる先輩。そういう顔をするのは反則だ。
「ちちち違いますよ! 私が澪先輩と一緒に居るのが嫌なんて、そんなこと絶対ありませんっ! むしろその……それだけで十分ですし……」
「よし。それなら今日は一日私と一緒に過ごすこと。もう帰るなんて言ったら、……イヤだからな」
 そう言って彼女は少しふてくされたような表情を作る。
 前々から思っていたのだけど、先輩はたまにすごく子どもっぽい姿を見せるときがある。怖いものが苦手だったりとか、人前に出るのが嫌いだったりとか、そして一度イヤだと思ったことには駄々をこねるところとか。
 個人的には、その、そういうところもかわいくていいのだけど。ちょっと前まではあんまりそういうところを中々見せてくれなかったような気がする。
 特に二人っきりのときはそれが顕著で、言うなれば……どこかかっこつけているような感じがしていた。
 かっこいい先輩も好きだけど、子どもっぽい先輩もかわいらしくて素敵だと思うから、こんなふうにそういったところを見せてくれるのはちょっと嬉しい。
「……聞いてる? 梓」
「はい。今日は、ずっと一緒に居させてもらいますね」
「ああ、うん。それならよろしい」
 自分でも子どもっぽい姿を見せてしまったことに気付いたのだろう。コホンと一つ咳払いをする彼女の頬は少し赤くなっていた。
「それじゃあ今日はどうしましょうか」
「そうだなぁ。まあ部屋でゆっくり過ごそうか。……なぁ梓」
「は、はい」
 相変わらず彼女から呼び捨てにされるのは慣れない気がする。「梓」とその声で呼ばれるたびに心臓がびくっと反応してしまう。
「お腹空いてないか?」
「あ、まあ、もうお昼も近いですし……」
 先輩の部屋の中にある時計を見てみれば正午までもう数十分というところであった。
「よーし、じゃあなんか作ろっか」
「え、りょ、料理ですか?」
 ――しかも先輩の手料理?
「期待されてるところ悪いけど、たいしたものを作れるほど料理は得意じゃないよ」
 できないわけではないけれど、できると言えるほどではないということだろうか。その点では自分と同じような感じなのかもしれない。……まあ料理なんてまったくしないのだけど。
「梓も手伝ってくれよ。……二人で何かするっていうのも、なんだか楽しいだろ?」
 ――澪先輩と二人っきりで料理かぁ。
 確かにちょっと楽しいかもしれない。
 想像してちょっと口元がにやついてしまった。
「それじゃあ行こう。――梓」
「は、はいっ」




       ♪




「澪先輩……? 澪先輩」
 あれから――、二人で台所で料理に挑戦したのだけど、結局梓がすることはあまりなかったと言っていいだろう。材料の軽い下ごしらえなんかはしたけれど、要領の良さなどは明らかに澪のほうが優れていて、いざ調理が始まればあとは出来上がるのを待つだけといった具合であった。
 「一度作ったものくらいしかできないよ」なんて澪は言っていたけれど、普段まったく料理なんてしない人間からしてみれば十分できる人にしか見えなかった。
 でも彼女は終始楽しそうで、自分もその笑顔を見て嬉しい気持ちになって。そのあとに二人で一緒に食べた昼食もすごくおいしくて……やっぱり楽しくて。「梓もこれぐらいならすぐできるよ」って言ってくれたけど、今度お弁当でも挑戦してみてもいいかもしれない。
 それからはまた澪の部屋に戻って、普段の部室みたいにお茶を飲みながら、……二人っきりなので肩を寄せ合いながらお喋りをしていたのだけど――。
「澪先輩……寝ちゃってる」
 隣で自分にもたれかかっていた彼女はそのままの姿勢で静かに寝息を立てていた。
 そう言えば話をしているときも、最後のほうは自分ばっかり喋っていたような気がする。一通り話終えたあと、気づいたら二人とも黙りこんでいた。だけどそんな無言の空間も悪くなくて、そして先輩もそんなふうに思ってくれているのが感じられて。
 そんなふうに思っていたときに、ふと見上げると先輩はすっかり瞳を閉じていて眠ってしまっていたのだ。
 ――疲れてたのかな……。
 先輩は真面目だから、きっと毎日ちゃんと勉強してるのだろう。おそらく昨日も夜遅くまで勉強していたのかもしれない。今日一日を何もしないで過ごすのだから、なんて思いながらがんばっていたのだろうか。
 普段の部室でも、なんだかんだ言いながら唯や律に勉強を教えている姿をよく見かけていたのだけど、そうやって人に教える分まで苦労していることも考えられる。
 ――先輩は優しすぎるんですよ。
 今日だってそうだ。せっかくの休日を、自分がちょっと何か言ったくらいで潰してしまうなんて。
「まあ、そこが好きなんですけど」
 言ってから頬が熱くなる。寝たフリをしているだけだったらどうしよう。ちょっと様子を窺うけれどそんな様子は見られない。すっかり眠ってしまっている、多分。
「………」
 すぅすぅと気持ちよさそうな寝息が耳を打つ。
 随分前から誰も喋るものがいなくなってしまって、部屋の中はすっかり静まり返っていた。
 ふと思いついたように、窓の外へと意識が向かう。
 ざぁ……という音が聞こえる。どうやら本格的に雨が強くなってきたようだ。音から察するにどうやら今日は外出しなくて正解だったほどにひどいようである。
 自分の右半身に熱が伝わってきている。
 服越しにもその柔らかさが伝わってきているようにも感じる。
 もっと耳をすますと自分の胸のドキドキが聞こえる。
 そばに寄ったときだけわかる、彼女の甘い匂いもしている。
 見上げた先輩の頬が、やけに柔らかそうに見えた。
 ――キスしてもバレないかな。
 寝ている彼女の表情は、すごく無防備だ。
 それでいて、少しでも触れてしまえば壊れてしまいそうな脆さもあわせ持っている。
 普段のキリリとしたかっこよさと、女の子特有のかわいらしさが混在していて、ひどく綺麗だ。
 きっと先輩は異性にすごくモテるのだと思う。
 こんなにも素敵な人を、誰も放ってはおかないだろう。
 現にファンクラブなんてものが自分が入学する前から存在していたほどだ。
 そんな彼女を部活の先輩として持つことができ、そしてこうやって独占できる存在になれたことはとても誇らしいことだけど。……だからこそ、不安になってしまう。
 自分は、そんな彼女にとってふさわしいんだろうか。
 釣り合いが取れてるんだろうか。
 先輩は楽器もうまいし、勉強もがんばってるし、優しいし、綺麗だし、かわいいし、かっこいいし。
 自分は多少はギターは弾けても、背は小さくて、勉強が得意というほどじゃなく、大人でもなくて、料理も一人じゃできやしない。
 それなのに、こんなに好かれてていいんだろうか。それとも本当は好かれてなんていないんだろうか。
 ――なんだか私、嫌な子になってる。
 自分の悪い癖だ。こうやって一人でうじうじ考えてしまうのは。
 それもこれも……。
「澪先輩の、せいですからね」
 そっと自分のくちびるを、彼女の白い頬へと触れさせる。
 柔らかそうな彼女の唇には、まだ度胸がないからやめておく。

 ――離れたあとにくちびるを舐めたら、すごく甘い気がした。




       ♪




「ふぁ……」
 なんだか体がだるかった。
 この感覚は知っている。だけど頭がぼーっとして思考がまとまらない。
「起きましたか、お姫様?」
 どこかおどけた口調の声がすぐそばから聞こえた。
 だんだん意識がはっきりしてきて、この感覚が寝起きのときのものだとぼんやりと頭に浮かんできた。
「私も……寝ちゃってたんですか……?」
 あくび混じりに隣に寄りそう先輩を見上げながら訊いてみる。
 彼女は苦笑しながら肯定の表情を浮かべた。
 確かあれから……さすがにちょっと涼しかったので先輩の部屋のベッドの掛け布団を拝借して一緒にくるまったんだった。
 特にすることもないのでぴったりくっついて寝顔をずっと眺めていたのだけど、いつのまにか自分も眠りに落ちてしまっていたようである。
「ごめんな、途中で寝ちゃったりして」
 申し訳なさそうに先輩は言う。
「もぅ……ダメですよ。無理しないでちゃんと休んでくださいね」
 自分のためにこうやって時間を取ってくれたことは確かに嬉しいのだけど、それで彼女が辛い思いをしたりするのは、ちょっと困ってしまう。
 そうやって拗ねてみせたのだけど先輩は、
「だからこうやって息抜きしてるんだろ?」
「えっ、あ……」
 ぎゅぅっと抱きしめてきたりする。
「は、恥ずかしいです」
「いいじゃないか。二人っきりなんだし」
 頭の上からクスクスと笑う声が聞こえてくる。こういうときの先輩はなんだか強気ですごく困る。
「もう一眠りしちゃおうかなぁ。……このまま梓を抱きしめたままで」
 そうやってそういうことを耳元でささやくのもやめてほしい。あと体を押し付けられると凹凸がすごくはっきり伝わってくるので、その感触がすごく気持ちよくて、ますます顔が熱くなってしまうので――。
「ねぇ、梓」
「は、はい」
 妙に熱っぽい口調で名前を呼ばれる。
「また、キスしてもいい……?」
「へっ?」
「そしたらもっと癒されるかも」
「え、えっと、その……」
「するよ」
 言うやいなや先輩の顔があっという間に近づいて唇に感触が走る。
 その柔らかさが好きな人のものだと考えた瞬間火がついたように顔が熱くなって思考が消し飛んでしまう。自分がどうなっているのかもわからなくなって、ただ瞳を閉じた彼女の顔が目の前にあることだけが確認できた。
 ああ今キスされてるんだなぁ、と自分の中の冷静な部分が告げている。彼女と同じように目をつむってその感触だけに身をゆだねると、やっぱり甘い香りが漂っているのが感じられた。
 どれくらいそんな状態だったのか、その感触が離れていって目を開けると先輩の微笑んでいる顔が文字通り息がかかるほど近くにあるのがわかった。
 その頬はなんだかんだで真っ赤に染まっている。きっと自分も似たような感じなんだろう。
「……先輩のバカ」
 消え入りたいほど恥ずかしくて、照れ隠しに彼女の体に顔をうずめて精いっぱい強がって、それだけを言葉にする。
「ごめん」
 本当に悪いと思っているのかわからない口調でそう言って、ぽんぽんと頭に手が置かれる。それから髪と一緒に撫でられた。
「好きだよ、梓」
 ――こういうときの澪先輩は、本当にズルい。
 そんな声で、そんな言葉を言われたら。あとは顔を赤くすることしかできなくなってしまうではないか。
 どんな表情で彼女のことを見ればいいのだろう。 
 どんな声で返事をしたらいいのだろう。
 ようやく彼女の顔を見上げると、ちょっと頬を染めながら、ただ私に優しく笑いかけてくれていた。


「私も、……大好きですよ、澪先輩」







 おわり。
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