※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

==========


「はあ、はあ、はあ………」

アスファルトをローファーで打つたび、荒い呼吸で鼓膜が内側から激しく揺さぶられる。
激しく脈打つ心臓の痛みと、指に食い込むレジ袋の重みによって、貧弱な矮躯は今にも倒れこんでしまいそう。
だけど立ち止まってなんていられない。一秒でも早く、あの場所へ。

先生の部屋へ。

やっと、やっと木曜の放課後になってくれた。
やっと先生の所へ行ける。やっと先生に会える。お話しできる!!
待ちに待った至福の時間に向かって、私はまるで人参を目前に吊るされた馬のように一心不乱に脚を動かし続ける。

先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。先生。

「……っく、はぁっ、ぜっ……!
はぁ~~…っ!ふぅう、うっ……くはっ……」

夕日に彩られたアパートが見えたところで、逸る気持ちをなんとか押さえつけ、壁際に身を隠して呼吸を整える。
気配察知には自信があるといっても、こうも呼吸と心臓に感覚をかき乱されていたら、周囲の『視線』を見逃してしまうかもしれない。
誰かに見つけられちゃったら、この夢はすぐさま壊れてしまうんだ。細心の注意を払わなくちゃ。

「ふう、はあ……ふう………。
すぅ~~…はあぁ~~~」

…………………よし、今日は誰もいないな。

学校周辺、スーパー、先生のアパート、どこもかしこも私が高校に上がる頃から、何故か急に人の数が増えてしまった。
しかもセーラー服が食材や生活雑貨を抱えて駆けているのが、そんなに珍しいんだろうか。
私が通り過ぎると、空間を散漫に漂っている『視線』のほとんどがこちらの顔や背に収束し、突き刺さってくる。
一寸遅れて追いすがってくる『視線』まであるくらいだ。鬱陶しいことこの上ないよ。
幸いこのあたりは小道が多いから撒くのは簡単だけど、かといって一直線に目的地に向かっていたら、
『視線』の誰かに私たちの関係に辿り着かれてしまうかも知れない。
おかげでただでさえ時間が貴重だというのに、私はわざと遠回りさせられる上、定期的なルート変更を余儀なくされている。
なんでみんな私の夢の邪魔をするんだ。こんな小さな子の事なんて、ほっといてよ。

   …~~*

……いけない。気を逸らせているあいだに、アパートの二階に誰かが……いや、これならちょうどいいな。
そう判断を下し、手製ナプキンポーチの隠しポケットから合鍵を取り出した私は、ひと時の隠れ家から足を踏み出す。

スイー

足音だけじゃなく、衣擦れやレジ袋の音にすら気をつけながら、道路、入り口、階段へと移動する。そして、

タンタンタンタン!

二階に差し掛かったあたりで、階段を踏み鳴らしながら駆け上がり、振動で周囲の空間を攪拌させる!

 *――

見られた――なびく髪の先端だけ。
もちろん私の顔とか、セーラー服であるとか、『誰』であるかを特定する材料については、絶対に見つからせなんてしない。
気付かせるのはあくまで『女』が上がって行ったって、それだけだよ。

スイ... カチャカチャ パタン

目的を達した後は、余計な動作を一切カットして、素早くドアの内側へと身体をもぐりこませる。
そして後ろ手にドアを締め切ったところで、

「ふぅ~……」
深くひと呼吸ついて、全身の筋肉と神経を弛緩させる。

もう何度も繰り返してきた日常とは言え、一切の失敗が許されないだけに、やっぱりここまでやって来るのには緊張する。
………緊張しなければならない、後ろめたい行為をこんなに長い間続けてしまっている私は、
どうしようもない女の子だという自覚は、ある。

「………もう少しの間だけ、だよ」
そう自分に言い聞かせ、意識をつま先から持ち上げる。

むふ……。

鞄とレジ袋を冷蔵庫前に置いて、進む。
カーテンから漏れ込む夕日に晒されながら、先生の部屋の中心にひとり立つ。
テーブルの上にはカップ麺の空き容器とペットボトルが、
床には少しの漫画雑誌と教育書籍が散らばっているけれど、出会った頃と比べれば格段に綺麗に変わった先生の生活空間。
だけど満たす空気はずっと変わらないまま。

ふっくらと優しい先生の匂い。

「先生…………」

匂いの最も濃い空間へ、私はふらふらと引き寄せられる。
床に膝をつき、ベッドの中心へ顔からボフンと倒れこむ。
そしてそのまま布団を頭からかぶり、先生の空気に満たされた、私だけのお城を築き上げる。

「すぅ~……はぁ~……」

身体に塗りこむように、深く、深く深呼吸を繰り返す。
たちまち鼻腔に満ちる、男の人の匂い。塩気の中に僅かな酸味の混じった、大好きな匂い。
数度取り込んだだけでもう視界に深い霧が立ちこめて、身体はふわふわ宙を浮いてるみたい……。

「……あ~、ううう~~。う、うう~~」

まいったなぁ…いつもこうだ。とろんとした心地よさで心もお腹もいっぱいになると、赤ちゃんみたいなぐずり声が漏れてきちゃう。
頭の片隅で理性に、情けない、みっともないって注意されちゃう……いいや、別に。
どうせ今此処には私だけなんだし。
あぁ……幸せ………。

「うう~……う、うう………」

此処では、理性も意識も霧の中に迷い込んでどこかへ行ってくれる。
私の芯を曝け出して、胸に我慢していたものを裸のまま吐き出すことができる。
特に今週は、辛い事が次々あったから……。

「う…うぅっ……。
せんせぇ……私、いっぱい頑張ってます……ぐすっ……。
勉強頑張って、苦手な体育も逃げてません。
沢山友達を作って、一緒にお茶して、普通の女子高生らしくなれるよう頑張ってるんです。
下級生を助けてあげたり、男の子の気持ちを受けてあげたり……ひっく、ともだちの…悩みを、悩みを聞いて、あげたり……っ。
もう小さな子じゃないって……私、でも、うぐっ……ひぅ…。
もう、つかれたよぉ~。うう、うぅ~~……ほっ、といて……っ」

こんなこと言っちゃいけない。
家族も、友達も、学校のみんなも、私を気遣ってくれてるからこそ声を掛けてくれてるんだから。
一生懸命頑張ってるのは、みんな一緒なんだから。
わかってるよ。わかってるけど……!

「うくっ……わかってるんだよ、いつまでも……。進路、だって……っ。
でも、だけどっ…いいじゃない、もうちょっとくら、いっ……う、ぐぅっ……。
いいですよね、せんせ……」

そうだよ、先生はいいって言ってくれてる。
こうやって鍵を変えずに、ずっと私を部屋に入れてくれてる。
学校の話を楽しそうに聞いてくれる。毎週熱く語り合ってくれる。
私の全部を受け入れてくれてるじゃないか。
だからまだ大丈夫だよ。もうちょっと、こうやってまどろんでいたって………。

「う…うう………。すんっ、はぁ……。ずっ……。
すう~……ふう………。ふふっ…ふふふっ……!」

先生のシーツが溜め込んでいたものを吸い取ってくれたおかげで、気分がずいぶん軽くなった。
どころか、そのまま顔をグリグリしながら深呼吸してると空いた胸がふわふわ幸せで満たされて、もう笑いまで。
我ながらゲンキンなものだ……けど、むふふ~……。

「すー…ふ~~~…。
……さて」

いつまでもこうやっていたいのは山々だけど、もちろんそんなわけには行かない。やらなくちゃならないことが山積みなんだから。
私は一念発起してベッドから身体を起こし、温かな巣から旅立つ。
最初の目的地は、すぐ隣にあるパソコンだ。
まずはポケットから取り出した付箋を使って、座椅子とマウスの初期位置が後でわかるよう目印をつける。
そしてLANケーブルを取り外してからパソコンの電源を入れる。
パスワードは3・1・0・4(さとし)……っと。

「あれ?」

パスワードが変わってる………。

「ふむ」

なら……誕生日。西暦かな。クレジットカード番号を四桁ずつ。教員免許の上四桁、下四桁…ふむ、これか。
結局四桁なんだよね。まったく……こんな分かり易いパスワードを設定するなんて、セキュリティ意識が足りないなぁ。
先生の将来が心配だよ。
……まあそれはおいおい注意してあげるとして、今はいつも通りメールチェックから………。


「先生、遅いな……」
煮付けたカレイを盛り終えた左腕を持ち上げ、腕時計を確認する。
もう19時だ。木曜日は会議も何もないから、18時過ぎには帰れるハズなのに……。

「また何かあったのかな……」

もちろんこんなこと、今までだって何度もあった。
生徒の逆上がりの練習に付き合ってたり、新任教師の授業作成を手伝ってあげてたり、色々な理由で。
『先生』の仕事はいつもいつも予定通りになんていかないんだから、遅くなることがあるのは当たり前だ。
だからいつもなら寂しいのを我慢してセーラー服の上のエプロンを外し、
ラップをかけたおかずのお皿と置手紙を残して帰るんだけど……。

「今日は絶対会いたいのに……」

色んな出来事に揉みくちゃにされた今週は、今日だけは直接会って先生の声が聞きたい。お話ししたい。
学校であったこと、家であったこと、感じたことを先生に聞いてもらいたい。
ううん、せめてひと目だけでもいいから……っ!
ギリギリと締め付けられる胸を右手でさすりながら、もう一度腕時計を確認する。19時08分。
もうダメだ、帰らなきゃ晩御飯の用意ができない。家でみんなが待ってるよ。
でもイヤだ、先生に会いたい。どうしても、絶対に会いたい。お願い、ちょっとだけでいいから……!

「う……うぅ……」

私は奥歯を力いっぱい噛み締め、両手を胸の前で組み合わせて、胸の内から襲いかかってくる昏い痛みを我慢する。
帰ってきてって、祈る。

お願い。

みんな邪魔しないで。誰なの、先生を引き止めてるのは。やめて。早く返して。
私の、私だけの。私だけに!!

「せ、んせぇ……っ」

ガチャガチャ

!!!

はっとして顔を上げるのと、ドアが開くのは同時だった。
そして同時に、さっきまで私を攻め立てていた嫌なもの達が、パッと散り散りに逃げ去っていく。
廊下の電灯の光が、信じられないくらい輝いて見える。

この人の傍は、いつも明るくて広い。


「ぜぇっ…はっ……。
ぅぐっ……ま、にあった……。
ただい、ま……ごほっ、ふぅ……。
…ただいま、ひとはちゃん」


「おか……っ、おかえりなさい」
ああもう…震えて引きつって、なんてみっともない声だろう。もっと可愛い声で先生をお出迎えしたいのに。
先生には、私のいいところだけをあげたいのに。

「あっ……!
ごめっ…ごめんねひとはちゃん。んぐっ、はぁ……。
もっと早く帰ってきたかったんだけど、ちょっと、ぜっ、ケンカした子たちの話を聞いてあげてて……っ。
走って帰ってきたけど、心配させっ、あぁでも……間に合ってよかった~~!」

先生……!

膝に手をついた息も絶え絶えな様子に、次いで湧き上がった明るい笑顔に、私の胸はまた締め付けられる。
でも今度のは嫌じゃない。
だって先生が、私と会えたのが嬉しいって身体中で示してくれてるんだから。
先生も、私と一緒の時間がとっても大切だって……!!

こんなに幸せなことなんてないよ!

「ぐっ…ふぐっ……っ!」

けどダメだ。泣くな、ひとは。我慢するんだ。涙を見せちゃいけない。
悲しいのも嬉しいのも伝えちゃダメなんだよ。先生のことなんてなんとも思ってないって、嘘をつかなくちゃ。
今此処に居るのは、日曜日に気持ちよくテレビを見るためしょうがなく、って事になってるんだから。

「あ……ひとはちゃん、ごめんね。
ボクのせいで……」

ゆらゆら揺れる世界の中で、先生がゆっくりと近づいてくる。
大きな手を差し出して、彷徨うようにふらふらと、でも確かに私の傍へ。
ダメだ、あの手に触れられちゃ。
あれはとても温かいけど、優しいけど、私を幸せにしてくれるけれど。
けれど、触れられたらこの夢は終わっちゃう。ひと時の幸せと引き換えに、先生の答が生まれちゃう。
早く逃げなきゃ。先生が迷ってくれてるうちに……!

「ひとはちゃ……っ」

スイ、と。一歩身を引く。私の頭に置かれるはずだった手が、虚しく宙を通り過ぎていく。

「あ………」

悲しそうな、でもどこかほっとしたかのような先生の声。
……実際のところはわからない。もう私は背を向けてしまったから。
今は何よりも、溢れ出そうな涙を見せないことが大切だから。

「…………別に、心配なんてしてません。
気まぐれでエサをあげてる野良犬がいつもの時間に現れなかったから、ちょっと気にかかったくらいですよ」

『いつもの私たち』を続けることが、1番大切だから。
だから私は、精一杯平坦な声を絞り出す。私たちの関係は出会った頃から変わってないって証明してみせる。

「……………野良犬って、ひどいよひとはちゃん。
せっかく一所懸命走って帰ってきたのに」
「それはそれは。相変わらず無駄な気の回し方をしてるみたいですね。
まぁ、置手紙を書く手間が省けたくらいは助かりましたよ。
こないだ持って帰って洗ったシャツは、たたんで2段目に入れておきましたから。
それとYシャツ類の洗濯終わってますから、干しておいてください。いつも通り日曜日にアイロンしてあげます。
あと、晩御飯は……」
「ねえ、それだけど、もし良かったらひとはちゃんがおかずを温めてくれないかな?」
「………そのくらい自分やってください。私は早く帰りたいんです」

シンクの中で無意味に手をまごつかせながら、自分の背中に次々と嘘を積み上げる。
先生が私に触れられないよう、高くて分厚い壁を築き上げていく。
その虚しい作業のたびに世界が揺れて、喉に酸っぱいものがせりあがって来る。
うく、ぁ……ダメだ、もう吐いちゃいそう……。

「うん…ごめんね。ひとはちゃんが忙しいのは知ってるんだけど、できたらお話ししたいんだ。
ちょっとでもいいから。
ほらほら、みつばちゃんからメールも来てるんだよ。
『今日は料理がしたい気分だから、下ごしらえくらいはしてあげるって伝えといて』って。
門限、もうちょっとなら大丈夫だよね?……って言っても、暗い夜道を女の子ひとりで帰らせちゃうのは……。
ごめんね。もちろん送ってあげたいんだけど、ボクらは…そのぅ……ごめん……」
「……何回謝ってるんですか。情け無い。
どうせ近所なんだし、私は誰かに見つからないようにするの得意ですから、大したことじゃないですよ」
先生とお話しすることより大事なことなんてないんですから。

「……うん。ありがとう、ひとはちゃん」
先生の優しい声を聞けるのが、何よりも嬉しいことなんですから。

「……ほら、いつまで人の背中で突っ立ってるんですか。
邪魔ですから向こうの部屋でおとなしくお座りしといてください」
「は~~い」

足音は声と一緒に背中から遠ざかり、すぐに大音量が部屋を満たすようになる。

まったく……まいっちゃうなぁ。
なんでみんなこんなに優しいんだろう。

「う……うぅ……」

せっかく私が我慢してるっていうのに。