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 息苦しさで目が覚めた。
 痛みで意識が戻った。
 むせ返る生臭さが、千切れた片腕が、倒れている死体が、夢ではない事を教えてくれた。

「っ……ぁぁ……」

 口を開くと掠れたような声が漏れた。空気が漏れているような声だった。
 助けは呼べないかな、これじゃ。こんな状況だというのに――――否、こんな状況だからこそ、ひどく思考は冷静に働いた。
 耳を澄ませば、そう遠く無いところで悲鳴や殴打する音が聞こえた。少しずつ遠ざかっていくところを察するに、おそらくは避難中ということだろう。それが指し示すこと、つまりは……

「うまく……い、っかね、ぇなぁ……」

 横たわっているままではロクに見ることが出来るわけではないが、今の視界の範囲だけでも十分に何がどうなっているかは分かった。
 血、死体、血、死体、血、死体……
 頭が、胸が、腹が、四肢が。砕け、捩れ、飛び散り、教室を赤く染める。
 右腕が無いだけの自分なんて、まだ軽傷と言える凄惨さだった。

「ぉぉい、慎二……」

 すぐ傍で倒れている友の名前を呼ぶ。うつ伏せに倒れ、頭は半分に割れている。死んでいるのは日を見るより明らかだった。
 視線を少し奥の方へ向ける。下半身の無い体が転がっていた。首の無い体が倒れていた。縦に引き裂かれた体が横たわっていた。
 そのどれもが、見覚えのある顔だった。

「……ははっ、俺だけ……か……」

 三年C組。生存者は現時点でおそらく自分一人のみ。
 何とも笑えない冗談だ。三文小説にも劣る展開。こんなときは秘められた力が覚醒するとか、颯爽とヒーローが助けに来るとか、巨大ロボットが現れるとか、そんな展開になる筈じゃないのか。某週刊少年誌風にさ。

「ほんっと……上手く、いかねぇなぁ……」

 所詮自分は、何処にでもいるその他大勢の有象無象だった。特別を夢見た時期は卒業した筈だったが、改めて現実を突きつけられると中々にきついものがある。
 普通に生きて、普通に進学して、普通に就職して、普通に結婚して……そんなありふれた普通は卒業前に、軽々と砕け散ってしまった。

「あーあー……」

 ひどく緩慢な動作で、胸ポケットに手を突っ込む。取り出した生徒手帳を開くと、眼つきの悪い約一年前の自分が其処にはあった。
 あの頃の自分は考えもしなかっただろう、こんな未来がやってくるなんて。何時までも何時ものような日々が来ると、当たり前のように信じていた。

「橘京介、此処に死す……ってか?」

 名前を口にする。どこにでもあるような名前が、いやに愛おしく感じられた。

「……あー、眠ぃ」

 ゆっくりと、しかし着実に。ソレは忍び寄っていた。
 経験なんてある筈もなかったが、本能的な感覚でソレが何かは分かった。薄れゆく意識も、明滅する視界も、遠くなる感覚も、その全てが何に繋がるかを理解した。理解してしまった。
 後悔が有る。恨みが有る。納得など、当然ない。
 だが現実はあくまでも現実であり、今更何が変わるわけではない。
 ならば、受け入れよう。せめて、拳を固く握りしめて。前を見て。



「絶対ぇ呪い殺してやるからな、てめぇ」



 最期に。目の前でクラスメートの死体を貪る異常者に向けて、呪詛の言葉を吐いた。









 冬の太陽は短い。
 少しずつ、しかし刻々と暗くなっていく校舎の中。僅かに残った陽の光を頼りに、少女がゆっくりと、まるで何かから隠れるようにして歩いていた。
 少女はセミロングの黒髪を、青色のリボンで纏めている。学校指定の制服には、小等部三年生の証であるリボンがついている。まだ顔立ちは幼いが、所謂美少女に分類されるであろうことは間違いが無い。
 だが、本来なら可愛らしいであろう顔立ちも、今は泣き顔に染まっていた。
 その理由は、少女を取り巻く現状を鑑みれば瞭然である。
 赤く染まった制服。血だまりに浸かる両足。手をついた壁は、少女に負けず劣らず赤く染まっている。
 少し視線を周囲に走らせれば、物言わぬ躯が其処ら中に転がっていた。そのどれもが彼女より上の学年の生徒たちであり、少女の目線からすれば大人と同じような存在のはずだった。

「ひっ、ひっ……」

 引き攣るような声を漏らしながら、少女はゆっくりと前へと進む。今少女がいるのは、高等部校舎。記憶が正しければ、この廊下を真っ直ぐ進んだ先に少女の姉がいるクラスが有る筈だった。
 何かあったときは、姉の下へ。少女の両親が、万が一が有った時のために言い聞かせていた事である。先生や友達ともはぐれてしまった今、少女の頼るべき対象は姉しかいない。

「ひっ……お、お姉ちゃん……」

 か細い言葉が口から零れる。此処まで来ればあと少し。3-Cと書かれた教室は、薄暗い中でも確認できた。
 希望はすぐ傍。だがそれでも、少女は走ることをしない。ゆっくりと、ゆっくりと。音を立てぬように静かに進む。
 怪我をしているわけではない。少女の身体についている赤色は、全て他者のものである。同様に腰が抜けているわけでもなく、身体的な面で言えば少女は至って健康体であった。
 だがそれでも。少女は走ろうとはしない。希望を前にして、それでも自制をかけている。
 音を立てるなと。
 静かに進めと。
 それは、年端もいかぬ子どもにあるまじき精神力。驚嘆に値すべき自制心である。
 もっとも、実を言えば少女自身も理解しているわけではない。ただ本能的な部分が少女の身体に統制をかけているにすぎない。

 そう、本能的な部分が。

 赤く染まった廊下。
 倒れ伏す骸。
 人気の無い校舎。
 刻一刻と暗くなっていく周囲。
 ピースは熟考する必要もなく揃っていた。

「ひっ、ひっく……おね、おねぇちゃん……」

 だがそれでも。
 此処まで来た。此処まで来てしまった。
 もう戻ることは出来ない。前へ進むしかない。
 例えその先に、何が有ろうとも。

「し、失礼します」

 引き戸に手をかける。
 わざわざ声をかけたのは、教えられた何時もの習慣だった。あるいは、そうすることで自制を保とうとしていたのかもしれない。
 返事は、なかった。

 ――――ガラッ

 耳障りな音を立てて、ドアは横へとスライドする。同時に、強烈な生臭さが少女を襲った。
 声を上げることは叶わない。ドアを開けた時点で、少女はただ漠然と理解した。

「ごめんなさい……」

 それは、勝手にドアを開けてしまったことに対してか。
 それとも、朝に分かれたきりの家族に対してか。
 もしくは、離れ離れになってしまった友達や先生か。

 あるいは、目の前で咀嚼しているナニカに対してか。

 少女の声に反応したのか、ナニカは動きを止めた。そしてゆっくりと、少女の方へ姿勢を変えた。

 カチ、カチ、カチ

 何かを合わせるような音。暗い室内では詳細が分からないが、相手が自身にとって良いものではないと少女は直感した。

 カチ、カチ、カチ

 形容しがたい声を発しながら、ナニカは完全に少女の方へ向き直った。まるで獣のような四つん這いの姿勢で。生物にあるまじきおぞましさを振り撒きながら。

 カチ、カチカチカチ

 ドアを開けた時よりも強烈な生臭さが少女の嗅覚を襲った。今まで嗅いだ事もないような臭いだった。
 ナニカは少女のすぐ傍まで来ていた。顔は分からない。陽は完全に落ちていた。

 カチカチカチカチカチカチ

 ここにきて漸く、少女はこの音が自分から発せられていることに気がつく。止めようとは思わなかった、止まるとは思えなかった。
 一歩だけ、後ろに下がる。それは本能的な退避。
 だが、たかだか一歩にすら足は縺れ、無様に尻餅をついてしまう。

 ブンッ

 ほぼ同時に、風切り音。そして何かが壊れる音。
 音の方に目を向ければ、ドアが力任せに抉られたところだった。
 その位置は、ちょうど少女の頭があった高さ。

「あ、ああ……」

 無理だ。
 全ての過程をすっ飛ばし、ただその結末を理解する。
 声は出ない。動く事も出来ない。視線を動かす事すらも出来ない。
 明確な終わりを前に、遂に少女の頭は、身体は、意志は生きることを放棄した。



 ――――ガタッ



 その矢先。
 ナニカの向こう側で、固い物が動く音がした。
 意志を放棄した少女にも、その音は耳に届いている。
 それは決して幻聴ではないらしく、ナニカも後ろへと意識を向けた。



 ――――ブンッ



 同時に、またも風切り音。
 ぐしゃり、と。肉がつぶれる音を立てて、覆いかぶさっていた圧迫感が消え去る。



「……やっぱ呪い殺すのは止めだ」



 奥。
 ナニカが消えたそのすぐ後ろに、誰かが立っていた。
 暗闇ではロクに見ることは敵わないが、声から察するに人間であることは間違いない。



「てめぇは俺の手で殺すっ!!!」



 張り上げられた男性の大声。そして殴打する音。
 それが少女――瀬川郁が今日という日で覚えている、最後のことだった。