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一日の終わりのお風呂は、疲れがとれるのでいい。気に入っている。
温まった体。バスルームを出ても、まだ少し石けんのにおいがする。ふわっと広がる湯気。卵色のバスタオル。
寝間着はハムスターの柄だ。最近あたらしく買った。サイズは、自分で測ったものでもないのにぴったりだった。
家で着るものだとしても、やっぱり少し恥ずかしい。
私ももう小学生でもないのに、先生はあいかわらずこういうものばかり選んでくる。部屋着とはいっても、
女性に贈る服を選ぶセンスが壊滅的に欠けている。
それなのに、……悔しいけれど、こんなのでも確かに、私は少し嬉しくなってしまうのだ。


縁側の端に、先生が座っていた。ゆるゆるとうちわを扇いでいた。豚の蚊取り線香が細い煙を吐いていた。
「お待たせしました」
先生は私のほうを振り返って、
「ちゃんとあったまってきた?」
「ぽかぽかです。まだ始まってませんか」
「うん」
先生の寝間着は、猫の顔でいっぱいだ。ハムスターのおかえしに私が選んだ。
恥ずかしがるかと思ったら、思いのほか喜んでしまったので少しくやしい。今度はチューリップ柄にしてみようと思う。
うちわをおいて、先生は手もとのドライヤーを手に取った。空いた手をひらひらさせて私を招いた。
とてとてと近づいて、先生の両足の間に体を沈めた。先生の胸板は、昔よりすこし硬い。
先生の心臓のとくとくという音を感じる。私の音も聞かれているかもと思う。
首にかけた卵色のバスタオルで、わしゃわしゃと髪を拭いてもらう。


ドライヤーのスイッチを入れる。ぬるい風が首に触れる。
先生の手の動きを頭の上で感じながら空を見上げた。夏の夜は、星がちらばってきれいだった。
「今日は、わりと涼しいですね」
「ねー。最近暑かったし、今日は気持ちいいね」
「パパがいたら、また一晩中飲まされるところでしたよ。命拾いしましたね。……それはそうと、少し痛いです」
「う……ごめんなさい」
先生は、ドライヤーが下手くそだ。
長くいっしょに暮らしていると、いままで知らなかったいろいろなところが見えてくる。
先生の悪いところを、新しく二十個見つけた。でも、いいところは三十個見つけられた。
あわせて百個になったら、本人に突きつけて面白がってやろうと思っている。

軽く櫛をかけて、最後にゴムでまとめてくれた。はじめて髪に触れられたときはぎこちなかった動きが、
今は手際よく終わる。変にいじくられて、ぎろりと睨みつけて、慌てる顔が見られなくなったのは少し寂しい。
ドライヤーを置く。うちわで私を扇いでくれる。先生の手を取って、おなかにそえた。
先生の手はぽかぽかしてあったかく、なんだか安心する。
二人で同じ空を見上げると、まだ夕方の橙色を残した空の色が鮮明に見えてくる。
と、
「あ。始まったよ」
ひゅるるる……ぱぱん。
「はい」
宵の空に白い光と赤い光が駆け上って、大きな花を咲かせた。ちらちらした残滓が見えた。
昼の蝉。夜の花火。家に響く夏の音。大きな音なのに、不思議と心地いい感じがする。
白の、赤の、青の、黄の、紫の、とりどりの色の、十、二十とあがる花火を、私と先生はぼんやりと見ている。
「きれいですね」
「うん」
また降りる、ゆるやかな沈黙。悪くないけれど、もう一声ほしい。
ちらりと先生の顔をのぞき見る。何も言う気配がないので、
「……そこは、キミのほうがきれいだよって言うところでしょう」
少し頬が赤くなっているのがわかる。
先生はぽかんとして、すぐに楽しそうに笑い、頭を撫でてくれた。
「知ってることをわざわざ言わなくたっていいでしょ?」
「言ってほしいときだってあるんです」
拗ねた顔をしてみせても、先生はにこにこ笑っているだけだ。
私をからかって楽しんでいる。先生のくせに、すこし生意気だ。
先生の悪いところ、二十一個目。


こちこちという時計の音が聞こえる。窓から涼しい風が入り込んでいる。夢うつつの頭で目が覚める。
いつの間にか、布団に横になっていた。見慣れた寝室の見慣れた天井。
頭のほうで、かりかりという音がする。先生が座卓でペンを走らせている。
壁にかけた行灯の光が、ぼんやりと先生の横顔を照らしている。ほおづえをついたその横顔が、私は好きだ。
こちらを見た先生と視線がぶつかった。
いつの間にやら私も布団の上でほおづえをついていたらしく、なんだかむやみに恥ずかしくなって、頭から毛布をかぶった。
先生が何も言わないので、顔だけ覗かせてみた。じっと私を見て、にへにへっとしていた。
むかっとして、毛布をかぶったままにじり寄った。いも虫を思い出した。
先生は何も言わずに、すこし横にずれてくれる。空いた場所に腰掛ける。
「おはよう」
何故か勝ち誇ったような感じで言うので、すねをつねってやった。一瞬びくっと体を固めて涙目で、それでも無理して
笑おうとするから、なかなか面白い顔になった。先生の顔はころころ変わるので、見ていて飽きない。
「女の子の寝顔を観察とか、相変わらず趣味が悪いですね」
「……途中で寝ちゃったのはひとはちゃんじゃない」
「そこをどうにかするのが男の甲斐性です。先生はちょっとヘナチョコすぎます」
「でも、そのヘナチョコを選んだのはひとはちゃんだよ」
最近、言い返しづらい言葉をかえしてくるようになった。悔しいけど、先生をぎゃふんと言わせる一言が思い浮かばなかった。
「……今日のところは、私の負けでいいです」
テストのマルつけをしているその肩に、頭を預けてみた。そうするのが当然みたいに、頭に手を乗せてくれた。
そのまま頭を撫でてくれる。もう片方の手でペンを走らせている。
「ひとはちゃんの体、まだぽかぽかしてる。あったかいね」
「布団の熱がうつっただけですよ。キモいこと言わないでください」
思えば、はじめてこうして先生に体をあずけたのはいつだっただろう。
先生に気持ちを打ち明けたときだったか。それとも、小学校で過ごしたいつかだったか。
何度も何度も感じたしあわせな気持ちのあしあとは、長く過ごした記憶の霧にかすんでしまった。
いろいろ笑った気もする。いろいろ泣いたような気もする。
ずっと覚えていようと思っていたことさえも、もうはっきりと思い出すことはできない。私はそれが、少し寂しい。
でも、私と先生について、たったひとつだけ、何よりもはっきりと覚えていることがある。
「先生」
「ん?」
先生はどうだろうか。
もしかしたら覚えているのは自分だけかもしれないと、そう思って怖くなったのか。
いまさらこんなことを言うのもおかしいと、そう思ってとどまったのか。
口ごもった私を見て、
「大丈夫だよ」
私の頭を力強くわしゃわしゃした。
先生は、いつだって私の欲しい言葉をかけてくれる。
「覚えてる。ボクは、ずっと一緒にいるから」
いつ、どこで、どんな流れで言ったのかは忘れてしまった。
でも先生は、ずっと私と一緒にいてくれると言った。私の顔と、私の目を見て言ってくれたのだ。確かに。
先生もそれを覚えていてくれたことが、私はうれしい。
たとえ二人しておじいちゃん、おばあちゃんになっても、最後にそれだけは覚えている。
それはなんだか、とてもすてきなことだと思う。
「うわ……なんですか、いきなり。キモいです」
照れ隠しにそんなことを言っても、
「そんな男を選んだのも、ひとはちゃんでしょ」
どうも、今日は先生に口で敵わない日らしい。
仕方がない。長い二人の時間のあいだには、たまにはそういう日だってあるだろう。

だからせめて、精一杯の負け惜しみを言ってやるのだ。明日はきっと言い負かしてやると、ひそかな闘志を胸に秘めて。
「ええ、ええ、そうでしょうね。先生を好きでいてあげられる女の子なんて、私しかいないでしょうし。
 かわいそうですから、一緒にいてあげますよ」
先生はおかしそうに笑う。
「そっか」 
「そうです」
「ありがとう」
「どういたしまして。でも、浮気なんてしたら呪いますからね」
「しないよ」
軽くほっぺたをつねられる。二人して、くすくすと笑う。
肩から力が抜けて、おおきいあくびが出た。時計を見たら、もう日をまたいでいたらしい。
目をこする。先生が手を伸ばし、彼好みのグラマーにはなれなかった私の体を持ち上げて、布団に寝かせてくれる。
ぼやけた頭の中、先生がおでこをさすってくれているのがわかる。あったかい。
もう半分寝ているような心地で、でもそのまま寝てしまうのも惜しくて、ふにゃふにゃした声で話しかける。
「……いっしょに寝たいです」
「ん……今日はまだ、仕事が残ってるから……」
「じゃあ、私が寝るまで、こうしててください」
先生は優しく笑い、
「いいよ」
あいた手で、私の手を握ってくれた。
これは、私の知らなかった先生のいいところの三十一個目だ。忘れないようにしよう。
おでこと手に先生の体温を感じていると、ふと感じたもやもやがすうっと消えた。
このあったかさは、先生が私のことを想ってくれているあったかさだ。
仕方がない。先生は私にべた惚れだから。
私のことをあったかいって、先生は言ってくれた。
仕方がない。私だって、そうなんだから。
私と先生は、これからも二人で一緒にいるんだろう。明日も明後日も一緒にいるんだろう。来年も再来年もきっと。
それは終わらない。それはいつまでだって続く、私と先生の約束だ。
ずっとずっと歩いていって、あちこちであたらしいことを見つけて、笑って、泣いて、いけるところまでいくのだ。
そのころには、いいも悪いも、あわせて五百個くらいあるかもしれない。千個かもしれない。
だいじょうぶ。記憶の霧にあしあとがかすんでも、これから先はまだわからない。すてきなことが、きっといっぱいある。
だから私は、先生と並んで歩いていってやろうと思う。しっかり腕をからめて、最後の最後まで、二人で。
そしてそのとき、歩いてきた長い長い道をふりかえって笑うことができれば、それがきっと、一番すてきなことなのだと思う。

「おやすみなさい、先生」
「おやすみ、ひとは」

そういう話だ。