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 今日は、矢部先生が静かだ。
 休み時間にも、机で何か考えこんでいる様に見えたけど、別に私には関係ない。
 だけど、このままウジウジされていても、授業がつまらないので、
早く吹っ切れてほしい。

 放課後。
 執拗に、一緒に帰ろうとする宮なんとかさんを昇降口に放置したまま、
私は忘れた教科書を取りに教室に向かっていた。
 先生のことが最後まで気になって、教科書を机の引き出しの中に置いたままにしていたなんて、
誰にも言えない。みっちゃんに知られた日には、きっとしつこくゆすられる。

 そんなのは嫌だ。だから、絶対に誰にも喋らない。
 けど、ハムスターのチクビにだけなら、話してもいいかもしれない。
 今日も、たくさん懐いてきてくれたし。
 そうだ、忘れ物を取ったら、少しチクビと遊んでいこう。きっと喜ぶ。

 階段を上がって、廊下を無音で歩く。
 『スィー』仮に音を出したら、こんな感じかな。

 ランドセルを揺らしながら、教室の前へ。
 扉を開けようとすると、中から覚えのある声が。

「お見合い……ですか?」
 栗山先生の声だった。
 他にも、近くに誰かいるらしい。

「ええ、そろそろ時期なんじゃないかと思いまして」
 矢部先生……?
 でも、お見合いって、どういうことだろう。
 扉ごしだから、様子が分からないよ。

「そうですか。けど、この事は、クラスのみんなには」
「いずれは話しますよ。まあ、事前に知っておいて欲しい生徒は何人かいますけど」

 もしかして、先生が、お見合い?
 相手が見つからないから、自分から仕掛けるつもりなんだ。
 私には……関係ないこと。なのに、どうしてだろう。胸が、凄く苦しい。

「子供は……どうするんですか」
 予想を超えた質問のせいで、呼吸が、一瞬停止した。
「六、七くらいは欲しいですね。もしかしたら、それ以上かもしれないです」

 変態……変態だ、先生は。軽蔑している最中でも、息が乱れる、身体が変。
 そして、ふらついた拍子に、私は目の前の扉に体当たりしていた。
 無抵抗に、扉が開く。

「――ひとはちゃん!?」
 矢部先生が、私に駆け寄って、手を差し伸べてくる。
 私は、それを打ち払うと、先生の顔を見ないで、全力でその場から消えた。
 その時、何か言い残した気もするけど、覚えていない。
 先生を傷つけるようなことだけは、言っていないと信じたい。

「おい、三女っ。一体どうし――」
 ましてや、玄関を駆け抜けた時に聞いた宮原さんの声なんて、完全に覚えていない。

 全力で走った。
 残暑とは言えないくらいに、強い日差しが照りつける中を。
 上履きのままで出てきたから、アスファルトの熱が、直に伝わってくる。
 火傷しそう。誰かさんは、裸足で走っていたけど。

 途中で、雨か降ってきた。私の顔にだけ降った、生ぬるい雨。しょっぱかった。
「はぁっ、はぁっ……」
 どれだけ走ったんだろう。気がつくと、そこは河川敷だった。
 冬になると、クラスの男子が凧を揚げに来る場所。
 木にパンツが引っ掛かっていたこともあるらしいけど、どこの変態の仕業だろう。

 とりあえず、斜面に生えている草の上に座り込む。
 ……私は、何をしているんだろう。

 矢部先生は童貞だし、足も臭いし、モテないし。
 自分から相手を見つけた方がいいっていうのは分かっている。素直に応援したい。

 なのに、応援したいと思えば思うほど、嫌な気分になる。
 顔が火照る、熱が出る。どうしてだろう。

 また、頬に雨が降ってきた、止められない。
 とめどなく溢れていく雨が『ちちち、ちー』今度は柔らかい何かに舐めとられていった。

「チクビ……いつからいたの」
 ハムスターのチクビ。
 面倒をみる様になってから、随分時間が経った。
 色々あったけど、今はすっかり私に懐いてくれている。
 今日も、本当ならずっと遊んであげるはずだった。

「くすぐったいよ、チクビー」
「ちー」
 多分、教室から出ていく時に、どさくさ紛れについてきてしまったんだろう。
 舌で舐めて、励ましてくれているんだ、嬉しい。でも、苦しいのは治らない。

「チクビ……私、変なんだ。矢部先生のことを考えると、普段のままでいられなく
 なっちゃうし、何も考えられなくなる」
「ちー?」

 そうだよね、チクビに話しても、しょうがないよね。
 もう帰ろう。靴は、明日取りに行けばいい。
 あっ。でも、チクビを学校に連れていかなくちゃ。家じゃ預かれないし。
 色々と振り切って、いざ帰ろうとすると。

「ひとはちゃんっ」
 呼び止められた。胸がまた苦しくなる。立ち上がって振り向くと。
「探したんだよ。急に出ていっちゃうから」
 矢部先生がいた。両手に、私の靴を片方ずつ持って。
 なんだか、私より苦しそう。
 ずっと私を捜してくれていたんだ。胸が痛くなる。

「宮下さんに、ひとはちゃんが上履きのまま出ていっちゃったって聞いてね」
 先生が、靴を差し出してきた。抵抗なく受け取って、上履きから靴に履きかえる。
「それで、どうしたの。僕が力になれることがあったら、何でも言っていいんだよ」
 何でも……聞いていいんだ。それじゃあ。
「あの、お見合い……って」
 思わず、聞いていた。こんなこと聞いても、どうしようもないのに。
「そっかあ、聞かれちゃってたんだね」
 先生が恥ずかしそうに人差し指で頬をかく。

「そう、お見合い。ひとはちゃんと一緒にね」
 信じられない一言だった。
「あの、今なんて」
「言葉の通りだよ。やっぱりひとはちゃんが居なくちゃ駄目なんだなって。
 はっきり分かったよ」

 気持ちが整理できない。体が熱い。
 全身が沸騰しそうなくらいに。
「で、でも、早過ぎるんじゃないかと思います。せめて、あと四年くらいは待って下さい」
「駄目だよ、四年も待っていたら手遅れになっちゃうよ。
 今すぐでもいいくらいなんだから」

 私がいなくちゃ駄目……四年も待てない……。
 さっき言っていた。子供は、六か、七……。

「さ、僕の家まで行こう。こういう時は早目に、だよ」
 先生が、私に迫ってくる。どうして、何も言い返せないんだろう。
 『ロリコン、犯罪者、今すぐ死ぬべきです』
 いっぱいあるはずなのに。肩に、先生の手が置かれた。
 もしかして、これって……覚悟して、目を瞑った。

『じゃあ、いくよ』
 先生の温もりが、すぐ近くまで。
 ごめんなさい、お母さん。私――。

『チクビ』
 ……えっ? 何言っているの、先生。
「ちー」
 チクビも、なんで先生の手のひらの中で丸くなってるの。
「いやぁ~。チクビのお見合い相手を、知り合いが紹介してきてね。
 僕の家で会うことになったんだ。だけど僕だけじゃ不安だから、
 ひとはちゃんにも一緒に来て貰った方がいいと思ってね。チクビも安心するだろうし」

 私の中の、何かが『グシャッ』と音を立てて崩れていった。

「というわけだから、ひとはちゃんも一緒に……ひぃっ!」
 私の顔はきっと物凄く醜くなっているんだろう。それでも構わない。
 それで、この屈辱が紛れるのなら。

「この……このぉ……変態ロリコン教師っ!!」
 上履きを先生に全力で投げつけてから。私は、夕陽に向かって走りだした。
「ちょっ、ひとはちゃん、どこ行くの~!」
 後ろは振り向かない。
 先生の声が遠くに消えていく。光が目に染みる。
 家まで、うんと走ろう。顔に残った雨が、乾ききるまで、ずっと。

 翌日。チクビのお見合いが破談になったことを知った。
 このご時世、婚活が大変なのはどの生き物でも変わらない。
 矢部先生の婚活もきっと大変なんだと思う。
 でも、三十路って呼ばれている人みたいに、万が一売れ残ってしまったら、
その時は……また罵倒してあげよう。