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 桜が丘は、言うなれば腰ほどの高さの水に浸された。

 私たちの桜高校舎がふつうの人だとして、その腰のあたりまで、街が水に覆われてしまったという意味だ。

 部室で練習をしているうちにそうなっていたから、原因はわからない。

 夢なんじゃないかと澪の頬をつねったらお返しにはたかれて、ほっぺが膨れるような感覚に悶えた。

 どうも、夢ではないようなのだ。

 どこかで電線が切れたのか停電になってからは練習もせず、

 私たちは、見慣れた街がうす青い水に浸され、静かに揺れるのをぼんやりと眺めて過ごしていた。

律「……なーんじゃこりゃ」

唯「なんだろうねぇ」

 真夏の白い日射しが、水面をじりじり焼いていた。

 焼け石に水が完全に逆転している。

梓「とりあえず、これじゃ帰れませんね」

澪「そうだな……どうしようか」




紬「持ってきたケーキももう食べちゃったから、お腹すいちゃったら困るわね」

唯「んー……憂も和ちゃんも無事かなあ。さりげ、緊急事態だよね」

 唯が言ったので思ったが、おかしなことに、水面には何も浮いていない。

 よく晴れた日だったし、誰も外を出歩いていなかったということもないだろう。

 ……要するに、水死体がない。

 それがヘンなのだ。

律「携帯も圏外だし、心配だな」

 その疑問はひとまず言わないでおくことにする。

 私は携帯を開いて、机に投げた。

澪「きっと基地局も沈んで、おかしくなっちゃったんだ」

律「となると……まあ助けをただ待つしかないなあ」

梓「気長に待ちましょうか……」




 私たちはしばらく、転がったりお茶を飲んだり話したりで、時間を潰していた。

律「ひーまー……」

梓「少し暑いですね……外は涼しそうですけど」

唯「んっ!」

 アイスティーの氷を頬張っていた唯が、なにかひらめいたらしく手を叩いた。

唯「あほえ、みんわれいぶあびひょーよ!」

律「それで伝わると思ってるのか?」

唯「……ぺっ」

 唯はつまらなそうに氷を手に吐き出し、机に乗せると私のほうに指で弾いた。

唯「あのさ、みんなで水浴びしようよ」

唯「水浸しの学校で遊べる機会なんて、なかなかないよ」

紬「確かに! 面白そう!」

 いちばんにムギが手を合わせて賛同した。




澪「……唯、さっき自分で緊急事態って言ってたのに」

唯「だからって楽しまないのは損だよ! ほらそれに、暑くて汗かいてると水分がもたないよ!」

 遊んでたら余計に汗もかくだろうけれど、私も水浸しの学校を探検してみたいと思った。

律「まあ、唯の言うことももっともだな。ずっとここにいても暇だし、せっかくの機会だからいいじゃん」

澪「けど、タオルとかないと、終わった後冷えて体力がもたなくなるぞ」

唯「今日水泳だったから、私たちはタオルあるよ」

梓「私も、一応あります。ちょっと濡れてますけど」

律「……ということだ、澪。タオルくらい貸すから、遊ぼうぜ」

 ぽんと肩に手を置いて、そっと握る。

澪「けど、水着は?」

律「それぐらい、さわちゃんのコスプレ棚にあるだろ」

澪「……そういえば、あったような気がするな。じゃあ、そうするか」




 私たちは水着に着替えて、タオルを掛けて乾かしておくと、音楽室から進み出た。

 澪は私たちと少しだけ違うスクール水着で出てくると、心底安堵した顔を見せた。

唯「今、どこくらいまで水が来てるのかな……って、うわっ」

 階段を先頭で駆け下りた唯がうろたえた。

 追いついて見ると、2階の廊下に降りる階段の、1、2、3……4段目まで水に浸っていた。

律「ちょうどいいくらいだな。天井くらいまで来てたら探検ともいかないし」

澪「いやそれよりさ」

 階段を下りんとした私の肩を澪が掴んだ。

澪「私たち、救助を待つといっても、私たちがここにいるのは外からわからないじゃないか」

唯「そういえばそうだね。どしよ」

律「屋上にSOSサインを書いとくべきだろうな。屋上、開いてるっけ」

梓「確かめてみましょう」




 また3階に戻って、私は屋上への扉のドアノブをひねり、力一杯押してみた。

 少しだけガタンと音を立てて動くとひっかかる。

 鍵がかかっているみたいだった。

律「だめだ、開かない」

 みんなは少し俯いた。

 わずかな沈黙のあと、澪が口を開く。

澪「鍵をとってくるしかないな……」

 それしかないとみんな分かっていた。

 だけど口にするには、少々勇気のいる言葉だったと思う。

 せっかく澪が言ってくれたのだ。なんとしても応じたい。

律「……SOSサインは、教室の机を並べて書けると思うから」

律「みんなは、机を上に運んでくれないか」




紬「……いいけど、職員室は1階なのよ? りっちゃんが泳ぎ得意なのは知ってるけど」

紬「鍵を探して、取ってきて戻ってくるなんて流石に無理よ」

律「わかってるよ。けど今、いい方法を思いついたんだ」

 私は階段を下りて、水辺に向かった。

律「ついてきてくれ」

 初めて足を入れた水の温度は、ちょうどぬるいものだった。

 みんなで腰あたりまでざぶざぶと浸かり、手近な教室に入る。

 目的のものはぷかぷか浮いていて、すぐ見つかった。

 各クラスに置いてある、予備のゴミ袋だ。

唯「あ、それを空気のタンクにするんだね?」

 ぽんと唯が手を打つ。

律「そうそう。これだけ大きな袋なら、帰りまで十分持つんじゃないかな」




梓「水圧とか……大丈夫ですかね」

澪「だめそうだったらすぐ戻ればいいだろ、な律」

律「だな」

 私は袋を引き出して、空気をバサッと詰めて口をねじった。

 澪も同じように、袋の口をしっかりねじり、左手で握りしめる。

律「……え、何してんのお前」

澪「え、私もついてくから、2つ要るだろ?」

 しれっと澪は言う。

 そうすることが当然というか、

 そうすること以外は異常だと言いたそうなぐらいの勢いだ。

紬「そうね。一人じゃもしもって時に危険だし、二人のほうがいいわ」

律「いや、だけど……」




 ムギのいうことはもっともだ。

 もし奥まで行ったとき、うっかり袋を離してしまったりしたら一巻の終わりになりかねない。

 複数のほうが、安全は安全だ。しかし。

律「……澪じゃ、心配だ」

 私は小さな声で、ほんの少しばかりの嘘をつく。

 本当は、澪が一番信頼できる。

唯「じゃあ、私がついてってあげるよ」

律「いや、唯は余計に心配だ」

唯「ちぇ……あずにゃん、後で一緒に行こうね」

梓「……律先輩たちが無事に帰ってきたらですよ」

 聞こえてるぞ。私は毒見役か。




 歯噛みしていると、澪が私の肩にそっと触れた。

 急に裸の肩が暖かくなったので、少し驚く。

澪「……諦めろ」

 何がだよ。

律「……わかったよ。そんなに私が心配なら仕方ない」

 私は澪の左手を、右手でしっかりと、指を絡めるようにして握った。

澪「律……」

律「いいか、絶対に離すなよ」

 澪はゆっくり頷いた。

紬「それじゃ私たちは、机を3階に運んでるわね」

律「ああ。ちゃんと鍵とって戻ってくるぜ」

唯「りっちゃん、澪ちゃん、よろしく!」




 階段を一段下りた。

 ゴミ袋がぷかりと水面に浮き、水は胸の下まで来た。

 また一段下りる。

 左腕に力を込めて、袋を沈める。

 思ったより浮力があるけれど、手放すことはできない。

律「じゃ、行くぞ」

 せーの、と合図をしていっぱいまで息を吸い、階段のかどを蹴った。

 視界が暗い青のマスクをかけたように淀む。

 浮力に引かれ浮かびあがりそうな体は、しかしゆっくりと床に足を着けた。

 窓から射す太陽の光には目を向けず、壁を蹴って進んでいく。

 が、ゴミ袋のせいかあまり勢いがつかないで止まってしまう。




 私は苦い顔で澪のほうを見た。

 澪はぷくりと小さな泡を吐くと、いつもらしく、階段に足を乗せた。

 どうしようもなく、全身がふわふわする。

 奇妙な感覚に、うす暗くて蒼色の校舎の中で包まれている。

 それがとても不思議で、心地よくて、楽しい。

 水の中って、空気中より抵抗が多いのに、どうしてこう自由な感じがするのか。

 ふわり、ふわりと澪と一緒に沈みながら、

 私はそんなどうしようもない思案をめぐらせた。

 1階に降り立つと、私たちは袋の口に口元を当てた。

 少しだけ握力をゆるめ、息を吸う。

 水圧のせいか、思った以上に空気が噴き出し、むせかけた。

 どうも、想像していたような、呼吸みたいにあっさりとした行為にはならない。

 ……少し、面倒くさいな。




 息苦しさが去るまで、何度か呼吸をするとまた袋の口をねじった。

 澪の手を引いて、スキップでもするみたいな格好で床を蹴り、泳いでいく。

 今度はすぐ苦しくなって、袋の口を当てながら慎重に進んだ。

 澪も苦しいのは同じみたいだ。

 ただそれでも、この状況での空気の大事さをわかっているのか、

 まだ我慢して歩き続けるようだった。

 私も少し頑張ろう。

 袋の口を、二度、三度、縛り上げるようにねじる。

 職員室の前まで来ると、息継ぎをする澪の横でドアを蹴り開けた。

 水がぐわっと動いてよろめき、澪の袋からごぼごぼっと空気がこぼれた。

 つないだ手が振りほどかれ、げんこつをくらう。

 水中でも、澪のこぶしは変わらずに痛かった。




 職員室の壁に、生徒に貸し出す用の鍵が並べて掛けてあるのは知っていた。

 私たちは呼吸をしながら、「屋上」のプレートのついた鍵を探す。

 少し手間取ったものの、無事に発見して、私たちの手のひらの間に挟んで持った。

 まっすぐ戻ろうとは思っていたけれど、

 職員室の隣、「生徒会室」の札がかかった扉が気になった。

 指差して示すと、澪も頷いた。

 袋の中の酸素濃度は、まだそれほど低くなっていないようだ。

 頭痛はするが、様子見くらい問題ない。

 生徒会室の前に立ち、扉を開けて中を覗き込む。

 いつも埃っぽい生徒会室は、真っ青に澄んでいた。

 中へ入り、しゃがみこむようにして床全体を眺めた。

 ……誰もいない。

 むだな息を吐いてしまった。




 頷き合って生徒会室をあとにし、階段に向かう。

 澪の手を握り、鍵の感触をたしかめながら、ゆっくりと。

 水底は凄く心地いいが、死ぬわけにもいかない。

 そう、皆のために鍵を持ち帰る。

 そして屋上にSOSと机を並べ、助けを待つ。

 どこまでも続くような、水面の上で。

 漣の立つ音もしないほど、静謐な水面の上で。

 呼気の入った袋を掲げ、力を抜き、ふわりと浮いていく。

 階段に足が着き、二段のぼると水面から顔が出た。

律「ぶはぁっ!」

澪「ばあっ!」

 耳がきーんとした。

 とりあえず私たちは壁にもたれかかり、呼吸を整える。




律「けはっ……澪」

 咳きこむと、少し水を吐いたような気がした。

 実は、危ないところだったのかもしれない。

澪「……なんだ、りつ」

 苦しそうに澪が答えた。

 いっぱいいっぱいだ。私も、澪も。

 だけど、思ったから、言いたい。

律「わ、私は……貝になりたいっ」

澪「……じゃあ、私は、ナマコ……」

律「なんだよぉ、それ」

 数分ぶりに生還して、初めて澪とかわす会話がこんなこととは。

 どさくさで落ちていた鍵を拾い上げ、立ち上がると澪に手を伸ばす。




律「唯たちのところに行こう。あまり遅いと心配するし」

澪「あぁ……」

 必要もないのに手をつなぎ、姿勢を低くして泳ぐような格好で歩く。

 廊下には唯たちが運び出したのか、机がいくつも浮いている。

 私は足を止め、振り返った。

 私たちの歩いてきた筋をなぞるように、水面に小さな揺れの波があった。

 私はこれでも知っていた。

 この小さな水面の揺れは、澪というのだ。

律「澪、消えちゃうかな」

澪「えっ?」

 驚いたように澪は私を見つめた。

 ちゃんと意識して、平坦なアクセントで言ったけど、伝わらなかったみたいだ。




 澪は私の見ている方を見て、ようやく

澪「あぁ、澪か」

 と合点がいったように言う。

律「そ、澪の澪」

澪「確かに、ここから先は机がじゃまで消えちゃうかもな」

律「そうだろ? なんか寂しいよな……」

澪「はいはい、ありがとう。私は消えないから元気出せ」

 元気でないかも。

 口の中で呟いて、私は机をかきわけ、唯たちを探した。

 結局、唯たちは踊り場でそわそわして待っていた。

 あと10秒で助けに行くところだったと。

 本当かよ。


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