『冬木の聖杯戦争』
アインツベルン、マキリ、トオサカの三家が『根源』に至る為に共同で考案、実施した極東の地の争い。
権利を得た七人の魔術師それぞれが英霊を召喚し、競わせて、勝者一人のみが『聖杯』を獲得可能。
周期はおおよそ六十年。第一回から数えて、現在四回目までが実施されている。が、一度として『聖杯』が願望器として扱われたことは無い。
(中略)
尚、この聖杯戦争に於いて顕現する『聖杯』は、『神の御子の聖遺物』ではない。あくまでも理想郷における万能の釜のコピーであり、我々教会とは縁もゆかりも無い代物である。
が、どのような形であれ『聖杯』の名を冠している以上は見過ごすわけにはいかず、また魔術師共の内輪争いに無辜の民が極力巻きこまれぬよう、我々教会からも『監督役』という名目で複数人を派遣している。
聖堂教会ブラックリスト、『冬木の聖杯戦争』の項より一部抜粋。
■
雲一つない空。
降りそそぐ陽光。
頬を撫ぜるそよ風。
よく晴れた昼下がり。いい天気だなぁ、と。柄にもなく呆けながら、少女は空を見上げていた。
艶のある黒髪、意志の強そうな碧眼、透き通るような肌の色。呆けていても、彼女が美少女であることに疑いようはない。
壁に背を預け、ゆっくりと息を吐く。白く染まった二酸化炭素は、瞬く間に空中に霧散した。
「そ、っか」
声は震えていなかった。納得の響きがそこにはあった。
視線を空から地面へと戻す。其処には、薄紫色に輝く、気色の悪い魔方陣が描かれていた。
「やっぱり無理、か」
「おいそれと解呪できるレベルではないな。宝具級とみて間違いない」
少女の呟きに応えるように、青年が立ち上がった。
煤けたような白髪、眇められた灰色の眼、焦げたような肌の色。黒のボディアーマーに赤色の外陰と、大凡現代の、少なくとも学校という場所には不適切な格好である。
諦めたように少女は息を吐いた。断じて溜息では無い。
「溶解型。大凡一週間ほどで発動には足る、か」
「キャスターかしら」
「もしくはライダーだな。わざわざこの場所に結界を張っているということは、戦闘能力には相当の自信があるに違いない」
難儀なものだな、まったく。少女の内心を代弁するかのように、青年は肩を竦めた。
「魔力を流すわ。根本的な解決にはならないけど、しないよりはマシでしょ」
「そうだな……相手が短気のうつけ者ならば劇的に効果はあるだろうよ」
言外に大した意味はないと言われる。
それもそうだろう。そのくらいは少女も分かっている。
だから、言うなればこれは宣戦布告だ。アンタらの好きにはさせないという意思表示だ。
「無知であれ既知であれ、トオサカに喧嘩を売った。なら、喜んで買ってあげるわ」
「代金は?」
「それはもう、出会ったら嫌というほど」
聖杯戦争に参加するならば、御三家の一つである遠坂を知らぬ筈が無い。頭を働かすことが出来るのならば、遠坂について調べていない筈が無い。
遠坂について既知であり――――あえて結界を設置を張ったのか。
遠坂について無知であり――――考え無しに結界を張ったのか。
どちらでもいい。そんなことはどうでもいい。
今重要なのは、遠坂は喧嘩を売られた。聖杯戦争に参加する一マスターとしても、この土地を管理するセカンドオーナーとしても、由緒正しい魔術師の家系としても、外来の魔術師に舐められ、侮られ、見下されて喧嘩を売られた。その一点だけである。
知っているなら刻みつけよう、知らぬならご教授してあげよう。
トオサカに――遠坂凛に牙を向けるという事が何を意味するかを。
「……凛、顔が怖いぞ」
「結界張ってあるから大丈夫よ、アーチャー」
■
「げっ」
「随分なご挨拶ね、言峰君?」
夕暮れに染まる穂群原学園一階部分。
職員室前を通り過ぎようとした矢先、見慣れた姿が凛の眼を過った。
赤銅色の髪の毛。同世代より高めの身長。そして黒衣。
比較的校風の緩い当校と言えど、上記の条件が全て当てはまる人物は一人しかいない。
言峰士郎。
若くして冬木教会の長を務める見習い神父である。
「何してたの?」
「……タイガーからの呼び出し。連絡怠ったのが気に入らなかったらしい」
溜息と共に士郎は言葉を吐いた。やはりと言うか何と言うか、担任への連絡を怠ったまま出かけていたらしい。阿呆か。
ちなみに、タイガーというのは2-C担任の藤村大河教諭のことを指す。
眉間を叩きながら、凛は呆れたように言葉を紡いだ。
「……程々にしておきなさい、言い訳も大変なんだから」
「ん? もしかしてまた連絡いったか?」
「ええ、勿論」
凛には両親がいない。そのため、保護者の欄には後見人でもある言峰綺礼の名が記されている。
凛に何かあれば言峰家へ、士郎に何かあれば遠坂家へ。それは、高校生になった今でも変わっていない。
「私が上手いこと言いくるめなきゃ、総本山に直接問い合わせかねないわ」
「いや、流石にそれは……それは……申し訳ございませんでした」
流石に其処までするとは思えないが、藤村教諭なら問い合わせても不思議ではない。
その場面をありありと想像したのか、さしもの士郎も申し訳なさそうに頭を下げた。
「はぁ……まぁいいわ。それよりも、ちょっと付き合いなさい」
「……勘弁してください、タイガーに絞られたばかりなんだが」
「時間はとらせないわ」
有無を言わさぬその口調に、士郎は嫌々ながらも首を縦に振った。無理矢理にでも連れて行かれるのは長年の経験から分かっている。賢明と言うよりは諦観に近い判断であった。
「どこへ?」
「屋上」
短いやり取りであったが、士郎は余すことなく凛の意を理解する。
やっぱり、とでも言いたげに盛大に溜息をつくと、先ゆく凛の後をやや駆け足気味で追った。
■
「何でよりにもよってこの時期に呼ばれたのよ」
「上からの命令。土壇場で反対意見が出たらしい」
「……前回のせい、とか?」
「お察しが良いようで。糞親父の後処理が杜撰だったせいだな」
「教会はなんて?」
「一任する、だとさ。前回のような惨事を起こさぬようにって釘は刺されたけど」
沈みゆく太陽。もう幾許もしないうちに、辺りは夜の帳に包まれるだろう。一日も終わりが近づいている。
冬の名を冠している割には、冬木の冬は温暖である。日中の温かさが、今尚屋上に留まっていることを思えば言わずもがな。流石に制服姿では心許ないが、三十分程度なら問題はない。
夕焼けが紫に、紫が黒へと変わりつつある空の色。何とも形容しがたいその瞬間を眺めながら、士郎は口を開いた。
「それで、何の用さ。こんなこと話す為に呼んだわけじゃないだろ?」
分かっているくせに。学園内では滅多に見せる事の無い苦々しげな表情のまま、何も言わずに凛は下を指差した。
昼頃よりも、明らかにソレは輝きを増している。
「これ、何とかできない?」
「無理だな」
即答であった。思考する素振りすらなかった。
呆れたように士郎は言葉を続けた。
「どこの馬鹿が仕掛けたか知らないけど、解呪は無理だ。宝具クラスの術式をどうにかする手だてなんて、一監督役の俺が所有しているわけないだろ」
「つまり、発動する前にケリをつけるしかない、と」
「事前に防ぎたければな」
「……やっぱりかぁ」
凛とて予想していたわけではない。寧ろ、可能性としては皆無だろうと考えていた。
だから、これは前振りに過ぎない。本題は、これから。
「士郎、手伝って」
「それは、俺が監督役として知っての発言か」
「違うわ、『士郎』に手伝ってほしいの」
屁理屈だ、と凛は思った。それは間違いでは無く、正しくその通りだった。
士郎は目を瞑り、頷くように首を小さく縦に動かした。己の中で一瞬だけ、本当に一瞬だけ葛藤に似た何かを交わした故の行為だった。
胸ポケットから煙草のケースを取り出し、一本を咥える。
「何をすればいい?」
詭弁だ、と士郎は思った。それは間違いでは無く、正しくその通りだった。
余計な理屈をすっ飛ばして頷いたのは、其処に至るまでの過程が不必要だったからだ。どういう理由があれ、其処に存在するのは中立のスタンスを崩したという現実。上層部からの要請も、遠坂凛の優秀さも、言い訳にはならない。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
言峰士郎と遠坂凛の間に、打算的な思考は必要ない。
「これの基点の数と場所を把握したいわ。アンタなら一時間かからないでしょ」
「お安いご用で」
二つ返事で了承の意を唱えると、士郎は脳裏に撃鉄のイメージを浮かべた。
躊躇い無く、落とす。それだけで、右腕は不自然なまでの熱量を発する。
言峰の魔術刻印、のようなもの。親父からの数少ない贈り物の一つ。
この瞬間に、この瞬間だけ士郎は正当な魔術師と肩を並べられる。
「じゃあ、さっさと終わらせようか」
「ええ」
気負いの見られない語調と態度で、士郎は作業に取り掛かった。
ドクンドクン、と。学園に足を踏み入れてから、不自然に鼓動を刻み続ける心臓を意図的に無視して。
最終更新:2013年02月22日 06:54