戦国策

貧窮なれば、父母も子とせず
蘇秦…合従論(秦に対抗する同盟)で天下を手玉にとった。
蘇秦は秦の恵王に十回も上書したが、認めてもらえなかった。着ていた黒貂の皮衣は破れ黄金百金を使い果たして小遣い銭にも事欠いた。蘇秦はやむなく秦を去った。
木をからげてひっかつぎ、ズダ袋をぶらさげて、トボトボと足を引きずっていく。体はやせおとろえ、顔色は黒ずみ、いかにも無念そうである。
家についたが、妻は機織りの手を休めない。兄嫁は飯の仕度もしてくれない。父母は口をきこうともしない。蘇秦は長嘆息した。
「妻は夫とも思わず、兄嫁は弟とも思わない。父母もそしらぬ顔。それもこれも、みな秦のせいだ」
それからというもの、夜は数十巻の書物を積み上げて読書にいそしんだ。ことに太公望の兵法を知ってからは、わき目もふらずにそらんじ、それを要約して、繰り返し遊説術を研究した読書して眠くなれば、錐を股に刺し、流れる血をふきもしない。
「今度こそ王を説き伏せてやる。金銀綾錦を頂戴し、大臣にならずに居るものか」
こうして一年、ついに研究は成り、「揣摩の術」を会得した。
「これなら現代の王にピタリだ」
まず燕の烏終闕貧窮をへて趙に入った。きらびやかな宮殿で趙王に謁見し、完全に意気投合した。趙王はことのほか喜び、武安君に封じたうえ、宰相にとりたてた。蘇秦は戦車百輛を従え、錦千束、白壁百対、黄金万鎰を車に積んで諸国を遊説し、連衡を論破して合従を約束させ、秦の勢力を抑えた。蘇秦が趙の宰相になって、秦は孤立した。
 かくて、天下万民のこと、王侯の威信、謀臣の権力、いずれも蘇秦の考えで左右された。諸侯は糧食を浪費せず、一兵も動かさず、一矢も用いずに、兄弟よりも親しく付き合うようになった。一人の賢人が現れて、天下を服従させたのである。「政治力を用いて武力を用いない。朝廷の中だけで用いて国外には用いない」とたたえられた。蘇秦こそは、秦の盛時にあたって、黄金万鎰を資金とし、威風堂々車を連ねて函谷関以東の諸国を従え、趙の声望を高らしめた人物である
蘇秦は、裏町の貧乏長屋の出にすぎない。それがひとたび認められて後は、車を駆って天下をめぐり、諸侯に遊説して秦と連合する連横をはばみ、秦と対抗する合従策を実現する第一級の国際政治化になった。
楚王に遊説しようとして洛陽を通ったときのことである。両親は、部屋を片付け道を清め、楽隊つきの酒席を設けて、三十里先まで出迎えた。妻はオドオドして伏し目がち、兄嫁は、はいつくばってにじり寄り、平謝りにむかしのことをあやまった。
「姉上、昔は威張っていたのに、いったいどうしたのですか」
「あなたが出世してお金持ちになったからですわ」と言うの聞いて蘇秦は、
「ああ、貧乏だと両親までが知らぬ顔、出世をすれば、親戚までが恐れ入る。この世に生まれたからには、地位や金銭もあだやおろそかにはできない。

百里を行く者は九十里を半ばとす
重臣の一人が秦の武王にこう語った。
「大王におかれては、斉を軽んじ楚を侮り、そのうえ韓を属国あつかいしておられますが、わたくしには納得がいきません。『王者の軍は勝っても驕らず、覇者たるものは苦しめられても怒らない』といわれます。
勝っても驕らないから、他国を心服させることができるのです。また、苦しめられて怒らないから、隣国を服従することができるのです。ところが、いま王は魏・趙を押さえ込んだことに満足して、斉との関係が悪化することを意に介しておりませんが、これは驕っている良子。また、韓と宜陽に戦って勝ったものの、韓の同盟国である楚との関係を修復しようとなさいませんが、これは怒りをおさめていない証拠です。驕りも怒りも、覇者たるもののなすべきことではありません。王のためにも、ひそかにいかがなものかと思うしだいです。詩にも「初めはなべて良かりしものを、なぜに終わりを良くしたまわぬ」とあります。だから古代の聖王たちも、物事の初めと終わりをことのほか重視したのです。
なぜそう言えるのでしょうか。例をあげてみましょう。
昔、知伯は范氏、中行氏を滅ぼしたうえ、趙氏の本拠晋陽を包囲して当たるべからざる勢いでしたが、結局は趙氏、魏氏、韓氏の連合軍によって討ち取られてしましました。また、呉王夫差は越王勾践を会稽山に追いつめて降服せしめたあと、斉と戦って勝利を収め、黄池に諸侯を会盟し、宋討伐の軍を起こすなど、一時は天下に号令しましたが、最後は勾践に捕えられ、自害する羽目になりました。もうひとり魏の恵王にしても、初めは楚を討ち、斉と戦って勝利を収め、韓、趙の両国を力で押さえ込み、大勢の諸侯を従えて天子に朝見ほどの勢いでしたが、後には斉と戦って太子を捕えられたうえ、わが秦に対してもまったく頭があがらなくなりました。この三人の者は、それぞれに功績がなかったわけではありません。初めは良かったものの、最後まで持続できなかったのです。
今王は宜陽を攻略して韓の領内を荒らしまわりましたが、天下の人々に一言も文句をつけさせませんでした。さらに、各国と断交して両周の領地に侵攻しましたが、その間、わが陽侯の塞に軍を差し向ける国はひとつもありませんでしたし、楚の黄棘を陥れたにもかかわらず、楚、韓の連合軍はあえて反撃しようともしませんでした。もしここでもう一段のツメを怠らなければ、昔の三王や五覇にも匹敵するような事業を成し遂げることができましょう。逆にツメを怠って、あとあと患を引き起こすような事態になれば、天下の諸侯や中原の人士から夫差や智伯の二の舞を演じたと笑われましょう。詩にも『百里を旅する者は九十里を半ばと心得よ』とあります。これまたツメの難しさを語った言葉はほかなりません。 いま大王にしても楚王にしても驕りの色が見えます。わたしの見ることろ、天下の情勢は王たる者の心の持ち方にかかっています。したがいまして、諸国の攻撃を受けるのは、楚でなければ必ず秦ということになりましょう。なぜそうだとわかるのか。
わが秦は魏を助けて楚の動きに備え、楚は韓を助けてわが秦の出方を伺っていますが、この四カ国の軍事力は匹敵しているので、互いに攻撃をしかけることができません。ただし、同盟に加わっていない斉、宋の両国がどちらにつくかによって、情勢はがらりと変わります。たぶん斉、宋を味方につけた側が先に攻撃を仕掛けるはずです。わが秦が先に斉、宋をだきこめば、韓は消滅を免れません。韓が消滅すれば、楚は孤立して他国の攻撃にさらされます。逆もまた同じこと。もしこのような事態になれば、楚も新も必ずや天下の笑いものになりましょう」

遠交近攻
「魏と親しくしたいが、なにしろ信頼のおけない国なので、困っている。どうしたものか」
「こちらから朝貢してはなりません。土地を与えて機嫌をとってもいけません。攻撃するにかぎります」
秦の昭王は、魏を攻めた。邢丘が陥ると、魏は朝貢を請うた。
「秦と韓の国境は、刺繍の糸のように交錯しております。秦から見れば、韓は木食虫、腹の病であります。ひとたび変事が起これば、韓ほどやっかいな国はありません。韓を味方につけておくべきです」
「そうしたいと思うが、相手がきかなければ、どうする」
「韓を攻めれば、成皐への道は普通になります。太行山の道を分断すれば、上党の兵で南下できません。そのすきにどっと韓を攻める。相手は三分され、滅亡は必至です。韓はそれがわかっています。従わないはずはありません。韓が従えば、天下に覇を称えることができましょう」
「なるほど」

遠国と結んで近隣を攻める…秦の国是となる。

武安君がいうところには「命をきけば、手柄をたてなくとも罪を免れ、拒めば、罪犯さなくとも誅を受けます。それを承知しながら申し上げるのですが、どうか趙を討つのはおやめになって、人民を休養させ、諸侯の出方をごらんください。恐れ入ってくるものは手なずけ、驕れるものは討ち、無道なものは滅ぼすのです。そのうえで諸侯に号令すれば、天下を平定することができます。必ずしもいそいで趙を討つ必要はありません。「臣に屈して天下に勝つ」とはこれをいうのです。もし私の意見を聞かずに、あくまで趙を討ち、わたしを罪に陥れるつもりなら、それは「臣に勝って天下に敗れる」ということ。臣に勝って威厳を示すのと、天下に勝って声威を高めるのと、いずれがまさっておりましょうか。明君は国を愛し、忠臣は名を愛す、破れた国はもとにもどらず、死せる兵卒は生きかえらぬ、とか申します。敗軍の将たるよちは、むしろ誅に伏して殺されるほうがましです。どうかわたしの意のすることろをご推察いただきたい。

妻の身びいき、客のおせじ
斉の宰相・鄒忌は上背のあるなかなかの美男子だった。あるとき、正装して鏡をのぞいてから、妻に尋ねてみた。
「城北の徐公とどっちが男まえだろう」
「いくら徐公でも、あなたにはかないません」
城北の徐は斉の国きっての美男子である。鄒忌は信じかねた。今度は妾に聞いてみた。
「徐公とどっちが男前かな」
「もちろんあなたですよ」
翌日、客が訪れた。話の途中で、聞いてみた。
「わたしと徐公とでは、どっちが男前でしょう」
「あなたの方が上です」
次の日、徐公がやってきた。鄒忌はつくづく相手を眺めて、やはり自分がかなわないと思った。念のため鏡でたしかめてみたが、見れば見るほど見劣りがする。
その晩、寝てから考えた。
「妻がああ言ったのは。身びいきだからだ。妾はわたしがこわいからだ。客はわたしの歓心を得ようとするからだ」

威王に謁見した。
「わたしは自分で徐公の方が男前だと思っています。ところが妻も妾も、それに客までもが、口をそろえてわたしの方が男前だと申します。なぜでしょう。妻には身びいきがあるからです。妾はわたしがこわいからです。客は私の歓心を得ようとするからです。
さて、斉は領土千里四万、城百二十の大国です。当然お側に仕える女官たちは王をみびいきします。家臣たちは王をこわがります。国中の物は王の歓心を得ようとします。してみますと、あなたは目をふさがれたも同然でございます」
「よくぞ申した」
王はさっそく次のような布告を出した。
「王の過ちを直接指摘した者には、上賞をつかわす。書面で諌めた者には中賞をつかわす。市中または朝廷で批判し、それが王の耳に達すれば、下賞をつかわす」
ひとたび布告が出ると、初めのうちは、諫言に来る家臣たちで朝廷の門前がごったがえした。数か月もすると、来る者もまばらになった。一年後には、まったく跡を絶った。諫言しなくても、王に過ちがなくなったからである。
この噂が燕・趙・韓・魏の諸国に達すると、諸国はいずれも斉の朝貢の礼をとった。兵を用いずして敵に勝つとは、つまりこれをいったのだ。

三字の諫言
斉の宰相・靖郭君は領地に城を築こうとした。食客たちが中止するように諌めた。君は取り次ぎの者に申し渡した。
「客人が来ても取り次ぐ出ないぞ」
斉の者が取り次ぎを請うた。
「三言だけ話したい。それ以上話したら、釜ゆでにされてもよい」
靖郭君は会ってみることにした。男は小走りに入ってきて、
「海・大・魚」と言うなり、走り出ようとする。
「待て!」
靖郭君が声をかけた。
「わたしとてむざむざ氏にたくはござらん」
「かまわん。詳しく話してほしい」
「大魚のことをご存じでしょう。何しろ大きいので、網にもかかりません。釣り上げることもできません。それほどの大魚でも、水から跳ね上がれば、あたら虫ケラの餌食です。斉の国はあなたにとっては水にあたります。これさえおさえていれば、城を築く必要はありません。斉の国から離れたら、空までとどく城壁を築いたところで何の役にも立ちません」
「なるほど」
靖郭君は城を築くのをやめた。

意表をつく説得法
「身の程を忘れると危険だ」という寓話だが、この話の妙味は、独特の説得法。突拍子もないことを言って相手の気を引き、十分関心をよんだところで本題に入ってゆく。今日の宣伝におけるキャッチフレーズの手法である。

食客のおかえし
靖郭君がよく面倒を見た斉貌弁というものは、欠点が多くほかの食客に嫌われていた。
威王が亡くなり、宣王が位を継いだが靖郭君と反りが合わなかった。
斉貌弁は、王に対し「太子はよくない、王位につけるべきでない」と言ったが靖郭君は泣いて反対たなどと言って王と仲直りさせた。

泥人形とデク
孟嘗君が秦に行こうとした。孟嘗君…靖郭君の息子
「お前は、もとはといえば西岸の泥。こねられて人の形になったのだ。八月の雨で淄水が氾濫すれば、おだぶつだな」
「とんでもない、いかにも俺は西岸の泥だ。だから西岸に帰るだけのこと。そこへいくとお前は東国生まれのデクだ。人の形に彫られているが、雨で淄水が氾濫すれば、どこまで押し流されるか知れたものではない」

ところで、あなたの行こうとしている秦は秘密主義の国で、危険この上ない土地柄。一度入ったら、帰ってこられるかどうかわかりませんぞ。

孟嘗君は、自分の気に入らない食客を追放しようとした。高節の士・魯連が、それを聞いて孟嘗君を諌めた。
「木登りの上手な猿も、木からおりて水に入れば、魚にはかなわない。名馬も、険阻な道を走れば狐狸にはかなわない。また勇士の曹沫は、三尺の剣をとれば群がる敵をなぎ倒すが、鋤をにぎって働かせれば、百姓にはかなわない。このように、得手なことをさせないで、苦手なことをさせれば、聖人の堯ですら手に負えぬことがある。使った相手が無能だと、不肖者だからといって追放する。教えた相手が憶えが悪いと、愚か者だからといってやめさせる。見放された人間は、一度は他国に去るだろうが、いつかその怨みを報いに帰ってくる。あなたのやろうとすることは、世間一般の愚人のやること、いや、それに輪をかけたやり方ではないか」
「なるほど」
孟嘗君は追放するのを思いとどまった。

食客・ふうけんのはかりごと
図々しい食客が、孟嘗君から住む場所や母親の生活費まで優遇してもらった。
貸金の取り立てに出たが「不足するものを買ってきてほしい」という
するとふうけんは取り立てをやめて証文を焼き払い恩義を買ってきたと言った。

その後、狡兎三窟の思想とも言うべき人民の信頼を得、魏の招待を跳ね除け、斉の国王をあわてさせ宰相の座に戻った。

長平の戦い終わって
秦は長平の戦いで、さんざん趙をうち破り、兵を引き上げてから、講和の条件として城六つを要求してきた。趙は方針を決めかねた。秦からはおっつけ楼緩がやってきた。趙王は楼緩に言った。
「秦に城を与えるべきか」
「わたしからは何とも申し上げられません」
「そうかもしれんが、あなた個人の考えを聞きたいのだ」
すうと、楼緩は答えた。
「あなたはあの公甫文伯の母の話を知っていますか。魯の国につかえていた彼が病死したとき、後を追って自殺した女が十六人も出ました。文伯の花は、それを聞いても涙を流さない。家令が、『子供にしなれて悲しまない親がありましょうか』とたずねたところ、母は、
『賢人の孔子が魯の国を追われたとき、あの子はお供しませんでした。いまあの子が死ぬと、後を追って自殺する女が十六人も出ました。これでは立派な人物につくさずに、女にばかりつくしたといわれましょう。
と答えたそうです。そのために賢母と言われております。ところが同じことを母親でなくて妻が言えば、嫉妬深い女と言われましょう。同じことを言って、言う人が違えば、相手の受け取り方が違います。
秦から来たばかりのわたしが『与えるな』と言えば、趙のためにならず、『与えよ』と言えば、秦のためを考えている、と思われる。ですからお答えしたくないのですが、かりに王のためを考えれば、与えたほうがよいとわたしは思います」
「なるほど」と王は言った。
趙の大臣虞卿はこの話を聞いて、王のもとに伺候した。王が楼緩の話を説明すると虞卿は、
「それは、おためごかしです」
「というと」
「秦は攻めあぐんで引き揚げたのでしょうか。それとも、兵力に余裕を残しながら、同情して攻めなかったのでしょうか」
「余裕がなく、攻めあぐんで引きあげたに違いない」
「秦はどうしても攻めきれず、攻めあぐんで引きあげた。これをこちらから与える。これでは自分で自分の首をしめるようなもの。来年また攻められたら、もはや手の施しようがありません。

そのあと、楼緩と虞卿の合従論と連衡論の言いあいになる。
虞卿は6つの土地のうち、5つを斉にあげなさい、といい、楼緩は逃げる。

「趙が滅びたのは、賢人がいなかったからではなく、いても、その意見を聞かなかったからです」

努力するほど失敗する
魏の安釐王が趙の都・邯鄲を攻める計画を立てたときのことである。季梁はその知らせを聞いて旅の途中から引き返し、衣服のしわものばさず、頭の塵もそのままに謁見を請うた。
「今、帰ってくる途中、道で一人の男に会いました。東を北に走らせながら、『楚の国に行くつもりだ』と申します。『楚の国に行くのに、なぜ逆に北へ行くのか』と、聞きますと、男は、『馬はとびきり上等だ』と申します。『良い馬かも知れんが、道をまちがえている』こう言いますと、『旅費もたっぷりある』と申します。
「そうかも知れんが、道を間違えている』と重ねて言いますと、男は、『いい御者がついている』と答えます。
こう条件がそろっていれば、ますます楚から遠ざかって行くだけです。いま、あなたは覇王(諸侯のはたがしら)たらんとして、天下の信頼を得ようとなさる。国の大きいこと、兵の強いことをたのんで邯鄲を攻め、領土を広め名をあげようとなさる。しかし、いまここでへたに動けば、それだけ覇業から遠ざかります。楚に行こうとしながら、逆に北に向かって行くようなものです」


士の怒り
秦王(のちの始皇帝)は使者をやって安陵君に申し入れた。
「かわりに五百里の土地をやる。安陵とかえてほしい」
安陵君は答えた。
「五百里の土地と五十里の安陵をとりかえてくださるとはありがたい。しかし、この土地は先代から受け継いだものです。どうかこのままそっとしておいてほしい」
秦王は機嫌を損じた。安陵君は唐且を秦に派遣した。
秦王は唐且に向かって言った。「五百里の土地と安陵の交換を申し入れたのに、不承知とはいかなるわけだ。韓・魏はすでにほろぼしたのに、安陵君は五十里の土地を全うしている。それというのも、立派な人物とみこんで、あえて攻めなかったからだ。ところが、今、十倍の土地をやると申すのに、いやだという。わたしを軽んじてのことか」
秦王はカッとしてどなった。
「天子の怒りを知らぬか」
「存じません」
「なれば教えてつかわす。天子の怒りは、死者百万、流血千里であるぞ」
「王は士の怒りをご存じないか」
「士が怒ったとて知れたものだ。そもそも専諸が呉王・僚を刺さんとしたときは、彗星が月にぶつかった。
聶政が韓傀を刺さんとしたときは、白い虹が太陽を貫いた。要離が慶忌を刺さんとしたときは、蒼い鷹が殿上に飛び込んだ。この三人はいずれも一介の浪人だが、事をなしとげるまえに瑞兆が天から降りた。これにいま一人加わる。士の怒りとは五歩のうちに王を刺して、自分も死ぬのだ。今がそれだ」
唐且はいきなり剣を抜いて立ち上がった。秦王はさっと顔いろを変え、はいつくばってあやまった。
「ま、まってくれ。よくわかった。先生あればこそ、安陵は五十里あまりの国を全うしているのだ」

白い虹が太陽を貫いた
この話を出典とする「白虹日を貫く」という成句は、白虹が兵象、日が天子を意味し「兵乱の前兆」をあらわす言葉として、古来よりよく使われてきた。日本でも、かつて「白虹事件」があった。

「鶏口となるも、牛後となるなかれ」
「大きいもののあとにつくより、小さくても頭になれ」というのは、自尊心にアピールする殺し文句である。
逆が「寄らば大樹のかげ」


「唇竭くればその歯寒し」
切っても切り離せない関係。唇歯輔車ともいう。

駿馬を探したが見つからない。探したが死んでいた。それを五百金で引き取った。すると、それよりも高い値がつくのかと千里の馬が三馬も来たという。

荊軻…王を殺そうとして失敗した人

言い逃れのコツ
14日も滞在させて、逃がした→拘留してたのだが、やむなく許可を出して逃がした

怨みは深浅を期せず
中山君が国中の名士を招いて一席設けた。その席にいた名士の一人にスープがまわってこなかった。彼は怒りに任せて楚にけしかけて中山を攻撃させた。
そこに、王から一壺の食物を与えられて餓死を逃れた二人が王を助けた。
「わずかな施しでも、相手が困っているときにすれば効果はてきめん。ささいな怨みでも、相手の心を傷つければ、手ひどい報いを受ける。わたしは一杯のスープで国を失い、一壺の食物で勇士二人を得た」
最終更新:2011年07月26日 21:38
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