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 警官はひとはに視線を移して、
「ひとはちゃん? こっちのお兄さんが言っていることで、間違いないかな」
「う、うん。私は智お兄ちゃんの妹の、ひとはです」
「うん、ありがとう。──それではどうも、ご協力ありがとうございました。失礼します」
 警官はぴっと頭を下げ、自転車に乗って立ち去った。
 二人はしばらくその場に立ちつくしていた。やがて、
「い、行こうか、ひとはちゃん」
「うん。何だか疲れちゃった」
 「妹のふり」は続いているのか、ひとはの口調がちょっと違うのに矢部は戸惑う。いやそれ
よりも何よりも、いまだに矢部の腕にはひとはがぎゅっとしがみついていて、
「ちょっとひとはちゃん、兄妹のふりはもう……」
「(しっ。声が大きいですよ。まだその辺りに、わたしたちを見ている人はいます。しばらく
兄妹のふりを続けましょう)」
「(う、うん。いいけど……)」
 それにしても、先ほどからしがみついているひとはの体──ぺたんこな胸の感触に、矢部の
心臓はどぎまぎと躍る。
(ひとはちゃんは、恥ずかしくないのかな?)
 思いながらひとはの様子をうかがってみると、何となく満足げに鼻息を荒くしている。それ
を見た矢部は何となく、先ほど妹自慢をしていた警官の気持ちが判る気がした。

  * * *

 矢部のアパートに着くと、ひとははさっそく食事の支度にかかった。即席でできるものなど
たかが知れているが、それでもご飯(矢部が毎日最低限炊いている分だ)に野菜スープがつき、
メインディッシュは即席の豚肉生姜焼き。矢部がたまに作る料理などより、はるかに美味しい。
 特に生姜焼きは熱々ということもあり、噛みしめるたびに肉の味がしみ出してくるようだっ
た。思わず、
「うん、美味しい!!」
「それは良かったです。野菜スープも食べてくださいね」
「もちろん。……ずっ。あ、こっちも美味しい……」
「お口にあってよかったです」
 所帯じみたやりとりをしつつ食事を済ませ、
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
 ひとははふたり分のお茶碗とお皿を重ね、流し台に向かう。料理の時にも使っていた踏み台
に乗り、洗剤をスポンジにつけて洗い始める。
 後ろに矢部もついてきて、
「手伝うよ」
「なら、私が洗いますから、お皿を拭いてください」
「うん」
 エプロン装備のひとはがお皿を洗っている横で、洗い上がったお皿を受け取った自分がタオ
ルで水気を拭き取る。その光景に、矢部は既視感を覚えた。そうだ、あれはたしか数年前のテ
レビドラマで見た──
「こうしてると、何だかまるで新婚さんみたいだね」
「っ!?」
 何気なく口に出した途端、がしゃん、とひとはが手を滑らせ、お茶碗をシンクに落っことし
た。
「ど、どうしたのひとはちゃん、大丈夫? お茶碗、割れてない? 怪我は……」
「大丈夫です。お茶碗も割れてませんし、ちょっとびっくりしただけですから」
「よかったー。けど、気をつけてね」
 ひとはは真っ赤な顔でシンクのお茶碗を拾い上げ、じろりと矢部を睨み付ける。
「先生が変なことを言うからです。し、新婚さんだなんて……」
「え……いやその、ちょっと連想しただけで。そんなにボク、変なこと言った?」
「言いました。無駄口せずに、ちゃっちゃと洗い物を済ませてしまいましょう」
「う、うん」
 まだ赤さの残る顔で、ひとはは再びお皿洗いに没頭する。矢部は訳が判らず、それでもひと
はの無言の圧力に負けて、お皿を拭く手元に神経を集中した。

 二人分だと、お皿の数も多くない。すぐに洗い終わって、またリビングに戻ってきた。いつ
ものように、ベッドに並んで腰掛ける。
「はぁー……こうしてひとはちゃんと二人きりでいるのは久しぶりだけど、こうしているのも
いいものだね」
「ええ。いろいろと、不満がないではありませんが」
「ああ……チクビ、いないからね」
 じゃっかんのひがみをこめて言う。しかしひとはから返ってきた反応は、「何を言ってるん
だろうこの先生は」といわんばかりの視線だった。
「な、なにその目? ボク、何か変なこと言った?」
「ええ、言いました。先生はまだ、私がチクビに会うためだけにこの部屋に来ていると思って
るんですか?」
「え……ち、違うの?」
「…………違います」
 思いっきり睨まれた。
 矢部は混乱した。毎週のように彼女はこの部屋にやってきていたし、特に日曜の早朝などは、
一緒にガチレンジャーを見る間柄である。しかしそれはあくまで、チクビと会いに来るための
ついでだと思っていた。言うなれば刺身のツマ、そこに添えてあるから少し箸を付けるだけの
存在に過ぎないと。
 しかし──
「考えても見てください、先生。私がもし、先生に会うためにこの部屋を訪ねてきたら、先生
は一体どうしました?」
 ひとはの声は震えているように、矢部の耳には聞こえた。
「へ? さすがにそれはちょっとまずいかな。いろいろ、教師が教え子にイタズラしたとかニ
ュースになっているご時世だし」
「ですよね。だから私は先生じゃなくて、チクビに会いに来たんです」
「え……ど、どういうこと?」
 脈絡を読むことができず、矢部は戸惑った。一体この少女は、何を言い出すつもりなのだろ
う?
 ひとはは口元を隠すように鼻を押さえ、
「先生は本当に……本当に判ってないんですね」
 ずっ、と洟をすする音がした。目のはしには、微かに涙が浮かんでいる。しかしそれを見て
もなお、ひとはが泣いているのだと気付くまでに、矢部は数秒の時間を要した。
「チクビに会うためなんて言うのは、単なる口実です。そう言えば、先生もこの部屋にあげて
くれますから。だから、本当ならうちでチクビを預かっても良かったのに、みっちゃんやふた
ばを言い訳にして先生の家に預けて、ず、ずっと先生の家に来られるようにしたんです」
「? つまり、その、こうしてボクの部屋にやってくる目的はチクビじゃなくて、ボク……?」
 笑い飛ばされるは覚悟の上、信じられない思いで確認すると、ひとはは洟をすする音ととも
に力強くうなずいた。

「ひょっとして……い、いまごろわかったんですか?」
「う、うん。だってほら、ひとはちゃんってうちに来ても、チクビと遊んでるか、あるいはガ
チレンのビデオを見てるだけで、ボクのことなんてぜんぜん見てないし……」
「見てますよ。ここでも、学校でも。杉崎さんや吉岡さんにも、気付かれてしまうくらい。気
付いていないのは先生くらいです」
「え、え……ど、どうしよう。困るよ、そんなの……」
 告白馴れしていない童貞の矢部は、たちまち挙動不審になる。
 ひとはは涙に濡れた目でそれを見上げ、
「言うと思いました。だからチクビを口実にして、会っていたんです。先生に、そう言われな
いために。先生に、文句を言わせないために」
「そう、だったんだ」
「それに……怖かったんです。もし先生に会いに来たなんて言って、先生から拒絶されたらと
思うと。だから……チクビを口実にしました。そうすれば、先生に会いに来たんじゃないって
言えますから」
「……………………」
 あまりにもとつぜんの告白だったが、矢部は不思議と納得できるものを感じた。臆病だった
んだ、と思った。
 さいきんではつい忘れてしまうほどだったが、ひとははもともとクラスで孤立気味だった過
去がある。それも、「周りに拒絶されるのが怖いから、わざと自分から壁を作って周りと隔絶
する」タイプの孤立だ。彼女がいまだにそうした精神性を残していたとしてもおかしくない。
「わがままなのも、ひどいことをしているのも判ってます。でも、そうやって一緒にいる時間
が増えれば、いつか先生にも判ってもらえると思ってました。私が何でこうして、毎週のよう
に部屋にやってくるのか。どうしてチクビをうちに引き取らないで、先生の家に預けたままに
しておくのか。気付いてもらえると思ってた、なのに!!」
 ひとはの声が、一段跳ね上がった。
「なのに宮下さんが、チクビを持って行っちゃうから!! せっかく私が見つけた場所なのに、
せっかくチクビを言い訳にして、一緒にいられるようになったのに、チクビを私から奪うから!!
このままじゃ……このままじゃ、先生の部屋に来られなくなっちゃう……」
 後は声にならず、ひとはは顔を覆ってしゃくり上げた。
 静かな部屋に、少女の嗚咽だけが響く。窓の外から聞こえる鳥の鳴き声が、ひどく遠い。
 透明な世界の中で、矢部はしばし、自分の心を確認する。
「……ねぇ、ひとはちゃん」
「…………」
 泣いたままの少女の肩に、優しく手を掛け。
「今まで気付いてあげられなくてごめん。けどボクは、みんなが言うように大した人間じゃな
いからさ。童貞だし、足が臭いし、それに色々、欠点はあるし……」
 自分で言っていて落ち込みそうになるが、ひとはは何も言わなかった。いつもなら確実に「知
ってますよ」と混ぜ返してくるはずの少女が。
「だから、ひとはちゃんがボクと会いに来てくれているなんて、考えてもいなかったんだ。…
…ううん、ちょっと違うかな。考えたことはあるけど、自分でも信じられなかった。ひとはち
ゃんは学校でもチクビと仲良しだし、ボクのことなんてぜんぜん気にしてもいないんだろうっ
てさ」
「違います……そんなの、ぜんぜん……」
 感極まったように泣きじゃくると、ひとはは矢部に抱きついた。少女の体温どころか、骨格
が感じられるほどに密着し、ひとはは矢部の腕の中、涙に濡れた瞳で見上げる。そして嗚咽に
震える声で、

「私っ、私、本当は先生のことが──」

 ぴんぽーん。

『おーい矢部っち、いるかーっ!?』
「へ……」
 矢部は思わず、ひとはの肩をつかんでいた手を離した。玄関を見ると、どんどんどん、とド
アをノックする音が鬱陶しく響いていた。
『三女、そこにいるんだろ? チクビ、連れてきてやったぞー』
「は、はは……宮下さんだね」
 矢部は思わず乾いた笑いを漏らす。ちょっと視線を戻すと、涙目の少女が般若のような形相
でドアを睨み付けていた。
「……………………ぐすっ……!!」
「ちょ、ちょっとちょっとひとはちゃん!! あんまり睨み付けちゃダメだよ!! 宮下さんだっ
て、その、親切で連れてきてくれたんだから!!」
「……………………ぐすん……」
 ぴんぽーん、ぴんぽーん。
『おーい、どうしたー。早く開けてくれよ、矢部っち』
「ちょっと、あ、開けてくるね。ひとはちゃんはその間に、顔を洗っておいで」
「……っ!、ぐすっ、は、はいっ……」
 ひとはは素直に立ち上がって、洗面所に向かう。
 矢部は彼女がドアの向こうに消えたのを確認してから、、玄関の鍵をあけて宮下を出迎えた。
「いらっしゃい、宮下さん。チクビ、連れてきてくれたんだ」
「ああ。三女の家に行ったら、ここに来ているって言うからな。しょうがないから連れてきて
やったんだ!!」
「あ、そうなんだ、ご苦労様……」
 「どやどや、たいしたもんやろ」とばかりに得意げな顔を浮かべる宮下。それを見た矢部は、
ひとはがこの少女にたいしてひどく冷淡な態度を取る理由が判る気がした。
 いっぽう宮下が手に提げたケージの中では、チクビがじたばたと跳ね回っていて、
「ちーっ!!」(やった、三女さんの匂いだ!!)
「はは……チクビも、ひとはちゃんに会いたくて仕方がなかったみたいだね。まぁ、とにかく
上がって」
「おじゃましまーす。あれ、三女は? でかけてるのか?」
「ひとはちゃんなら、いまちょっとお手洗いに」
 言った途端、ちょうどいいタイミングでトイレを流す音が聞こえた。続けて、先ほどの涙の
あとも残さずにひとはが出てくる。彼女の目は宮下──を見事にスルーして、その手に下げた
ケージに釘付けになり、
「あ……チクビ!!」
「ちーっ!!」(ひとはさぁんっ!!)
 まるで昆虫の親子が再会する某アニメの最終回のように、ひとははチクビのケージに駆けよ
った。ひったくるように宮下の手からケージを奪い取り、
「チクビ、大丈夫だった?」
「チ、チー!!」(お腹すいたよ。この人ぜんぜんご飯くれないんだもの)
「かわいそうに……ちょっと待ってて、いま用意してあげるから」
 ひとははすぐに部屋の奥に抱えていって、チクビのために餌を用意してやる。矢部と宮下は
廊下に残されたまま、ぽかんとした表情でそれを見送った。

「えーと……宮下さん、餌、あげた?」
「あ、その……何をあげればいいか判らなかったから、その」
「ちょっとダメだよ、ちゃんと餌をあげないと……判らないなら判らないで、事前に相談して
ちょうだいよね」
「いや、さ、三女がうちに来たら教わろうと思ってたんだけど」
「……宮下さん」
 矢部はわざと深い溜息をついて、口調に苛立ちをこめる。
「困るよ、ちゃんと世話してくれないと。君から言い出したことなんだから、ちゃんと責任を
持ってお世話して欲しいな」
「う……ご、ごめん」
「こんな様子じゃ、宮下さんに預けるわけにはいかないかなぁ。やっぱり、来週以降チクビは
ボクが預かることにするよ。いいね?」
「そ、それは……」
 宮下は口ごもった。半分は矢部の演技だったが、苛立ちを押しひそめて静かに説き伏せる口調は、後ろめたいところのある人間にとって反抗しづらいものがある。
「とりあえず今日は帰ってもらえるかな? ひとはちゃんも、チクビがいなくて寂しかったみ
たいで、しばらく二人きりで遊びたいだろうから」
「あ、ああ。じゃ、じゃあな……」
 宮下はのろのろと靴を履き、夢遊病者のような足取りで部屋を出て行った。
 アパートの外階段を下りる足音が完全に聞こえなくなったのを確認して、ようやく矢部は一
息つく。振り向くと、定位置のベッドに座ったひとはがチクビを手のひらに載せ、矢部を見つ
めていた。

 彼女は少し赤い顔で、
「お疲れ様です。それと……あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。ボクもひとはちゃんと一緒にいたいからね、このくらいはしないと」
「……………………」
 ひとははチクビに餌をやりながら、それでもちょっと不満そうに唇をとがらせて、
「でも……せっかく言おうと思ってたことを、宮永さんのせいで言いそびれました」
「あ、はは……けど、焦ることはないよ。まだまだいくらでも、時間はあるんだから」
「そういう問題じゃありません。せっかく……せっかく先生に、気持ちを伝える覚悟ができて
いたのに……」
「はは……嬉しいよ、ひとはちゃん」
 矢部はひとはの隣に座り、結局いつも通りの光景に戻る。しかし互いの距離は、この一日で
大きく近づいていた。
「本当に、焦ることはないよ。ひとはちゃんはまだ、小学生なんだから。」
「焦りますよ。卒業したら、平日は先生に会えなくなっちゃいますから」
「また週末に、会いに来ればいいじゃない。どうせボクなんかいつまで経っても週末は暇なん
だから、いくらでも会えるよ」
 自嘲すると、ひとははすんと鼻を鳴らし、
「……胸を張って言うことじゃありません。先生はいい人なんですから、もうちょっと欲張っ
ても良いと思います」
「ボクは欲張りだよ。ひとはちゃんに、これからもずっとうちに来てもらいたいと思っている
くらいなんだからさ」
「あ…………」
 何気ない口調でささやかれた一言。
 しかしひとはは真っ赤になる。何故って、それはまるで──
「しょ、小学生に、プ、プロポーズするなんて……どれだけ変態なんですか」
「え……? え? あ、ごめん!! 別にそういうつもりはなかったんだけど!!」
「…………なんだ、なかったんですか」
 またも暗いオーラを発散し、ずーんと落ち込む。
 難しい年頃だなぁと思っていると、
「けど、嬉しいです。その言葉、信じますよ」
「うん」
 矢部はしっかりと、うなずいた。

  * * *

 あけて月曜の放課後。
「三女!!」
「……なに、緒方さん」(なんだろう、またろくでもないことに……)
「お兄ちゃんから聞いたんだけど、あんた、いつから矢部っちの妹になったのよ?」
「え……? な、なんのこと?」
「とぼけたって無駄よ。昨日お兄ちゃんが、若い小学校の先生が愛梨くらいの妹と一緒に歩い
てたんだ、だから今度お兄ちゃんと一緒に歩こうねってうるさくてさー。……お兄ちゃんの言
ってた矢部ひとはって、どう考えてもあんたでしょ?」
「ち、違うよ!! 人違いだよ!!」(もしかして昨日の警官って……)
 緒方の追及と、背後の二人から向けられる視線にたじろぐひとは。さらに外野から、
「なに? 矢部ひとはって……まさか三女さん、矢部っちと結婚したの? おめでとう!!」
「よ、吉岡さんまで」
「へぇー、そうなの。よかったわね、三女」
「おお、三女さん、おめでとう!! よーし、これから三女さんのことは、矢部ひとはさんって
呼ぼうぜ!!」
「あ…………う」
 吉岡や杉崎、千葉からもエールを送られ、ひとはの顔が真っ赤になる。緒方と加藤は話の流
れについていけず戸惑っていたが、伊藤嬢が何かをささやくと納得した様子で笑顔になった。
「なるほどね、そういうこと。三女も隅に置けないわね」
「いいなぁ、三女さん。私も佐藤くんと……」
(っふふ、三女さんの弱味、にぎっちゃった♪)
 教室は祝福ムードに包まれ、ひとはが真っ赤になる中「矢部ひとはさんおめでとう!!」コー
ルが巻き起こり──

「お、おいちょっとみんな!! 三女が困ってるだろ!! やめてやれよ、そういういじめみたい
なことは!!」

(余計なことを……)
(宮下は空気を読まない)
 まわり中──それこそひとは自身からさえ、冷たい目を向けられる宮下だった。
                    (おしまい)