あやせの海岸物語:8スレ目158

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158 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:00:10.55 ID:/8fklwxAo [2/26] 冬晴れのとある土曜日―― 俺は鎌倉駅東口の改札口で、あいつが来るのを待っていた。 改札口に掛かっている時計を確認すると、すでに八時を過ぎている。 俺は柱に寄り掛かったままダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、 自動改札から次々に吐き出されて出て来る乗客に眼をやった。 漆黒の長い髪、輝くような笑顔、あいつの美貌は遠目からでもひと目で分かる。 読者モデルをやっているだけあって、スタイルもファッションも非の打ち所がない。 そんなあいつに気後れしながらも俺が軽く片手を挙げると―― あいつも気付いて、白い吐息を弾ませながら俺に向かって駆けて来た。 「申し訳ありません、お兄さん。……わたし、電車に乗り遅れてしまって……」 「そんなこと気にすんなって。俺も今さっき着いたばっかだからさぁ」 一時間も前から待ってましたなんて、正直に言えるわけがねえだろ。 さっきまでの苛立ちなんて、あやせの顔を拝んだら何処かへ消し飛んじまった。 「それよりも、あやせは朝飯まだなんじゃねえか? 何なら喫茶店にでも入るか?」 俺たちは、取りあえず駅前にある喫茶店に入る事にした。 その喫茶店は、渋谷や原宿などにある様な若者受けするお洒落な店とは全く違い、 古都鎌倉に相応しく、いかにも時代掛かった落着いた店構えだった。 マスターは物静かな初老の紳士といった感じで、俺たちを見て笑顔で軽く会釈をしてくれた。 大手のコーヒーショップしか知らない俺には、何だかとても新鮮だ。 マスターの案内で窓際の空いた席に着くと、モーニングセットを二つ注文した。 「あやせ、今更聞くのも何だけどさぁ、今日は何で鎌倉なんだ?」 あやせは俺の言葉に、一瞬きょとんとした表情をしたんだが…… 「……わたし、昨日の夜電話した時、お兄さんに言ってませんでしたっけ!?」 「俺はあやせから、今日の朝八時に鎌倉駅の東口へ来いとしか聞いてねえけど」 「御免なさい。……わたし、てっきりお兄さんに説明したとばかり思い込んで……」 159 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:00:43.26 ID:/8fklwxAo [3/26] あやせから電話があったのは、昨日の夜だった。 普段ならメールで済ませる様なヤツが、昨夜に限っては珍しく電話を掛けて来て、 『お兄さん、明日暇ですよね? 朝の八時に、鎌倉駅の東口へ来て下さい』 それだけ言うと、あやせは一方的に電話を切りやがったんだ。 俺があやせに普段何気なくしているセクハラを咎められるにしたって、 わざわざ鎌倉まで呼び出す必要はねえし――まさか、デートのお誘い? なんて事を考えている内に詳しい事を聞きそびれちまって、今ここにいるわけだ。 電話一本で理由もろくに聞かずに来ちまった俺も悪いけど、 あやせの様子がいつもと違う様な気がして、それが気になったのも事実だった。 「お兄さん……絶対に怒らないと……約束してもらえますか?」 申し訳なさそうな顔をして俯いたと思ったら、上目遣いで俺の顔をそっと窺うあわせ。 あやせみたいな可愛い女の子に、そんな表情されて怒るヤツがいるわけねえだろっての。 もしかしてあやせのヤツ、知っててやってんじゃねえだろうなぁと思うと複雑な気持ちだ。 とは言うものの、今朝あやせに改札口で会ってから俺の顔は緩みっぱなしで、 今更それを引き締めて怒ったところで、冗談にしかならねえしな。 「俺が怒るわけねえだろ。怒るくらいなら、初めっから来ねえよ」 「それを聞いて安心しました。……うふふっ」 やっぱ知っててやってたんじゃねえか。 あやせに怒られる事は度々あっても、俺があやせを怒った事なんて一度もない。 さっきまでの申し訳なさそうな顔なんて忘れたかの様に、あやせの顔に笑顔が戻る。 俺を鎌倉へ呼び出した理由は、去年テレビで見た『とめはねっ!』とかいうドラマの舞台が、 鎌倉と江ノ島周辺だったらしく、あやせとしては一度現地を訪れてみたかったらしい。 160 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:01:36.81 ID:/8fklwxAo [4/26] 注文したモーニングセットがテーブルに並べられるのを待って、俺はあやせに聞いた。 「――それってさぁ、俗に言う聖地巡礼ってやつか?」 俺はコーヒーにミルクを数滴だけ落としてから、カップを口に運んだ。 「お兄さん、聖地……何ですか?」 「いや、気にしないでくれ……独り言だから」 あやせがついに禁断の世界へ!? そう思ったのは俺の思い過ごしで、 更に話を聞いてみると…… 「じゃあ、あやせは小学生の頃、塾で習字を習ってたんだ」 「はい。それに、ドラマの後半でバックに流れていた曲がサザンの曲だったので、  わたしとしては、一度は来てみたくて……」 あやせが鎌倉に来たかった理由は分かったし、それはそれで納得したんだけどな。 俺はあやせに呼び出された時からずっと聞きたかった事を、この場は胸の内に収めた。 それよりも朝からあやせと一緒にいられるんだから、それで十分かもしれねえ。 喫茶店を出てからは、俺とあやせは一緒に近くの鶴岡八幡宮に参拝した後、 若宮大路と呼ばれている参道周辺を散策しながら、再び鎌倉駅へ戻った。 鎌倉駅から最初の目的地、稲村ヶ崎までは江ノ電という小さな電車に乗って行く。 この江ノ電って、場所によっては民家の軒先すれすれの所を走ってるもんだから、 あやせの様に初めて乗った者にとっちゃ、かなり驚かされる。 おばちゃんが勝手口から顔を出していたり、踏み切りでもないのに電車が通過すると人が線路を 横断したりと、それだけ電車のスピードが遅いってのもあるんだろうけどな。 「お兄さん、わたしこういう電車って初めてなんですが、お兄さんは乗った事ありますか?」 「俺がまだ高一だった時、何度かな。そん時は藤沢駅から乗ったから路面電車だったけどな」 「……それって、どういう意味ですか?」 「分かり難いかもしんねえけど、江ノ電って路面区間と専用軌道区間ってのがあってさ、  腰越駅で切り替わんだよ。……分かんねえよな」 「………………」 161 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:02:10.83 ID:/8fklwxAo [5/26] 電車は駅に到着する度に数人の乗客が下車し、また新たな客を乗せて発車する。 車内を見回すと、先程よりかなり込んで来た。 ドアの横にある手摺に掴まりながら、車窓を流れる景色を楽しげに見つめるあやせ。 俺はさり気なくあやせの後ろに立って、彼女の立っている空間を確保してやった。 次の到着駅を知らせる車掌さんのアナウンスが車内に流れると、 シートから立ち上がり、網棚から荷物を降ろす乗客なんかで車内が多少ざわつく。 「お兄さん、もうすぐ稲村ヶ崎に着きます。今日はわたしが、お兄さんをご案内しますから」 「じゃあ、俺は黙ってあやせのエスコート役に徹するよ」 あやせは少し照れた様な笑顔を見せた。 俺はあやせと一緒にいると、不思議な緊張感を覚えるんだ。 何かこう上手く言えねえけど…… あやせはどうなんだろう、俺みたいなのと一緒にいて楽しいのかなぁ? 俺のそんなあやせへの想いなんて、知るはずもねえだろうな。 民家の家々の隙間から垣間見える青空を眺めながら、俺はひとり苦笑した。 稲村ヶ崎の駅は、俺が思っていたよりもずっと小さな駅だった。 ホームの端に小さな駅舎があって、階段を数段下りて上り線の線路を横切った所が改札口だ。 そのまま隣にある踏切に出ちまった方が早いんじゃねえの? 「なあ、ここってさぁ、改札口の意味ってあんのか?」 「お兄さん、こういうのは趣があるって言うんです。言葉には気を付けて下さい」 あやせにしてみれば、今日は聖地巡礼みたいなもんだからな。 コレクターに向かって『これ集めてどうすんの?』って聞くみたいなもんか。 俺たちは名ばかりの改札口を出て、踏切を渡ると海へ向かって歩き始めた。 百メートル足らずの緩やかな下り坂を抜けると、一気に視界が開ける。 「お兄さん、あれが稲村ヶ崎です」 162 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:02:47.79 ID:/8fklwxAo [6/26] あやせは弾む様な声で左前方を指差しながら俺の顔を見た。 こんなに嬉しそうに笑っているあやせなんて、俺は今までに見た事がねえよ。 急かすように俺の手を取って歩き始めたあやせの横顔を見ていると、 これなら早起きしてまで来た甲斐もあるもんだと、染みじみとそう思った。 稲村ヶ崎は国道134号線に面した、小さな岬といった所だった。 岬の先端は崖になってるけど、手前には公園もあって、 土曜日の上、晴天にも恵まれたからか、かなりの人出で賑わっている。 あやせの案内によると、崖の上には展望台があるらしい。 俺たちは階段を上って展望台へ行く事にしたんだ。 それにしても、さっきからずっと手を繋いだままなんだが……。 展望台には何があるってわけでもなく、眼下に広大な海が広がっているだけだ。 冬の海は碧く澄んでいて、水面には太陽の光が乱反射してとても美しかった。 沖合いに目を転じると、ウインドサーフィンのカラフルなセイルがいくつか見えた。 「良い所ですねー。景色も綺麗だし本当に来てよかったです」 「俺も稲村ヶ崎は初めて来たけど、悪くねえかもな」 「そうですよね。……でも、お兄さんを本当に案内したいのは、ここじゃないんです」 「――と言うと、この先に見える江ノ島か?」 喫茶店であやせから聞いた話じゃ、ドラマの舞台は鎌倉から江ノ島周辺だって事だから、 この先に見える江ノ島へ行くもんだと俺は思ったんだ。 「江ノ島へ行く事は行きますが……そこへ行くまでの道が、今日は大切なんです」 あやせのヤツ、何だか思わせ振りな言い方しやがって…… まあ、俺も敢えて反対する理由も無いしな。 「どのみち今日の俺はあやせのエスコート役なんだから、おまえに付いて行くだけだよ」 「じゃあ、お兄さん……今日はわたしに、しっかりと付いて来て下さいね」 階段を下りる時、小さな子供を先頭に展望台に向かって上って来る家族連れと擦れ違うと、 あやせは俺と繋いでいた手をさり気なく解いた。 163 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:03:24.86 ID:/8fklwxAo [7/26] あやせは駅へ向かうわけでもなく、国道の片側にある歩道を歩き始めた。 俺はあやせが何処へ行こうとしているのか、全く見当が付かなかったんだ。 左手には海しかないし、右を見たってガソリンスタンドや民家が点在しているだけだ。 まさか、ここから江ノ島まで歩いて行こうってわけじゃあるまいな。 「なあ、あやせ、この先に何かあんのか?」 「ここから一キロぐらい先に、ロケで使われた高校があるんです。  もしかしたら、外観だけかも知れませんけど……そこへ行きたいんです」 ちきしょう! やっぱ歩いて行くのかよっ。 「お兄さん、何かご不満でもあるんですか?」 あやせは、俺に右手を差し出しながらそう言った。 犬じゃあるまいし、手を繋ぐくらいのご褒美で、俺が素直に尻尾を振るとでも思ってんのかね。 俺は自分の右手を差し出して、毅然とした態度で言ってやったんだ。 「あやせ、俺がおまえに、車道側を歩かせるわけにはいかねえだろ。  ……何たって、今日の俺はおまえのエスコート役なんだからよ」 今日一番のキメ台詞じゃねえかと、俺は思ったよ。 言った俺も恥ずかしかったけど、言われたあやせも恥ずかしかったみたいだけどな。 それでも、あやせは改めて左手を差し出してくれたんだ。 「……お兄さんって、よくそんな恥ずかしい台詞を真顔で言えますよね」 「ほっとけっ」 俺たちは手を繋ぐと、ゆっくりとした歩調で歩き始めた。 対向車のドライバー達が俺たちを見て、ニヤニヤしていたのが印象的だったけどな。 海から吹いてくる冷たい風が、火照った俺の顔に当たって心地良かったよ。 164 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:04:03.24 ID:/8fklwxAo [8/26] あやせからドラマのあらましを聞きながら、その中で流れていたというサザンの曲 『希望の轍』――それは、俺が以前何度も聴いた曲だった。 俺は頭の中で、その曲の歌詞とメロディーを思い浮かべていた。 「ドラマの中で結希ちゃんが、『希望の轍』とはこの国道134号線の事を謳ったものだと、  大江君に言うシーンがあるんです――聞いてますか、お兄さん?」 聖地巡礼中のあやせは、声を弾ませながらドラマの良かった所を俺に言って聞かせた。 だがなあやせ、そのドラマを見てねえ俺にとって、おまえの言ってる結希ちゃんや大江君が 出演者の名前なのか、それとも登場人物の名前なのか分かるわけねえだろっての。 「お兄さん、多分あの建物です。……ドラマで見たのと全く同じです」 あやせが目を輝かせながら指差した白亜色の建物は、江ノ電の線路のすぐ脇にあった。 それはあやせの言った通り学校らしく、海に面して教室の窓がいくつも並んでいる。 それにしても、高校生にとって教室の窓から外を見たら海ってのは、贅沢の極みかもしれん。 俺の通っている高校の窓から見える風景なんて、どこにでもある住宅街だもんな。 あやせは携帯を取り出すと、周囲の景色を何枚も写真に収めていた。 校庭では、ソフトボール部の女子生徒達が練習している様子が見える。 「勝手に校庭に入ったりしたら、やっぱりいけないですよね?」 「下手すりゃ不法侵入になるだろうし、やっぱ、まずいんじゃねえか?」 そりゃあ、あやせは可愛いから見逃してくれっかもしんねえけどさ、 そんな可愛い女子中学生を連れた俺なんか、一発で怪しまれるだろうが。 あやせは俺の顔をマジマジと見てから、深い溜息を吐いた。 「仕方がないですね。……じゃあ、次はあそこに見える駅まで行きます」 あやせが指差した駅というのは、ここから更に一キロほど先にあって、 国道と海に面した小さな駅だった。俺は軽い目眩を感じ、こめかみを抑えた。 165 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:04:42.87 ID:/8fklwxAo [9/26] 「あやせ、あの駅へ行くのは構わねえけどさぁ、その手前にも駅ってのはあんのか?」 「ええ、ここからは見えませんけど、この学校のすぐ近くに駅ならありますけど」 「じゃあさぁ、一区間だけでも電車に乗って行かねえか?」 「……わたし、お兄さんには江ノ島へ行くまでの道が大切って、言いませんでしたか?」 あやせは左手を差し出すと、首を傾げてニッコリと笑った。 俺のラブリーマイエンジェルが、ブラックエンジェルに変わったかと思ったよ。 それでもあやせの可愛さには抗えず、俺は彼女の手を取ってまた国道を歩き始めた。 しばらく歩いていると、テラス席のあるお洒落なレストランが見えてきたんで 時計を確認すると、昼飯には少し早かったんだが、あやせに聞いてみた。 「なあ、この辺りで昼飯にするってのはどうよ。昼になると込むだろうしさ」 俺が『珊瑚礁』と書かれた店の看板を見ながら言うと、あやせも気に入ったのか賛成してくれた。 階段を上がって店内に入ると、内装は控えめな南国風で、大きな窓からは海が一望できる。 テラス席もあるにはあるんだが、幾らなんでもこの冬の季節じゃな。 俺たちは運が良い事に、海の見える窓際の席に案内された。 「お兄さん、もしかして、前からこのお店知ってたんですか?」 「……何が?」 店内を見回しながら興奮気味に話すあやせに、俺はちょっと引き気味だったんだが、 俺の顔が蒼ざめるまでにそう大して時間は掛からなかった。 「わたしも雑誌やネットでしか見た事がなかったんですが……  ここって、湘南では超有名なお店なんですよ。  それに、海の見える窓際の席に座れるなんて、本当に幸運だと思います。  前からこのお店に一度は来てみたいと思っていたんです。  ……それが、お兄さんと一緒に来られるなんて思ってもみませんでした。  このお店ってカレーがメインなんですが、シーフードもとても美味しいそうですよ」 166 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:05:34.12 ID:/8fklwxAo [10/26] 興奮冷めやらぬといった様子であやせは俺に話し掛けてくるんだが、 メニューの値段に眼が釘付けになっている俺にとって、はっきり言ってどうでもよかった。 でも、あやせの前でそんな素振りを見せられるわけねえだろ。 平静を装いながら、俺はあやせにメニューを指し示して…… 「で、あやせは何にする? 今日は俺が奢ってやるから、好きなもん頼めよ」 あやせもそこで初めてメニューを見て、さっきまでのはしゃぎ振りが止まった。 きっとあやせの事だから、俺に遠慮しちまうに違いない。 こういう時は先手を打たなきゃな。 「なあ、あやせ、俺に遠慮なんかして恥を掻かせないでくれよ」 俺がそう言ったところで、あやせの性格からしたら遠慮するなと言う方が無理ってもんだ。 だからこの際、俺が強引にでもあやせの好きそうなメニューを頼む事にしたんだ。 あやせには地鶏のカレーとシーフードサラダを、俺は浜豚ロースカツのカレーを注文した。 「……すみません、お兄さん。……でも……」 先程とは打って変わって大人しくなっちまったあやせに、どう声を掛けたらいいもんかな…… ふとその時、桐乃に無理やり彼氏役をやらされ、デートに連れ回された時の事を思い出した。 俺はあやせと視線を合わさない様にして、海を見ながら呟いた。 「あやせ、こういう時、男ってさ……女の子が甘えてくれると嬉しいかもしんねえな」 「……分かりました。……じゃあ、今日はお兄さんに思いっきり甘えさせて頂きます。  でも、覚悟して置いて下さいね」 俺たちが外の景色を眺めながらあれこれと話している内に、注文した料理が運ばれて来た。 たしかに値が張るだけあって、料理はどれも絶品だったよ。 お袋もよくカレーを作るけどさ、これと比べたら、ありゃなんじゃって言いたいね。 あやせの食べている地鶏のカレーも旨そうだったし、この店にして正解だったのかもな。 「お兄さん……お兄さんさえよければ、サラダは一緒に食べませんか?  あと、お兄さんの方のカレーも一口下さい。代わりに、わたしのもあげますから」 167 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:06:12.38 ID:/8fklwxAo [11/26] 食事が終わって会計を済ませると、俺たちは店を後にした。 「お兄さん、ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」 「そっか、またいつか一緒に来ような」 あやせは笑顔で頷くと、さり気なく俺の右腕に左腕を絡ませて来た。 俺がそんなあやせに戸惑って何か言おうとしたら、今度はあやせの方が先手を打ったんだ。 「今日は思いっきり甘えさせて頂きますって、わたし言いましたよねっ」 そこで俺が何か言ったら、無粋になっちまうだろ。 今日一日、俺はあやせのエスコート役なんだから、彼女のやりたい様にやらせてやるさ。 それにしても残念なのは、俺もあやせもダウンジャケットを着ていた事かな。 海岸線に沿って緩やかに湾曲している国道134号線―― あやせと腕を組んで歩きながら、俺は彼女と初めて出合った時の事を想い出していた。 『俺は高坂京介。――そっちは?』 『あ、ごめんなさい! 申し遅れました――わたし、新垣あやせです』 俺の妹の一番の親友でもある新垣あやせ。 あやせとの出会いは、平凡な人生が何よりと思っていたこの俺に、新鮮な旋風を巻き起こした。 桐乃のオタク趣味が発覚して、絶交状態になった桐乃とあやせを仲直りさせるために奔走したり、 友人の一人である来栖加奈子のマネージャーに扮して、コスプレ大会に潜り込んだりと―― その間には幾度となく、『変態!』と罵倒されたり、殴られたり蹴られたり…… それでも、今こうしてあやせと仲良く腕を組んで歩いている事を思えば、 知らぬ間に俺たち二人の距離が縮まっていたのかもしれねえな。 「お兄さん、何か可笑しな事でもあったんですか? 何だか笑っている様に見えますけど」 「……別に何でもねえって、ちょっと昔の事を想い出しただけさ」 168 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:06:50.27 ID:/8fklwxAo [12/26] あやせはポケットから小さく折り畳まれた紙片を取り出すと、それを広げて辺りを見回した。 俺が横から覗き込むと、それは“巡礼マップ”ならぬ“ロケ地マップ”だった。 パソコンからプリントアウトしたらしく、地図の上にはいくつかの印が付けてある。 「なあ……その印のある所、全部廻るのか?」 「いいえ、今日のところは鎌倉と江ノ島周辺だけです」 「……だろうな、その地図だと印が茨城県にもあるもんな」 店を出てから小一時間歩いて、ようやく目指す駅に到着した。 国道と平行して建っている駅のホームと、目の前にある海を遮るものは何もない。 俺にとっては何の変哲もない駅だったけど、あやせはここでも何枚かの写真を携帯に収めていた。 ちょうどその時、江ノ島方面から電車がやって来ると、あやせは俺に携帯を渡して、 国道と線路を仕切るフェンスの前に立った。 「お兄さん、わたしと駅のホームと電車が上手く入る様に撮って下さい」 プロのカメラマンでもない俺に、何バカなこと言ってんの? 電車の速度がかなり遅かったから、何とかシャッターは押せたけどな。 俺はあやせに携帯を返しながら、真顔で聞いてやった。 「なあ、あやせって、鉄子だったっけ?」 「……何を訳の分からない事を仰ってるんですか」 訳が分からんのは、おまえの方だろっての。 眉間にしわを寄せながら不思議そうな顔をして、あやせは俺から携帯を受け取った。 「それよりもお兄さん、ここから江ノ島までは、まだ距離がありますけど……  電車に乗ってもいいですよ」 俺は振り返り、稲村ヶ崎からあやせと一緒に歩いて来た道を見た。 今俺とあやせが立っている場所は、江ノ島までの道程の半分を少し過ぎた所だった。 「あやせさえ良けりゃ、俺はこのまま歩いて行ってもいいぜ」 あやせは満面の笑顔で頷くと、また俺と腕を組み、俺たちは歩き出した。 初めから歩いて行きたいと思ってたんなら、はっきりそう言えばいいのに…… 遠慮して俺に判断を委ねるあやせが、無性に愛らしく思えた。 いや、あやせとこのまま歩いて行きたかったのは、むしろ俺の方かも―― それを素直に口に出して伝えられない自分が、情けなくてもどかしかった。 169 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:07:22.99 ID:/8fklwxAo [13/26] 江ノ島は国道134号線とは橋で繋がっていて、その橋を数百メートルも歩けば島内となる。 今は引き潮なのか、橋の下には砂地が見えて陸続きになっている様にも見えた。 島の左側にはヨットハーバーがあり、幾艘ものヨットやレジャーボートが係留されている。 「お兄さん、ヨットハーバーへ行ってみてもいいですか?」 俺たちは橋を渡るとそのまま左手に進み、江ノ島のヨットハーバーへと向かった。 港に帰って来た一艘の白いヨット、その真っ白なセイルが午後の日差しを受けて輝いた。 間近で見るヨットは想像以上に大きく、その容姿に圧倒される。 俺なんかじゃ一生掛かっても、この中にある一番小さなヤツですら持てねえけど。 それでも一度くらいはこういった船に乗って、大海原に出てみたいと思うよ。 自嘲気味に俺が溜息を吐くと、俺の顔を見ながらあやせが言った。 「お兄さんには、車で十分だと思いますよ。それにわたし、船は苦手なんで……車でいいです」 「俺には車で十分って、貶してんだか慰めてくれてんだか分かんねえけど……」 「一応慰めたつもりなんですが、お兄さんがヨットを買うなんて想像も出来ませんから」 「それじゃ、せいぜい車が買える様に努力するわ」 「お願いしますね。……じゃないと、何処にも連れて行ってもらえ――  お兄さん、この先の防波堤まで行ってみませんか? ねっ、早く行きましょ」 あやせは俺の腕を引っ張る様にして歩き始めた。 そんなに急がなくたって、防波堤は逃げやしねえっての。 それにしても、何であやせの顔が赤いんだ? 何か聞き逃してねえか、俺。 「釣りをしている人が沢山いるんですね。何が釣れるんだろう」 「アジとかシロギスが釣れるらしい……いや、俺じゃなくて、以前親父が言ってたんだ」 「お兄さんのお父さんって、釣りをなさるんですか?」 「なさるってほど高尚なもんじゃねえけど、俺もガキの頃はたまに連れて来てもらったよ」 防波堤の先端まで行ったところで、何があるわけでもなくただ寒いだけだ。 それでもあやせにとっては楽しいらしく、ここから見える三浦半島をじっと見つめていた。 しばらくは俺の腕にしがみ付く様にしていたあやせが、少しずつ後退りしながら俺に言った。 「あの……やっぱり寒いので、戻ってもいいですか?」 「我慢してたんじゃねえのか? それを早く言えっての」 170 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:08:03.40 ID:/8fklwxAo [14/26] 江ノ島まで来た記念に何か買って帰りたいと言うあやせのために、 俺たちは江ノ島の中にある神社へと続く参道へと足を向けた。 参道はなだらかな坂道になっていて、途中急な所は階段を上る事になる。 道の両脇には、貝殻細工を中心とした土産物屋や飲食店がびっしりと軒を連ねていた。 あやせは店先に飾られた風鈴のような貝殻細工を手に取ると、軽く揺らしてその音色を確かめた。 金属が触れ合う様な乾いたその音は、まるで南部風鈴の様な趣のある音色だった。 その音色に満足したのか、あやせは店の奥にあるレジへと向かった。 「あやせ、そのくらいなら俺が買ってやるって」 「いえ、これはお母さんへのお土産にするつもりなので、わたしが買います」 店の奥で包装をしてもらい、レジ袋を手に提げて店を出て来たあやせは、 俺から視線を外したまま思わせ振りな事を言い始めた。 「お兄さんには、他に買って欲しい物があるんです」 「……俺に買って欲しい物って……?」 「ずっと先の事ですから……今すぐと言うわけではありません」 「……ずっと先って言うと……卒業祝とか、入学――」 俺が入学祝とか、と言い掛けると、あやせの顔から表情が消え…… 「卒業祝じゃありませんし、入学祝でもありません。  お兄さんはわたしに、何かのお祝い以外で物を買うって発想が無いんですか?  ……それからお兄さん、ここ階段ですから……気を付けて下さいね」 あやせが俺に何を買って欲しいのか、はっきりとこの場で言って欲しかったんだけどさ、 階段の下へと転がり落ちて行く俺の映像が、脳裏を横切っちまって…… 「まあ、あやせが欲しいって物なら、何だって買ってやるから、な」 「本当ですか? 約束ですからね。……お兄さん、忘れないで下さいね」 「俺が万が一にもあやせとの約束を破ったら、張り倒しても構わんからさ」 「いいえ……ぶち殺しますから、安心して下さい」 いつも通りのあやせの台詞が出て来たって事は、取りあえず機嫌を直してくれたって事だな。 あやせから『ぶち殺します』って言われて、ヘラヘラ笑っていられる俺って何なのって思うけど、 人前で『ぶち殺します』って平然と言えるあやせもどうかと思うけどね。 可愛かったら何言っても許されるのかっての。同じ台詞を麻奈―― 「あやせ、上にある灯台へ行ってみるか?」 171 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:08:46.09 ID:/8fklwxAo [15/26] 江ノ島には展望台を兼ねた灯台がある。 歩いて行くにはかなりの距離なんだが、ここには『エスカー』と言って、 巨大なエスカレーターと呼ぶに相応しい乗り物があるから、それほど苦でもない。 俺が江ノ島へ来るのは二年振りだから、懐かしさもあったんだ。 高一の夏休みに、女の子目当てに赤城たちと何度かナンパしに来たんだけど…… まあ、結果は無残極まりなかったけどな。 「……今日はお兄さんと一緒だから、やめて置きます。……だって……」 「俺と一緒だと、何か都合でも悪いってか?」 「来る前にネットで調べたんですけど……灯台へ行くには、神社の前を通るじゃないですか。  江島神社というそうですけど……それって、弁財天だから……」 「弁財天って事は、いわゆる弁天様って事だろ? それが俺と何か関係があんのか?」 いつもなら俺に対して、もっとはっきりと物を言うヤツなのに、 今日のあやせに限っては、先程の会話といい、何か奥歯に物が挟まった様な言い方をする。 気になるとはいえ、こんな事であやせの機嫌を損ねてもなんだし…… 最後まで付き合って、彼女を無事に家まで送り届けるのが俺の役目だよな。 「お兄さんにはっきりと言えないのは、申し訳ないんですけど……  弁天様って女の神様じゃないですか。……ネットにも嫉妬深いって書いてあったんで……」 「まあ、俺には神様の性格までは分からんけど、あやせが良いなら俺は構わんよ」 「本当にすみません。……お兄さんが鈍感で助かりました」 「誰が鈍感だっつーの。……それよりも、他に行きたい所があるんじゃねえの?」 「サザンの曲にも出て来る、えぼし岩を見てみたいんですが……いいですか?」 えぼし岩ってのは、茅ヶ崎の沖合いの姥島と呼ばれている岩礁にある岩の事だ。 釣り好きの親父から以前、えぼし岩ってのは、昔の公家や武士が被っていた烏帽子に その形が似ているところから、その名が付いたって聞いた事がある。 要するに沖合いに顔を出している、どうと言う事もない小さな岩なんだよ。 親父が言うには絶好の漁場らしいけど、釣りに興味のない俺には関係のない話さ。 あやせが見たいって言うんだから、お供しない訳にはいかねえけど。 「えぼし岩ね。……江ノ島からじゃ、ちっと遠いかもしれねえけど、  今渡ってきた橋の上か……それともなきゃ、砂浜へ降りれば良く見えると思うぜ」 「お兄さんって、妙に江ノ島に詳しくないですか? よく来るんですか?」 「そんな事もねえよ。……まあ、好きだからじゃねえか」 172 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:09:29.92 ID:/8fklwxAo [16/26] あやせの希望もあって、俺たちは橋よりも茅ヶ崎寄りに広がる片瀬海岸の砂浜に行く事にした。 橋を渡りきって左手に進むと、そこから車道は二車線になり、歩道もぐっと広くなる。 国道に沿ってファミレスやリゾートマンションが立ち並び、湘南の雰囲気を醸し出している。 それにしても、赤城と来た時にも思ったんだけど、ファミレスの横にラブホは有り得ねえだろ。 事情があってやむを得ず桐乃と入ったラブホだって、もう少し控えめな所にあったってのに。 こんなに目立つラブホに、一体どんなヤツが入って行けるって言うんだよ。 「お兄さん、あれ……何の建物ですか?」 「ああ、あれはラブ…………らぶ、らぶほたる?」 「………………」 俺があやせのエスコートをするのも、正直これで終わったと思ったね。 あやせはと見れば、歩道の左側に建っている大きな建物を指差しながら言ってるじゃねえか。 「水族館……あやせ、あの建物は江ノ島水族館だよ」 「……水族館なんですね? ところでお兄さん、有り得ない妄想はやめて下さい。  何が、らぶほたるなんですか。……わたし、桐乃から聞いて全部知っていますから」 あやせの口調はたしかに怒っているんだが、目元が微かに笑っている様にも見えた。 俺の失言にブチ切れてもおかしくない、この情況でだ。 やっぱり、今日のあやせは何か違うんだよな。 「それよりも、わたしを砂浜に案内してくれるんじゃないんですか?」 「あ、ああ、すまねえ。……砂浜はここを通れば行けっから」 俺が先に行こうとすると、あやせは俺の右腕にさり気なく自分の左腕を絡ませてきた。 本当にコイツはあやせなのかとも思ったんだけど、何もこの雰囲気を自らぶち壊す必要もないしな。 あやせが怒っていない事が分かっただけでも、それでいいじゃねえか。 173 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:10:08.67 ID:/8fklwxAo [17/26] 水族館の横にある公園を通り抜けると、もうそこは砂浜だ。 右手の沖合いには、えぼし岩がぽっかりと小さく浮かんでいる様にも見える。 あやせはしばらく陶然とした表情をしていたが、やがて笑顔になった。 「えぼし岩って、とっても小さくて可愛いですね」 「ああ、魚が良く釣れるらしいけどな」 「……何だか、その言い草だと……お兄さんはあまり興味が無い様に聞こえますけど。  でも、今日のところは許してあげます。……それよりも、少し歩きませんか?」 冬の砂浜は人気も少なく、いたとしてもカップルか小さな子を連れた親子連れくらいだった。 あやせは俺に寄り添い、ゆっくりとした足取りで砂浜の感触を楽しんでいる様だった。 昨夜のあやせからの電話に始まって、鎌倉駅で待ち合わせ、稲村ヶ崎から江ノ島まで二人で歩き、 今こうして俺はあやせと湘南の浜辺を歩いている。 あやせにしてみれば、きっとここがゴールなんだろう。 俺としちゃもう少しあやせと一緒に歩いていたい気持ちもあるけど、贅沢は言えねえ。 あやせみたいなヤツが、俺なんかを誘ってくれただけでも感謝しねえとな。 「お兄さん……少しだけ、海を見ていてもいいですか?」 「……ああ、何なら座るか? 砂浜なら構わねえだろ。一応、ハンカチ敷いてやるから」 ダウンジャケットのポケットからハンカチを取り出し、砂浜の上に敷いてやると、 あやせは少し照れた様に頬を赤らめながらその上に座った。 俺だけ突っ立てるわけにもいかねえから、迷ったんだけどあやせの横に座らせてもらった。 「本当にお兄さんって優しいですよね。……でも、時々鈍感になってしまうのは何故なんですか?」 「面と向かってそう言われても、答えようがねえだろ。自分じゃ気付かねえんだから」 「……そうですよね。気付かないから、鈍感なんですものね」 一人納得した様に頷くけどさ、それって俺に対してあんまりじゃね? おまえだって人に質問しといて、勝手に自分で答え出してさ、自己完結する癖があるじゃねえか。 それだってあまり褒められた事じゃねえだろっての。 あやせだから俺は何言われても許すけどさ……これが、麻奈―― 「お兄さん、ほら、あの二人見て下さい」 穏やかな表情で俺に話し掛けるあやせの視線を辿ると、 そこには小学生くらいの兄弟が、波打ち際で砂山を造って遊んでいるのが見えた。 174 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:10:59.84 ID:/8fklwxAo [18/26] 兄の方は3、4年生といったところだが、弟の方はまだ学齢前かもしれない。 弟を見ていてもどかしく思ったのか、兄が手を貸そうとすると、その手を邪険に振り払う弟。 先程あやせに言われた事も忘れて、俺は何となく幼い日の桐乃を想い出していた。 当時の桐乃は人見知りが激しく、遊び相手と言ったら俺か麻奈実くらいのもんだった。 今の桐乃を見たら、とてもじゃねえが想像も出来ねえけど。 「兄弟がいるって……何かいいですね。……あの二人、本当は仲が良いんでしょうね」 俺と同じ様に二人の姿を微笑ましげに見ていたあやせが、ふと言葉を漏らした。 一人っ子のあやせの眼に、あの兄弟はどう映ってるんだろう。 「俺は妹じゃなくて、弟だったら良かったと思う時もあるけどな。  煩わしいって思った事もあるし、親なんて息子より娘の方が可愛いんだろうけどさ、  俺より桐乃ばっか可愛がりやがって、ムカツク時もあったよ」 「そんな事言うと、桐乃に言い付けちゃいますよ……  わたしは一人っ子だからかもしれませんけど、やっぱり兄弟っていいなぁと思います」 桐乃が生まれた時の事は、今でも鮮明に憶えている。 ある日、親父にお袋の入院している病院へ連れて行かれて、 新生児室のガラス越しに見た得体の知れない生き物、それが桐乃だった。 親父から、あそこで眠っているのがおまえの妹だって言われても、三歳の俺に分かるわけがねえ。 お袋が桐乃と一緒に自宅に帰ってきて、初めて桐乃を抱かせてもらった時なんか、 手を離したら桐乃が死んじまうんじゃねえかと思って、怖くて泣きそうになっちまった。 俺の腕の中にすっぽりと納まって眠る桐乃は、その日から俺の宝物になった。 「小さい頃のわたしって、引込み思案で人見知りが激しかったんです。  お母さんが心配して、劇団かモデル事務所にでも入れば友達が出来るんじゃないかって……」 「それであやせは、今の事務所に入ったんだ?」 「はい、中学生になってから今の事務所に入って、桐乃に出会ったんです。  初めての仕事の時、緊張と不安で泣きそうになっていたわたしに……  そんなわたしに、親切に声を掛けてくれたのが桐乃だったんです。  二年生に進級するとクラスも一緒で、本当に幸運でした。  ……桐乃は、わたしの一番の親友なんです」 あやせが桐乃を親友と呼び、大切にする気持ちが俺にも何となく分かる気がした。 桐乃が友達を大切にしている事は以前から知ってたけど、 あいつの口から親友という言葉を聞いたのは、あやせが初めてだった気がする。 もしかしたら、二人の間には、何か通じるものがあったのかもしれない。 175 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:11:48.07 ID:/8fklwxAo [19/26] 桐乃の兄貴として俺がいる様に、もしあやせにも兄貴がいたら…… きっとそいつは、文句を垂れながらも四六時中あやせの世話を焼いているに違いねえ。 だったら俺とは話が合うんじゃねえかと思うと、可笑しくてしょうがなかった。 「なあ、あやせ……今日は俺なんかと一緒で楽しかったのか?」 あやせは俺の問いには答えず、振り向いて笑顔を見せただけだった。 まあ、今の俺にとっては、それでも十分だと思ったよ。 再び海を見つめるあやせ。その長く美しい黒髪が風になびくと、白いうなじが露になった。 俺の眼が吸い寄せられそうになったのを、誰が非難出来るって言うんだよ。 そんな俺自身の欲望との戦いの真っ最中に、海を見つめたままあやせが俺に問い掛けた。 「お兄さんは……桐乃の事、どう思っていますか? ……好き、ですよね?  もし……桐乃もお兄さんの事を好きだと言ったら、お兄さんはどうしますか?」 桐乃という名前を聞いた途端、俺の心の中で欲望が白旗揚げて退散して行く。 なぜあやせがここで桐乃の名前を出して来たのか、それは俺にも分からなかったけどな。 あやせが言う様に、俺は桐乃の事が多分好きなんだと思う。 だけど、あやせが思っている様な“好き”って意味じゃなくてな。 桐乃は俺の事をどう思っているか決して口じゃ言わねえけど、俺にだって分かるよ。 俺ですら分かるのに、桐乃の一番の親友のあやせに分からないわけはねえよな。 「あやせの言う様に、桐乃の事は嫌いじゃねえ。むしろ好きなんだと思う。  俺は、あやせにだけは正直に話して置きたい。  当然の事なんだけどさ、俺はあいつが生まれた時からずっと一緒にいるんだよな。  妹が泣いた時、それを泣き止ませるのは、妹を持った兄貴の務めなんだと思う。  あいつは怒るかもしんねえけど……」 あやせに、俺の言いたい事が伝わっただろうか。 以前にも増して、俺のシスコンが進行したと勘違いされても構わなかった。 たしかに桐乃は魅力的な女の子さ。何処に出しても恥ずかしくない自慢の――妹なんだよ。 桐乃の事を俺よりも大切にしてくれるヤツが現れて、桐乃が本当の恋を知るまでは、 俺はいつまでも妹の世話を焼く、シスコンの情けない兄貴でいてやりたい。 「俺はさ、桐乃からどんなに邪険にされようが、あいつの事が心配なんだよ。  どうしようもなく心配で仕方がねえんだ。……何か笑っちまうだろ?  長い間、お互い無視し合ってた時期もあんのに……俺は、あいつの兄貴なんだってな」 176 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:12:31.08 ID:/8fklwxAo [20/26] 海を見つめるあやせの横顔に、少しだけ憂いの陰が差していた。 俺が桐乃に対して持っている感情を、あやせには有りの儘に話したつもりだ。 しかし、一人っ子のあやせにとっては、少し残酷だったかもしれん。 「……桐乃が羨ましいです。……こんな素敵なお兄さんのいる桐乃が羨ましい」 感傷的になっちまったあやせに、俺は掛ける言葉が見付からない。 「あやせにとって俺は、シスコンで変態の鬼畜兄貴じゃなかったのか?」 「もうっ、わたしの事そんなに苛めないで下さい。――大ウソ吐きのお兄ーさんっ」 あやせは振り向くと顔を赤らめて、俺をちょっとだけ睨み付けてから言った。 思い出すのもおぞましい、出来る事なら削除してしまいたい俺の黒歴史の一ページだ。 でも、数日後あやせからもらったメールを見て……分かってはいたけどな。 「言うに事欠いて、大ウソ吐きはねえだろ。俺があやせにウソなんか吐いた事あるか?」 「お兄さんがそこまで言うなら、今日のところはそういう事にして置いてあげますね。  ……でも……わたしにも、お兄さんみたいな人が側にいて欲しい……」 「今更あやせに兄貴ってのは無理でも、彼氏の一人や二人なら簡単に見つかるだろ?」 あやせほど可愛い女の子なら、言い寄って来るヤツは数え切れねえだろうし、 ましてや、春から高校生になる彼女にしてみれば、彼氏なんて選り取り見取りだろうが。 俺は思った事を正直に言ったつもりなのに、あやせは寂しそうな顔をして俯いちまった。 「わたしに彼氏なんて、出来るわけありませんよ。……よく知っているじゃないですか。  性格はキツイし、思い込みは激しい……そんな子、誰も好きになんかなってくれませんよ。  ……桐乃みたいに素直で優しい子なら、誰からも好かれるんでしょうけど」 「そんな事ねえって。あやせの事が好きだっていうヤツはきっといると思う。  あやせがそれに、気付いてねえだけじゃねえかなぁ」 「お兄さんにそう言ってもらえると何だか……そうですよね。  わたしの事を好きになってくれる人が、すぐ近くにいるかもしれませんよね」 177 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:13:30.14 ID:/8fklwxAo [21/26] あやせほど友達思いで優しいヤツなんて、他にはそう易々と見付からないっての。 それに引き換え、桐乃は自分自身の気持ちに対して素直なヤツで、 自分の友達にだけは不思議と優しいヤツなんだよ。 俺なんか、今まで桐乃からどれだけ酷い仕打ちを受けて来たことか。 「あやせの彼氏になるヤツって、どんなヤツだろうな。すっげームカツクんだけど」 「……多分、鈍感な人だと思います。……でも、凄く優しくて……」 さっきまで落ち込んでいたあやせの横顔に少しだけ笑顔が戻った。 幼い兄弟が残していった波打ち際の砂山が、次第に打ち寄せる波に崩されてゆく。 夕陽が山の稜線へと傾き、見るものすべてを茜色に染めてゆく―― 俺は立ち上がって、服に付いた砂を軽く払うとあやせに言った。 「なあ、あやせ、そろそろ帰るか」 時計を見るとまだ帰るには早かったんだけど、冬は暗くなるのも早いし、 あやせみたいに可愛い女子中学生をいつまでも連れ回していたら、別の意味で問題だろ。 妹の桐乃と同じくあやせにも門限があるだろうし、そろそろ帰るつもりだと思ってたんだ。 しかし、あやせは膝を抱えたまま身動ぎもせず、海を見つめたまま小さな声で呟いた。 「お兄さん……今日は、お父さんもお母さんも出掛けていて……  明日までは帰って来ません」 俺は自分の耳を疑った。聞き間違いじゃねえかと思ったからさ。 余程のバカか単なる勘違い野郎でもない限り、今まさにあやせから誘惑されてると、 そう思ってもいいんだよな。 もしかしてこの真冬の湘南の海で、俺はあやせと大人への階段を上っちまうってか? 親愛なる赤城よ……すまん! 俺はおまえより一歩先へ行くぜ! 高校を卒業する前に、こっちの方を先に卒業させてもらうわ! あとはこの俺が、ひと言二言優しい台詞をあやせに掛けてやれば確定じゃねえか。 それなのに、俺の口を吐いて出た台詞は予想以上に陳腐なものだった。 「なあ、今あやせが言ったこと……俺は冗談だと思って、聞かなかった事にすっから、な。  あやせはまだ、中学生――いや、そう言うわけじゃなくてさ……」 あやせの事を好きだと想う純粋な気持ちが、俺のくだらない妄想を焼き払っちまった。 俺のそんな想いを知ってか知らずか、畳み掛けるように俺を責めるあやせ。 178 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:14:07.72 ID:/8fklwxAo [22/26] 「シスコンで変態のお兄さんの台詞とは、とても思えませんよね」 「俺の言い方が気に障ったのかもしれねえけど……」 「お兄さんは、女の子に……わたしに、恥を掻かせるおつもりですか?」 「申し訳ない。……俺があやせに恥を掻かせたって言うなら、素直に謝るよ」 俺はあやせに頭を下げた。でも、俺は自分の正直な気持ちに従ったつもりだった。 あやせの様な可愛い女の子から誘われてんのに、それを断る男なんてバカかもしれん。 だけど、こんなにも純真なあやせを、俺は一時の欲望で傷付けたくなかったんだ。 あやせは唇を噛み締めしばらく逡巡していたが、やがてその重い口を開いた。 「……お兄さんの仰る事は良く分かりました。……わたしも、どうかしてたみたいです。  軽率な事を言って……すみません…………忘れて下さい」 あやせは抱えていた膝を更に引き寄せると、顔を埋めた。 表情を窺い知る事は出来なかったけど、小刻みに肩が震えているのが分かった。 声を出さない様にして、泣いていたんだ。 俺はあやせに声を掛けるべきかどうか迷った。 そういえば今日のあやせって、何となく朝から様子がおかしかったじゃねえか。 いや、あやせがおかしいのはいつもの事だけど、今日は特別におかしいというか。 普段のあやせなら自分から俺と手を繋いだり、腕を組んだりするわけがねえ。 ましてや、冗談でも俺を誘惑する様な台詞を吐くヤツじゃない。 俺は今朝から疑問に思っていた事を、思い切ってあやせに聞いた。 「なあ、あやせ、今日俺を鎌倉に誘ったのは何でだ?」 あやせは膝を抱え顔を埋めたまま、モゴモゴと呟く様に話し始めた。 「それは、朝、喫茶店でお兄さんに説明したじゃないですか」 「そうじゃなくてさ、何で俺を誘ってくれたんだ?」 「……お兄さんは、わたしとじゃ不満なんですか?」 「いや、俺はあやせに誘ってもらって嬉しかったよ」 俺の聞きたかった事と、あやせの答えに微妙なズレがあるんだが、 これじゃ泣いているあやせを詰問している様で、どうにも居心地が悪かった。 こうなったら、あやせが泣き止んでくれるまで待つしかねえかもな。 空はすっかり夕闇に包まれ、星が一つ二つと煌き始めていた。 179 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:14:54.99 ID:/8fklwxAo [23/26] 「御免なさい。……わたし、今日は素直になろうって決めてたのに」 あやせは顔を上げると、ハンカチを取り出し、涙に濡れた目をそっと拭った。 俺はあやせの口が再び開かれるのを、ただじっと待った。――波音だけが俺の耳に響く。 長い沈黙の後、静かに、そして淡々とあやせの口から言葉が漏れてきた。 「今朝も言いましたけど、鎌倉へ来たのは……  ドラマの舞台になった場所を、実際に見てみたかったからです。  ……それから、お兄さんを誘ったのは…………お兄さんと一緒にいたかったから。  お兄さんと一緒に鎌倉の街や、湘南海岸を恋人同士みたく歩いてみたかったんです。  ……お兄さんは、わたしとなんかじゃ、ご迷惑だったかもしれませんけど……」 あやせはそこで言葉を切ると、再び膝を抱え顔を埋めた。 俺は自分の愚かさを呪うしかなかった。 あやせが俺に好意を寄せてくれていたなんて、夢にも思わなかったし、 時折見せてくれる優しさは、あやせの持って生まれた性格なんだと。 酷い扱いを受けた事もある。殴られたり蹴られたり、手錠を掛けられた事も…… そういや、防犯ブザーを鳴らされた事もあったっけ。 しかしそれだって、今思えばあやせなりの照れ隠しだったのかもしれない。 本当に死ぬんじゃねえかと、本気で思った時もあるけどな。 俺はあやせに、素直に詫びる事にした。 「あやせから誘ってもらえて俺が迷惑なんて、そんな事あるわけねえじゃねえか。  それから、おまえを泣かせちまった事は謝る。……その代わと言っちゃ何だけどさ、  俺が出来る事なら何でもしてやっから……それで勘弁してくれねえか?」 あやせは膝に顔を埋めたまま、再びモゴモゴと話し始めた。 「本当に……本当に何でもしてくれるんですか?」 「俺はおまえにウソは吐かないよ。――ただし、死ねってのはナシだ」 一応念を押しとかねえと、あやせなら『目の前の海に飛び込め』とか言いかねないからな。 いつだったか、桐乃の携帯小説の取材に無理やり駆り出された時なんか、 アイツは渋谷のスクランブル交差点で、いきなりダンプに轢かれてみてくれって言いやがったし。 最近の女子中学生の思考は、俺にはとてもじゃねえけど理解できんよ。 180 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:15:39.89 ID:/8fklwxAo [24/26] 「何でもしてくれると言うのなら、わたしの誕生日にキスしてくれますか?」 「……はぁ? あやせ、今なんつった?」 あやせはスカートに口を押し付ける様にしてモゴモゴ喋るもんだから、 何て言ったんだか、よく聞き取れなかった。 たしか、誕生日がどうとかまでは聞こえたんだが…… 「あやせ、よく聞き取れなかったんで、もう一度言ってくれるか?」 「……わたしの誕生日に、キスして下さい!」 ドサクサに紛れてとんでもねえ事を言いいやがる。 たしかに何でもしてやるって、先に言っちまったのはこの俺だ。 今更やっぱりウソでしたってわけにも――そういや、あやせの誕生日って? 「なあ、あやせの誕生日っていつだっけ?」 あやせは顔を上げると、俺の眼を真っ直ぐに見据えて言ったんだ。 「わたし、今日で十五歳になりました」 あやせの様子が朝からおかしかったのが、やっと分かった。 俺の事をからかってるんじゃないってのは、あやせの真剣な眼差しを見れば分かったよ。 十五歳になったばかりの女の子が、精一杯の勇気を振り絞って俺に言ってくれたんだと。 だったら、俺には精一杯の誠意を持ってそれに応える義務があるはずだ。 「……今日があやせの誕生日だって、俺知らなくて……御免な。  何のプレゼントも用意してねえし……本当に申し訳ない」 「いいえ、気にしないで下さい。わたしも、お兄さんに教えてませんでしたから」 俺たちの間に気まずい雰囲気が漂い始めている事を、俺は十分認識していた。 「あやせ、俺はおまえに聞いて欲しい事がある」 181 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:16:32.83 ID:/8fklwxAo [25/26] あやせにしてみれば、このまま俺がキスすると思うよな。 彼女の方からキスしてもいいですよって、言ってる様なもんだから。 俺の見当違いにも聞こえる台詞に、あやせは動揺したのか赤面して俯いてしまった。 そして、消え入りそうなくらい小さな声で呟いた。 「……な、何でしょうか……聞いて欲しい事って」 俺は大きく深呼吸してから、俯いたままのあやせに俺自身の想いを告げた。 「あやせが俺の事をどう想っているのかは聞かない。  だけどな、俺があやせの事をどう想っているかだけは聞いて欲しい。  俺は、あやせが好きだ。……初めてあやせと出会った時から、ずっと好きだった。  だから……もし、あやせさえよければ、俺と付き合って欲しい」 俺の正直な想いをあやせに伝えて、それで振られるなら仕方がねえし諦めも付くってもんだろ。 とは言っても、今日一日あやせと一緒にいて、あやせが俺の事をどう想ってくれているのか、 十分過ぎるほど知ってから告白するなんて、男として情けねえけどな。 告白して振られるだけならまだしも、これまでの俺とあやせの関係まで壊れちまう様で…… そうなる事が無性に怖かったのかもしれねえ。 想いを告げた今だって、あやせからはっきりとした返事をもらうまでは、俺は不安で仕方がなかった。 「……ずるいですよ、そんなの。  お兄さんはどうしようもないほどの鈍感で、もし今日気付いてもらえなかったら、  わたし……諦めるつもりだったんです。  それなのに、お兄さんからそう言われたら……わたしは、ハイとしか言えないじゃないですか」 ようやく顔を上げてくれたあやせの瞳は、涙で潤んでいた。 今日この海岸へ来てから、俺は何度あやせを泣かせたんだろうと思うと、胸が痛んだ。 俺は鈍感で、そんな俺の事を好きでいてくれたあやせの気持ちにも気付かずに…… あやせが理由も言わずに鎌倉まで俺を呼び出した事も、海岸線の道を手を繋ぎながら歩いた事も、 十五歳の誕生日の今日、俺と一緒にいたかったと言ってくれたあの言葉のどれを取っても、 この瞬間のためにあったんだと――俺は、今更ながら気付いたんだ。 「じゃあ……俺と付き合ってもいいって言うのか?」 あやせは涙を拭い、恥ずかしそうに小さく頷くと、無邪気な笑顔で俺に右手を差し出した。 182 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:17:12.41 ID:/8fklwxAo [26/26] 翌朝―― 遮光カーテンの隙間から月明かりが射し込んでいる事に気付いて、俺は目が覚めた。 隣りではあやせが静かな寝息を立てて眠っている。 彼女を起こさない様に、俺はそっとベッドから這い出した。 窓のカーテンを少しだけずらして外を見ると、 江ノ島の灯台の灯りは、相も変わらず暗闇の海を照らし続けている。 「……お兄さん……どうかしたんですか?」 振り返ると、眠たげな眼を擦りながら、あやせが不安そうな声で俺に聞いた。 部屋が暗いせいもあって、俺は優しく囁く様にあやせに言った。 「すまねえ……起こしちまったかな。なんも心配ねえから、もう少し寝てな」 あやせは俺の言葉に小さく頷くと、言葉を続けた。 「……お兄さん、本当によかったんですか?」 俺が無言で頷きながらあやせに笑い掛けると、彼女も恥ずかしそうに笑った。 そして、あやせは掛け布団を両手で引っ張って口元まで隠すと、 悪戯っ子の様な目をして俺に言ったんだ。 「お兄さん……大好きです」 あやせ、その仕草は反則だろ! 俺はそう思ったんだが、口に出しては言えなかった。 母の胸に抱かれて、安心して眠る子供の様な笑顔を見せてから、あやせは再び瞼を閉じた。 この笑顔が見られるなら、俺はもうしばらく大ウソ吐きのお兄さんのままでいてやる。 心の中でそう思っている自分が、無性に可笑しくて仕方がなかった。 (完)
158 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:00:10.55 ID:/8fklwxAo [2/26] 冬晴れのとある土曜日―― 俺は鎌倉駅東口の改札口で、あいつが来るのを待っていた。 改札口に掛かっている時計を確認すると、すでに八時を過ぎている。 俺は柱に寄り掛かったままダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、 自動改札から次々に吐き出されて出て来る乗客に眼をやった。 漆黒の長い髪、輝くような笑顔、あいつの美貌は遠目からでもひと目で分かる。 読者モデルをやっているだけあって、スタイルもファッションも非の打ち所がない。 そんなあいつに気後れしながらも俺が軽く片手を挙げると―― あいつも気付いて、白い吐息を弾ませながら俺に向かって駆けて来た。 「申し訳ありません、お兄さん。……わたし、電車に乗り遅れてしまって……」 「そんなこと気にすんなって。俺も今さっき着いたばっかだからさぁ」 一時間も前から待ってましたなんて、正直に言えるわけがねえだろ。 さっきまでの苛立ちなんて、あやせの顔を拝んだら何処かへ消し飛んじまった。 「それよりも、あやせは朝飯まだなんじゃねえか? 何なら喫茶店にでも入るか?」 俺たちは、取りあえず駅前にある喫茶店に入る事にした。 その喫茶店は、渋谷や原宿などにある様な若者受けするお洒落な店とは全く違い、 古都鎌倉に相応しく、いかにも時代掛かった落着いた店構えだった。 マスターは物静かな初老の紳士といった感じで、俺たちを見て笑顔で軽く会釈をしてくれた。 大手のコーヒーショップしか知らない俺には、何だかとても新鮮だ。 マスターの案内で窓際の空いた席に着くと、モーニングセットを二つ注文した。 「あやせ、今更聞くのも何だけどさぁ、今日は何で鎌倉なんだ?」 あやせは俺の言葉に、一瞬きょとんとした表情をしたんだが…… 「……わたし、昨日の夜電話した時、お兄さんに言ってませんでしたっけ!?」 「俺はあやせから、今日の朝八時に鎌倉駅の東口へ来いとしか聞いてねえけど」 「御免なさい。……わたし、てっきりお兄さんに説明したとばかり思い込んで……」 159 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:00:43.26 ID:/8fklwxAo [3/26] あやせから電話があったのは、昨日の夜だった。 普段ならメールで済ませる様なヤツが、昨夜に限っては珍しく電話を掛けて来て、 『お兄さん、明日暇ですよね? 朝の八時に、鎌倉駅の東口へ来て下さい』 それだけ言うと、あやせは一方的に電話を切りやがったんだ。 俺があやせに普段何気なくしているセクハラを咎められるにしたって、 わざわざ鎌倉まで呼び出す必要はねえし――まさか、デートのお誘い? なんて事を考えている内に詳しい事を聞きそびれちまって、今ここにいるわけだ。 電話一本で理由もろくに聞かずに来ちまった俺も悪いけど、 あやせの様子がいつもと違う様な気がして、それが気になったのも事実だった。 「お兄さん……絶対に怒らないと……約束してもらえますか?」 申し訳なさそうな顔をして俯いたと思ったら、上目遣いで俺の顔をそっと窺うあわせ。 あやせみたいな可愛い女の子に、そんな表情されて怒るヤツがいるわけねえだろっての。 もしかしてあやせのヤツ、知っててやってんじゃねえだろうなぁと思うと複雑な気持ちだ。 とは言うものの、今朝あやせに改札口で会ってから俺の顔は緩みっぱなしで、 今更それを引き締めて怒ったところで、冗談にしかならねえしな。 「俺が怒るわけねえだろ。怒るくらいなら、初めっから来ねえよ」 「それを聞いて安心しました。……うふふっ」 やっぱ知っててやってたんじゃねえか。 あやせに怒られる事は度々あっても、俺があやせを怒った事なんて一度もない。 さっきまでの申し訳なさそうな顔なんて忘れたかの様に、あやせの顔に笑顔が戻る。 俺を鎌倉へ呼び出した理由は、去年テレビで見た『とめはねっ!』とかいうドラマの舞台が、 鎌倉と江ノ島周辺だったらしく、あやせとしては一度現地を訪れてみたかったらしい。 160 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:01:36.81 ID:/8fklwxAo [4/26] 注文したモーニングセットがテーブルに並べられるのを待って、俺はあやせに聞いた。 「――それってさぁ、俗に言う聖地巡礼ってやつか?」 俺はコーヒーにミルクを数滴だけ落としてから、カップを口に運んだ。 「お兄さん、聖地……何ですか?」 「いや、気にしないでくれ……独り言だから」 あやせがついに禁断の世界へ!? そう思ったのは俺の思い過ごしで、 更に話を聞いてみると…… 「じゃあ、あやせは小学生の頃、塾で習字を習ってたんだ」 「はい。それに、ドラマの後半でバックに流れていた曲がサザンの曲だったので、  わたしとしては、一度は来てみたくて……」 あやせが鎌倉に来たかった理由は分かったし、それはそれで納得したんだけどな。 俺はあやせに呼び出された時からずっと聞きたかった事を、この場は胸の内に収めた。 それよりも朝からあやせと一緒にいられるんだから、それで十分かもしれねえ。 喫茶店を出てからは、俺とあやせは一緒に近くの鶴岡八幡宮に参拝した後、 若宮大路と呼ばれている参道周辺を散策しながら、再び鎌倉駅へ戻った。 鎌倉駅から最初の目的地、稲村ヶ崎までは江ノ電という小さな電車に乗って行く。 この江ノ電って、場所によっては民家の軒先すれすれの所を走ってるもんだから、 あやせの様に初めて乗った者にとっちゃ、かなり驚かされる。 おばちゃんが勝手口から顔を出していたり、踏み切りでもないのに電車が通過すると人が線路を 横断したりと、それだけ電車のスピードが遅いってのもあるんだろうけどな。 「お兄さん、わたしこういう電車って初めてなんですが、お兄さんは乗った事ありますか?」 「俺がまだ高一だった時、何度かな。そん時は藤沢駅から乗ったから路面電車だったけどな」 「……それって、どういう意味ですか?」 「分かり難いかもしんねえけど、江ノ電って路面区間と専用軌道区間ってのがあってさ、  腰越駅で切り替わんだよ。……分かんねえよな」 「………………」 161 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:02:10.83 ID:/8fklwxAo [5/26] 電車は駅に到着する度に数人の乗客が下車し、また新たな客を乗せて発車する。 車内を見回すと、先程よりかなり込んで来た。 ドアの横にある手摺に掴まりながら、車窓を流れる景色を楽しげに見つめるあやせ。 俺はさり気なくあやせの後ろに立って、彼女の立っている空間を確保してやった。 次の到着駅を知らせる車掌さんのアナウンスが車内に流れると、 シートから立ち上がり、網棚から荷物を降ろす乗客なんかで車内が多少ざわつく。 「お兄さん、もうすぐ稲村ヶ崎に着きます。今日はわたしが、お兄さんをご案内しますから」 「じゃあ、俺は黙ってあやせのエスコート役に徹するよ」 あやせは少し照れた様な笑顔を見せた。 俺はあやせと一緒にいると、不思議な緊張感を覚えるんだ。 何かこう上手く言えねえけど…… あやせはどうなんだろう、俺みたいなのと一緒にいて楽しいのかなぁ? 俺のそんなあやせへの想いなんて、知るはずもねえだろうな。 民家の家々の隙間から垣間見える青空を眺めながら、俺はひとり苦笑した。 稲村ヶ崎の駅は、俺が思っていたよりもずっと小さな駅だった。 ホームの端に小さな駅舎があって、階段を数段下りて上り線の線路を横切った所が改札口だ。 そのまま隣にある踏切に出ちまった方が早いんじゃねえの? 「なあ、ここってさぁ、改札口の意味ってあんのか?」 「お兄さん、こういうのは趣があるって言うんです。言葉には気を付けて下さい」 あやせにしてみれば、今日は聖地巡礼みたいなもんだからな。 コレクターに向かって『これ集めてどうすんの?』って聞くみたいなもんか。 俺たちは名ばかりの改札口を出て、踏切を渡ると海へ向かって歩き始めた。 百メートル足らずの緩やかな下り坂を抜けると、一気に視界が開ける。 「お兄さん、あれが稲村ヶ崎です」 162 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:02:47.79 ID:/8fklwxAo [6/26] あやせは弾む様な声で左前方を指差しながら俺の顔を見た。 こんなに嬉しそうに笑っているあやせなんて、俺は今までに見た事がねえよ。 急かすように俺の手を取って歩き始めたあやせの横顔を見ていると、 これなら早起きしてまで来た甲斐もあるもんだと、染みじみとそう思った。 稲村ヶ崎は国道134号線に面した、小さな岬といった所だった。 岬の先端は崖になってるけど、手前には公園もあって、 土曜日の上、晴天にも恵まれたからか、かなりの人出で賑わっている。 あやせの案内によると、崖の上には展望台があるらしい。 俺たちは階段を上って展望台へ行く事にしたんだ。 それにしても、さっきからずっと手を繋いだままなんだが……。 展望台には何があるってわけでもなく、眼下に広大な海が広がっているだけだ。 冬の海は碧く澄んでいて、水面には太陽の光が乱反射してとても美しかった。 沖合いに目を転じると、ウインドサーフィンのカラフルなセイルがいくつか見えた。 「良い所ですねー。景色も綺麗だし本当に来てよかったです」 「俺も稲村ヶ崎は初めて来たけど、悪くねえかもな」 「そうですよね。……でも、お兄さんを本当に案内したいのは、ここじゃないんです」 「――と言うと、この先に見える江ノ島か?」 喫茶店であやせから聞いた話じゃ、ドラマの舞台は鎌倉から江ノ島周辺だって事だから、 この先に見える江ノ島へ行くもんだと俺は思ったんだ。 「江ノ島へ行く事は行きますが……そこへ行くまでの道が、今日は大切なんです」 あやせのヤツ、何だか思わせ振りな言い方しやがって…… まあ、俺も敢えて反対する理由も無いしな。 「どのみち今日の俺はあやせのエスコート役なんだから、おまえに付いて行くだけだよ」 「じゃあ、お兄さん……今日はわたしに、しっかりと付いて来て下さいね」 階段を下りる時、小さな子供を先頭に展望台に向かって上って来る家族連れと擦れ違うと、 あやせは俺と繋いでいた手をさり気なく解いた。 163 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:03:24.86 ID:/8fklwxAo [7/26] あやせは駅へ向かうわけでもなく、国道の片側にある歩道を歩き始めた。 俺はあやせが何処へ行こうとしているのか、全く見当が付かなかったんだ。 左手には海しかないし、右を見たってガソリンスタンドや民家が点在しているだけだ。 まさか、ここから江ノ島まで歩いて行こうってわけじゃあるまいな。 「なあ、あやせ、この先に何かあんのか?」 「ここから一キロぐらい先に、ロケで使われた高校があるんです。  もしかしたら、外観だけかも知れませんけど……そこへ行きたいんです」 ちきしょう! やっぱ歩いて行くのかよっ。 「お兄さん、何かご不満でもあるんですか?」 あやせは、俺に右手を差し出しながらそう言った。 犬じゃあるまいし、手を繋ぐくらいのご褒美で、俺が素直に尻尾を振るとでも思ってんのかね。 俺は自分の右手を差し出して、毅然とした態度で言ってやったんだ。 「あやせ、俺がおまえに、車道側を歩かせるわけにはいかねえだろ。  ……何たって、今日の俺はおまえのエスコート役なんだからよ」 今日一番のキメ台詞じゃねえかと、俺は思ったよ。 言った俺も恥ずかしかったけど、言われたあやせも恥ずかしかったみたいだけどな。 それでも、あやせは改めて左手を差し出してくれたんだ。 「……お兄さんって、よくそんな恥ずかしい台詞を真顔で言えますよね」 「ほっとけっ」 俺たちは手を繋ぐと、ゆっくりとした歩調で歩き始めた。 対向車のドライバー達が俺たちを見て、ニヤニヤしていたのが印象的だったけどな。 海から吹いてくる冷たい風が、火照った俺の顔に当たって心地良かったよ。 164 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:04:03.24 ID:/8fklwxAo [8/26] あやせからドラマのあらましを聞きながら、その中で流れていたというサザンの曲 『希望の轍』――それは、俺が以前何度も聴いた曲だった。 俺は頭の中で、その曲の歌詞とメロディーを思い浮かべていた。 「ドラマの中で結希ちゃんが、『希望の轍』とはこの国道134号線の事を謳ったものだと、  大江君に言うシーンがあるんです――聞いてますか、お兄さん?」 聖地巡礼中のあやせは、声を弾ませながらドラマの良かった所を俺に言って聞かせた。 だがなあやせ、そのドラマを見てねえ俺にとって、おまえの言ってる結希ちゃんや大江君が 出演者の名前なのか、それとも登場人物の名前なのか分かるわけねえだろっての。 「お兄さん、多分あの建物です。……ドラマで見たのと全く同じです」 あやせが目を輝かせながら指差した白亜色の建物は、江ノ電の線路のすぐ脇にあった。 それはあやせの言った通り学校らしく、海に面して教室の窓がいくつも並んでいる。 それにしても、高校生にとって教室の窓から外を見たら海ってのは、贅沢の極みかもしれん。 俺の通っている高校の窓から見える風景なんて、どこにでもある住宅街だもんな。 あやせは携帯を取り出すと、周囲の景色を何枚も写真に収めていた。 校庭では、ソフトボール部の女子生徒達が練習している様子が見える。 「勝手に校庭に入ったりしたら、やっぱりいけないですよね?」 「下手すりゃ不法侵入になるだろうし、やっぱ、まずいんじゃねえか?」 そりゃあ、あやせは可愛いから見逃してくれっかもしんねえけどさ、 そんな可愛い女子中学生を連れた俺なんか、一発で怪しまれるだろうが。 あやせは俺の顔をマジマジと見てから、深い溜息を吐いた。 「仕方がないですね。……じゃあ、次はあそこに見える駅まで行きます」 あやせが指差した駅というのは、ここから更に一キロほど先にあって、 国道と海に面した小さな駅だった。俺は軽い目眩を感じ、こめかみを抑えた。 165 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:04:42.87 ID:/8fklwxAo [9/26] 「あやせ、あの駅へ行くのは構わねえけどさぁ、その手前にも駅ってのはあんのか?」 「ええ、ここからは見えませんけど、この学校のすぐ近くに駅ならありますけど」 「じゃあさぁ、一区間だけでも電車に乗って行かねえか?」 「……わたし、お兄さんには江ノ島へ行くまでの道が大切って、言いませんでしたか?」 あやせは左手を差し出すと、首を傾げてニッコリと笑った。 俺のラブリーマイエンジェルが、ブラックエンジェルに変わったかと思ったよ。 それでもあやせの可愛さには抗えず、俺は彼女の手を取ってまた国道を歩き始めた。 しばらく歩いていると、テラス席のあるお洒落なレストランが見えてきたんで 時計を確認すると、昼飯には少し早かったんだが、あやせに聞いてみた。 「なあ、この辺りで昼飯にするってのはどうよ。昼になると込むだろうしさ」 俺が『珊瑚礁』と書かれた店の看板を見ながら言うと、あやせも気に入ったのか賛成してくれた。 階段を上がって店内に入ると、内装は控えめな南国風で、大きな窓からは海が一望できる。 テラス席もあるにはあるんだが、幾らなんでもこの冬の季節じゃな。 俺たちは運が良い事に、海の見える窓際の席に案内された。 「お兄さん、もしかして、前からこのお店知ってたんですか?」 「……何が?」 店内を見回しながら興奮気味に話すあやせに、俺はちょっと引き気味だったんだが、 俺の顔が蒼ざめるまでにそう大して時間は掛からなかった。 「わたしも雑誌やネットでしか見た事がなかったんですが……  ここって、湘南では超有名なお店なんですよ。  それに、海の見える窓際の席に座れるなんて、本当に幸運だと思います。  前からこのお店に一度は来てみたいと思っていたんです。  ……それが、お兄さんと一緒に来られるなんて思ってもみませんでした。  このお店ってカレーがメインなんですが、シーフードもとても美味しいそうですよ」 166 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:05:34.12 ID:/8fklwxAo [10/26] 興奮冷めやらぬといった様子であやせは俺に話し掛けてくるんだが、 メニューの値段に眼が釘付けになっている俺にとって、はっきり言ってどうでもよかった。 でも、あやせの前でそんな素振りを見せられるわけねえだろ。 平静を装いながら、俺はあやせにメニューを指し示して…… 「で、あやせは何にする? 今日は俺が奢ってやるから、好きなもん頼めよ」 あやせもそこで初めてメニューを見て、さっきまでのはしゃぎ振りが止まった。 きっとあやせの事だから、俺に遠慮しちまうに違いない。 こういう時は先手を打たなきゃな。 「なあ、あやせ、俺に遠慮なんかして恥を掻かせないでくれよ」 俺がそう言ったところで、あやせの性格からしたら遠慮するなと言う方が無理ってもんだ。 だからこの際、俺が強引にでもあやせの好きそうなメニューを頼む事にしたんだ。 あやせには地鶏のカレーとシーフードサラダを、俺は浜豚ロースカツのカレーを注文した。 「……すみません、お兄さん。……でも……」 先程とは打って変わって大人しくなっちまったあやせに、どう声を掛けたらいいもんかな…… ふとその時、桐乃に無理やり彼氏役をやらされ、デートに連れ回された時の事を思い出した。 俺はあやせと視線を合わさない様にして、海を見ながら呟いた。 「あやせ、こういう時、男ってさ……女の子が甘えてくれると嬉しいかもしんねえな」 「……分かりました。……じゃあ、今日はお兄さんに思いっきり甘えさせて頂きます。  でも、覚悟して置いて下さいね」 俺たちが外の景色を眺めながらあれこれと話している内に、注文した料理が運ばれて来た。 たしかに値が張るだけあって、料理はどれも絶品だったよ。 お袋もよくカレーを作るけどさ、これと比べたら、ありゃなんじゃって言いたいね。 あやせの食べている地鶏のカレーも旨そうだったし、この店にして正解だったのかもな。 「お兄さん……お兄さんさえよければ、サラダは一緒に食べませんか?  あと、お兄さんの方のカレーも一口下さい。代わりに、わたしのもあげますから」 167 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:06:12.38 ID:/8fklwxAo [11/26] 食事が終わって会計を済ませると、俺たちは店を後にした。 「お兄さん、ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」 「そっか、またいつか一緒に来ような」 あやせは笑顔で頷くと、さり気なく俺の右腕に左腕を絡ませて来た。 俺がそんなあやせに戸惑って何か言おうとしたら、今度はあやせの方が先手を打ったんだ。 「今日は思いっきり甘えさせて頂きますって、わたし言いましたよねっ」 そこで俺が何か言ったら、無粋になっちまうだろ。 今日一日、俺はあやせのエスコート役なんだから、彼女のやりたい様にやらせてやるさ。 それにしても残念なのは、俺もあやせもダウンジャケットを着ていた事かな。 海岸線に沿って緩やかに湾曲している国道134号線―― あやせと腕を組んで歩きながら、俺は彼女と初めて出合った時の事を想い出していた。 『俺は高坂京介。――そっちは?』 『あ、ごめんなさい! 申し遅れました――わたし、新垣あやせです』 俺の妹の一番の親友でもある新垣あやせ。 あやせとの出会いは、平凡な人生が何よりと思っていたこの俺に、新鮮な旋風を巻き起こした。 桐乃のオタク趣味が発覚して、絶交状態になった桐乃とあやせを仲直りさせるために奔走したり、 友人の一人である来栖加奈子のマネージャーに扮して、コスプレ大会に潜り込んだりと―― その間には幾度となく、『変態!』と罵倒されたり、殴られたり蹴られたり…… それでも、今こうしてあやせと仲良く腕を組んで歩いている事を思えば、 知らぬ間に俺たち二人の距離が縮まっていたのかもしれねえな。 「お兄さん、何か可笑しな事でもあったんですか? 何だか笑っている様に見えますけど」 「……別に何でもねえって、ちょっと昔の事を想い出しただけさ」 168 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:06:50.27 ID:/8fklwxAo [12/26] あやせはポケットから小さく折り畳まれた紙片を取り出すと、それを広げて辺りを見回した。 俺が横から覗き込むと、それは“巡礼マップ”ならぬ“ロケ地マップ”だった。 パソコンからプリントアウトしたらしく、地図の上にはいくつかの印が付けてある。 「なあ……その印のある所、全部廻るのか?」 「いいえ、今日のところは鎌倉と江ノ島周辺だけです」 「……だろうな、その地図だと印が茨城県にもあるもんな」 店を出てから小一時間歩いて、ようやく目指す駅に到着した。 国道と平行して建っている駅のホームと、目の前にある海を遮るものは何もない。 俺にとっては何の変哲もない駅だったけど、あやせはここでも何枚かの写真を携帯に収めていた。 ちょうどその時、江ノ島方面から電車がやって来ると、あやせは俺に携帯を渡して、 国道と線路を仕切るフェンスの前に立った。 「お兄さん、わたしと駅のホームと電車が上手く入る様に撮って下さい」 プロのカメラマンでもない俺に、何バカなこと言ってんの? 電車の速度がかなり遅かったから、何とかシャッターは押せたけどな。 俺はあやせに携帯を返しながら、真顔で聞いてやった。 「なあ、あやせって、鉄子だったっけ?」 「……何を訳の分からない事を仰ってるんですか」 訳が分からんのは、おまえの方だろっての。 眉間にしわを寄せながら不思議そうな顔をして、あやせは俺から携帯を受け取った。 「それよりもお兄さん、ここから江ノ島までは、まだ距離がありますけど……  電車に乗ってもいいですよ」 俺は振り返り、稲村ヶ崎からあやせと一緒に歩いて来た道を見た。 今俺とあやせが立っている場所は、江ノ島までの道程の半分を少し過ぎた所だった。 「あやせさえ良けりゃ、俺はこのまま歩いて行ってもいいぜ」 あやせは満面の笑顔で頷くと、また俺と腕を組み、俺たちは歩き出した。 初めから歩いて行きたいと思ってたんなら、はっきりそう言えばいいのに…… 遠慮して俺に判断を委ねるあやせが、無性に愛らしく思えた。 いや、あやせとこのまま歩いて行きたかったのは、むしろ俺の方かも―― それを素直に口に出して伝えられない自分が、情けなくてもどかしかった。 169 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:07:22.99 ID:/8fklwxAo [13/26] 江ノ島は国道134号線とは橋で繋がっていて、その橋を数百メートルも歩けば島内となる。 今は引き潮なのか、橋の下には砂地が見えて陸続きになっている様にも見えた。 島の左側にはヨットハーバーがあり、幾艘ものヨットやレジャーボートが係留されている。 「お兄さん、ヨットハーバーへ行ってみてもいいですか?」 俺たちは橋を渡るとそのまま左手に進み、江ノ島のヨットハーバーへと向かった。 港に帰って来た一艘の白いヨット、その真っ白なセイルが午後の日差しを受けて輝いた。 間近で見るヨットは想像以上に大きく、その容姿に圧倒される。 俺なんかじゃ一生掛かっても、この中にある一番小さなヤツですら持てねえけど。 それでも一度くらいはこういった船に乗って、大海原に出てみたいと思うよ。 自嘲気味に俺が溜息を吐くと、俺の顔を見ながらあやせが言った。 「お兄さんには、車で十分だと思いますよ。それにわたし、船は苦手なんで……車でいいです」 「俺には車で十分って、貶してんだか慰めてくれてんだか分かんねえけど……」 「一応慰めたつもりなんですが、お兄さんがヨットを買うなんて想像も出来ませんから」 「それじゃ、せいぜい車が買える様に努力するわ」 「お願いしますね。……じゃないと、何処にも連れて行ってもらえ――  お兄さん、この先の防波堤まで行ってみませんか? ねっ、早く行きましょ」 あやせは俺の腕を引っ張る様にして歩き始めた。 そんなに急がなくたって、防波堤は逃げやしねえっての。 それにしても、何であやせの顔が赤いんだ? 何か聞き逃してねえか、俺。 「釣りをしている人が沢山いるんですね。何が釣れるんだろう」 「アジとかシロギスが釣れるらしい……いや、俺じゃなくて、以前親父が言ってたんだ」 「お兄さんのお父さんって、釣りをなさるんですか?」 「なさるってほど高尚なもんじゃねえけど、俺もガキの頃はたまに連れて来てもらったよ」 防波堤の先端まで行ったところで、何があるわけでもなくただ寒いだけだ。 それでもあやせにとっては楽しいらしく、ここから見える三浦半島をじっと見つめていた。 しばらくは俺の腕にしがみ付く様にしていたあやせが、少しずつ後退りしながら俺に言った。 「あの……やっぱり寒いので、戻ってもいいですか?」 「我慢してたんじゃねえのか? それを早く言えっての」 170 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:08:03.40 ID:/8fklwxAo [14/26] 江ノ島まで来た記念に何か買って帰りたいと言うあやせのために、 俺たちは江ノ島の中にある神社へと続く参道へと足を向けた。 参道はなだらかな坂道になっていて、途中急な所は階段を上る事になる。 道の両脇には、貝殻細工を中心とした土産物屋や飲食店がびっしりと軒を連ねていた。 あやせは店先に飾られた風鈴のような貝殻細工を手に取ると、軽く揺らしてその音色を確かめた。 金属が触れ合う様な乾いたその音は、まるで南部風鈴の様な趣のある音色だった。 その音色に満足したのか、あやせは店の奥にあるレジへと向かった。 「あやせ、そのくらいなら俺が買ってやるって」 「いえ、これはお母さんへのお土産にするつもりなので、わたしが買います」 店の奥で包装をしてもらい、レジ袋を手に提げて店を出て来たあやせは、 俺から視線を外したまま思わせ振りな事を言い始めた。 「お兄さんには、他に買って欲しい物があるんです」 「……俺に買って欲しい物って……?」 「ずっと先の事ですから……今すぐと言うわけではありません」 「……ずっと先って言うと……卒業祝とか、入学――」 俺が入学祝とか、と言い掛けると、あやせの顔から表情が消え…… 「卒業祝じゃありませんし、入学祝でもありません。  お兄さんはわたしに、何かのお祝い以外で物を買うって発想が無いんですか?  ……それからお兄さん、ここ階段ですから……気を付けて下さいね」 あやせが俺に何を買って欲しいのか、はっきりとこの場で言って欲しかったんだけどさ、 階段の下へと転がり落ちて行く俺の映像が、脳裏を横切っちまって…… 「まあ、あやせが欲しいって物なら、何だって買ってやるから、な」 「本当ですか? 約束ですからね。……お兄さん、忘れないで下さいね」 「俺が万が一にもあやせとの約束を破ったら、張り倒しても構わんからさ」 「いいえ……ぶち殺しますから、安心して下さい」 いつも通りのあやせの台詞が出て来たって事は、取りあえず機嫌を直してくれたって事だな。 あやせから『ぶち殺します』って言われて、ヘラヘラ笑っていられる俺って何なのって思うけど、 人前で『ぶち殺します』って平然と言えるあやせもどうかと思うけどね。 可愛かったら何言っても許されるのかっての。同じ台詞を麻奈―― 「あやせ、上にある灯台へ行ってみるか?」 171 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:08:46.09 ID:/8fklwxAo [15/26] 江ノ島には展望台を兼ねた灯台がある。 歩いて行くにはかなりの距離なんだが、ここには『エスカー』と言って、 巨大なエスカレーターと呼ぶに相応しい乗り物があるから、それほど苦でもない。 俺が江ノ島へ来るのは二年振りだから、懐かしさもあったんだ。 高一の夏休みに、女の子目当てに赤城たちと何度かナンパしに来たんだけど…… まあ、結果は無残極まりなかったけどな。 「……今日はお兄さんと一緒だから、やめて置きます。……だって……」 「俺と一緒だと、何か都合でも悪いってか?」 「来る前にネットで調べたんですけど……灯台へ行くには、神社の前を通るじゃないですか。  江島神社というそうですけど……それって、弁財天だから……」 「弁財天って事は、いわゆる弁天様って事だろ? それが俺と何か関係があんのか?」 いつもなら俺に対して、もっとはっきりと物を言うヤツなのに、 今日のあやせに限っては、先程の会話といい、何か奥歯に物が挟まった様な言い方をする。 気になるとはいえ、こんな事であやせの機嫌を損ねてもなんだし…… 最後まで付き合って、彼女を無事に家まで送り届けるのが俺の役目だよな。 「お兄さんにはっきりと言えないのは、申し訳ないんですけど……  弁天様って女の神様じゃないですか。……ネットにも嫉妬深いって書いてあったんで……」 「まあ、俺には神様の性格までは分からんけど、あやせが良いなら俺は構わんよ」 「本当にすみません。……お兄さんが鈍感で助かりました」 「誰が鈍感だっつーの。……それよりも、他に行きたい所があるんじゃねえの?」 「サザンの曲にも出て来る、えぼし岩を見てみたいんですが……いいですか?」 えぼし岩ってのは、茅ヶ崎の沖合いの姥島と呼ばれている岩礁にある岩の事だ。 釣り好きの親父から以前、えぼし岩ってのは、昔の公家や武士が被っていた烏帽子に その形が似ているところから、その名が付いたって聞いた事がある。 要するに沖合いに顔を出している、どうと言う事もない小さな岩なんだよ。 親父が言うには絶好の漁場らしいけど、釣りに興味のない俺には関係のない話さ。 あやせが見たいって言うんだから、お供しない訳にはいかねえけど。 「えぼし岩ね。……江ノ島からじゃ、ちっと遠いかもしれねえけど、  今渡ってきた橋の上か……それともなきゃ、砂浜へ降りれば良く見えると思うぜ」 「お兄さんって、妙に江ノ島に詳しくないですか? よく来るんですか?」 「そんな事もねえよ。……まあ、好きだからじゃねえか」 172 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:09:29.92 ID:/8fklwxAo [16/26] あやせの希望もあって、俺たちは橋よりも茅ヶ崎寄りに広がる片瀬海岸の砂浜に行く事にした。 橋を渡りきって左手に進むと、そこから車道は二車線になり、歩道もぐっと広くなる。 国道に沿ってファミレスやリゾートマンションが立ち並び、湘南の雰囲気を醸し出している。 それにしても、赤城と来た時にも思ったんだけど、ファミレスの横にラブホは有り得ねえだろ。 事情があってやむを得ず桐乃と入ったラブホだって、もう少し控えめな所にあったってのに。 こんなに目立つラブホに、一体どんなヤツが入って行けるって言うんだよ。 「お兄さん、あれ……何の建物ですか?」 「ああ、あれはラブ…………らぶ、らぶほたる?」 「………………」 俺があやせのエスコートをするのも、正直これで終わったと思ったね。 あやせはと見れば、歩道の左側に建っている大きな建物を指差しながら言ってるじゃねえか。 「水族館……あやせ、あの建物は江ノ島水族館だよ」 「……水族館なんですね? ところでお兄さん、有り得ない妄想はやめて下さい。  何が、らぶほたるなんですか。……わたし、桐乃から聞いて全部知っていますから」 あやせの口調はたしかに怒っているんだが、目元が微かに笑っている様にも見えた。 俺の失言にブチ切れてもおかしくない、この情況でだ。 やっぱり、今日のあやせは何か違うんだよな。 「それよりも、わたしを砂浜に案内してくれるんじゃないんですか?」 「あ、ああ、すまねえ。……砂浜はここを通れば行けっから」 俺が先に行こうとすると、あやせは俺の右腕にさり気なく自分の左腕を絡ませてきた。 本当にコイツはあやせなのかとも思ったんだけど、何もこの雰囲気を自らぶち壊す必要もないしな。 あやせが怒っていない事が分かっただけでも、それでいいじゃねえか。 173 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:10:08.67 ID:/8fklwxAo [17/26] 水族館の横にある公園を通り抜けると、もうそこは砂浜だ。 右手の沖合いには、えぼし岩がぽっかりと小さく浮かんでいる様にも見える。 あやせはしばらく陶然とした表情をしていたが、やがて笑顔になった。 「えぼし岩って、とっても小さくて可愛いですね」 「ああ、魚が良く釣れるらしいけどな」 「……何だか、その言い草だと……お兄さんはあまり興味が無い様に聞こえますけど。  でも、今日のところは許してあげます。……それよりも、少し歩きませんか?」 冬の砂浜は人気も少なく、いたとしてもカップルか小さな子を連れた親子連れくらいだった。 あやせは俺に寄り添い、ゆっくりとした足取りで砂浜の感触を楽しんでいる様だった。 昨夜のあやせからの電話に始まって、鎌倉駅で待ち合わせ、稲村ヶ崎から江ノ島まで二人で歩き、 今こうして俺はあやせと湘南の浜辺を歩いている。 あやせにしてみれば、きっとここがゴールなんだろう。 俺としちゃもう少しあやせと一緒に歩いていたい気持ちもあるけど、贅沢は言えねえ。 あやせみたいなヤツが、俺なんかを誘ってくれただけでも感謝しねえとな。 「お兄さん……少しだけ、海を見ていてもいいですか?」 「……ああ、何なら座るか? 砂浜なら構わねえだろ。一応、ハンカチ敷いてやるから」 ダウンジャケットのポケットからハンカチを取り出し、砂浜の上に敷いてやると、 あやせは少し照れた様に頬を赤らめながらその上に座った。 俺だけ突っ立てるわけにもいかねえから、迷ったんだけどあやせの横に座らせてもらった。 「本当にお兄さんって優しいですよね。……でも、時々鈍感になってしまうのは何故なんですか?」 「面と向かってそう言われても、答えようがねえだろ。自分じゃ気付かねえんだから」 「……そうですよね。気付かないから、鈍感なんですものね」 一人納得した様に頷くけどさ、それって俺に対してあんまりじゃね? おまえだって人に質問しといて、勝手に自分で答え出してさ、自己完結する癖があるじゃねえか。 それだってあまり褒められた事じゃねえだろっての。 あやせだから俺は何言われても許すけどさ……これが、麻奈―― 「お兄さん、ほら、あの二人見て下さい」 穏やかな表情で俺に話し掛けるあやせの視線を辿ると、 そこには小学生くらいの兄弟が、波打ち際で砂山を造って遊んでいるのが見えた。 174 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:10:59.84 ID:/8fklwxAo [18/26] 兄の方は3、4年生といったところだが、弟の方はまだ学齢前かもしれない。 弟を見ていてもどかしく思ったのか、兄が手を貸そうとすると、その手を邪険に振り払う弟。 先程あやせに言われた事も忘れて、俺は何となく幼い日の桐乃を想い出していた。 当時の桐乃は人見知りが激しく、遊び相手と言ったら俺か麻奈実くらいのもんだった。 今の桐乃を見たら、とてもじゃねえが想像も出来ねえけど。 「兄弟がいるって……何かいいですね。……あの二人、本当は仲が良いんでしょうね」 俺と同じ様に二人の姿を微笑ましげに見ていたあやせが、ふと言葉を漏らした。 一人っ子のあやせの眼に、あの兄弟はどう映ってるんだろう。 「俺は妹じゃなくて、弟だったら良かったと思う時もあるけどな。  煩わしいって思った事もあるし、親なんて息子より娘の方が可愛いんだろうけどさ、  俺より桐乃ばっか可愛がりやがって、ムカツク時もあったよ」 「そんな事言うと、桐乃に言い付けちゃいますよ……  わたしは一人っ子だからかもしれませんけど、やっぱり兄弟っていいなぁと思います」 桐乃が生まれた時の事は、今でも鮮明に憶えている。 ある日、親父にお袋の入院している病院へ連れて行かれて、 新生児室のガラス越しに見た得体の知れない生き物、それが桐乃だった。 親父から、あそこで眠っているのがおまえの妹だって言われても、三歳の俺に分かるわけがねえ。 お袋が桐乃と一緒に自宅に帰ってきて、初めて桐乃を抱かせてもらった時なんか、 手を離したら桐乃が死んじまうんじゃねえかと思って、怖くて泣きそうになっちまった。 俺の腕の中にすっぽりと納まって眠る桐乃は、その日から俺の宝物になった。 「小さい頃のわたしって、引込み思案で人見知りが激しかったんです。  お母さんが心配して、劇団かモデル事務所にでも入れば友達が出来るんじゃないかって……」 「それであやせは、今の事務所に入ったんだ?」 「はい、中学生になってから今の事務所に入って、桐乃に出会ったんです。  初めての仕事の時、緊張と不安で泣きそうになっていたわたしに……  そんなわたしに、親切に声を掛けてくれたのが桐乃だったんです。  二年生に進級するとクラスも一緒で、本当に幸運でした。  ……桐乃は、わたしの一番の親友なんです」 あやせが桐乃を親友と呼び、大切にする気持ちが俺にも何となく分かる気がした。 桐乃が友達を大切にしている事は以前から知ってたけど、 あいつの口から親友という言葉を聞いたのは、あやせが初めてだった気がする。 もしかしたら、二人の間には、何か通じるものがあったのかもしれない。 175 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:11:48.07 ID:/8fklwxAo [19/26] 桐乃の兄貴として俺がいる様に、もしあやせにも兄貴がいたら…… きっとそいつは、文句を垂れながらも四六時中あやせの世話を焼いているに違いねえ。 だったら俺とは話が合うんじゃねえかと思うと、可笑しくてしょうがなかった。 「なあ、あやせ……今日は俺なんかと一緒で楽しかったのか?」 あやせは俺の問いには答えず、振り向いて笑顔を見せただけだった。 まあ、今の俺にとっては、それでも十分だと思ったよ。 再び海を見つめるあやせ。その長く美しい黒髪が風になびくと、白いうなじが露になった。 俺の眼が吸い寄せられそうになったのを、誰が非難出来るって言うんだよ。 そんな俺自身の欲望との戦いの真っ最中に、海を見つめたままあやせが俺に問い掛けた。 「お兄さんは……桐乃の事、どう思っていますか? ……好き、ですよね?  もし……桐乃もお兄さんの事を好きだと言ったら、お兄さんはどうしますか?」 桐乃という名前を聞いた途端、俺の心の中で欲望が白旗揚げて退散して行く。 なぜあやせがここで桐乃の名前を出して来たのか、それは俺にも分からなかったけどな。 あやせが言う様に、俺は桐乃の事が多分好きなんだと思う。 だけど、あやせが思っている様な“好き”って意味じゃなくてな。 桐乃は俺の事をどう思っているか決して口じゃ言わねえけど、俺にだって分かるよ。 俺ですら分かるのに、桐乃の一番の親友のあやせに分からないわけはねえよな。 「あやせの言う様に、桐乃の事は嫌いじゃねえ。むしろ好きなんだと思う。  俺は、あやせにだけは正直に話して置きたい。  当然の事なんだけどさ、俺はあいつが生まれた時からずっと一緒にいるんだよな。  妹が泣いた時、それを泣き止ませるのは、妹を持った兄貴の務めなんだと思う。  あいつは怒るかもしんねえけど……」 あやせに、俺の言いたい事が伝わっただろうか。 以前にも増して、俺のシスコンが進行したと勘違いされても構わなかった。 たしかに桐乃は魅力的な女の子さ。何処に出しても恥ずかしくない自慢の――妹なんだよ。 桐乃の事を俺よりも大切にしてくれるヤツが現れて、桐乃が本当の恋を知るまでは、 俺はいつまでも妹の世話を焼く、シスコンの情けない兄貴でいてやりたい。 「俺はさ、桐乃からどんなに邪険にされようが、あいつの事が心配なんだよ。  どうしようもなく心配で仕方がねえんだ。……何か笑っちまうだろ?  長い間、お互い無視し合ってた時期もあんのに……俺は、あいつの兄貴なんだってな」 176 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:12:31.08 ID:/8fklwxAo [20/26] 海を見つめるあやせの横顔に、少しだけ憂いの陰が差していた。 俺が桐乃に対して持っている感情を、あやせには有りの儘に話したつもりだ。 しかし、一人っ子のあやせにとっては、少し残酷だったかもしれん。 「……桐乃が羨ましいです。……こんな素敵なお兄さんのいる桐乃が羨ましい」 感傷的になっちまったあやせに、俺は掛ける言葉が見付からない。 「あやせにとって俺は、シスコンで変態の鬼畜兄貴じゃなかったのか?」 「もうっ、わたしの事そんなに苛めないで下さい。――大ウソ吐きのお兄ーさんっ」 あやせは振り向くと顔を赤らめて、俺をちょっとだけ睨み付けてから言った。 思い出すのもおぞましい、出来る事なら削除してしまいたい俺の黒歴史の一ページだ。 でも、数日後あやせからもらったメールを見て……分かってはいたけどな。 「言うに事欠いて、大ウソ吐きはねえだろ。俺があやせにウソなんか吐いた事あるか?」 「お兄さんがそこまで言うなら、今日のところはそういう事にして置いてあげますね。  ……でも……わたしにも、お兄さんみたいな人が側にいて欲しい……」 「今更あやせに兄貴ってのは無理でも、彼氏の一人や二人なら簡単に見つかるだろ?」 あやせほど可愛い女の子なら、言い寄って来るヤツは数え切れねえだろうし、 ましてや、春から高校生になる彼女にしてみれば、彼氏なんて選り取り見取りだろうが。 俺は思った事を正直に言ったつもりなのに、あやせは寂しそうな顔をして俯いちまった。 「わたしに彼氏なんて、出来るわけありませんよ。……よく知っているじゃないですか。  性格はキツイし、思い込みは激しい……そんな子、誰も好きになんかなってくれませんよ。  ……桐乃みたいに素直で優しい子なら、誰からも好かれるんでしょうけど」 「そんな事ねえって。あやせの事が好きだっていうヤツはきっといると思う。  あやせがそれに、気付いてねえだけじゃねえかなぁ」 「お兄さんにそう言ってもらえると何だか……そうですよね。  わたしの事を好きになってくれる人が、すぐ近くにいるかもしれませんよね」 177 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:13:30.14 ID:/8fklwxAo [21/26] あやせほど友達思いで優しいヤツなんて、他にはそう易々と見付からないっての。 それに引き換え、桐乃は自分自身の気持ちに対して素直なヤツで、 自分の友達にだけは不思議と優しいヤツなんだよ。 俺なんか、今まで桐乃からどれだけ酷い仕打ちを受けて来たことか。 「あやせの彼氏になるヤツって、どんなヤツだろうな。すっげームカツクんだけど」 「……多分、鈍感な人だと思います。……でも、凄く優しくて……」 さっきまで落ち込んでいたあやせの横顔に少しだけ笑顔が戻った。 幼い兄弟が残していった波打ち際の砂山が、次第に打ち寄せる波に崩されてゆく。 夕陽が山の稜線へと傾き、見るものすべてを茜色に染めてゆく―― 俺は立ち上がって、服に付いた砂を軽く払うとあやせに言った。 「なあ、あやせ、そろそろ帰るか」 時計を見るとまだ帰るには早かったんだけど、冬は暗くなるのも早いし、 あやせみたいに可愛い女子中学生をいつまでも連れ回していたら、別の意味で問題だろ。 妹の桐乃と同じくあやせにも門限があるだろうし、そろそろ帰るつもりだと思ってたんだ。 しかし、あやせは膝を抱えたまま身動ぎもせず、海を見つめたまま小さな声で呟いた。 「お兄さん……今日は、お父さんもお母さんも出掛けていて……  明日までは帰って来ません」 俺は自分の耳を疑った。聞き間違いじゃねえかと思ったからさ。 余程のバカか単なる勘違い野郎でもない限り、今まさにあやせから誘惑されてると、 そう思ってもいいんだよな。 もしかしてこの真冬の湘南の海で、俺はあやせと大人への階段を上っちまうってか? 親愛なる赤城よ……すまん! 俺はおまえより一歩先へ行くぜ! 高校を卒業する前に、こっちの方を先に卒業させてもらうわ! あとはこの俺が、ひと言二言優しい台詞をあやせに掛けてやれば確定じゃねえか。 それなのに、俺の口を吐いて出た台詞は予想以上に陳腐なものだった。 「なあ、今あやせが言ったこと……俺は冗談だと思って、聞かなかった事にすっから、な。  あやせはまだ、中学生――いや、そう言うわけじゃなくてさ……」 あやせの事を好きだと想う純粋な気持ちが、俺のくだらない妄想を焼き払っちまった。 俺のそんな想いを知ってか知らずか、畳み掛けるように俺を責めるあやせ。 178 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:14:07.72 ID:/8fklwxAo [22/26] 「シスコンで変態のお兄さんの台詞とは、とても思えませんよね」 「俺の言い方が気に障ったのかもしれねえけど……」 「お兄さんは、女の子に……わたしに、恥を掻かせるおつもりですか?」 「申し訳ない。……俺があやせに恥を掻かせたって言うなら、素直に謝るよ」 俺はあやせに頭を下げた。でも、俺は自分の正直な気持ちに従ったつもりだった。 あやせの様な可愛い女の子から誘われてんのに、それを断る男なんてバカかもしれん。 だけど、こんなにも純真なあやせを、俺は一時の欲望で傷付けたくなかったんだ。 あやせは唇を噛み締めしばらく逡巡していたが、やがてその重い口を開いた。 「……お兄さんの仰る事は良く分かりました。……わたしも、どうかしてたみたいです。  軽率な事を言って……すみません…………忘れて下さい」 あやせは抱えていた膝を更に引き寄せると、顔を埋めた。 表情を窺い知る事は出来なかったけど、小刻みに肩が震えているのが分かった。 声を出さない様にして、泣いていたんだ。 俺はあやせに声を掛けるべきかどうか迷った。 そういえば今日のあやせって、何となく朝から様子がおかしかったじゃねえか。 いや、あやせがおかしいのはいつもの事だけど、今日は特別におかしいというか。 普段のあやせなら自分から俺と手を繋いだり、腕を組んだりするわけがねえ。 ましてや、冗談でも俺を誘惑する様な台詞を吐くヤツじゃない。 俺は今朝から疑問に思っていた事を、思い切ってあやせに聞いた。 「なあ、あやせ、今日俺を鎌倉に誘ったのは何でだ?」 あやせは膝を抱え顔を埋めたまま、モゴモゴと呟く様に話し始めた。 「それは、朝、喫茶店でお兄さんに説明したじゃないですか」 「そうじゃなくてさ、何で俺を誘ってくれたんだ?」 「……お兄さんは、わたしとじゃ不満なんですか?」 「いや、俺はあやせに誘ってもらって嬉しかったよ」 俺の聞きたかった事と、あやせの答えに微妙なズレがあるんだが、 これじゃ泣いているあやせを詰問している様で、どうにも居心地が悪かった。 こうなったら、あやせが泣き止んでくれるまで待つしかねえかもな。 空はすっかり夕闇に包まれ、星が一つ二つと煌き始めていた。 179 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:14:54.99 ID:/8fklwxAo [23/26] 「御免なさい。……わたし、今日は素直になろうって決めてたのに」 あやせは顔を上げると、ハンカチを取り出し、涙に濡れた目をそっと拭った。 俺はあやせの口が再び開かれるのを、ただじっと待った。――波音だけが俺の耳に響く。 長い沈黙の後、静かに、そして淡々とあやせの口から言葉が漏れてきた。 「今朝も言いましたけど、鎌倉へ来たのは……  ドラマの舞台になった場所を、実際に見てみたかったからです。  ……それから、お兄さんを誘ったのは…………お兄さんと一緒にいたかったから。  お兄さんと一緒に鎌倉の街や、湘南海岸を恋人同士みたく歩いてみたかったんです。  ……お兄さんは、わたしとなんかじゃ、ご迷惑だったかもしれませんけど……」 あやせはそこで言葉を切ると、再び膝を抱え顔を埋めた。 俺は自分の愚かさを呪うしかなかった。 あやせが俺に好意を寄せてくれていたなんて、夢にも思わなかったし、 時折見せてくれる優しさは、あやせの持って生まれた性格なんだと。 酷い扱いを受けた事もある。殴られたり蹴られたり、手錠を掛けられた事も…… そういや、防犯ブザーを鳴らされた事もあったっけ。 しかしそれだって、今思えばあやせなりの照れ隠しだったのかもしれない。 本当に死ぬんじゃねえかと、本気で思った時もあるけどな。 俺はあやせに、素直に詫びる事にした。 「あやせから誘ってもらえて俺が迷惑なんて、そんな事あるわけねえじゃねえか。  それから、おまえを泣かせちまった事は謝る。……その代わと言っちゃ何だけどさ、  俺が出来る事なら何でもしてやっから……それで勘弁してくれねえか?」 あやせは膝に顔を埋めたまま、再びモゴモゴと話し始めた。 「本当に……本当に何でもしてくれるんですか?」 「俺はおまえにウソは吐かないよ。――ただし、死ねってのはナシだ」 一応念を押しとかねえと、あやせなら『目の前の海に飛び込め』とか言いかねないからな。 いつだったか、桐乃の携帯小説の取材に無理やり駆り出された時なんか、 アイツは渋谷のスクランブル交差点で、いきなりダンプに轢かれてみてくれって言いやがったし。 最近の女子中学生の思考は、俺にはとてもじゃねえけど理解できんよ。 180 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:15:39.89 ID:/8fklwxAo [24/26] 「何でもしてくれると言うのなら、わたしの誕生日にキスしてくれますか?」 「……はぁ? あやせ、今なんつった?」 あやせはスカートに口を押し付ける様にしてモゴモゴ喋るもんだから、 何て言ったんだか、よく聞き取れなかった。 たしか、誕生日がどうとかまでは聞こえたんだが…… 「あやせ、よく聞き取れなかったんで、もう一度言ってくれるか?」 「……わたしの誕生日に、キスして下さい!」 ドサクサに紛れてとんでもねえ事を言いいやがる。 たしかに何でもしてやるって、先に言っちまったのはこの俺だ。 今更やっぱりウソでしたってわけにも――そういや、あやせの誕生日って? 「なあ、あやせの誕生日っていつだっけ?」 あやせは顔を上げると、俺の眼を真っ直ぐに見据えて言ったんだ。 「わたし、今日で十五歳になりました」 あやせの様子が朝からおかしかったのが、やっと分かった。 俺の事をからかってるんじゃないってのは、あやせの真剣な眼差しを見れば分かったよ。 十五歳になったばかりの女の子が、精一杯の勇気を振り絞って俺に言ってくれたんだと。 だったら、俺には精一杯の誠意を持ってそれに応える義務があるはずだ。 「……今日があやせの誕生日だって、俺知らなくて……御免な。  何のプレゼントも用意してねえし……本当に申し訳ない」 「いいえ、気にしないで下さい。わたしも、お兄さんに教えてませんでしたから」 俺たちの間に気まずい雰囲気が漂い始めている事を、俺は十分認識していた。 「あやせ、俺はおまえに聞いて欲しい事がある」 181 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:16:32.83 ID:/8fklwxAo [25/26] あやせにしてみれば、このまま俺がキスすると思うよな。 彼女の方からキスしてもいいですよって、言ってる様なもんだから。 俺の見当違いにも聞こえる台詞に、あやせは動揺したのか赤面して俯いてしまった。 そして、消え入りそうなくらい小さな声で呟いた。 「……な、何でしょうか……聞いて欲しい事って」 俺は大きく深呼吸してから、俯いたままのあやせに俺自身の想いを告げた。 「あやせが俺の事をどう想っているのかは聞かない。  だけどな、俺があやせの事をどう想っているかだけは聞いて欲しい。  俺は、あやせが好きだ。……初めてあやせと出会った時から、ずっと好きだった。  だから……もし、あやせさえよければ、俺と付き合って欲しい」 俺の正直な想いをあやせに伝えて、それで振られるなら仕方がねえし諦めも付くってもんだろ。 とは言っても、今日一日あやせと一緒にいて、あやせが俺の事をどう想ってくれているのか、 十分過ぎるほど知ってから告白するなんて、男として情けねえけどな。 告白して振られるだけならまだしも、これまでの俺とあやせの関係まで壊れちまう様で…… そうなる事が無性に怖かったのかもしれねえ。 想いを告げた今だって、あやせからはっきりとした返事をもらうまでは、俺は不安で仕方がなかった。 「……ずるいですよ、そんなの。  お兄さんはどうしようもないほどの鈍感で、もし今日気付いてもらえなかったら、  わたし……諦めるつもりだったんです。  それなのに、お兄さんからそう言われたら……わたしは、ハイとしか言えないじゃないですか」 ようやく顔を上げてくれたあやせの瞳は、涙で潤んでいた。 今日この海岸へ来てから、俺は何度あやせを泣かせたんだろうと思うと、胸が痛んだ。 俺は鈍感で、そんな俺の事を好きでいてくれたあやせの気持ちにも気付かずに…… あやせが理由も言わずに鎌倉まで俺を呼び出した事も、海岸線の道を手を繋ぎながら歩いた事も、 十五歳の誕生日の今日、俺と一緒にいたかったと言ってくれたあの言葉のどれを取っても、 この瞬間のためにあったんだと――俺は、今更ながら気付いたんだ。 「じゃあ……俺と付き合ってもいいって言うのか?」 あやせは涙を拭い、恥ずかしそうに小さく頷くと、無邪気な笑顔で俺に右手を差し出した。 182 名前: ◆Neko./AmS6[sage saga] 投稿日:2011/03/06(日) 21:17:12.41 ID:/8fklwxAo [26/26] 翌朝―― 遮光カーテンの隙間から月明かりが射し込んでいる事に気付いて、俺は目が覚めた。 隣りではあやせが静かな寝息を立てて眠っている。 彼女を起こさない様に、俺はそっとベッドから這い出した。 窓のカーテンを少しだけずらして外を見ると、 江ノ島の灯台の灯りは、相も変わらず暗闇の海を照らし続けている。 「……お兄さん……どうかしたんですか?」 振り返ると、眠たげな眼を擦りながら、あやせが不安そうな声で俺に聞いた。 部屋が暗いせいもあって、俺は優しく囁く様にあやせに言った。 「すまねえ……起こしちまったかな。なんも心配ねえから、もう少し寝てな」 あやせは俺の言葉に小さく頷くと、言葉を続けた。 「……お兄さん、本当によかったんですか?」 俺が無言で頷きながらあやせに笑い掛けると、彼女も恥ずかしそうに笑った。 そして、あやせは掛け布団を両手で引っ張って口元まで隠すと、 悪戯っ子の様な目をして俺に言ったんだ。 「お兄さん……大好きです」 あやせ、その仕草は反則だろ! 俺はそう思ったんだが、口に出しては言えなかった。 母の胸に抱かれて、安心して眠る子供の様な笑顔を見せてから、あやせは再び瞼を閉じた。 この笑顔が見られるなら、俺はもうしばらく大ウソ吐きのお兄さんのままでいてやる。 心の中でそう思っている自分が、無性に可笑しくて仕方がなかった。 (完)

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