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この書物はマルクス主義の唯物史観を現代的観点から再生させることを目的としているように思える。
骨太で刺激的論点が満載された画期的とも言える著作である。
現代社会に対する問題意識を持って歴史を振り返るときに、こういう理論的書物が存在することは実にありがたい。
すべての議論に賛同するわけでないにしても、議論の叩き台として高い水準の出発点を与えてくれる。
社会構成体(氏族社会・国家・近代国家)の歴史を交換様式(A:互酬、B:略取と再分配、C:商品交換、D:X)の分析から読み解いていく。
各構成体はそれぞれA、B、Cが主たる交換様式として対応している。
最終的に、世界共和国への期待が語られるわけだが、そこで主たる交換様式は名付けられていないDである。
この書物への評価は、最終的にはこの交換様式Dの分析にかかるといっていいはずなのだが、残念なことにこの部分は充実しているとは言い難い。
世界共和国が現実にはまだかなり遠い段階なので致し方ないとも言えるし、最初からそういう言い訳を前提していると批難すべきであるかもしれない。
こういう書物の読者は、複雑な現実を読み解くことで未来への希望やら処方箋やらを入手したいと思うであろう。
だが、ここでされているような射程の深い議論や理論枠組みは、世界史全体を理解するような大きな視野を提供してくれるが、直近の現実に対して有効な処方を与えてくれるわけではない。
まずそこの勘違いをしないように気をつける必要がある。
一つの理論装置の射程が500年、1000年単位であるとすると、それが実現するまでの紆余曲折というかダイナミズムは、今ここで生きている人間のとうてい手の及ぶところではない。
最善を尽くしても歴史の不条理さに翻弄されるばかりで、数百年後に収まるべき所に収まったとしても、慰めにはならないだろう。
マルクス主義の失敗は、歴史の必然を見通せたらそれを自分で実現できると思ったところにあるのではないか。
だが、数百年必要な歴史過程は、やはり数百年必要なのだ。
わかっていてもそれをたぐり寄せることはかなわない。
そういう意味で、この本の読者は最後に絶望にたどり着くのが正しい読解であると思う。
それにもかかわらず、このような理論は有用である。
愚かな希望や見込みのない処方箋にかかずらわなくてすむようになる。
この本の著者は、そこまでの主張はおそらくするまい。
だが、結局の所言っていることは紙一重なのだ。
あれもダメ、これもダメを重ねたあげく、現在と切断されたところに未来の希望を語る。
歴史の必然の理不尽さに耐え、それでも覚悟を決めて生き続けるしかない。
知識人の特権的な思い上がりを捨てて、永久革命の艱難辛苦を選び取っていくしかない。
つまりはそういうことだろう。
そこまで腹をくくることができるならば、世界史の構造分析も有用な道具として使っていける。
実際この本で主張される「資本=国家=ネーション」の三位一体構造は、現代社会の分析としてよくできている。
この本で指摘されるまで気づかなかった多くの観点が含まれている。
野心的な論考も多いように思われて、刺激的である。
細かなあらをつつくのは専門家に任せるしかないが、すべてにおいて説得的であったわけでないことも一応は言っておく。
全体の基本コンセプトに関するところで、どうしても気になっていることがある。
交換様式A(互酬)に関して、序説、第1部と第2部以とでは概念的にぶれがあるような気がしている。
最初の方では、「互酬」は「贈与」を中心とした共同体間の概念で、共同体内の「共同寄託・再分配」と区別されることが主張されている。
この「共同寄託・再分配」というのは、交換様式の種類からはなぜか除外され、半ば無視されていると言ってもいい。
だが、第2部以降の議論で出てくる「互酬」というのは、むしろこの「共同寄託・再分配」の意味合いが濃いように思えてならない。
そして、最後の最後に「世界共和国」の議論で、「贈与」を中心とした「互酬」概念が復活してくる。
「互酬」概念は、交換様式Aのみならず交換様式Dにおいても、高次元での復活という位置づけになっている。
いわば、この本の中心コンセプトといって過言でないのに、そこが詰められていないのは惜しい。
交換様式Dに関しては、普遍宗教と社会主義運動について語られているが、文化活動一般は政治・経済と区別される限りにおいて、「互酬」原理に則っているように思えるのに、この本ではほとんど語られない。
「互酬」概念の混乱が、結構大きな領域の見落としにつながっているのではあるまいか。
国語や国民文化がネーションの基軸に来るはずだし、世界共和国の実現を困難にする障壁でもあろう。
一方、インターネットやIT技術はこの障壁を低くする。
交換というときに、物財ばかりをイメージしているようであるが、知財においては、およそ様相を異にする。
おそらく交換様式Dとは、知財の交換を主とするような様式なのだ。
デジタル化された知財は、占有になじまないから、フリーで流通し資本制の制約を超える。
また、国家の枠組みも簡単に越境していく。
ネット社会を見ていると、世界共和国も意外と遠いものでない気がしてくる。
この本の議論では、その辺りが全然押さえられていないのが残念だ。
でも、こうして検討してみると、前半で書いたこととはうらはらに、社会に希望は結構あるのかも知れない。
政治(国家システム)・経済(資本主義体制)が行き詰まっても、最悪(戦争)を回避する方向性は残っていそうだ。
希望があるならそれに越したことはない。
ニヒリズムに耐えることを要求するのは一般向けではない。
この辺が柄谷先生の限界なのであろうか。
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この書物はマルクス主義の唯物史観を現代的観点から再生させることを目的としているように思える。
骨太で刺激的論点が満載された画期的とも言える著作である。
現代社会に対する問題意識を持って歴史を振り返るときに、こういう理論的書物が存在することは実にありがたい。
すべての議論に賛同するわけでないにしても、議論の叩き台として高い水準の出発点を与えてくれる。
社会構成体(氏族社会・国家・近代国家)の歴史を交換様式(A:互酬、B:略取と再分配、C:商品交換、D:X)の分析から読み解いていく。
各構成体はそれぞれA、B、Cが主たる交換様式として対応している。
最終的に、世界共和国への期待が語られるわけだが、そこで主たる交換様式は名付けられていないDである。
この書物への評価は、最終的にはこの交換様式Dの分析にかかるといっていいはずなのだが、残念なことにこの部分は充実しているとは言い難い。
世界共和国が現実にはまだかなり遠い段階なので致し方ないとも言えるし、最初からそういう言い訳を前提していると批難すべきであるかもしれない。
こういう書物の読者は、複雑な現実を読み解くことで未来への希望やら処方箋やらを入手したいと思うであろう。
だが、ここでされているような射程の深い議論や理論枠組みは、世界史全体を理解するような大きな視野を提供してくれるが、直近の現実に対して有効な処方を与えてくれるわけではない。
まずそこの勘違いをしないように気をつける必要がある。
一つの理論装置の射程が500年、1000年単位であるとすると、それが実現するまでの紆余曲折というかダイナミズムは、今ここで生きている人間のとうてい手の及ぶところではない。
最善を尽くしても歴史の不条理さに翻弄されるばかりで、数百年後に収まるべき所に収まったとしても、慰めにはならないだろう。
マルクス主義の失敗は、歴史の必然を見通せたらそれを自分で実現できると思ったところにあるのではないか。
だが、数百年必要な歴史過程は、やはり数百年必要なのだ。
わかっていてもそれをたぐり寄せることはかなわない。
そういう意味で、この本の読者は最後に絶望にたどり着くのが正しい読解であると思う。
それにもかかわらず、このような理論は有用である。
愚かな希望や見込みのない処方箋にかかずらわなくてすむようになる。
この本の著者は、そこまでの主張はおそらくするまい。
だが、結局の所言っていることは紙一重なのだ。
あれもダメ、これもダメを重ねたあげく、現在と切断されたところに未来の希望を語る。
歴史の必然の理不尽さに耐え、それでも覚悟を決めて生き続けるしかない。
知識人の特権的な思い上がりを捨てて、永久革命の艱難辛苦を選び取っていくしかない。
つまりはそういうことだろう。
そこまで腹をくくることができるならば、世界史の構造分析も有用な道具として使っていける。
実際この本で主張される「資本=国家=ネーション」の三位一体構造は、現代社会の分析としてよくできている。
この本で指摘されるまで気づかなかった多くの観点が含まれている。
野心的な論考も多いように思われて、刺激的である。
細かなあらをつつくのは専門家に任せるしかないが、すべてにおいて説得的であったわけでないことも一応は言っておく。
全体の基本コンセプトに関するところで、どうしても気になっていることがある。
交換様式A(互酬)に関して、序説、第1部と第2部以とでは概念的にぶれがあるような気がしている。
最初の方では、「互酬」は「贈与」を中心とした共同体間の概念で、共同体内の「共同寄託・再分配」と区別されることが主張されている。
この「共同寄託・再分配」というのは、交換様式の種類からはなぜか除外され、半ば無視されていると言ってもいい。
だが、第2部以降の議論で出てくる「互酬」というのは、むしろこの「共同寄託・再分配」の意味合いが濃いように思えてならない。
そして、最後の最後に「世界共和国」の議論で、「贈与」を中心とした「互酬」概念が復活してくる。
「互酬」概念は、交換様式Aのみならず交換様式Dにおいても、高次元での復活という位置づけになっている。
いわば、この本の中心コンセプトといって過言でないのに、そこが詰められていないのは惜しい。
交換様式Dに関しては、普遍宗教と社会主義運動について語られているが、文化活動一般は政治・経済と区別される限りにおいて、「互酬」原理に則っているように思えるのに、この本ではほとんど語られない。
「互酬」概念の混乱が、結構大きな領域の見落としにつながっているのではあるまいか。
国語や国民文化がネーションの基軸に来るはずだし、世界共和国の実現を困難にする障壁でもあろう。
一方、インターネットやIT技術はこの障壁を低くする。
交換というときに、物財ばかりをイメージしているようであるが、知財においては、およそ様相を異にする。
おそらく交換様式Dとは、知財の交換を主とするような様式なのだ。
デジタル化された知財は、占有になじまないから、フリーで流通し資本制の制約を超える。
また、国家の枠組みも簡単に越境していく。
ネット社会を見ていると、世界共和国も意外と遠いものでない気がしてくる。
この本の議論では、その辺りが全然押さえられていないのが残念だ。
でも、こうして検討してみると、前半で書いたこととはうらはらに、社会に希望は結構あるのかも知れない。
政治(国家システム)・経済(資本主義体制)が行き詰まっても、最悪(世界戦争)を回避する方向性は残っていそうだ。
希望があるならそれに越したことはない。
ニヒリズムに耐えることを要求するのは一般向けではない。
この辺が柄谷先生の限界なのであろうか。
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