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「やべっちー」

「ん?」

放課後。誰もいない廊下を歩いていると、生徒に呼ばれて、僕は振り向いた。

もうこの学校に勤め始めてから六年目になる。

「こーら、下校時間とっくに過ぎてるよー?……どうしたの?」

「みてー、ガチレンジャーパンツー」

僕を呼ぶ女子児童はスカートを捲ってパンツを見せてきた。

「ぶっ!!な、何やってんの!?」

慌てて止めるように伝える。

「えー」と言う女児をなだめつつ「世の中は危ない人が多いから無闇にそういう事しちゃダメだよ」と諭した。

「むー……うん」

納得した様子の女児に「そう、良かった」と笑顔で答える。

去って行く女児の背中を見届けながら、僕は溜め息をついた。

……今日は、終業式だった。

……今年から学年主任に任命されている僕は、当然式に出席し、司会などの進行役を務めた。

「はぁ。疲れた……」

重い足取りで、校内を歩いて行く。


……役職柄か、今でもちょくちょく六年三組の前を通る。

忘れた事はない。僕が初めて受け持ったクラス。

あまりにも密度の濃すぎたその一年間を。

「……」

久しぶりにそのクラスに行きたくなった僕は、誰もいない廊下を歩いて、気づいたらクラスの前に立っていた。

ガラガラ……。

乾いた音を立てて年季の入った扉が開く。

……当然、誰もいなかった。

「当たり前か……」

僕は教壇の前まで歩いていく。

手をついて、教室の中を見回した。

「……な、なんだか恥ずかしい、かな……」

照れくさくなって後ろ頭を掻いた時……。

“矢部っち――”

誰かに、呼ばれた気がした。


驚いて顔を上げる。

“矢部っち、何ボーっとしてるんスか?”

あ、あれ?ふたばちゃん?

“ちょっとちょっと!もうっ、しっかりしなさいよねっ!”

みつばちゃんまで……一体どうしたの?

“おいおい、童貞な上に痴呆まで入ったのか?やれやれだぜ”

千葉くんも……なんで?

“そんな事よりこの後は何するんだよ”

宮ぉ……下さんまで……。

“矢部っち、ポッキーゲームとかどうかな?もちろん、男女で……キャー!”

“いやいや、ここは百物語を”

“しょ、小生怖い話は……しんちゃーん!”

“あー、大丈夫だからふたば。矢部っち、もうドッチボールでいいんじゃないか?”

“さんせーい!じゃあ、早く行こう!矢部っち!”

あっ……うん。

僕は誰かに手を引っ張られる。

手を……。

皺の増えた手が目に映った。

“どうしたの?”

手を引っ張る誰かは呟く。あの頃と変わらない、小さな手が見えた。

ゆっくりと……手を離す。


――ごめんね、僕は行けないんだ。

だって、君と僕たちは一緒には歩けないから。

君達が居たことをここでずっと覚えておくしか。

出来ないんだ。

“……”

両手で、僕の手を握る。

“先生”

あぁ、聞き間違うはずがない。棘のある優しい声。ただひとり、僕のことを先生と呼ぶ少女。そして……。

“私は――……”

自分で、手放した少女。

スゥー……。

呼吸をするようにその幻想は消えていく。

誰もいない教室。オレンジ色に染まる教室。

僕は教卓に突っ伏して声を押し殺して泣いた。


ガチャン。

戸締まりを全て確認し終えると、僕は校庭を横切って門を閉めた。

「ふぅ」

一息ついて、今日も見慣れた家路を辿る。

忘れた事なんてなかったけど……今日に限って、なんであんな白昼夢を見たのだろうか?

肌寒い風が吹く。もう春だと言うのに……。

焼酎でも買っていこうかと考える。

「お金ならたくさんあるしね」

悲しい独り言を呟いた。

……あれは僕が二年目の頃だ。

僕は前々から好意を持っていた保険医の栗山先生から告白された。

夢のようだった。

しばらく放心状態だった僕は、我に返って返事をしようとしたが……。

《先生》

あの時の少女の顔が頭をよぎる。

……結局僕は、栗山先生の告白を断った。


「まさか未だに童貞で独身なんて……」

このぐらいの年にはさすがにもう結婚してるだろう、と昔の僕は漠然と思っていたのに。

……少し賑わいのある街の方に出ると、コンビニの看板が目に入った。

ちょうどいいや、と僕はそのコンビニの中に入る。

「っしゃいませー」とやる気のない声で――高校生くらいだろうか?――男性店員が言った。

僕は適当にパックの焼酎と柿ピーを取り、レジで支払いを済ませてから足早にコンビニを出る。

「あたしたー」とコンビニ店員のやる気のない声を背中で聞きながら。

暗くなり、街頭が点き始めた街の中をまた歩いていく。

賑わう人、居酒屋に入る若い集団、花壇の縁に腰掛け談笑する女子。

肩車をして笑いあう家族、洋服店のショーウインドーを見つめる女の子、僕と同じように独りで帰る若い男性。

……あの日以来、ひとはちゃんは家に来なくなった。

当然、と言えば当然だ。そもそもそれまでがおかしかったんだ。

なのに、その時の僕は朝になればひとはちゃんが我が物顔でいるんじゃないか、とどこかで期待していた。

「……いるわけないのにね」

とその時、三人組くらいの女子高生が前から来ているのが見えた。

少し左側に寄って、道をあけておく。

…三人はそれぞれ対照的な出で立ちだった。

一人は部活帰りなのかジャージの上下を着ており、二人目はスカートを短くし、普通に制服を着ていた。そして、三人目は、レジ袋を持っていた。寒いのか、紺のカーディガンを羽織っている。

そんな事を観察している内に、顔も見れないまま、その三人組に近づく。

女子高生をジロジロと見ているという事に気づき、慌てて目を逸らした。

……擦れ違った拍子に、会話が少し耳に入ってくる。

「それにしても偉いよねー。一人で家事とかしてるなんて」

「そ、そんな事ないよ……」

「またまたー、謙遜しちゃってー。家事も出来て、勉強も出来て、男子にもモテて……ホント、完璧超人だよね~」

僕はその女子高生達と擦れ違い、数十秒歩いた所で振り返った。


小さな身体。レジ袋を持った手。そして、頭の上にお団子を結わえた髪型。

見間違えるわけがなかった。聞き間違えるはずがなかった。

数年間、忘れたことはなかった。

だって、後からになって……無くしてから気づいたのだから。

人ごみの中を逆送する。

みんな、迷惑そうな顔で僕を見ていた。

若い男女が「なに、あいつ?」と呟いているのが聞こえた。

それでも、さっきの女子高生達に向かって走って――……。

僕は、その名前を呼んだ。

「ひとはちゃんっ!!」

三人組は振り返る。

僕は息を切らしながら、その顔を見た。

間違いない。ひとはちゃんだ。

「誰?えぇと?」

「丸井さん?知り合い?」

ひそひそと二人がひとはちゃんに話しかける。

会いたかった……。

息を吐きながら、自然と顔は綻んでいた。

でも……。

「いや……私は、知らないよ……」

え……?

僕は自分の耳を疑った。

そんな……だって……。

「行こう」

スッとスカートを翻し、歩いていく。

「う、うん……」

他の二人もその後を追った。

「あっ……」


僕は、その場に立ち尽くす。

「なんだあのオッサン」

「女子高生に向かってナンパ?ヤダー」

「きっと、彼女とか居たこと無いんだぜ」

……その場に立ち尽くす事しか出来ず、通り過ぎる通行人の話す声を、ただ黙って聞いているしかできなかった。

そうだよね……。

確かに、虫の良すぎる話だ。

何年も前の学校の先生を、未だに覚えているなんて。

それに仮に覚えていたとしても、一度はフってしまったんだ。

あまりにも、虫が良すぎる……。

自分は、なんて馬鹿なんだろうと思う。

そもそも、声をかける事自体、してはいけなかったんだ。


――その後、僕はスーパーに寄って、ウォッカを買い、全額を募金箱に入れてから、家で意識が無くなるまで呑み続けた。