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家に帰ると、最初に洗濯物を取り込む。きれいにたたんで、たんすにしまう。
その後、宿題をする。ふたばに国語と算数と理科と社会を教えてあげる。
夕飯を作る。パパもみっちゃんもふたばもすごくよく食べるから、四人分でいいところを倍は作る。
ごちそうさまをして、食器を洗って、少し休んだらもう寝る時間。
一日がんばった自分へのごほうびに、少しだけガチレンジャーのビデオを見る。
あっためた牛乳を一杯だけ飲む。眠くてふわふわした頭のままベッドに入る。
学校の日も休みの日も、私はだいたいそういうふうにして過ごしている。
もちろん、不満はある。
手伝ってほしいとも思う。
でも、手伝ってくれたらくれたで余計に仕事が増えるから、最近は思っても言わないことにしている。
これでいいのだと思う。
家事は得意だし、だから私の仕事なわけだし、みんなの役に立ってるって思うと、まあ、うれしいから。
それでもたまに……たまにだけれど、やっぱり少し、疲れてしまうときがある。
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掃除機をかけている。
先生の部屋は汚い。あっちこっちにカップ麺のいれもの。ポテトチップの袋。散らかったエロ本。
冷蔵庫の近くに、たまにあの黒いいきものがいて、私は悲鳴をあげる。
「なんでいつも言ってるのに掃除してくれないんですか。
生徒に部屋の掃除なんかさせて、恥ずかしくないんですか」
そう言うと先生はテストのマルつけをしながら申し訳なさそうに、
「あ、あはは……ごめんね」
笑ってごまかそうとするところが、この人のダメなところだと思う。
こんな部屋にチクビを住まわせておくのが、私はすごく心配になる。
私がいなかったら、この家はとっくにゴミ屋敷になっている。
休みのたびにようすを見に来てあげている私は、本当に優しいと思う。
あきれた気持ちで掃除を終えて、お昼ご飯を作る。
今日はチャーハンに決める。本当はもっとちゃんとしたものでもよかったんだけれど、
先生がチャーハンがいいって言ったのでそうした。私もラクだから別にいい。
炒り卵を入れる。先生が卵が好きっていうのはどうでもよくて、単においしいからだ。
刻んだレタスを入れる。先生が『シャキシャキしておいしい』って言ってくれるのはどうでもよくて、
単に栄養があるからだ。
そうしてご飯を作り終わると、私と先生とチクビで小さいテーブルを囲んで、お昼の時間になる。
先生は『おいしい』ばっかり言う。もっとほかに気の利いたコメントをしてほしいと思うけれど、
この人はそういうのが苦手だっていうのがわかって、あきらめた。
でも、先生がそう言ってくれるたびに、私はなんだか、あったかい、ぽわぽわした気分になる。
ご飯のあとでまたマルつけを始めた先生の横に座って、私はチクビと遊ぶ。
私の手の中でチクビはころころと転がる。ほおずりをしてくれる。かわいい。
特に深い意味はないけれど、ふと、先生の顔を横目で見る。
ほおづえをついてペンを動かす先生は、学校であまり見ない顔をしている。
真面目な顔。大人の顔。男の人の顔。
黙ってこういう顔をしていれば、まあ、見られない顔でもないと、私はそう思っている。
先生が気づいて、私と視線がぶつかる。
小さく笑うと、私の頭に手を乗せる。そっとなでてくれる。
「……」
ほんの少し、だけれど、なんだか落ち着くからしたいようにさせてあげることにする。
先生は、静かな時間になると、決まって私の頭に手を乗せる。
こういうときは、私も先生もなんとなく、口を開かないで時間の流れるままにしている。
私のてのひらの中で、チクビがころころと転がっている。
特に深い意味はないけれど、先生の肩に、こてん、と頭を乗せてみる。
一瞬驚いた顔をして、少し赤くなる。体がかたくなる。
頭をなでたりして子供あつかいするくせに、ちょっとこっちから動くとこれだ。
私は優しいから、気づかないふりをして、大人しく頭をなでられてあげている。
先生の手は、あたりまえだけど、大きい。大人の男の人のてのひら。
パパみたいにごつごつはしてない、柔らかくて大きくてあったかいてのひら。
ゆるゆると時間が過ぎていく。この時間を私はけっこう気に入っている。
でも、
「先生」
「ん?」
なでてくれるだけじゃ、少し足りない。肩を貸してくれても、まだ少し足りない。
「私、いつも、がんばってます」
「?……うん」
私だって、たっぷりサービスしてあげてるのだ。
先生も、もっと私にサービスしてくれていいと思う。
「料理も掃除も洗濯も予習復習も毎日やってるんです。昨日のテストだって満点でした。
今日も朝から先生の家の掃除なんてして、お昼まで作ったんですよ。
こんなよくできた小学生なんて、日本中さがしたってそうそういないですよ」
ぽかんとした、どうしたらいいのかよくわかっていない顔をする。
先生はひどく鈍いところがあるから、これくらいじゃ伝わらないのだ。
だから、もうはっきりと言う。
「……がんばった生徒を、先生はほめてあげるべきだと思います」
ちゃんとした見返りを要求してるだけのはずなのに、なんだかすごく恥ずかしくなって目をそらした。
少しの間。先生が小さく笑う声がした。
「ひとはちゃんはえらい」
「……」
「ひとはちゃんはすごい。ひとはちゃんみたいな子は、たぶんどこにもいないと思う。
言い訳してサボっちゃうこともあるけど、本当はすごくがんばりやさんなんだよね」
先生の言葉は静かで優しい。
私のてのひらの中で、チクビがころころと転がっている。
頭の上で大きなてのひらがわしゃわしゃと動いた。
「わかりづらいけど、僕はちゃんと知ってるから。疲れちゃったら、僕のところで
休んでいっていいから。いつでも来ていいからね」
顔を伏せた。
「……モテないからって小学生まで口説くんですか。どうしようもない変態ですね」
「え、ええ?そんなのじゃないのに」
「ほめ方だってまだまだです。六十点です。そんなのじゃ私のやる気は回復しませんよ」
「厳しいなあ……」
顔を見られないようにするのに、少し気を使う。
どうしてこんなになってしまうのか、それはわからない。
嬉しいなんて、思ってるわけじゃないのに。本当に、思ってるわけじゃないのに。
こんな……だらしなくゆるんでる顔、先生に見られたら生きていけない。
「ひとはちゃん?」
「……まったく、仕方ないですね。来週もう一度チャンスをあげますから、それまでにしっかり、
ほめ方の勉強しておいてください。合格するまで、何回でもやらせますからね」
先生が苦笑いした。また頭をなでてくれた。
もう一度、今度は先生の胸に頭を倒した。
先生の顔は見えないけれど、どうせまた赤くなっているのだ。体がぴくっとしたからわかる。
やっぱり、先生をからかうのは面白い。せいぜいどぎまぎさせてやろう。
なんで私がこんなことするのかなんて、いろいろ考えて、頭の中がごちゃまぜになって。
いくら考えたって答えなんて出ないのに。
だってやっぱり、深い意味なんてないのだから。
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最初はチクビに会うためだけに行っていた。わざわざ合鍵まで作って、あの部屋まで。
でも今は、それだけじゃない。
悔しいけど、認めたくなんかないんだけど、私は、先生にも会いたいと思っているのだ。きっと。
先生に頭をなでてもらうと、不思議と落ち着く。
先生にほめてもらえると、またがんばろうって気になる。
先生と一緒にいると、たまに、ずっとこのままでいたいと思うこともある。
この気持ちをなんていうのか、私にはよくわからない。
わからないけれど、今はこのままでいいとも思う。
毎日がんばって、休みの日には先生の家でゆったり過ごして。
そういうふうに過ごしていける今が、私は少し、しあわせだと思う。
ただ、ひとつ。
もう何年かして、先生がそのときまだ一人で寂しそうにしていたら、私が隣で、
また頭をなでさせてあげようって、そう思っている。
パパにも、みっちゃんにもふたばにも言えない、これは私だけのひみつ。
最終更新:2011年02月25日 23:28