マタタビを嗅いだ猫って、きっとこんな気持ちなんだろうな。
佐藤くんの空気が私の鼻をかすめるたびに、そう思う。
甘くて、ほろ苦くて、いつまでも嗅いでいたくなる匂い。
私の理性をふやけさせてしまう香り。
あの匂いはどこからどうやって生まれるんだろう。
佐藤くんが使っている石鹸とシャンプーをリサーチして使ってみても、あの匂いは得られなかった。
男子じゃないとだめなのかな。
でもあの雄臭い男子たちから佐藤くんの匂いがするなんて、そんなことありえない。
やっぱりいつものようにチャンスをうかがって、こっそり摂取するしかないのかなあ…
そんなことを考えながら、私は一人、放課後の廊下を歩いていた。
「今日は五時間目が水泳だったから、当番は更衣室の忘れ物の点検をお願いします」
しょうがない隊は放課後も忙しいのに、やべっちったら私に雑用を…
女子更衣室にたどり着く。うん。忘れ物とかないよ。ないない。おわりおわり。
適当に済ませて更衣室を出る。その時、私の嗅覚がピクリと反応した。
「…佐藤くんの匂い…しかも、すごく濃い…」
匂いの出所は男子更衣室からだった。私は躊躇した。
女子が男子更衣室に入るのはどうかと思うし、なにより他の雄の匂いが強すぎる。
しょうがない隊にとってはノーマーク、というか入ろうとしても入れない場所だ。
どうしよう。そう考えながらも、私の足は一歩、また一歩と吸い寄せられていく。
そのくらい濃い佐藤くんの匂いだった。
ドアをうっすらと開けて、中をのぞいてみる。男子の当番はいなかった。
わずかな隙間からも佐藤くんの匂いがただよってくる。同時に、雄の強烈な臭気も。
間違いない。この中だ。私はもう迷わなかった。
周りに人がいないのを確かめると、大きく息を吸い込んで、男子更衣室に突入した。
私が息を止めていられるのはせいぜい30秒くらい。
その間に佐藤くん成分の発生源をゲットして、ここから脱出する。
しょうがない隊の一員として数々の修羅場をくぐってきた私にとっては、朝飯前のミッション。
(愛しの佐藤くん物質…いま助け出してあげるからね…あっ)
更衣室のいちばん奥の片隅に、海水パンツが落ちていた。
「6-3 佐藤」これだ。
よりによってこれを置き忘れるなんて、意外にドジな佐藤くん。でもそれはそれでかわいいかも。
佐藤くんの水着はまだしっとりとしていて、私はごくりと唾を飲んだ。
すぐにでもエキスを堪能したい衝動に駆られたけれど、まだここは危険区域。
(被疑者を確保、これより署まで連行します!……って、きゃっ!?)
一瞬、私の体がふわりと浮く感覚。その後に、背中全体に鈍い痛みが走った。
濡れた床に足を滑らせて転んでしまったのだ。
それでも佐藤くんの水着はしっかりと握りしめていた。だけど…。
「ぷはっ、はぁ、はぁ……うっ!?」
転んだ衝撃で、思わずこらえていた息を吸い込んでしまっていた。
猛烈な雄の成分が、私の鼻から、口から入り込んで、全身を侵し始める。
ここから出なきゃ、と思ったときにはもう、立ち上がろうとしても足に力が入らなかった。
男子更衣室は予想以上に凶悪な敵だ。意識がぼんやりとし始める。
(だめ…こんなところで気絶したら死んじゃう…こうなったら…!)
私はとっさに佐藤くんの水着で鼻と口をふさいだ。
濡れた布が顔に張り付くのは普通だったら気持ち悪くて息苦しいだけだけど、これは別。
佐藤くんの匂いが、私の体を浄化していく。
こんなに濃いのを嗅いだの、久しぶりだなぁ…。
それに、プールの塩素の匂いと佐藤くんの匂いは相性がいいみたい…。
(ひたってる場合じゃ…ないんだけど…もう少し…)
佐藤くんの水着もまた、私にとっては予想以上に凶悪な存在だった。
醜悪な雄の匂いの中に横たわっているというシチュエーションも、それに追い打ちをかけていた。
あお向けになって目をつむると、私の体に覆いかぶさって守ってくれる佐藤くんを思い浮かべる。
匂いが濃いおかげか、妄想の中の佐藤くんはいつもよりずっとリアルだった。
(助けに来て、くれたんだ…。私の、王子様…)
私は脱出することを忘れはじめていた。ここなら誰も見ていない。佐藤くんと二人っきり。
ジャンパースカートを片手でまくり上げると、その手で女の子の大事なところに手を伸ばす。
最近覚えた、内緒の遊び。真由美や詩織にも、これだけは恥ずかしくて言えなかった。
普段家でする時よりも、深く、荒っぽく、指を動かす。きもちいい。
こすりながら頭の中で考えることも、いつもより大胆に。
水泳の授業の時に見た、佐藤くんの裸の背中。胸板。乳首。
それから…さっきまでこの水着に包まれていた…佐藤くんの、おちんちん。
「…んっ…あっ、さ、さとぉ、くん……」
きもちいい。よすぎる。手を動かすのが、止められない。
嗅ぐだけじゃ物足りなくて、水着にしゃぶりつく。
私は妄想の中で、佐藤君と裸で抱き合っていた。
耳元で「あいり」とささやかれる。思い切って「しんちゃん」と言ってみる。
「あふ…しんちゃん…しん、ちゃぁん…んぅっ…」
指先がぬるぬるとしてきた。いつもはこの位で怖くなってやめてしまう。
でも今日は、この先までいってみたかった。
(すごい…量が、いつもより…あれ?)
いつものネバネバしたのじゃない。目を開ける。
私の指先が真っ赤だった。
妄想の中の佐藤くんが一瞬でどこかへ吹き飛んだ。残ったのはものすごい罪悪感だけだった。
見ると、わたしの股間は血に染まっている。
悲鳴をあげそうになるのをこらえて、スカートを直すと、更衣室を飛び出した。
佐藤くんが、そこに立っていた。真っ青な顔だった。
一滴の血が、床にポタリと落ちた。
私はその場にへたりこんでしまった。
「佐藤くん…私…どうしよう」
「お、緒方…いや、俺は、その…忘れ物を…」
「私…悪い子なの…どうしようもない変態な子なの…だからバチが当たったの…」
「な、泣くな緒方、泣かないで。ほ、保健室いけ。保健室。ここは俺が掃除しておく。誰にも言わない」
「きらいに、ならないで…」
「ならない、ならないから」
────────────────
保健室には西日が差し込み始めていた。
「私も最初の時はびっくりして泣いたっけ。でも女の子はみんな経験するの。恥ずかしくなんかないのよ」
栗山っちの声が、いつもよりさらに優しい。
「でも、これからはやっぱりパンツは履いてもらいたいかなぁ。自分の体は大事にしようよ」
「……はい」
「伊藤さんと加藤さんが心配して様子を見に来たけど、緒方さんは大丈夫だからって言って先に帰ってもらったからね。
…あ、それとも一緒に帰りたかった?」
「……いえ。…あ、あの」
「うん?」
「さ、佐藤くんは…」
「佐藤くん?佐藤くんがどうしたの…?」
「い、いえ、なんでも…」
「さては彼氏さんかな?」
「ち、ちがいますっ」
保健室で貸してもらったパンツを履いて、とぼとぼと校門を出た。
久しぶりだから、何だかもこもこする。私の心も晴れないまま。
栗山っちに洗いざらい言ってしまえばよかったかな。いや、そんなことできない。
佐藤くんはどんな気分で私の血を掃除したんだろう。考えただけで顔から火が出そう。
また涙がこぼれそうになった時、後ろから呼び止められた。
「お、緒方…待てよ…」
「さ、佐藤くん?…ひょっとして、私が来るの、待ってたの?」
「お、おう…」
「怒ってる…でしょ?」
「いや、そんなこと、ねーよ」
「ごめんなさい。私、汚いの。最低なの。佐藤くんのこと好きになる資格ないの。
今日始めて気付いたの。私みたいに汚れてる女が佐藤くんに近づいちゃいけないって」
「…ちがう。最低なのは、俺だよ」
「えっ?」
「俺…更衣室に水着忘れたのに気付いて、取りに行ったんだよ。そしたら、中からお前の声がして…
のぞいたら、お前が、その…そういうこと、してて…」
「うそ…」
「俺、そのままずっと見てた…ドキドキして…見ずにはいられなくて…これだけでも最低だろ?
その上、お前が血を流してるのを見て…逃げ出そうとしたんだよ。そこにお前が飛び出して来て…ごめん!許してくれ!この通りだ」
私の頭の中で、風船がパチンと弾けた。
「…ふふっ」
「!?」
「なんか、ふふ…想像したら、面白くって。一人でえっちなことしてる私と、それを覗き見してる佐藤くん…
あははっ、二人とも、変態じゃん。変態と、変態で、おあいこじゃない」
「う…変態…。そうだな。俺も今日は確かに変態だったよ。緒方は俺を…許してくれるのか?」
「許すに決まってるじゃない。私は佐藤くんの事、大好きなんだもん。頭上げて、佐藤くん」
「…ありがとう」
それからしばらく私たちは何も言わずに一緒に歩いた。
佐藤くんは何か考えているみたいな難しい顔をしていた。
「緒方」
「なに?」
「俺、責任取るよ。見ちゃった責任」
「責任?」
「そう、俺と緒方がその…なんていうか…付き合えば、お互いに今日のこと、後ろめたく思わないで済むだろ?」
「佐藤くん…ほんとに、いいの?」
「うん。そのかわり…パ、パンツは、履いてくれよ?ほ、ほら、なんていうか、履いたほうが、エロい場合もあるっていうか」
「もう、佐藤くんのえっち!履くよー!」
「う、うわっ///」
私はうれしくなって佐藤くんに抱きついた。佐藤くんの肩越しに見える夕焼けは、嬉し涙でにじんでいた。
~END~
最終更新:2011年02月25日 23:17