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 こんな未来があっても――――



 ――――別に、良いよね











 人類は巨人に支配されていたとか。
 世界はとても残酷だとか。
 昔の資料を紐解くと、いつだってそんな言葉が躍り出る。
 実に陳腐な決まり文句だ。昼下がりの図書館、その窓際。分厚い資料集と格闘しながら、静かに少年は息を吐いた。憂いを含んだ吐息だった。

「あー、終わんねぇ……」

 読み進めていた資料集を閉じると、力尽きたように少年は突っ伏した。限界だった。
 開館と同時に彼是四時間は缶詰しているのだが、手元のレポートには一切進んだ痕跡が見られない。期日は休み明けの最初の授業……つまりは明日なのだが、この分では最初の1ページすら埋められずに提出する事になるだろう。担任の禿げ頭が怒りに真っ赤に染まるであろうことが、今からでもありありと想像できた。

「……いっその事フケちまうか」

 囁くは悪魔の提案。仮病でも使って明日を休み、提出期限を延ばしてもらう。点数が低くなることは避けられないが、未完成のまま提出するよりはマシだろう。雲一つない晴天を見上げながら、そんなことを考える。
 だがそんな邪な考えは、突如として現れた影に打ち消された。

「ダメだよ、そんなの。ちゃんと向きあった方が良いって」

 声の方向に頭だけを動かす。予想通りの友人の存在に、聞えよがしに少年は溜息を吐いた。

「んなこと言ってもよぉ……てか、何でお前がいるんだよ」
「日課。それよりもジャンが此処にいる方が僕には珍しいよ」

 相変わらず口だけは達者だな。友人の言葉に返す気力も無く、少年――ジャン・キルシュタインは代わりに盛大に息を吐いた。

「溜息吐くと幸せ逃げるよ?」
「逃げるほど残っちゃいねぇよ」
「何時も以上に悲観的だね。そんなに特別課題は面倒?」
「ああ、全くだ。元とは言えばお前のツレのせいだってのに……」
「あはは……まぁ、運が悪かったと思って諦めて」

 三日前の授業を思い出して、少年は苦笑を漏らした。

「そういえばアイツはどうしたよ? 連帯責任で同じ課題が出されている筈だろ?」
「ああ、エレンならミカサと勉強会だよ。昨日の夜から缶詰」
「流石は公認夫婦だな、おい」

 若干の苛立ちを含んだ言葉を吐き捨て、読んでいた本を閉じる。今の気分では集中できる筈が無く、一区切りのつもりの行為だった。
 表紙が露わになる。

「『或る調査兵団の手記』。珍しいね、ジャンはこの手のものに興味無いと思ったのに」
「……課題が巨人の歴史に関するものだからな。そういうアルミンこそ、こういうのには興味無いと思ったがな」
「まさか。未知と言う点では大いに興味あるさ」

 朗らかに笑う少年――アルミン・アルレルトを見ながら、心の中でジャンは息を吐いた。
 そうか、そういえばコイツはそういう奴だったか。

「考えてみれば凄いことだと思わない?」
「……何が?」
「巨人だよ、巨人。今では実在したかどうかも分からないってのにさ。でも、確かに昔は奴らが其処らに蔓延り、人類は絶滅の一歩手前まで追い込まれていたんだ。何が原因で生まれたのが、何が原因で増えたのか、何が原因で消えたのか。詳しいことは何一つ文献に記されていない癖に、奴らがいた事だけは今でもこうやって残っている。当時の人々の記録から察するに、っていう前提条件はつくけどね。それに街外れの残骸も、大昔の壁の一部だったって――――」
「分かった、分かったから落ち着け」

 洪水のように流れ出る言葉の波に耐えきれず、両手を挙げて降参の意を見せる。興味が無いわけではないが、延々とこの話題が続くのは勘弁してほしいところだった。
 同時に、何故アルミンが二人を手伝っていないのかにも納得する。

「ま、そんだけ詳しけりゃあ、二人を手伝えないわな」
「僕としては構わないけど、エレンに猛反対されちゃったからね」
「アイツの成績を考えて行動しろよ」
「……やっぱりバレるかな?」
「余裕でな」

 クラスメートのエレン・イェーガーは、決してバカでは無い。バカでは無いのだが、成績はそれほど良くない。
 クラス一の秀才でもあるアルミンが手伝えば、ほぼ確実にバレるだろう。その程度は然程親しくないジャンとて容易に想像がついた。

「まぁ、ミカサがついているから心配は無いと思うけどね」
「どうだか」
「ははっ、手厳しいね」

 何時もそうだ。アルミンは思った。ジャンはエレンには厳しい。
 仲が悪いわけではない。エレンに訊いても同じことを言うだろう。はっきりとした物言いは人を選ぶだろうが、エレンは気にしない方だ。どちらかといえば、ジャンが一方的にエレンに厳しいだけにすぎない。
 尤もその姿勢のせいでエレンの幼馴染であるミカサ・アッカーマンに敵視されている事は、彼の身の安全の為にも考えるべき点かもしれないが。

「まぁいいや、俺はもう帰るぜ」
「課題終わって無いじゃないか」
「資料が無くても出来るさ、この程度」

 ひらひらと手を振り、さっさとジャンは荷物をまとめ始める。何事もそつなくこなせる彼のことだから、今の発言におそらく誤りは無いだろう。
 アルミンとしてはせっかくの機会なので巨人談議にでも花を咲かせたかったが、そこまで無理強いするものでも無い。
 とはいえ、一応は訊く。

「ねぇジャン。僕と巨人談議しない?」
「寝言は寝て言え」

 身も蓋も無い返答である。視線すらも合わされなかった。
 お先、と言葉を残してジャンは席を立った。代わって空いたスペースにアルミンが腰を下ろす。また明日ね、という言葉に手を振って返した。



「……巨人なんて、いねぇほうが良いに決まってら」



 零れ出た言葉に反応する者は、いない。










 前世、という言葉が有る。
 言葉の起源は知らないが、前の人生の記憶ということらしい。
 昼下がりの公園。ジャンはベンチに座ると、力なく空を見上げた。雲一つ無い晴天が、何故か恨めしい。

「あー……思い出すなよ、ったく」

 今から二千年近く前の記憶、巨人が本当に存在していた時代の話。他人に話せば与太話か妄言程度にしか受け止めてもらえないであろう記憶を、しかしジャンは確かに所持していた。
 切欠は何だったか。もう大分前の事なので、詳しくは思いだせない。気がついたら所持していた、というのが一番しっくりくる気がした。少なくとも、小学生の頃にはあった筈である。
 当たり前のように存在し、当たり前のように受け入れ、当たり前のように共存する。
 自己のアイデンティティに異常を障す事も無く、また崩壊する事も無く育つ事が出来たのは、今思えば奇跡的な所業であった。

「……くっそ」

 とはいえ、勿論問題が皆無なわけでは無かった。巨人が普通の過去の自分と、安寧が普通の現在の自分。相反する価値観を認めることには時間はかかったし、今でも巨人への恐れが無くなったわけではない。
 それに何より――ジャンが驚いたのは、今のこの世界にも彼がよく知る人物たちが居たことだ。
 それはクラスメートであり、友人であり、先輩であり、教師であり、バイト先であり。勿論前世の記憶なんてある筈が無く、皆が皆それぞれの人生を生きている。……何故だか身の回りに知る人が多いのは、きっと気のせいである。
 兎にも角にも世界は回っており、淡々と時は過ぎて行って、其処にジャンが疑問を挟む余地は無くて。
 気がつけば、十六年目に今の人生は突入していた。

「……はぁ」

 幾度となく繰り返した自問自答は、いつもと同じように答えの無いままに帰結する。考えるだけ無駄か、とジャンは髪の毛を掻き回した。昔も今も、哲学的な思考をすることは苦手だ。
 膝を叩き、ついてもない汚れを払って立ち上がる。降り注ぐ陽光に目を眇め、切り替えるように強めに息を吐きだした。先ほどまで巣食っていた感情は、それなりに霧散している。それに、今はそれよりも優先すべき事がある。

「レポート……どうすっかな」

 期日は明日まで。
 実に癪な話ではあるが、エレンが頑張っているのなら、自分がサボるわけにはいかなかった。

「ふは、ぁぁ……」

 思いとは裏腹に緊張感の無い欠伸をかましつつ、流れる雲をただ眺める。
 あの時とは異なる平和な日々。その永久の安寧を噛み締めつつ、もう一度、より大きな欠伸をジャンはかました。